episode4-1:起業とその原点―久しぶりの休暇

 険悪な雰囲気は、出社した瞬間すぐに伝わってきた。

「おはようございます」

「うん」

 理子の声が暗い。どれだけ忙しくても基本的に身だしなみには気を使う彼女が、今日は服装も髪の毛も乱れていた。表情にも生気が宿っていないように見受けられる。

 希はいるだろうか? 下駄箱に靴も見当たらない。工房の扉は閉ざされていて中からも特に作業の音などは聞こえない。

「希ならいないよ。もしかしたらしばらく来ないかも」

「かもって、どういうことですか?」

「それよりあの件なんだけど――」

 優奈の質問を無視して、理子は続ける。

「昨日の話じゃ結論出なくてね、優奈はこの件、忘れてちょうだい。問い合わせの対応は私が引き継ぐから」

 あの後どんな話しになったのかは分からないが、しかし何が起こったのかは察しがつく。

 理子の様子から察するに、恐らく相当ひどいケンカになったのだ。

 もしかしたら気まずくて希は出社できないのかもしれない。

 ――と、事務所の扉が開く。

 貴理子おばさんだろうか?

「あっ、お、おはようございます」

 一瞬戸惑いつつも挨拶する。希だった。

 工房から顔を出すことはあっても、この時間に出社する彼女を見るのは初めてだった。

「ああ」

 優奈のあいさつに短い返事で応じる希。希は理子の方を気にした素振りを見せたが、理子の方は希を見ようともしない。

 希は優奈に向かって告げた。

「新作を検討したいから、家で仕事する。道具だけ持っていくから、何か用事あったらメールで」

「あ、はい。分かりました」

 希は工房から一通りの道具をカバンに入れ、そのまま事務所を後にした。

 その数十分後、貴理子おばさんも出社する。そして雰囲気の変化に敏感に気づく。

「あれ、希ちゃんいないの。珍しいわねぇ」

「あ、はい。なんか新作を家で考えたいからって言って」

「ふぅん。いつもの決まり文句ね」

「え?」

 意味が分からずきょとんとする。

「理子ちゃんと喧嘩するといつもそういう言い訳使うのよ、希は」

「ちょっと、おばさん……」

 それを優奈に言ってほしくなったとばかりに、理子はぼやいた。

 貴理子おばさんは基本的に物事に無頓着で、あまりデリカシーもない。だからズケズケと言ってしまうのだ。

 だがそんな理子の咎めの言葉も相手にせず、貴理子は自分の仕事を始めてしまった。

 その話を聞いてしまうときっと長くなるだろうなと思った優奈は、訊きたい気持ちを抑えて自分の仕事を始めた。

 全員、事務的な会話を除いてなにも話すことなく、終始もくもくと作業に没頭していた。

 日が傾きはじめ、そしてその日の仕事が終わりに近づいてきた。

 貴理子おばさんも自分の今日の仕事が終わると早々に帰ってしまった。

 優奈はうーんと伸びをして、理子の様子をうかがう。彼女の仕事はまだ続きそうだった。

 優奈の視線に気づいて理子は笑みを浮かべる。

「私はまだ残ってる作業あるから残るわ。優奈はもう引き上げていいよ」

「あの、何か手伝うことありませんか?」

「いいわよ別に。優奈は十分頑張ってくれてて、すごく助かってるんだから」

「いえいえまだまだこれからですよ。私、この会社の幹部候補ですから」

 理子は思わず噴き出した。幹部候補なんていう言葉が優奈の口から出てくるとは思わなかったからだ。もちろん優奈も冗談のつもりだった。

「なら、未来の幹部候補サマにも手伝ってもらおうかな」

 冗談めかした言い回しで、理子は契約書類を一式、優奈に手渡してきた。

「まだ草案なんだけど、内容に不備がないかと、ついでに誤植も探しておいてね」

「はい」

 言われた通り、文言や内容、誤植などが無いかチェックしていく。

 赤い蛍光マーカーでチェックながら気づく。理子が作成したものにしては粗い。

 これがそこら辺の素人が用意したものならともかく、誤植もいくつか見られ、契約の内容がところどころちぐはぐで噛み合わない箇所が見受けられた。草案とは言え詰めが甘い。

 ざっと目を通し、優奈の意見を耳にした理子は頭を掻いた。

「やっぱりね、うん、やっぱそうかなって思った」

 理子はため息をつく。

「昨日の夜から書いてたんだけど、なかなか思うようにはかどらなくてね。ただあまり日程を後ろに倒したくないと思ったから頑張ったんだけど、さすがにこれだけ穴があると書き直すしかないかぁ……」

「ここ最近、根を詰めすぎじゃないですか? 考えなきゃいけないことも多いし、こんなんじゃ身体、持ちませんよ」

「分かってるんだけど、なかなか休みを取る気分になれないのよ。いつも頭のどこかで考えちゃってさ……」

 ボールペンでこめかみをトントンと叩く。優奈は思わず苦笑した。

「なんかこうしていると、大学のゼミとか思い出しますね」

「え? そう?」

「論文を書いているときの理子先輩も、確かこんな感じだったなって……」

「そうだっけ? あんまりピンとこないなぁ」

「理子先輩、教授から研究内容のデータをあれこれ指摘されて悩んでたじゃないですか」

「ああ、そういやそうだったわね」

 思い出す。理子は当時、上場企業を対象に、経営陣の混乱が顧客の購買にどう影響するのかを調べていた。自分なりに自信のある研究だったが、教授にコテンパンにされた。

 もし今自分がそのテーマで論文を書けば、あの時とは比較にならない説得力のある研究になっただろう。

 なにせ、今の自分たちこそ、混乱した経営陣に当てはまるからだ。

 だが、今の悩みは大学当時の様に呑気なものではない。あの時はまがいなりにも論文を提出すればいいだけ。とても分かりやすいハードルが設定されている。

 一方今は、仮にハードルを一つクリアしたとしてもまたさらに高いハードルが突き付けられ、休む間もなく飛び越えるを繰り返し続けている。

「先輩、明日遊びに行きませんか?」

「え?」

 突然全然違う話題を振られ、理子は面食らう。

「大学時代を思い出したら、理子先輩と遊びたくなってきました。こっちに来てからてんてこ舞いで、私、レイクタウンとかにも行ったことないですし、三郷の方とかも行ってみたいなって」

 言われてみると確かにそうだ。優奈が入社してからというもの、理子も働きづめで遊びに行くことはあまりなかった。

 いや、それを言えば越谷に事務所を構えてから、そもそも遊びのためだけに出かけるなんてほとんどしなかった。いつも会社のことが頭から離れず、気付けば事務所にいるか家で勉強しているかのどっちかだった。

「そうね、私もそういえばまともにレイクタウンを見たことなかったし……よし、行こっか!」

「はい!」

 優奈はぱっと明るい笑みでそれに応えた。

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