第一章 宝石箱の中で瑠璃は踊る④
わたしと千沙子は朝のビル清掃のアルバイトをしている。今日も午前中いっぱいの仕事を終え、一緒に仕事場を出る。その時、わたし達に後ろから声が掛けられた。
「あれ? 泉だよね? 隣は千沙子?」
ファンに声を掛けられることはごく稀にあるけれど、今回呼ばれたのは本名で、しかも聞き覚えのある女性の声だった。驚いて振り向くと、幾松由香里がそこにいた。
「由香里! びっくりした!」
彼女はわたしの幼馴染であり、ハッピープリンセス結成時の初期メンバーでもある。脱退した今は、名の通ったインターネットサービス会社に努めているはずだ。
「ね。びっくり。二人で何してるの?」
「バイトの帰りだよ」
「えー、もしかして、バイトしながらまだアイドルやってるってこと?」
「うん。由香里は? 出張?」
「うん。まあね」
赤文字系ファッション誌に載っているような服を着こなした由香里は、誇らしげに頷く。
「午後からクライアントとミーティングだから、ちょっと早めに会社を出てきたの」
わたしには今の由香里の格好は見慣れないものだけれど、彼女の華のある笑顔は幾松ダイアとしてステージに立っていた頃と変わらなくて、少し懐かしさを感じた。
「へー。なんだか、由香里すごいね」
「まあね。あ、そうだ。せっかくだからランチしていかない? もう食べちゃった?」
「ううん。食べてないけど……」
そっと千沙子の様子を窺うと、キャップとマスクの間から覗く瞳からは緊張と疲労が見てとれた。「今日はもう休みたい?」と訊くと、コクリと頷く。
「ちーちゃんはちょっと疲れてるみたいだから、帰って休ませてあげたいかな」
「ふーん、そうなの? もしかしてわたし、千沙子に嫌われてるのかなあ?」
窺うような由香里の視線に、千沙子は首を横に振った。わたしも慌ててフォローする。
「昨日もライブだったから疲れてるんだよ。今のエースはちーちゃんだからステージで一番動くし、特典会も一番人気だし。ね、だから久々に幼馴染二人で話そうよ」
「ふーん。まあ、いいか」
あっけらかんと笑った由香里の様子に、わたしはほっと胸を撫で下ろす。
「じゃあ、ちーちゃん、気を付けて帰ってね。冷蔵庫の中の物、適当に食べていいからね」
千沙子は頷きながらとぼとぼと歩いて行った。その猫背気味の背中を見送るわたしに、由香里がニヤリと笑いかけてくる。
「相変わらず、過保護だね、泉は」
「え?」
「まあいいや。お昼、イタリアンでいい?」
わたし達二人は由香里のお薦めだというレストランに入った。そこは内装や什器も西洋アンティーク風の凝った造りで、ランチセットが二千円近くするようなお店だった。
「ここ美味しいからお気に入りなの。最近のランチはここが多いかな」
「へー、そうなんだ……」
わたしにとっては毎日気軽に入れるお店ではないけれど、わたしは曖昧に笑いながら相槌を打つ。
「それにしても、由香里と会うの久々だね」
「わたしが就活始めて以来?」
「そうだね」
わたしと由香里は小学校から高校まで同じ学校に通っていた。高校生の時に、わたしは由香里に誘われるまま、一緒にハッピープリンセスのオーディションに参加した。最初は二人だけでハピプリをやっていて、途中から千沙子が加入。でも、わたしと由香里が大学生三年生になった年に、由香里はアイドルを引退することを決めた。
わたしは迷ったけれど、グループを続けることを選んだ。その頃のわたしは社長が選んだ新メンバーに曲やダンスを教えたり、大学ではゼミや卒論があったりでてんやわんやだった。就職活動で忙しい由香里とは連絡をとれず、以降そのままになっていた。
ギャルソンスタイルのウェイターさんが運んできた料理を食べながら、空白期間を埋めるように由香里と近況を報告し合う。彼女が楽しそうに話す世界はわたしのいる場所とは別世界のようで、わたしには新鮮だった。
「由香里が元気そうでよかったよ」
カルボナーラの最後の一口をフォークに絡ませながら由香里に笑いかけると、彼女は少し首を傾げた。
「で、泉はいつアイドル辞めるの?」
「え?」
目を瞬かせるわたしに、由香里はボンゴレロッソを口に運びながら言う。
「毎回オタの相手するのも大変でしょ。アイドルなんか恋愛も普通にできないし」
「あー、でも、わたしは恋愛とかは……」
「泉、まさか、まだ恋愛に興味ないとか言っちゃうわけ?」
「いや、でも本当にわたしは……」
由香里は赤いリップの口元にくすりと笑みを浮かべながら、わたしの言葉を遮った。
「泉さ、いい加減素直になりなよ。若い時に恋愛しないなんて寂しい人生だよ。だいたい、アイドルなんていつまでも出来る仕事じゃないでしょ。しかもバイトと掛け持ちなんて、生活苦しいんじゃないの?」
「いや、普通に生活は出来てるし……今は辞めるなんて考えられないよ」
「ふうん? 泉は流されるままアイドルしてるだけだと思ってたんだけどなあ」
「それはまあ……でも……」
由香里の言うとおりだった。彼女に半ば無理やり連れて行かれたオーディションでも消極的だったし、なぜかそれに受かってしまって始めたアイドル業も、しばらくの間は恥ずかしくて由香里の後ろに隠れるようにして活動していた。
「わたし的にはアイドルなんかさっさと辞めて、彼氏作った方がいい人生だと思うけどねー。泉はどうしてアイドル続けてるの?」
「どうしてって……えっと……」
わたしが答えられないでいると、由香里はテーブルの上の伝票を掴んで立ち上がった。
「まあいいや。とりあえず、ここはわたしが払うよ」
「え、でも……」
「再会記念ってことで、いいでしょ?」
由香里は品のいいブランドもののバッグから財布を取り出し、支払いを済ませてしまう。
「ありがとう、由香里。ごちそうさま」
「い~え。でもさ、泉、せっかくだし、また連絡取るようにしようよ。ね?」
「うん。そうだね」
「じゃあまた連絡する!」
華やかに笑いながら手を振る由香里は、都会の人込みの中へ颯爽と消えていった。
※
由香里と別れて街を歩きながら、わたしは溜息をついていた。
由香里にどうしてアイドルを続けるのかと訊かれて困ってしまった。今のわたしにはメンバーがいてファンがいて事務所があってという世界が日常なのだ。それを断ち切ってまでしたい何かが今はない。由香里はアイドルを始めた当初の消極的なわたしを指して「流されるままアイドルしてるだけ」と言ったのだろうが、今もまだ流されるまま続けているだけなのかもしれない。
恋愛面についても、たぶんそうだ。わたしは小学生以来、ずっと恋愛というものがわからないまま今に至ってしまった。多分、そのきっかけは小学生の時のあの出来事だと思う。
※
小学校に上がって一緒のクラスになった由香里とわたしは、すぐに仲良くなった。
「わたしも教えてあげたでしょ。だから、ね、泉ちゃんの好きな人も教えてよ!」
女子は小さな頃から「好きな人」の話が好きだ。幼稚園時代から「好きな人」がいて当たり前という雰囲気があったし、ことあるごとに「恋バナ」をしていた。
その頃のわたしは「好きな人」としてクラスメイトの陽太君を推していた。顔がかっこよかったし、同じ幼稚園出身という親しみもあったから。小学一年生のわたしはそのことを由香里にこっそりと耳打ちした。
「そうなんだ! じゃあ、陽太君に泉ちゃんが好きかどうか聞いてきてあげるね」
「えっ……! え? え、待って……!」
制止するわたしの声は届かず、由香里は陽太君の元へ飛んで行ってしまう。わたしは呆然としてしまって、教室の隅で二人が話すのを見ていることしかできなかった。
戻って来た由香里は残念そうな顔だった。
「陽太君、他に好きな子がいるんだってー」
「え、いや。で、でも、わたし別に、陽太君のこと、そんなに好きじゃないし……」
わたしは恥ずかしさや混乱で口をモゴモゴさせながら、そんなことを言った気がする。
「えー? そうなの?」
「そう! 別にそれほど好きってわけじゃないから。さっきの忘れて!」
「なーんだ。そうなんだ。わかった!」
そんな風に話しているうちに、わたしはふと思った。
(あれ? もしかして、わたしって陽太君のこと、実はそんなに好きじゃなかった?)
そう思ったら、そうなのかもと納得してしまって、以降のわたしは陽太君への関心を失った。
しばらくして、わたしは由香里の影響で少女漫画雑誌を読み始める。連載されている漫画には「恋」に落ちると相手に近寄るだけでドキドキして、その人のことばかり考えるようになってしまうと描かれていた。
(陽太君の傍にいても、別にドキドキなんてしなかったな。顔がかっこいいから好きだと思っていただけで、本当の恋ってわけじゃなかったみたい)
だから、わたしは自分にとって本当に好きな人が現れるのを待つことにした。でも、そのままの状態でわたしは今日まで来てしまったのだ。傍にいるだけでドキドキする男の子なんていなかった。
わたしにとって、男性という存在には順序が付かない。もっと言ってしまえば、女性も含めて他人に対して好き嫌いの評価をつけるのが苦手なのだと思う。
でも、このことはアイドルを続けることには役立っているのかもしれない。前に他のグループの子と話していて言われたことがある。
「ラピスちゃんって真面目やんね。ファンみんなに親切やし、対応も丁寧やんか」
「そうかな?」
「そういうの、大事やってわかってるけど、なかなかね。こっちも人間やし、どうしたって『この人とニコニコ話すのきついわ』みたいなんあらへん? でも、ラピスちゃんって、絶対そういうの出せへんやん」
「うーん。あんまり人に対して苦手とか感じたことないかも?」
「へえ。でも、そういうラピスちゃんを見てるからかな。ラピ推しの人達ってちゃんとした人、多い印象あるわ。みんな礼儀あるし、優しい感じやんな」
「そうかな? そうなのかな。ふふふ!」
自分のファンを褒められるのはくすぐったい感じがして心地よかった。
由香里が言うみたいに、恋愛をしないと寂しい人生なのだろうか。そんなこともないと個人的には思っているけれど。
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