episode2-7:夏の終わりと死にかけのセミ―ハッピーエンドの代償

 事件はその二週間後に起こった。

「ふざけんな!」

 突然工房から希の怒号が聞こえ、優奈は縮こまる。いつも淡々としている貴理子おばさんでさえ、目を見開いて工房の方を見ていた。

 そしてバン! という乱暴な音を立てて扉を開き、希が恐ろしい形相で工房から出てくる。その目線は理子の方を向いていた。

「理子!」

「落ち着きなさい」

 そういう理子の声にも、どことなく凄みがにじんでいる。その声で悟る、理子も怒っていた。

 だが何に怒っているのだろうか? 理子まで怒りに声を震わせるなんてただ事とは思えなかった。

 いったい、何が?

「こいつ誰よ! どこの馬鹿がこんなふざけた真似を!?」

「分からないわ。写真見たけど、この人はやっぱり写ってなかった」

「チッ!」

 希は鋭く舌打ちすると、やや思案したのち電話を手に取った。

「なにするの?」

「千咲に詳しく聞くのよ! 絶対突き止めてやる!」

「やめなさい!」

 希の怒りに負けないくらいの決然とした理子の声が響く。

「なんで!」

「こういうのはノータッチよ」

 希は何かを言おうとした。だがガチガチと歯を鳴らしただけで言葉にならない。

 さほど間を置かずに理子が言う。

「今日は帰っていい。さすがに希も仕事する気になれんでしょ。少し、休もう」

「…………」

 希は顔を隠すように俯き、何も言わずにそのまま出て行った。

 優奈には希の顔がちらりとだけだが見えた。

 怒ってなかった。泣いていたのだ。

 しばらくその場は凍り付いていたが、理子が盛大にため息をついてその氷は砕け散った。

「あ、あのぅ……」

「…………」

 理子は答えない。まるで頭痛でも我慢するように、こめかみのあたりを指で押さえていた。

 やがてさめ切ったコーヒーを口に含むと、ようやく話し始めた。

「ごめんなさい、びっくりさせたわね」

「どうしたんですか? 先輩までそんな風になるなんて……」

 希が直情的でキレやすい性格なのは知っている。何が起きたかはわからないが、理子まで一緒に怒るなんてただ事ではない。そして希は怒っていたのではない、なにかとても悲しいことがあったかのように、泣いていたのだ。

「これよ」

 理子が手招きし、タブレットをこちらに見せる。

 優奈は未参加だったのだが、それはこの前のドールの展示会で開いたという、希のワークショップの模様だった。

 それは、出来上がった人形と楽しそうに遊び、笑顔を振りまく子供たちの様子だった。

 そして一緒に移っている希も、見たこともないほど楽しそうな笑みを浮かべている。

「これがどうしたんですか?」

「この人形、どっかの誰かがオークションにかけたのよ」

「え!?」

「今朝方、メールが届いてね」

 メールは千咲が送ってきたものだった。

『これってあのワークショップのヤツじゃないっすか?』

 一緒に添付されていたURLを開くと、そこには見覚えのある人形の写真が掲載されていたのだった。

 あのワークショップで作った人形が、ネットオークションに出品されていたのだ。

『新進気鋭の人形師・明坂希が手掛けたオリジナル球体関節人形です! 普通に買えば10万円以上する品!』

 そんな文言まで一緒に乗せられている。

「私も考えが甘かった。まさか5000円のワークショップで作った人形をオークションにかけようなんて考えるなんて……」

「あの、こういうのって訴えられないんですか?」

 優奈の心の中にも、ふつふつと怒りがこみあげてきていた。

 希の人形に対する情熱は涙ぐましいものだ。

 まだ一緒に仕事をしてから三か月も経っていないが、彼女の信念は本物であり、尊敬に値するものだ。

 その熱意の生き写しともいえる人形を、こんな形で売ってしまうとは。

 子供たちの笑顔のために人形を作る。

 そんな想いを、あろうことか子供を育てる立場の親によって穢された。

 いや、そもそもこのワークショップのコンセプトは「人形に子供たちの魂を宿す」というものである。

 そんな希にしてみれば、この行為は、親が子供の魂をオークションにかけたのも同然に思えたに違いない。

 そう感じた希のショックは計り知れないだろう。

 そんな怒りが、いままさに優奈の中で渦を巻き、口からこぼれつつあった。

 しかし理子はかぶりを振る。

「これがなんの罪に当たるっていうのよ?」

「それは……」

 優奈は言いよどむ。理子は畳みかけるように言った。

「オークションにかけちゃいけませんなんて契約でもしてるならともかく、客が買ったものを客がどう扱うかは客の自由よ。粗末にしようが捨てようが売ろうが、それをどうこう言う立場にないのよ、私たちは」

 それはそうだ。理子のいうことはごく当たり前の話であり、反論の余地などない。

 だが、希のあの形容のしがたい悲しい顔を見ても、そんなことが言えるのか?

「……こんなの客じゃありませんよ。こんな……」

 それは反論ではなく、独り言だった。文字通り希の生霊が自分に乗り移ったかのような、そんな錯覚を覚える。

 その様子をしばらく見つめて、理子にしては珍しく生気の抜けた顔を向けて言ってきた。

「優奈、頼むから、あまりアイツに感化され過ぎないでね。希だけじゃなくてアンタにまで食って掛かられたら、さすがの私も死にたくなる」

 はっとする。そして理子の顔を再度見つめる。

 本当は理子だってつらいのだ。日常業務ですらそうとうなプレッシャーなのに、こんな風に人形が扱われたことを知り、その所為で最大のパートナーが逆上し、挙句の果てに部下で後輩の優奈まで取り乱したとなれば、理子の抱えるストレスは許容量を超えるに違いない。

 理子は希の様に感情を素直に出そうとしない。最近よく感じるのだが、代表の肩書きを持っているためか、思いのほか理子も意地や見栄を張っているように見受けられる。

 いわゆる体裁、もしくは面目というやつなのかもしれない。

「すみません、気を付けます。先輩もつらいのに……」

 しゅんとした優奈の肩を、理子はポンと叩いた。

「気持ち切り替えていこう。希も明日にはなんとか元に戻るでしょ」


 しかし、理子の予想に反して、その週、希が会社に来ることはなかった。

 理子が一応は電話やラインで様子をうかがっているようなので、どこかに消えたりとかはしていないようだ。

 結局あの人形は取引が成立し、14万円の値段がついて落札されたようだ。参加費5000円を元手と考えると、理子の掲げる利益率90%をはるかにしのぐ価格で買われたことになる。

 この話には後日談もある。

 皮肉なことだが、オークションで高値で取引されたことで、明坂希という人形師の事や、アイファンシーの存在の知り、興味を持ったユーザーも少なからずいた。

 オークション終了後、アイファンシーの認知度が上がり、8月のポラリスメイデンの注文は、いつもの月の二倍に増えた。

 注文の殺到ぶりに慌てた理子は、すぐに希を呼び戻した。何日経過しても自宅に引きこもっていた希を、無理やり引っ張り出したかたちだ。

 希の姿は痛々しいほど変わり果てていた。優奈からすれば見るのもつらい。

(でも、これが世間で、その世間を相手にするビジネスというものなんだ)

 優奈はあくまで従業員という立場だが、もう三か月近く理子や希の側で働き、駆け出しのベンチャー企業の経営がいかに苦しいものなのか、それを理解しつつあった。

 ビジネスである以上、希がどれだけクリエイターとしてのプライドを曲げたくないと思っていても、それを曲げなければならない時はやってくる。それが今だ。そう優奈には思えた。


 一通りの事務作業を終えた優奈は工房で作業に打ち込む希に対し、聞こえるか聞こえないかくらいの声であいさつの言葉をかけ、事務所を後にした。

 優奈は閑静な住宅街を歩いていた。

 そろそろ8月が終わる。埼玉の夜はまだまだ暑かったが、7月からずっとやかましかったセミたちの合唱が少しずつ小さくなり、秋の涼しさが押し迫ってきているのを感じていた。

 と、足元に、ひっくり返って足をばたつかせているセミを見つけた。

 車や人に踏みつぶされて死ぬのはかわいそうだと思い、優奈はそのセミを公園の茂みに返してやる。

 夏の間、力強く生きていたはずのセミは、もう飛ぶ力すらなく、枝葉にすがりつくようにしがみついていた。

 ふと、なぜかこの死にかけのセミが、工房の中で人形を作る希の姿と重なる。

 優奈は再び岐路に戻った。

 暑い夏だった。いろいろな意味で。

 夏らしいことなどなにもできないほど多忙だったが、優奈がこれまで過ごしてきた夏の中で最も暑く、嵐のような毎日だった。

 夏が終わる。死にかけのセミがそれを教えてくれた。

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