第九章 輝く貴石達の中で瑠璃は唄う②

 この対応はセンシティブな問題を孕んでいる。


 わたしは元マネージャーの鈴本さんに、エンジェルハート副社長・如月さんとの一対一面談の場をセッティングしてほしいとお願いした。鈴本さんに迷惑をかけてはいけないと思って、内容についてはあまり説明しなかった。でも、鈴本さんにも何か勘づくところがあったらしく、「あんな奴には会いたくもない」と言い放ったらしい副社長との会合の場を無理を通して調整してくれた。


 その夜、わたしは一人でエンジェルハートに乗り込んだ。事務所の衣装部屋兼会議室にはわたしと副社長だけがいた。


「なんだよ? もううちに泣きつく気になったのか? なんか色々大変そうだもんなあ」


 如月さんは事務所所属時代と同じ、人を見下すような不遜な視線をわたしにぶつけてくる。わたしは出来る限りケロリとした平常心の表情を心がけながら、何でもないことのように言葉を吐き出した。


「白状しましたよ、あのストーカー男」

「……は?」


 如月さんはまったく意味がわからないという顔をしたが、反応するまでに少し不自然な間が空いたことは確認できた。


「ヒスイの住所をあの男に流したの、副社長みたいですね」

「は? はあ? 何を言っているんだ。俺がそんなことするわけないだろうが」

「いや、白状したんですって。あの男が」


 如月さんは何かを推し量ろうとするように、冷たい目線でわたしを凝視する。


「情報源がわからないように流したみたいですけど、気付いてましたよ、あの男は。住所を教えてくれたのはアナタだって。あの男も伊達にドルオタ長くやってないってことでしょう。その根拠も見せてもらって、なるほどと納得しました」


 嘘だ。今は拘置所にいるストーカー男とは、逮捕の時もそれ以降もわたしは会っていないし、あの男は情報の出元なんて気にもかけていないだろう。だから憶測だけで話している。でも、そんなわたしの言葉に、如月さんの視線の温度がさらに冷え込むのを感じた。


「それが本当なら、今頃警察が俺を呼んでるだろ。アホらしい」

「この事は警察にはしゃべるなと口止めしてます。ヒスイのためだって丸め込んで」

「は? 意味がわからない」

「エンジェルハートのアイドルを守るため、ひいては我々を守るためです。あなたのことが警察沙汰になったら、ここの子達の活動に影響が及びかねない。そうしたら、その遠因であるわたし達に、彼女達のファンからヘイトが向けられる可能性があるでしょう。『お前らが訴えたせいで彼女達が活動できなくなった』『アイドルにはストーカーくらいつきものなんだから、有名税としてそのくらい我慢しとけばよかったんだ』みたいに。だったら『ヒスイちゃん、ストーカーに付きまとわれて可哀想!』くらいのニュースで収めて同情をもらう方が、メリットがあります」


 当然全部嘘だ。鎌をかけているだけだ。わたしは心の中で念じる。引っ掛かれ。わたしの言葉に躓いて、転がれ。

 その時、如月さんはフッと笑った。


「で、何が望みなんだよ? 金?」


 わたしは思わず吹き出した。この人は話しが早すぎる。同時にふつふつと怒りも湧いた。


「わたしは本当に怒っています。ヒスイがどれだけ傷ついたかわかっているんですか?」

「そういうのはいいから。希望だけ言えよ」


 胸がムカムカする。頭の中でカチンと音が鳴る。でも、ここでそれを表に出すのはだめな気がしたから、奥歯を噛んで、苦いものを飲み下してわたしは静かに言った。


「ハピプリの楽曲の権利をください」

「わかった。条件をまとめよう」


 事務所のパソコンの前に移動して、如月さんは楽曲の権利移譲の条件をまとめた文書を手早く作った。


「原案としてはこんなものか。メンバーに見せてこいよ。同意が取れたら判を押そう」

「わかりました。ところで、一つだけ聞きたいことがあるんですけど」


 プリンターから吐き出された紙を取るために立ち上がった如月さんの背中に、わたしは問いかける。


「あの男にヒスイの個人情報を流した理由は、もしかして私怨ですか?」

「あ?」


 如月さんは不機嫌そうな反応をしただけで、わたしを振り返らなかった。


「そんなにわたし達が気にくわなかったですか? 事務所をやめてもアイドルを続けているわたし達がムカついたんですか? でも、あなたみたいに経営をしっかり考える役目の人が、私怨なんかでこんなリスクを犯して、頭は大丈夫ですか?」


 言い出したら止まらなくなった。やっとわたしの方を振り向いた如月さんは、頬のあたりがひくついていた。


「どうとでも言えよ。それよりさ、お前の方がクソだろ。メンバーが受けた被害を取引の材料に使ってるんだから」


 胸のムカムカが許容限界を超えて、バチッと弾けたような気がした。


「わたしが怒ってるのは本当ですよ! 本当はこんな取引しないで、あなたを普通に罰してやりたい!」


 わたしは握りしめた拳を、強く机に叩きつけた。思った以上の打撃音がして、如月さんが驚いたように目を見開いた。


「あのストーカー男が未成年の時に田舎で起こした事件を知っていますか? 何人かの女の子を監禁して、その中にはレイプされた子もいたみたいですよ。言うことを聞かなかった子の中には、体にあの男の名前をナイフで刻み付けられた子や、顔を切られた子もいたみたいです」


 さすがの如月さんも顔色が変わった。


「今回は本当に、ヒスイの人生が捻じ曲げられる寸前だったんです。わたしの大切なメンバーが、取り返しのつかない傷をつけられるところだったんです」


 わたしは如月さんを睨み付けながら続ける。


「どうかお願いです。今この事務所に所属している子達のことはきちんと守ってください。本当にそれだけはお願いします」


 深く頭を下げてから、わたしは契約書案を奪い取り、逃げるように事務所を後にした。



 事務所の入っている雑居ビルを出て、わたしは溜息をついた。わたしのやったことは正しかったのだろうか。ヒスイはそれでいいと言ったけれど、本当に納得しているのだろうか。ヒスイのためには如月さんを公に訴えた方がよかったのでは……。

 もう一度溜息をついたとき、目の前に見慣れた顔があることに気が付いた。


「あれ? ちーちゃん?」


 キャップとマスクを被った千沙子が、ビルの壁にもたれるように立っていた。キャップとマスクの間から覗く黒目がちの瞳が、わたしを心配そうに見つめている。


「だ、大丈……夫……?」

「もしかして、心配して来てくれたの?」


 コクンと頷く千沙子の姿に、心の緊張がほどけていく感覚があった。


「大丈夫。計画通り、楽曲の権利はゲットできそうだよ」


 千沙子はそれでも心配そうな顔で近づいてきて、わたしの手を取った。暖かくて柔らかい手のひらの感覚が、心の中にじんわりと広がっていく。


「ちーちゃん、ありがとう」


 わたしと千沙子は連れ立って歩き出す。


「来週にはいよいよ東京公演だね」

「うん……」

「セットリストはもう一度考え直さないと。準備が大変だね!」

「うん……」

「ねえ、ちーちゃん。あの記事、本当に公開しちゃっていいの?」


 千沙子の顔を覗くと、彼女はまっすぐにわたしの目を見て頷いた。名古屋の夜に千沙子から頼まれた記事は既に書き上げて、彼女にもチェックしてもらっている。千沙子の瞳からは強い意思と、必死に押さえ込もうとしている恐怖の両方が見えた気がした。


「わ、わたしの、決意は、か、変わらない」

「そっか……わかった」


 わたしは微かに震え始めた千沙子の手を強く握って、帰り道を急いだ。



 後日、メンバーとエンジェルハートの合意を得て、ハッピープリンセス時代の楽曲の権利がわたし達に移された。つまりは、わたし達の主催ライブ「ハピプリ☆突撃☆東名阪の旅!」ツアーファイナル・東京公演の内容が大きく変更されるということだ。

 わたし達は慌ててセットリストを組み直し、五人でのリハーサルを重ねた。

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