第二章 紅玉の原石は夢に覚める

第二章 紅玉の原石は夢に覚める①

 今日もわたしは泉ちゃんに手を引かれながら街を歩いている。実は暑がりなわたしは熱が籠るマスクとキャップは好きではないけど、外を出歩く時はこれなしでいられない。


 前にこんなことがあった。


 午前の清掃アルバイトが終わって泉ちゃんと手を繋いで帰り道を歩いていると、泉ちゃんがファンの男性に声をかけられた。


「あ、あの! もしかしてハピプリのラピスちゃんですか?」

「はい。わたしのこと、ご存知なんですか?」

「もちろん! この前の渋谷のライブも行ったよ! 僕、ずっとラピちゃん推しで。これからも、がんばってください!」

「ありがとうございます! 嬉しいです」


 泉ちゃんはにこやかに対応した。ステージでも特典会でも楽屋でもわたし達の部屋にいる時でも、泉ちゃんはいつでも優しいんだ。


 でも、わたしは一度ステージを離れてしまうと「ルビー」の状態まで心を持っていくことがなかなかできない。このファンの人はわたしに気付いていないようだけど、もし気付かれても、わたしはファンが望むような対応がきっとできない。がっかりさせてしまう。


 わたしは怖くなって、泉ちゃんの背中に隠れた。でも、それが逆に目を引いたみたいだ。


「あれ? そっちの女の子……もしかして、ルビーちゃん?」


 ドキッとして頭が真っ白になった。顔を出してにこっとするのが一番いいのはわかっていたけど、わたしの体は石のように固まっていた。嫌な汗が次々と背中を伝っていく。


 そんなわたしを、泉ちゃんは振り返りながらぎゅっと抱きしめてくれた。ファンの人の目から隠すみたいに。


「そうなんですけど……実はルビー、熱が出ちゃって、ちょっと顔がむくんでいて……人には見せたくないみたいなんです。声もちょっと出しにくいみたいで」

「え、あっ、そうなんだ……! 大変な時に声を掛けちゃって、ごめんなさい……」


 男の人は申し訳ないくらい、体を小さくして頭を下げていた。


「あ、でも、熱は下がってきているから大丈夫だと思います。そんなに気にしないで」

「でも……そうだ! よかったら……これ」


 男の人は手に下げたコンビニ袋からマスクを取り出した。


「さっきそこのコンビニで買ったばかりで、もちろん未開封だよ。男用の大きいサイズなんだけど、よかったら使ってください」

「え、でも……」

「差し入れだと思ってもらえれば」

「じゃあ、ありがとうございます」


 泉ちゃんはマスクを受け取り、わたしと男性ファンとを見比べながら微笑んだ。


「ルビーも、ありがとうって言ってます。ね?」


 わたしは泉ちゃんの胸のあたりに顔を埋めながら必死に頷いた。


 男の人は「ルビーちゃん、お大事にね。またライブ行きます」と言いながら離れていった。その人が見えなくなったところで、泉ちゃんがわたしから離れた。


 ずーんと重暗い気持ちがわたしの心を覆っていく。わたしはなんてダメな人間なんだろう。せっかくファンの人が話しかけてくれたのにろくに話もできない。そのせいで、泉ちゃんにいらない気遣いをさせてしまった。


 情けなさ過ぎて下を向いていると、泉ちゃんの手が近づいてきてわたしの耳に触れた。


「え……?」


 戸惑っているうちに、わたしの口元は大きめのマスクに覆われていた。


「ちーちゃん。大丈夫だよ」


 微笑みながら、泉ちゃんはわたしの頭を優しく撫でる。


「そんなに落ち込む必要ないよ。出来ないことがあってもいいじゃない。人間だもの!」


 冗談めかして言いながらくすりと笑い、泉ちゃんは自分が被っていたニットキャップを外してわたしに被せた。


「これあげる。ちょっとだけ安心して外を歩けるようになるでしょ?」


 泉ちゃんの頭では浅めに被られていたキャップが、わたしには目が隠れそうなくらいまで引き下げられた。泉ちゃんは優しく笑う。


「帰ろ?」

「うん……」


 わたし達はまた手をつないで歩き始めた。

 この時から、わたしは外を歩く時はキャップとマスクを欠かさないようにしている。



 ライブハウスに着けば、泉ちゃんはわたしのヘアメイクを一番にやってくれる。楽屋の鏡に映るわたしは相変わらず重くて暗い顔をしているのに、泉ちゃんはにこにこしながらわたしに言った。


「ちーちゃん、きれいになったよね」

「え……え、え……?」


 戸惑うわたしと、わたしの後ろで微笑む泉ちゃんが鏡に映る。コハクちゃん達が加入した頃から、ステージに上がった時に間違えないよう普段からアイドルとしての名前で呼び合うことにしたけど、わたしと泉ちゃんはステージ外では昔からの呼び方で通していた。


「ちーちゃんももう十九歳か。初めて会ったときはまだ十五だったもんね。きれいなお姉さんになるわけだ」

「う……嘘だよ……泉ちゃん、嘘」

「嘘じゃないよ。本当だよ」


 泉ちゃんはそう言うと、わたしのボサボサの髪をブラシで梳かし始めた。泉ちゃんは昔からいつだって優しい。でも、その優しさにわたしはいつまでたっても慣れなくて、耳が熱くなって胸がドキドキした。


「ちーちゃんの髪きれい。つるつる!」


 でも、それは泉ちゃんがヘアケア用品を一緒に選んでくれるからだ。泉ちゃんと一緒に住むようになって、髪や肌の手入れから服の選び方まで、女の子として必要な知識を全部教えてもらったから。


 それか、泉ちゃんの指が魔法を持っているのかもしれない。わたしの髪は自分で梳かしてもごわごわして大してきれいにならないのに、なぜか泉ちゃんの手にかかるとさらさら揺れて、きれいにまとまる。


「お肌もきれいだし、お目めもパッチリ! 唇もぷっくり可愛い!」


 それは泉ちゃんが魔法みたいに可愛くきれいにお化粧してくれるからだ。きっと泉ちゃんは魔法使いなんだ。いつだって泉ちゃんはわたしがなりたいわたしにしてくれる。


 鏡の中のわたしは、わたしの理想のアイドル「御園ルビー」の形に変化していく。背筋をピンと伸ばし、顔は上を向いて、太陽みたいに明るい笑顔を浮かべる女の子。


「はい、できました」

「ラピスちゃん、ありがとう!」


 ルビーになれば、わたしはなんだってできる。人前で歌うことも、くるくると楽しく踊ることも、お話をすることだって。


 ステージの上でなら、こんな風でありたいと願う理想の女の子になれる。みんなに愛される女の子になれる。アイドルでいる間だけは、渇望していたのにどうしてもなれなかった女の子に、わたしはなれるんだ。

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