第三章 瑠璃は転がり弾かれ惑う③

 今日は朝の清掃バイトの後、次のライブについてイベンターさんと打合せ。

 今日は朝の清掃バイトの後、ライブハウスにフライヤーを配りに行く。

 今日は朝の清掃バイトはないけれど、夕方から次のライブに向けたリハーサル。その前に、事務所に寄って今後のスケジュールについてマネージャーさんと打合せをする。


 日々は目まぐるしく去っていった。



 マネージャーさんが現場につかなくなって一月くらい経った。


「疲れた~」


 わたしは千沙子とルームシェアしている部屋でダイニングの椅子に腰かけながら、缶ビールのプルトップを開けた。ここのところ酒量が増えている気がしないでもない。


「ちーちゃん、いつものジュース冷蔵庫にあるよ」


 わたしはライブ会場から先に帰宅していた千沙子に声をかける。彼女はなぜかダイニングルームの端で所在無げにふらふらしていた。


 未成年の千沙子の前で自分だけアルコールを飲むのは気が引けるところもあり、わたしは少しお高めのブドウジュースを冷蔵庫に常備するようにしている。遠慮がちな千沙子は普段はそれに口をつけないが、わたしがお酒を頂く時やライブ終わりに薦めると、コップに注いでちょっと嬉しそうにちびちびと嘗めるように飲む。でも、今日は冷蔵庫には近寄らず、わたしの隣に腰かけた。


「い、泉ちゃん……今日、わたし、に、荷物……て、手伝わなかった……」

「いいのいいの。先に帰ってって言ったのはわたしなんだから、気にしないで」


 今までライブでは物販グッズ用と衣装用の二つのキャリーバッグを千沙子とわたしで運んでいた。でも、この前、事務所で放置されていた大型のキャリーケースを発見したため、今回からはそれを使わせてもらうことにした。だから、今日の荷物運びはわたし一人だった。


「全然一人で運べる量だから、大丈夫」


 そう言っても、千沙子は固い表情のままだ。


「ル、ルチルちゃんも、言ってた……。手伝うって、い、言ってるのに、泉ちゃん、なかなか……頼って、く、くれないって……」

「いや~、ルチルは学生だから。特に美大生は課題が急がしいって聞くし、無理させるわけにはいかないよ」


 カラカラと笑うわたしを、千沙子が心配そうな顔で覗いてくるから困ってしまう。


「本当に大丈夫。心配しないで」

「でも、い、泉ちゃん……むに?」


 わたしは柔らかくて触り心地のいい千沙子の頬を軽く掴んで、ムニムニと弄んだ。顔にハテナマークを貼り付けた千沙子を残して、冷蔵庫に向かう。


「ほら、ちーちゃんの好きなジュースだよ。これ飲んで、今日はゆっくりおやすみ」

「泉ちゃん……」


 綺麗なラベルの付いた瓶から紫色のジュースをコップに注いで千沙子に渡す。まだ納得できない様子の千沙子だけれど、しぶしぶとコップに口をつけ始めた。


「千沙子は何も心配ない。大丈夫だよ」


 ぶどうジュースの入ったコップを両手で持ってコクコクと喉を鳴らしながら飲む千沙子。その髪を撫でながら、わたしも缶ビールに口を付けて刺激的な炭酸を飲み込んだ。



 アイドルをしていると、エゴサーチはなかなかやめられない。SNSを検索すると、ハピプリの現場にマネージャーが来なくなったことをファンの皆さんが心配している文章をいくつか見つけた。アイドル評論家を自称するような人の中には「ハピブリもそろそろ終わりか」というようなことを書く人もいた。それでわたし達のファンと言い争いになっている時もあって、そういうものを見ると申し訳ない気持ちでいっぱいになる。


 そんなある日、ステージを終えて特典会をしていると、仙崎社長ふらりと現れた。


「あれ、メンバーだけで特典会してるの? 僕も手伝うよ」


 ファンもわたし達も社長自らのファンサービスに笑顔になり、社長もにこにこしていた。でも、特典会を終えて楽屋に帰ると、仙崎社長の表情が曇ってしまう。


「ねえ、鈴本君は何してるの?」


 わたしはポカンとして訊き返す。


「えっと、あの……最近ハピプリにはマネージャーさんがつかないことになったんです。ご存知じゃなかったんですか?」

「ウソ。僕そんなの聞いてないよ」

「聞いてないってなんだよ、それ~」


 コハクが不満げに口を尖らせた。


 でも、社長に話が通っていないというのも、よく考えればありえる話だった。社長は電話もメールも繋がらない時がある。アイドル達にアドバイスしたくなったり、新しい企画を思いついたりした時にふらりと現れる神出鬼没さは、事務所スタッフに「妖精」と例えられることもあるくらいだ。


「すぐ確認するよ!」


 社長は昔から使い続けている折り畳み式の携帯電話を取り出してボタンを押した。


「あ、鈴本君、今日ハピプリのライブでしょ。どうしてついてないの?」


 最初は興奮気味だった社長の声が、話しているうちに段々とトーンダウンしていく。電話を切り、溜息をつきながら社長が言った。


「事務所で如月くんを含めて話し合うことにしたよ。苦労かけてごめんね。みんな疲れたでしょ、今日はもう着替えてお帰り。難しいことは大人がちゃんと話し合うから」


 社長が言っても、メンバーはみんな不安げな表情でソワソワしていた。わたしは思い切って手を挙げる。


「あの、わたしもその話し合いに参加してもいいですか? 見ているだけでもいいので」


 仙崎社長は小首を傾げながらわたしを見る。


「わたしは荷物を返しに事務所まで行きますし……ちゃんと自分達のことは知っておきたいんです」


 社長はしばらく思案してから頷いた。


「それもそうだね。わかったよ、一緒に行こう。ハピプリはみんなのものだものね」


 その言葉に、メンバーは少しほっとしたようだった。わたしも安堵しつつ、頬を軽く叩いて気を引き締め、事務所に行く準備を始めた。



 事務所に着くと、すでに副社長の如月さんは会議室の奥側の席に着いていて、タブレット端末で何かをチェックしていた。その隣で鈴本さんが身を縮めるように座っている。


「夜中の会議になっちゃって、ごめんね」


 仙崎社長はにこやかに微笑みながら、扉側の席に座り、わたしはその隣に腰かけた。


「泉も会議に入れるんですか?」

「うん。この子はしかっりしてるからね。メンバーを代表してこの会議に入ってもらうことにしたんだ」


 副社長は少し不満げな表情をしたが、しぶしぶ頷いた。


「それで、なんでしたっけ? マネージメント体制のことでしたよね」

「そう。どうしてハピプリにマネージャーを付けなくしたの?」

「単純に売上げの問題です。他のグループがぐんぐん伸びているのに、ハピプリは現状維持どころか、じりじり下がっている。伸びている方を手厚くケアするため、ダメな方を手薄にしただけのことです。でも、事務所に所属していないフリーの地下アイドルに比べれば、ハピプリはまだ恵まれた環境ですよ」


 ペラペラと滑らかにしゃべる如月さんに、社長が鼻白む。


「でもね、僕達は会社として、保護者の方々から大切なお嬢さんを預かっている立場なんだよ。ヒスイはまだ高校生だし。僕達には彼女達を見守る義務があると思うけど」

「現場のことは泉に任せています。社長も言ったとおり、泉はしっかりしているから、ちゃんと見てくれますよ」

「泉はマネージャーじゃない。うちのアイドルなんだよ!」

「アイドルねえ……」


 如月さんはわたしをチラリと見て溜息をこぼした。嫌味のあるような態度にわたしは戸惑ったが、如月さんはそれ以上わたしについて何も言わず、仙崎社長に向き直った。


「だいたい、社長は会社経営について興味がなさすぎるんです」


 如月さんはタブレットの数表や棒グラフが表示された画面を社長に見せる。


「私はこうやって、ちゃんとアイドルごとに投資額と回収額の比率を把握しているんですが、見てください。これ以上ハピプリに金をかけたら赤字になりかねませんよ」

「如月くんの言いたいことはわかるよ。でもね……」


 反論しかけた社長を遮って、如月さんが言う。


「例えば、由香里みたいに稼げるアイドルを平気で手放すあなたの神経が、私には信じられませんね。アイツが残っていれば、この事務所はもっと大きくなれたはずなんだ」

「でも、由香里はもうアイドルに未練がなくて、自分の人生を歩きたがっていたから」

「そこを反故にさせるのが、アイドル事務所の経営者として在るべき姿なのでは?」


 仙崎社長は顔を顰めて黙った。それを見て如月さんが晴れやかに笑う。


「社長の審美眼やプロデュース能力は認めます。あなたがハピプリを見出して、由香里の人気が爆発した。他のアイドルグループも発掘してデビューさせた。彼女らの人気もあなたのプロデュース能力によるところが大きいのは確かです」


 わたしは横のハンガーラックに掛けられたたくさんの衣装を覗いた。ハッピープリンセスと他のグループの衣装がカラフルなグラデーションを描いているが、いつからか、ここに入りきらなくなった衣装を近くのトランクルームに保管し始めたことも知っている。


「でも、社長はいつも遊び半分なのでは?」


 仙崎社長は顔を顰めたが、如月さんは構わずに言葉を続ける。


「この事務所はハピプリ以外にもグループを抱えています。みんなあなたが作ったアイドルだが、彼女達を守るためには切り捨てなければいけない人材もいるっていうことですよ。それが大人の世界のルールです」

「しかし!」

「私としては、もうハピプリは解散させて人員整理したいところです。千沙子はまだアイドルとしての賞味期限がありそうだから、他の若い子と組ませてもいいとは思いますけど、他はもういいんじゃないですか。泉もいい歳だし引退でいいのでは。不良債権を抱え込むのはリスクでしかないと思いますしね」

「如月くん! それはこの子達やファンの子達のことをまったく無視した考え方だよ!」


 机を叩いて立ち上がった仙崎社長に、如月さんは薄く笑ってみせる。


「古い考え方ですね。ファンなんて移り気ですから、解散したグループのことなんてすぐ忘れますよ。社員も私に同意する者が多いはずです。君もそう思わないか?」


 如月さんの視線を浴びた鈴本さんは、体を震わせ、視線を逸らしながら小さく頷いた。


「ほらね」


 余裕の笑みの如月さんと、その隣で泣きそうな顔をしている鈴本さんの姿に、わたしは心の奥がモヤモヤした。仙崎社長は如月さんに不審の目を向ける。


「如月くん、君、人事権か何かを盾に彼を脅しているんじゃないだろうね?」

「ハハハ。何を言っているんですか。プロデューサーごっこに興じるあなたと、きちんとビジネスとして会社を管理している私とでは信頼度が違うということです。もはや私なしでは会社は回りません。病弱を言い訳に音信不通になる社長はもういらないのでは? ハピプリみたいなコンテンツに拘ってるところを見ると、あなたの感覚も鈍ってきているのかもしれませんしね」

「如月くん、君はそんな風に僕を見て……」


 言いかけた仙崎社長だったが、そのまま体を震わせながら固まってしまった。


「仙崎社長……?」


 心配になって、わたしは仙崎社長の顔を覗く。社長の顔は真っ青で、額から汗がダラダラと流れ落ちていた。口をパクパクと動かしたかと思うと、社長は胸の辺りを手で押さえて崩れ落ちた。


「仙崎社長!」


 社長は机にしがみつきながら震えていて、尋常な様子ではない。


「救急車を!」

「わ、わかった!」


 鈴本さんが慌てて、スマートフォンから電話を掛ける。如月さんはその隣で呆然としているだけだった。


「仙崎社長、しっかりしてください!」


 わたしは仙崎社長の背中を擦りながら、声をかけ続け、駆け付けた救急車に鈴本さんと一緒に同乗した。



「失礼します」


 二日後に改めて病室を訪れると、仙崎社長はベッドに横たわったまま、わたしを迎え入れた。


 持参した花束を花瓶に活けると、点滴を付けて横になった社長が、にこにこ微笑みながら弱々しい声で「ありがとう」と言った。運び込まれたときに付けられた呼吸器のマスクは外れていたが、まだまだ回復には遠いようで胸が痛む。


「お医者さんにね、無理は禁物、しばらく休養しなさいって、怒られちゃったよ」

「お大事にしてください」

「いきなり倒れて迷惑を掛けてしまったね……。君達の力になりたかったのに、フォローできなくてごめんね……」


 仙崎社長は生まれつきの疾患があり、今も定期的に通院しているそうだ。それなのに、申し訳なさそうに何度もわたしに謝るのだ。


「謝らないでください。社長に味方してもらえるだけで、わたし達は心強いんです」


 わたしはあまり長居して負担をかけるのはよくないと思い、別れの挨拶をして病室を出ることにした。頭を下げながら病室を出かけたわたしに、社長は小さな声で言った。


「ねえ、泉。体が弱くて入院ばかりしていた少年時代の僕をね、勇気づけてくれたのはレコードやテレビや雑誌の中のアイドルだったんだ。今でも僕は彼女達のファンだよ。楽しかった思い出を忘れられなくて、いい年してアイドル運営をやめられないくらいにね」


 仙崎社長は横たわりながら、わたしに優しい笑顔を向けた。


「ファンはいつも君達の味方だから、忘れないでね」


 なぜだか心がきゅんと痛んだ。わたしは頷き、頭を下げながら病室を出た。

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