前日譚1:理子が希に惚れた理由―可愛いあの子

「あの、部長、気になることがあるのですが……」

 守谷理子は営業部長である下久紀夫(しもひさのりお)のところに来ていた。

 下久は理子の叔父であり、この株式会社トイックスで営業部長を務めている人間である。

 理子は叔父であるこの下久のツテで入社した。上司であり恩人でもある。

 下久は企画書を書く手を休めて理子の方に目を向けた。

「ああ、理子ちゃん、どうかしたの?」

 プライベートではともかく、会社でちゃん付けはやめてくれないだろうか?

 叔父と姪の関係なのでは仕方ないか。余計な話はせずさっさと本題に入る。

「部長から貰った経費の内容について、分からないことがあるのでお尋ねしたいのですが」

 理子は経費のリストのコピーを持参して、取引先と内容について質問を始めた。

「これとこれの経費、内容が接待費として計上されていますけど。いったいどんな内容だったのかが分からなくて……」

「……ああ、ただの食事代だよそれは」

 しれっとそう答えて見せる。

「たしかに食事代の領収書でしたけど、ふつうこんなにかかりますか? 10万円のものもありますけど」

「大口の取引先だからさ、気を使ってまぁまぁのお店を使ったんだよ。数人で行けばそのくらいはかかるって」

「でも先月はそんなにかかってないですよね? なんで今回だけ?」

「それは色々と都合があるんだよ。これからその取引先とは一緒に企画をしていこうって話にもなっているし。毎年この時期はこんなもんだからさ」

「税務署とかに突っ込まれたらどうするんですか? いろいろ面倒だと思うんですけど」

「ははは、理子ちゃんはそんなことまで気にしなくてだいじょーぶだよ」

「…………」

「後ね、そういうことはわざわざ僕じゃなくて田崎くんに質問しなさい。どう処理すればいいかとかは彼が良く知ってるから」

 田崎とは総務部経理課の課長である。

 確かに経費の処理方法などは田崎経理課長に質問すればよいのだが、これはどう処理するかとかではなく用途が理解できないから本人に聞いているだけだ。

 結局下久から納得のいく答えは聞かせてもらえず、理子はその場を後にした。


 自分のデスクに戻り、下久部長の経費清算書を見つめる。

 まぁ確かに、一々こんな細かい経費の話なんか質問しに行く必要もない。

 だが理子は分からないことがあれば聞かないと気が済まないタチだし、親戚という気安さもあって、下久にはつい余計なことまで聞いてしまう癖があった。

 株式会社トイックスの名前は、一般にはあまり名は知られていないものの、従業員100名程度。売り上げは50億にのぼる、玩具業界としてはれっきとした中堅企業の地位を築いている。

 もともと理子はこのトイックスへ入るつもりなど一切なかった。というより、玩具関連に大した興味が持てなかったのだ。

 大学では政経学部に入り、様々な業種を自分なりに研究・調査してきた

 本当は大学院へ進むか、もしくはメルクの様な医薬品を取り扱う会社へ営業として就職したいと考えていた。


 就活を進めていたある日、下久から声がかかったのだ。

 経理を任せられる人間がいないのでトイックスに入って欲しい。下久は昔から理子の頭の良さを知っていたので、そんなことを言ってきたのである。

 当初理子は渋った。一応、経理や財務についての勉強もしていたし、業務自体はこなせる自信はあったものの、玩具メーカーなんてさほど興味関心を持ったことはなかったのだ。

 だが、両親は親戚のコネでスムーズに就職できることをとても喜んだ。

 当時、まだまだ世間は就職氷河期と言えるほどに悲惨な就職率だった。親の世代では考えられないほど何度も面接をしなければならない現実に、理子も正直辟易はしていた。

 そんな状況にあったこともあって、正社員としてすぐに雇ってもらえるというのはとても気楽で魅力的に映った。

 結局、叔父の口車と両親の説得に流される形で、理子はこのトイックスに入った次第。

 仕事は、大変でもなければ楽しくもつらくもない。

 数字を扱うのは比較的得意だし、理子からすれば大学の試験の方が難しかったくらいに思える。ただ淡々と仕事をこないしているだけで金を貰えるし、堅実な仕事ぶりと下久からの引き立てもあって上の人間からもそこそこ可愛がられている自負があった。

 そうなると同期たちからはやっかまれそうなものだが、理子は人付き合いも得意な方なので、やっかまれるどころかむしろ誰からも好意を持たれていた。我ながらあっぱれな八方美人ぶりである。

(この会社が倒産したり、部長が何かヤバイことでもしない限り、私の人生は安泰だな……)

 安心感はある一方、ひどく退屈な人生だなと思える。

 実のところ理子は、こんなぬるま湯のような状況に、少々飽きを覚えつつあった。

 こんなことをするために、学生時代に恋人も作らず、わき目も降らずに猛勉強していたのか?

 そうじゃなかったはずだ。もっと自分にしかできないような事がしたい。大学時代はそんな風に考えていたはずだ。

 だが、この会社に入り、飼い殺しにされる日々を送り続けていたためか、理子はいつしかやる気や熱意というものを失いつつあった。

 こんな不完全燃焼で、本当に良いのだろうか?

(いや、今はとりあえ目の前の仕事を片付けないと。考えるのはまた明日にしよう)

 と、提出された経費の書類を見てて気づく。営業部員でまだ清算書を未提出の人間がいることに気づいた。

(またあの子か……)

 スッと立ち上がって、事務所を見渡す。

 事務所にはパーティションなどもないので、オフィス全体が一望できた。

 だがアイツの姿は見えない。理子は営業部員が固まっているスペースに足を運んだ。

 雑談をしている同僚に声をかける。

「しぃちゃん、ちょっといいかな?」

「ああ、守谷さん、どうしたんです?」

 同期の早沢詩織(はやさわしおり)だ。

「ねぇ、あの子だけまだ経費清算書出てないんだけど、彼女、今どこ?」

「……ああ、あの子ねぇー。……今どこだっけ?」

 詩織がほかの社員に尋ねるが、尋ねられた方も首をかしげていた。

「さぁ? 今朝見たっきりだけど、外回りじゃない?」

 彼女のことはみんな「あの子」と呼んでいる。

「あの子」も理子と同期なのだが、自分たちよりも年齢が低く、さらに言うと煙たがられている存在だったからだ。

 と、オフィスのドアがガチャリと開く。例の「あの子」が顔を見せた。理子は早速話しかける。

「あ、お疲れ様、外回りだった?」

「……えーと、守谷さん?」

 明坂希はしどろもどろに理子の名前を口にした。

(コイツ、私の事よく覚えてないな)

 理子はやや呆れた。明坂は首をかしげる。

「何か?」

「えーとね、明坂さん、経費清算書出し忘れてるよ。アレ、今日までなんだけど」

「ああ、ゴメンなさい。ああいうの書くの苦手で……」

 明坂は毎度毎度、そう言っては経費清算書の提出を指摘されるまで忘れているのだ。

「じゃあ私が一緒に手伝ってあげようか?」

「いや、いいです。今日中に提出すればいいんですよね? 後で持っていきます」

「そう? まぁ別にいいけど」

「……ごめん、ちょっとお手洗い行きたいんで……」

 そう言って話を打ち切り、明坂はさっさとその場を後にした。

「なによあの態度……」

 詩織の声だ。聞こえないふりをして、理子は自分の席へとさっさと戻っていた。

 その後しばらくして明坂希は経費の整理をし始めた。

 遠目からではあまりはっきりとは分からないが、苦手と言っていた割には整理にそこまで苦戦している様子は見受けられない。

 なのに毎度毎度出し忘れるのは、多分、精算自体に無頓着なだけなのだろう。

(明坂希ちゃんか……)

 理子は書類整理をしつつ、横目で彼女の様子をずっと眺めていた。

 彼女と理子は同期であるため、入社したときから彼女のことは知っていた。

 あまり彼女の事は良く知らないのだが、専門学校出身らしく、年齢は理子の2つ下だ。正社員の中では一番の若手である。

 営業の仕事のためいつも典型的なOLの格好をしているが、ぶっちゃけスーツ姿はあまり似合ってないと思う。

 一番若いのに愛想が無く、人付き合いも悪いため周囲からの評判は良くなかった。どちらかというと煙たがられる存在である。よくあんなんで営業の仕事ができるなと思えるほど人当たりが悪く、実際、営業の成績は可もなく不可もなくという感じらしい。

 親戚のコネで入った自分に他人の事をどうこう言う資格はないものの、はたして彼女は何がしたくてこの会社に入ったのだろう。そんな風にいつも疑問に思っていた。

 だが理子は、密かに彼女に一目を置いていていた。

 彼女の顔が可愛かったからだ。

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