私設書庫

 探していた図書館は蔦の生い茂った建物だった。内田明臣が、その建物に気がつかなかったのは、単純に通学路とは逆方向だった点が大きいのであるが、それ以上に、私設書庫は、存在を誰にでもわかるように知らせる努力を怠っていた。地図上でも、学校に隣接してある大きな建物と表記はなされるが、公立の図書館としての地図記号が用いられることはなく。下手をすると、建物の輪郭が記載されているだけなのだ。仮に、旅行者が散策の途中で蔦に覆われた屋敷を見つけたとして、それに対して、「凄いなぁ」と感心することはあっても、わざわざ入り口脇で蔦の葉に隠れている看板を探すことはしないだろう。興味が湧いても近づきがたい建物として、緑の館が佇んでいた。

 そう考えると、内田が図書空間を求めた事が、地域に関心を抱くことになり、探した場所を見つけることになったのだ。それは余所者から、地元の住人へと変わる行為だった。生徒という肩書が外れる校外活動に積極的になる。今までの内田個人として、スーパーに買い物しに行くこと以外では珍しい馴染みの開拓だった。

 緑の館の中は、よく手入れのされた絨毯が敷かれており、図書館とは思えない空間になっていた。内田が一番驚いたことは、入館時に靴を脱ぐことだった。絨毯を傷めないためなのか。理由として思い当たることは幾つもあるが、内田は「なるほど、利用者をそれほど必要としないのは、館内の雰囲気を維持するためなのだろう」と納得した。一般人を迎え入れる屋敷として、片意地を張るようなことはなく、ただ、趣向の深さから、風雅と形容するのが良さそうな落ち着きがあり、安らげる。場違いな感覚かも知れないが、土足で踏み入っていない安心感からも寛ぎを得ていた。

 試験勉強用の教室としての図書室はそこにはなかった。内田が、その事実に落胆するより先に、館内の職員から声が掛けられた。

「君は、新湯学院の生徒さんだね」

学院の方から季節外れの新規利用者が来ると連絡を受けて待っていた。鼈甲の眼鏡を愛用するまさに趣のある風貌のご老体は、白頭を擦りながら、「君の名前を訊いてもいいかな、アレ、会員証を作るのに必要でね」と必要な台詞を思い出していた。一般生徒は、入学時に手続きを済ませるようなのだ。転入時に、同様の処理をすればいいだけのようなのだが。どこかで手順が狂ったのだった。おそらくは、転入生自体がイレギュラーなので、その綻びが、徐々に明るみになっているのだろう。

「内田あきとみ君か、どういう字を書くんだい」

苗字は普通で、アキは明智光秀の明。トミは豊臣秀吉の臣です。と口頭の質問に、わかり易い例えを示すと、「ほほう。それはそれは、戦国武将がひとつの名に込められているとは、立派な名前だ」とご老体の歓心を買ったようだった。「男の子に付ける名前はそうでないといかんなぁ」と続ける言葉には、長い人生で身についた相手を思いやり称える紳士的な振る舞いがあった。内田自身も、あまり深くは言及されない名前について、オーバーなほど、相手がため息混じりに、唸るものだから。本当に、自身の名にそのような念が込められているのか。適当な解釈に若干後ろめたい気持ちを抱きつつ。同時に、転校生活で軽視していた本来の名前に威厳のようなものの影を感じた。そこではっきり尊厳や誇りなどを得なかったのは、現状において、実績を伴って居なかったという状態に起因するのかもしれない。中学生が、戦国武将の何たるかを語れるわけでもなく。ただ、名付け親が立派に育つことを望み、その名を当たり前のように背負って生きてきただけ。その事実に鑑み、明臣はこそばゆさを感じ。だからこそ名前負けしないようにしないといけないと気持ちを堅くしたのだった。そんな感情の変化は些細なことではあるが、紳士との口頭のやり取りがなされなければ、起こらないことだった。「どうもコンピュータは苦手でね、いつも、人に任せるのだけれど、いい出会いが出来た」年齢、風貌からある程度推測できたことであるが、白髪の彼こそ、私設書庫の館長だった。

 「明臣君はこういう所は初めてかな?」

骨董品の類が置いてあるわけではなく。ただ、必要とされるものが上等な物で用意されている。館の案内を始めた長は、その落ち着きのある空間について、中学生がどの様な感想を抱くのか。とても気になっているようだった。「インターネットの普及で、生徒の利用する率も減少しており、君達の求めているモノがここにはなくなりつつあるのかもしれない」と独り言のように語っていた。それは、時代の流れに取り残された者の嘆きのようでもあった。内田は余所者の中に入って行くことが多かった。そのせいか、他人の嘆きや哀しみに対して、人一倍気を使っていた。ただ、それは、何かしらの回答を用意するではなく。相手の気持ちを受け止め考える。決まりきった解決策のない問題ほど、共感と時間が心を癒やす。未熟な人間関係の中で、内田が築き上げた処世術は、悪く言えば、その場しのぎの相槌以外は出来ない木偶だった。その受け答えは、同級生達の勉強部屋を捜索していた内田にとって、思惑の成就が困難になる方向に流れていった。「気に入った本に出会ったら声を掛けておくれ」十進分類法の示す分布以外で、出版社別であったり、年代別に整理された本棚の見取り図。それを見て、社会総合の時間に質問した生徒は、そこに立ち寄ったのだろうか。受付からは確認出来ない生徒の影を探して、内田は進んでいったのだった。

 図書室をさまよう内田の焦りはピークに達していた。事務室に居る教職員に、放課後の生徒の実態がわかる訳もなく。内田が案内された書庫の中では、クラスメイトとの遭遇は果たせなかった。内田は目的の宛が外れた格好で、別に芽生えたちっぽけな正義感の赴くままに『13歳の黙示録』を借りて帰ったのだった。中学二年生である内田が、最も興味を惹かれるタイトルであっただけで、予備知識は何もない本だった。


 宙ぶらりんなままのテスト対策。考査のことを忘れて、小説を読み耽った昨晩の失態。内田にとってのXデーは近い。それは七月七日の月曜日から始まる考査であり、もし、洒落て短冊に願い事を書くならば、「勉強仲間が欲しい」だった。そんな彼の願いが叶うことはなく。キョウコの指摘通り、スポーツマン向けの体格で、売り出す以外のコミュニティ形成を知らない彼は、破滅的な道に進んでいた。「もしかしたら教室に小説を持ち込むことで、その手の話を振られるかもしれない」そんな淡い期待を抱くほどに、内田は取り乱していた。


 テスト週間が折り返しを迎えた時には、内田明臣は完全に現実逃避を始めていた。少年を救える教師は現れなかった。ちょっと意識し始めたキョウコは、あの一件以来、磁石が裏返ったかのように接してこなくなった。キョウコのように積極的にならなければ、打開出来ないと分かっては居ても、余裕しゃくしゃくと読書に耽った一日を挟んで、明らかに内田を取り巻く環境は変わってしまった。ただ、それは、余裕が無い内田が感じた被害妄想なのかもしれない。「読書なんて碌なものじゃない」「時間の余裕がなければ、小説なんて読んでいられない」そう思うのだが、学校生活の問題にぶち当たり、進むべき方向性に迷った彼にとって、精神の安らぎのために、そのミステリーは役立っていたのだった。


 内田は「そうだよな、テストが全てなんてことはないんだ。自分の人生で真剣に取り組むべき課題を見つける方がよっぽど重要じゃないか」そんな事を本を返却する頃には考えるようになっていた。内田は弱い人間だった。そのまま、「13歳のハローワーク」を手にしていたのならば、もしかすると、テストなんてどうでもいいといった、自暴自棄な行動を抑えられたのかもしれない。しかし、落第に対して開き直ってしまった彼にそのような出会いはなかった。逆にいえば、そのような流れで本を選んでしまっていたら、「〇〇歳から始めるプログラミング」といった電算技術系の入門書を手に取り、学校で学ぶ技術が役に立たないものと、何か達観したように語りだしたかもしれない。その可能性は少なくない。コンピュータ技術の進歩の中で、プログラマーの育成機運が高かった時期でもあり、書庫の長もその流れで、参考書などを揃えていた。私設書庫の内部には、文芸書しか取り扱わないといった決まりはないのだ。訪れた人の成長のために必要な知識を与える本を用意する。本の内容を熟知しているわけではなくとも、様々な可能性との出会いの中で、利用者が発展していくことを館長は願っていた。内田明臣が課題を探し始め、少年犯罪に興味をもったのは、読書が与えた一つの成果だった。それと同時に彼の落第は確定したのだった。

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