episode5-6:夢と現実が起こす奇跡―竹原ひとみとカネと信用

 竹原ひとみが栃木を離れるのは、じつは生まれて初めてである。

 進路も宇都宮の大学を選んだし、就職も栃木の中で済ませるつもりだった。いや、花園が許してくれるなら、できればずっとさくらの園で暮らしたい。そんな風に思っていた。

 だが花園は、すくなくても一度はよその会社で仕事をして、世間を見てこいと言った。

 それでいつもするのは、花園の父親の話。

 花園の父がさくらの園を立ち上げるまでの歴史を話しては、色々な経験を積むことの大切さを説くのであった。

 今回、埼玉県の越谷に来たのは、アニマ合同会社の人たちにあらためてお礼を言うためである。もっともこの遠出もひとみが自分から言い出したことではなく、花園が「ここまでやってくれてるんだから、それくらいするのが礼儀だ」と言ったためだ。

 言われてみればその通りだ。

 先方は本来、ひとみのお願いなんか無視していい立場である。

 ひとみの話に耳を傾ける義理なんかないのに、私たちと真剣に向き合ってくれた。

 クリスマス会を最高の思い出にしたいと申し出た自分が、ただぼんやりしているだけなんておかしな話だ。せめてお礼くらいしなければならない。

 出かける前に、花園にも言われた。

『アニマの皆さんはあなたと真剣に向き合っている。だからあなたも、アニマの皆さんに何をすべきか、真剣に向き合ってきなさい』

 それにしても――

「やっぱり都会は違うなぁ……」

 埼玉の片田舎であるはずの越谷は、しかし、いろいろなお店でにぎわっている。越谷駅のそばにはタワーマンションまで建っているではないか。

 宇都宮ならいざ知らず、さくら市は田園ばかりが広がる殺風景な土地で、同じ地方の田舎のはずなのに、随分と違う景色だった。

 あらかじめ説明された順路をプリントした地図で追う。さくらの園にパソコンはあるもののスマホは大人しか持つことを許されていない。あらかじめ道順を調べてここまでやってきたのだ。

 やがてアニマ合同会社の事務所にたどり着く。

 ひとみはアイファンシーが社名だと思っていたが、それは通販サイトの名前で、アニマ合同会社というのが正しい社名らしい。

 トントンとノックをすると、理子がドアを開けた。

「あ、いらっしゃい。元気してた」

「お久しぶりです。元気です」

 事務所の応接スペースに案内されると、優奈がこちらに気づいて会釈をした。もう一人、年配の女性が働いていて、人の良そうな笑みをこちらに向けた。

「越谷は初めて?」

「あ、はい。越谷ってすごい都会なんですね。びっくりしました」

「でしょ。実は隣駅まで行くと、国内最大級のショッピングモールがあるのよ」

「そ、そうなんですか……」

 しばらく世間話をして、はっとする。

「あ、すみません。今日はお礼を言いに来たのに……。あの、今回は本当にありがとうございました!」

 そういってひとみは頭を下げた。

「あの、ところで今日、希さんは?」

「今日は出てるの。本当は同席させたかったんだけど、例の件、急ピッチで進めているから」

 今回のクリスマス会のためのアニメの事だろう。

「本当にすみません。いろいろ私のたちのために……」

「まあまあ、今回はお互いにとって良いかたちでまとまったんだし、結果オーライってことで」

 そう言ってお茶をすする。今度は理子から話を切り出した。

「でね、ひとみちゃん、今回の件でひとつ、あなたに大切なお願いがある」

「お願いですか?」

「うん」

 すでに花園からの了承も得ている。理子は一枚の書面を取り出した。

「何かわかる?」

「えーと、けん、つも、しょ」

「見積書(みつもりしょ)って読むの。見方は分かるかな?」

「……すみません、ちょっと」

 何が何だかさっぱり分からず、ひとみは面食らってしまう。

「要するに、これは今回のイベントを行うにあたって、お客に払ってほしいおカネの金額を細かく記載したものよ。ここに書いてあるこの金額……」

 指で指示された金額を見る。社会人なら大きい額ではないが、少なくても子供のお小遣いで賄えるほど安いものでもなかった。

「あなたにはこのおカネを払ってほしい」

「え!?」

 ひとみは驚いたが、理子は動じない。

 ――結局、ひとみが用意できる予算で今回のイベントを賄うのは無理だった。

 ある程度予想はしていたものの、人形一つ、満足に買えないような金額で、主催できるスケールで行うことは不可能だった。

 なにより特に理子にとって痛手だったのは、予想以上に希の時間がこの企画で奪われたことだった。

 はじめ映像の件は必要な造形を除いて、すべて千咲に丸投げするくらいの気持ちだったが、企画者でありメインのクリエイターである希が立ち会わないわけにはいかなかった。

 毎日とはいかないまでも、週に何度も都内の大学に出向くと、その分、他の仕事の作業時間が圧迫され、さすがの希も作業に遅延が出始めていた。

 さらに言えば、協力者である千咲にも同じことがいえる。さすがに現金を渡すかたちではないが、完全に無償で協力させるわけにもいかない。彼女に対しても何かしらのお礼をしなければならないのだ。

 それを言えば、協力してくれている学生たちにも、何かしらのお礼をしてしかるべきだった。

 そんな風に、有形無形の負担がアニマや他の人たちにのしかかることを考えると、この金額も相当に安いと言える。

 だが、負担の大きさは、この際問題ではない。

「ひとみちゃん。今回ね、ひとみちゃんのお願いのために、たくさんの人たちが動いてくれてるわ。全てはさくらの園、ひいては、竹原ひとみのためにみんなが力を貸してくれている。みんなの力でできているということを、ひとみちゃんに理解してもらうために、払ってほしいおカネなの」

「で、でも、私の持っているおカネじゃとてもこんなには……」

「今すぐじゃなくていいの。大学に入ってからバイトでもして、返してくれればそれでいい」

 それでもひとみは返答に窮してしまう。理子が続ける。

「言っておくけど、別に意地悪とか、お金が欲しいから言ってるわけじゃないの。なにも映像の代金そのもののカネを寄こせなんて言わない。もし今回の映像を買うことになったら、正直、こんな金額じゃすまないの。あくまで、いま協力してくれているみんなへのお礼としてこのおカネを負担して欲しい。今回のイベントには、これだけの値打ちがあるんだってことを、あなたに理解してほしくて言ってるの。子供たちへの精一杯の企画に、たったこれだけの値打ちすら認められないなんて、思ってほしくない」

 とはいうものの、実は最初、理子は悩んだ。

 この考え方は間違っていない。このカネを負担するべきなのは竹原ひとみである。

 だが、この件には一つ問題がある。未成年者にこうした支払いの負担を要求しても、取り消されてしまうことが往々にしてあるのだ。

 予算がオーバーする旨を花園に伝えたところ、花園からしてもここまで動いてくれたのだからと、自分のポケットマネーでの負担を申し出ていた。最初はその話で進めようと思っていた理子だったが、これは果たして花園が負担するべきカネなのかと疑問が湧いたのだ。

 そしてこの考えを希に打ち明けたところ、希はこういった。

『ひとみちゃんに払ってもらいましょう。彼女にカネを請求しないってことは、つまりアタシたちがひとみちゃんを信用できないってことになるでしょ? そんなの間違ってる。私はひとみちゃんを信用したい。だからそのカネ、彼女に払ってもらうわ』

 この意見を花園に伝えると、彼女も「ひとみが良いと言うのであればそうさせてください」と答えた。

 理子はもう一度言った。

「このカネは、この値打ちの分だけ、私たちがひとみちゃんという人間を、一人の人間として信用したことになる。受け止めてくれる?」

「……もし、私が無理って言ったら、クリスマス会、どうなっちゃいますか?」

「悪いんだけど、払うか払わないか。その答えだけが聞きたい。みんな真剣に向き合ってる。だからあなたも、真剣に答えて」

 ひとみも、この目の前のおカネの意味がだんだんと理解できるようになる。

 経済観念とは無縁な生活を送ってきたひとみだったが、それはさくらの園で生きてきたおかげである。

 だが世界はさくらの園だけではない。世間の人たちは、自分たちが何かを得るたびにおカネを払っているが、それは買い手が値打ちを認め、売り手も買い手の事を信用しているからカネをもらう。理子は世間知らずなひとみのために、それを真剣に伝えてくれているのだ。

 もしここで自分がこの費用を拒否すれば、ひとみはこのイベントの価値を認めなかったのも同然なのである。

 そして出かけの際、花園に言われた言葉が脳裏によみがえる。


 ――アニマの皆さんはあなたと真剣に向き合っている。

 ――あなたも、アニマの皆さんに何をすべきか、真剣に向き合ってきなさい。


 その言葉の意味が、ひとみにもようやく理解できた。

「払います」

 そう言って見積書を手に取った。

「時間かかると思いますけど、私、必ず払います。お願いします」

 そう言って頭を下げた。


 その後、理子とひとみは東京の美術大学へと向かう。

 実際の制作現場を見学するためである。

「よーっす。あ、その子がクライアントさんだね! よろしくっす」

 千咲はそう言って二人を歓迎した。

「いまちょっと撮影中なんで、声かけるのはナシでおねがいしまっす」

 撮影スタジオに入る前に、そう念を押される。

 もう秋も半ばだというのに、スタジオ内は異様な熱がこもっている。

 照明や機械の発する熱の所為だが、ひとみにはこの熱はクリエイターたちの熱意から放たれたものだと錯覚した。

 希と、そして生徒たちは、汗だくになりながら一心不乱に撮影に取り組んでいた。

 その顔は鬼気迫るものがあり、話しかけていいよと言われても声をかけるのがためらわれるほどだった。

「もうずっとあの調子ですか?」

 一度スタジオから出て、理子は尋ねる。

「うん。特にのぞみんはトコトンやらないと気が済まないタチじゃないっすか。みんな驚いてるっすよ。ここまでやり抜く人なんか早々、お目にかかれないってね。自分もそこそこ頑張ってる方だと思ってたんですけど、あの熱意には負けるっすよ。よっぽど、子供たちに良いもの届けたいんだなって」

 ひとみは俯いていた。どうしたんだろうと思うと、彼女は肩を上下に動かしていた。嗚咽が漏れている。

「ありがとうございます……」

 小さな声で言う。

「本当に、ありがとう……」

 その瞬間理子は確信する。今年は最高のクリスマスになると。

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