からかい

 「それで、ここが保健室」

二日目に突入した施設案内の締めくくりは、保健委員のホームエリアであった。「冷蔵庫に冷たい飲み物があるから飲んでこうよ」

職権濫用を仄めかす発言をしつつ、内田を招き入れるキョウコ。先客が居ないことを確認し、椅子代わりにベッドを勧める。内田は綺麗にメーキングされた布団を見て先導を断り保健室の設備を眺めていた。カーテンをシーザザッと引く音がする。「熱中症にはまだちょっと早いけど、注意しないとね」

キョウコは夕日と、水平方向に広がるグランドを遮断した。

 話だけ聞けば、カーテンが動いたことで人の目を引くように思えるのだが、実際ガラスを隔てたグランドには物音は届かなかったし、外から見えるいくつもの窓の1つに変化が起こっても気にする者はそうそういなかった。仮眠を必要とする空間は、人のシルエットが紛れるくらい少々厚手のカーテンが使われていた。その為、彼女は意図した通り外部に気づかれずに死角を確保したのだった。それは明らかに慣れた手つきだった。

内田は、呑気に室内を照らす照明が、他の教室とは異なることに気づいて感心していた。鍵付きの棚と、開放されている薬箱。保健委員の活動環境として、当たり前の整理整頓より手の込んだ綺麗さが、その一室を引き立てていた。ナンバーロック式の冷蔵庫にしゃがむキョウコから視線を逸らしていると、

「これで、男女二人の密室になったけれど、内田くんは手を出さない」

キョウコが確信めいた口調で呟いた。

「昨日、一日、あなたと周っていて気がついたわ。内田くんは他人に興味を持っていない」

内田は、キョウコが異様な空気を纏い豹変したように感じた。「他人に興味を持っていない」その言葉は、恋愛感情を求める合図なのだろうか。突発的な謎の解決を試みるも、「その気はなかったはず」と答えが返ってくる。長い間廊下を歩きながら、二人は一定の間隔を保っていたし、互いのことについて、これといった会話も繰り広げなかった。ただ、事務的に校内の案内をする者と、特別教室のプレートを確認し雰囲気を視察する者が居ただけだった。もし仮に、彼女の言い掛かりを受け止めるなら。内田は、テスト期間の消耗に焦っていた。そして、相手の振る舞いを見逃していたのかもしれない。保健室で思わぬ言葉に呆然と立ったまま思考回路がショートしそうになっていた。内田は動揺を隠せなかった。キョウコが迫り。デコピンをする。いや、デコピン未遂をした。白く細い指先は、冷や汗を隠せない眉間に紙一重で突き立てられて止まっていた。

「私の感覚に狂いはないわ!」

転校生としての豊富な経験は、校内環境の比較には優れていたし、同年代ではより多くの出会いがあったと思っていた。しかし、そんな余裕はいとも簡単に脅かされた。

「あなたは困っている。内田くん、そういう時は、ちゃんと訊ねないといけないんじゃないかな?」

キョウコは保健委員として「問題が深刻にならない内に解決したい」そんな申し出をした。内田は、その場ではっきり「この二日間テストに向けて行動できず困っている」とは、言い放つ気にはなれなかった。せめて相手の厚意を傷つけぬように、

「この学校の図書室はどこにありますか?」

と中等部の見取り図で探してなお見当たらなかった疑問を彼は問いかけたのだった。

 私立新湯学院は、法破りな部分が少なからず存在した。授業風景はすでに述べた通りであるし、それ以外にも、文化的生活を支える為の学校図書館法の定めた義務に背く行為もしていた。

「この学院の図書室は高等部の試験勉強対策室と呼ばれる赤本置き場以外にはないの。それに、そんなとこに行って、勉強する中学生はなかなか珍しいと思うよ」

キョウコが告げた内容に、内田は驚いた。学院の体質的な部分で、文化的な意志の高さを窺い知っていた為に、驚きはすぐさま疑問に変わり、なぜ図書室がないという落ち度があるのか。すかさず質問を返した。

「図書のことは図書委員とかに訊いたほうがいいよ。私に出来ることは、もっと積極的に他人に声を掛けられるよう。内田くんを突き放すことくらいかな」

キョウコの返事は理解不能だった。彼女の言い分は役割分担も社会の仕組みの一つだから、何でもかんでも、馴染みの人に聞くのは良くないと諭し、内田が陥っている転入生としてのコミュニケーション障害を克服するように求めるものだった。「餅は餅屋というし、あ~ああ。テスト勉強は私の守備範囲じゃないので、退散します。焼き餅でも焼いてようかな」とデタラメが続いた。保健委員としての彼女は、自身に過剰な想いを寄せるのを防ごうとしたのかもしれない。それは、生徒間の関係における保険であり、問題を起こさない事前対策を標榜とする保健委員の正しい健全な対応だったのかもしれない。ただそれは、若者同士の間では、それほど上手く機能しなかった。

 内田がその対応に激昂することはなかったが、二日目にして気まぐれ過ぎる彼女の所為に、心なしか興味が湧いた。目まぐるしい出会いを経験した内田にとって、キョウコは特別印象深い人物になった。それは、異性が警戒する行動を執った事実が、内田を男性として意識していると訴えているように捉えることも出来、中学生に芽生え始めた男心をくすぐったのだった。またそれは、ちょっと誇らしい充足感を与えた。その充足が、彼に保健室をするりと抜け出す彼女を追い詰めるような野暮をさせなかった。


 予想外な別れをした内田は、どうしようもない事を解決する為に、事務室に向った。本来は、もっと早めに訪れるべきであったのだが、今までの経験上。同級生に聞けば何とかなる。それが常態化してしまって、上手いこと頭の切り替えが出来ていなかったのだ。中学二年の彼の洞察が如何に優れて居たとしても、自身の経験に従うしかない愚行は、歳相応の空回りだった。そんな反省をしつつ、先ほど知らされた「図書室がない」事実を確認しに行くと、「中等部向けの図書室はありませんね。ただ、」――ただ、学院に隣接して私設書庫があり、そこに一般の方と紛れる形で、読書をしている。と返事として案内が返って来たのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る