第四章 紅玉は外界を覗く②

 渋谷駅ハチ公口の前はいつ来ても人の数がすごい。キョロキョロと見回すと、男の人に話しかけられているヒスイちゃんを見つけた。ファンの人みたいだ。ヒスイちゃんはペコリと頭を下げて握手に応じている。見覚えのない顔だから常連さんではないと思う。


 今の状態でファンに会うのに支障があるわたしは、ヒスイちゃんのファン対応が終わってから声をかけることにした。念のため、ニットキャップを目深にする。


 でも、見ているうちに、最初は和やかだった二人の間に不穏な空気が漂い始めた。男の人が何かをしきりにヒスイちゃんに言っていて、ヒスイちゃんは困ったような顔になる。さらに何かを言われて、ヒスイちゃんは泣きそうな顔になってしまった。


 どうしたんだろう。


 男の人はイラついたような態度になっていった。周りの人達も訝しげな表情で二人を見ている。わたしは緊張で手足が汗ばむのを感じた。

 ヒスイちゃんを助けてあげた方がいいのかな? でも、どうすればいい? 泉ちゃんとか他のメンバーに連絡する? でも、たぶん一番近い場所にいるルチルちゃんだって、ここまで来るのに十分はかかる。


 わたしがぐだぐたと思い悩んでいる間にも、男の人はどんどんヒートアップしていく。ついには、ヒスイちゃんのショートカットの髪を掴んで引っ張るのが見えた。


 頭が一瞬で沸騰したみたいになった。


「ヒ、ヒスイちゃん……!」


 わたしはヒスイちゃんに走り寄って、彼女の髪を掴む男の手を思い切りつねった。


「は……?」


 いきなりのことに驚いたのか、男の人の手から力が抜けた。


「ヒ、ヒスイちゃん、こっち……」


 わたしはヒスイちゃんの手を掴んで、改札に向かって走る。わたしもヒスイちゃんもリュックにICパスケースをぶら下げていたから、改札を一気に抜けることができた。


「待てよ、ヒスイ! 誰だよ、お前は!」


 カバンからパスを取り出すのに手間取りつつ、男の人も改札を抜けてくる。


「ルビーちゃん……?」


 恐怖と戸惑いの表情を浮かべるヒスイちゃんの手を引っ張りながら、わたしは利用客の間をすり抜けて、山手線内回りのホームに続く階段を駆け上がった。わたし達の後ろを少し遅れて男の人がついてくる。わたし達は混雑するホームを速足で歩き続けた。


「黄色い線の内側にお下がりください」


 アナウンスに続いて電車がホームに滑り込んでくる。電車が停止するとすぐに降車客が溢れ出て、ただでさえ人の多いホームはさらに混み合うことになった。振り返ると、わたし達と男の人との距離は、電車のドアとドアの間隔くらい開いている。


「扉が閉まります。ご注意ください」


 わたしとヒスイちゃんはそのアナウンスに合わせて一番近くのドアに飛び込んだ。男の人も一つ後ろのドアに乗り込む。電車の扉は警告音と共に閉じ始めた。

 そのタイミングで、わたしはヒスイちゃんの手を引いて強引に外に出る。直後に、バタンと大きな音をたてて扉は完全に閉まった。


 すぐに電車は出発する。


 電車の中の男の人は扉の窓に張り付き、ホーム上のわたし達をすごい顔で睨み付けながら通り過ぎていった。

 わたしはほっとして腰が抜けそうになる。でも、今大変なのはわたしではないと思い直して、横を見た。


「だ、だいじょうぶ……?」

「うん……」


 でも、つないだ手から、ヒスイちゃん体が震えているのが伝わって来た。心の奥に針を刺されたみたいにツンと痛む気持ちと、さっきの男に対するムカムカする気持ちが湧いた。


「と、とりあえず、行こう……!」

「うん……」


 わたしはヒスイちゃんと手をつないだまま、山手線外回りのホームへ移動した。わたしもヒスイちゃんも本来は外回りに乗って帰る。


 わたし達がホームに着くとほぼ同時に電車がやって来た。タイミング的にこの電車にはさっきの人は乗れていないはずだけど、乗車してから念のために周りを見回して、あの人がいないことを確認した。


 わたしはヒスイちゃんと手をつなぎながら考える。ヒスイちゃんに何をしてあげられるだろう。泉ちゃんだったらどうするだろう。

 わたしは一旦手を放して、ヒスイちゃんの柔らかいショートカットの髪を優しく撫でた。


「もう、だ、だいじょうぶ、だよ」

「ルビーちゃん……ありがと」


 ヒスイちゃんは涙の溜まった目でわたしを見つめながら、安心したように小さく息を吐き出した。


「あ、あの人……ファンの、ひ、人?」

「うん。今日は他のグループを見に来たけど、一目でわたしのファンになっちゃったんだって言ってた。けど……なんか、途中から変なこと……エッチな言葉みたいなこと、いっぱい言ってきて……」


 涙ぐむヒスイちゃんの頬をわたしはそっと撫でた。


「そ、そんなの、ファンじゃ、ない。忘れて、いい。そ、そんな、奴……!」

「ルビーちゃん、ありがとう」


 キラキラ光るヒスイちゃんの瞳に、心の奥がきゅんとして暖かくなった。わたしは決心して、考えたことを口に出してみる。


「わ、わたし、今日は、ヒスイちゃんの……い、家まで、し、心配だから……送ってく」


 言ったはいいけど、不安で胸がドキドキした。ヒスイちゃんはどう思うだろう。こんなこと言われたら迷惑かな。わたしと一緒に帰るなんて気まずいかもしれない。

 そっとヒスイちゃんの顔を覗くと、やっぱりびっくりした顔をしていた。


「そんなの悪いよ。帰る方向も違うし!」

「め、迷惑だったら、やめる、けど……」

「迷惑なわけないよ!」


 慌てたようにわたしの腕を掴んで、ヒスイちゃんは窺うようにわたしの顔を覗く。


「ルビーちゃん、一緒に帰ってくれるの?」


 わたしがコクリと頷くと、ヒスイちゃんの顔がパアッと笑顔に変わった。


「よかった! 本当は心細くて、心配だったんだ。ルビーちゃんが一緒に帰ってくれるなんてすごく嬉しい」


 にこにこ笑うヒスイちゃんを見ていると、心がほわほわとやわらかく溶けていくような感じがした。



 電車を乗り継いで二人でヒスイちゃんの家の最寄り駅を目指す。その間に、メイクポーチも返した。


「ご、ごめんね。ぼうっと、してて……」

「ううん。わたしも自分の荷物散らかしちゃってたから」


 それからヒスイちゃんはポーチに描かれたキャラクターの話をしたり、今日のライブのことを話したりした。わたしはヒスイちゃんの言うことに頷いたり、たまにはぶつぶつと話したりもした。そんな会話の中で、わたしにとってヒスイちゃんはメンバーの中で唯一の年下で、もしわたしに妹がいたらこんな感じなのかなと考えた。


 ヒスイちゃんの家の最寄り駅改札を出ると、街灯や家の光はあるものの夜道は暗かった。泉ちゃんがしてくれるみたいにヒスイちゃんの手を取ってみると、彼女ほっとしたように笑ってくれた。


 てくてく歩くうちに、ヒスイちゃんがぽつりと言った。


「わたし、ルビーちゃんのことすごく尊敬してるんだよ」

「え? え、え? えー……?」


 いきなり言われて、わたしは反応の仕方がわからない。恐る恐る隣を見てみると、ヒスイちゃんは下を向いて元気なく歩いていた。


「わたし、ダンスを覚えるもの苦手だし、動きはトロいし。ルビーちゃんは本番であんなに輝いてるのに。わたしはただでさえヘタクソなのに、本番は特に緊張しちゃって、立ち位置間違えてみんなに迷惑かけちゃったり」


 なんだか、ハピプリ加入直後のわたしみたいに見えた。そういえば、あの頃、泉ちゃんはわたしに何度も励ましの言葉をかけてくれた。もちろん泉ちゃんはヒスイちゃんにもそうしていたけど、最近は忙しくてメンバーと話す時間があまりないみたいだった。


「ヒスイちゃん、い、いつも、練習、が、がんばってるの、し、知ってる」


 わたしに泉ちゃんの代わりができるのかはわからないけど、言ってあげられることは言ってあげたいと思った。


「それに、ヒ、ヒスイちゃんの、歌、好き」

「え?」


 ヒスイちゃんは驚いたように顔を上げる。


「ヒスイちゃんの、う、歌声、あったかい……ヒスイちゃんの心、感じる。歌、うまいし、こ、声、出てる。歌声、と、透明、ホ、ホントの、心の声。ス、ステキ……と思う」


 話すうちに顔がカッカと熱くなってきた。思っていることをうまく言えないし、わたしの言葉がヒスイちゃんに喜ばれるかも不安だし、混乱で心臓がドキドキ言っていた。


 確かにヒスイちゃんはダンスを苦手にしている。でも、練習をすごくがんばっているし、何より歌が上手で、心がポカポカするような素敵な歌声を持っている。わたしのステージでの声はいつからか「ルビー」っぽい、ちょっと作り物めいた感じになっていったけど、ヒスイちゃんの声はヒスイちゃん自身の素直な心が現れた透明感のある歌声なんた。

 それに、最初の頃のわたしは声量がなくて、PAさんに迷惑をかけたけど、ヒスイちゃんは初めから声が出ていたし、音も外さない。


 そんなことを言いたいのに、言葉がうまく出てこない自分の口がもどかしかった。でも、ヒスイちゃんは嬉しそうに笑ってくれた。


「ルビーちゃん……ありがとう!」


 はにかんで笑うヒスイちゃんはすごく可愛かった。


「ねえねえ、ルビーちゃん。今日は遅いし、よかったらうちに泊っていかない?」

「え……?」

「もう遅いから、今から帰るの大変かなって。送ってもらっちゃって申し訳ないし。多分、うちのお母さんもそう言うと思う」

「い、泉ちゃんに、聞かないと……」

「ラピスちゃんがいいって言ったら泊まってくれる?」

「う、うん……」


 押しきられるままに頷いてしまった。泉ちゃんに電話してみると、まだ事務所で作業をしているみたいだった。


「あ、あのね。ヒスイちゃん、を、い、家まで送って……泊まって、いかないって……ヒスイちゃんが……」

「ふえ……?」


 電話口の泉ちゃんは驚いているみたいだ。


「な、なんか……変な、ヒスイちゃんの、怖い、ファンが、いて。絡まれて、し、心配……だったから」

「え! 大丈夫だったの!」


 泉ちゃんの声が一気に緊張を帯びた。


「うん。もう、そ、その人、いない」

「そう。ならよかった。今日はもう遅いから明日詳しく聞かせて。それに、そういうことなら、ちーちゃんもヒスイの家に泊めてもらって、明るくなってから帰ってきた方がいいかもね。明日はバイトもないし」

「うん……」

「ちーちゃん、ヒスイをフォローしてくれてありがとう」

「うん……」


 なんだか頬のあたりがカーッと熱い。電話を切って泊まれると伝えると、ヒスイちゃんは手を叩いて喜んでくれた。でも、その顔がすぐにシュンと下を向く。


「でもね、今日のあの男の人のことはお母さんには言わないでほしいの。お母さんには心配かけたくないから……」


 ヒスイちゃんは不安げに瞼を伏せる。自分が悪い訳じゃないのに罪悪感を抱えているらしいヒスイちゃん。その姿に、小中学生の頃のわたしがおばあちゃんを気遣っていた気持ちを思い出した。


「今日は、い、言わない。で、でも……泉ちゃんが、ほ、報告するって、決めたら……と、止めない」


 ヒスイちゃんは不安げな顔で首を傾げたけど、最後にはこくりと頷いた。

 ヒスイちゃんは家に着く前にお母さんに連絡してくれて、おうちのマンションのドアを開けると、にこやかな女性が出迎えてくれた。


「まあまあいらっしゃい! いつも怜美がお世話になってます」

「あ、あの、おじゃ、お邪魔します……」


 キャップとマスクをとって、わたしは挨拶する。ぎこちなさが恥ずかしくて、耳の辺りが熱くなった。でも、ヒスイちゃんのお母さんは笑顔のまま家に上げてくれた。お父さんは今日は出張中らしい。


「お腹空いたでしょう。どうぞ召し上がれ」


 ヒスイちゃんとわたしがダイニングテーブルに着くと、魔法みたいにすぐに食事が並べられた。チキンカレーと、お手製ソースであえたサラダ。食後にはお母さん手作りのマドレーヌと、ティーポットで淹れた紅茶が出された。全部おいしくて、暖かい味がした。


「あ、あの。食器洗い、わ、わたしが……」


 何から何までお世話になるわけにはいかない。わたしが食器を持って立ち上がると、慌てたようにヒスイちゃんも立ち上がった。


「わたしもやる!」


 それを見たお母さんはニヤニヤしながら、わざとらしい溜息をついた。


「あら、怜美ったら、いつもは食器なんて出しっぱなし。ついでに制服も脱いだら散らかしっぱなしなのに、今日はお利口さんね」

「ち、違うもん! お母さん、何言ってるの! 違うの、違うから、ルビーちゃん!」


 耳まで真っ赤なヒスイちゃんが可愛かった。


 順番にお風呂に入って、寝床はヒスイちゃんのベッドの隣にお布団を敷いてもらって、寝間着まで貸してもらってしまった。


 ヒスイちゃんの部屋は、そこかしこに可愛いマスコット人形が飾られていた。ベッドの上にも犬や猫やクマがいて、そのベッドと向かい合う位置には電子ピアノが置かれている。

 パジャマ姿のヒスイちゃんは、ヘッドフォンをつけてピアノを弾き始めた。


「毎日触るのが日課なの。歯磨きの習慣みたいにね、弾かないと気持ち悪くて」


 鍵盤の上を滑るヒスイちゃんの手つきを見ているだけでも、きっと上手なんだろうなと思えた。途中からヘッドホンを渡してくれて、聞いてみるとやっぱり上手だった。ヘッドホンから流れるわたしの知らないクラシックらしい曲は、途中でよく知る曲に変わった。


「ね、ねえ、さっきの……」


 曲が終わってヘッドホンを返すと、ヒスイちゃんがにこりと笑う。


「うん。ハピプリの曲のピアノバージョン」

「す、すごい……! ひ、弾けるなんて!」

「歌メロとコードを拾っただけだから、たいしたことしてないよ」

「すごいよ……」

「えへへ」


 ヒスイちゃんがくすぐったそうに笑う。それから、パソコンで作ったというインストゥルメンタルの曲も聞かせてもらった。鍵盤の他に、ドラムやベースなど色々な音が打ち込みで入れてある。


「き、きれいな曲。晴れた日の、お、お散歩、みたいな……」

「えへへ。まだルビーちゃん以外には聞かせたことないんだ」

「う、嬉しいな……」


 布団に入ってからも、ヒスイちゃんは話をしてくれて、その中には学校の話もあった。


「学校楽しいよ! 友達も優しい子ばっかり。でも……たまに、嫌なことを言う子もいる。面と向かっては言われないけど、なんか……色々言われてるらしいってことは知ってる。アイドルなんてぶりっ子だとか、自意識過剰の勘違いとか、男に媚びを売ってお金を巻き上げてるんだとか、そういうこと」


 布団の中からはベッドの中のヒスイちゃんの顔はよくわからなかったけど、少し掠れた声をしていた。


「そういうんじゃないのにな。わたしはそんなつもりでアイドルをしてるわけじゃないのに。でも、本当はそういうものなのかな、アイドルって。アイドルって何なんだろう」


 わたしが何も答えられないでいると、ヒスイちゃんはまた別の楽しい話題に移って、いつの間にか何も話さなくなっていた。


「ヒスイちゃん……?」


 半身を起してみると、ヒスイちゃんは安らかな寝息を立ててすやすやと眠っていた。わたしはほっとして布団に戻る。他所のうちの布団は少し居心地の悪い感触はあったけど、ヒスイちゃんの寝息を聞いているうちに、わたしもいつの間にか眠りに落ちていた。

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