episode2-3:夏の終わりと死にかけのセミ―希の美学とカネの問題
事務所にはなんとも居心地の悪い空気が立ち込めていた。
貴理子おばさんは我関せずで淡々と自分の作業をしていて、優奈も手元の作業に没頭するフリをしていたが、内心かなりハラハラしていた。
対面に座る理子の様子を恐る恐る伺った。理子は、何かを真剣に考えるかのように腕を組んでひたすら外を眺めつづけていた。
そして希といえば、ポラリスメイデンの製造のため工房に引きこもり続けている。なんでも七月の終わりに都内でドールのイベントがあるらしく、そのイベントにて展示するためのポラリスメイデンの新作を作っているとのことだった。
あの歓迎会からもう三週間ほどが経過し、七月も下旬に入ろうとしている。
蒸し暑さは六月の比ではなく、さっそく熱中症で倒れる人たちが続出しているという。
だが、空調の利いた社内を満たす息苦しさは、この夏の暑さのせいなどではなかった。
理子と希の仲違いの所為である。
ビジネスがうまくいっていないわけではなかった。むしろ創業から三期目を迎えた今、過去にないほど順調に伸びていると理子も言っている。事実、優奈が見る限りアイファンシーでの売り上げはかなり堅調なもので、この規模の会社の通販サイトとしては成功の部類に入ることは間違いなかった。
社内のムードを悪くしたきっかけは、六月に作っていた3体のポラリスメイデンの件であった。
「あのさ、希、ちょっと話あるんだけど」
優奈から最近上がってきた六月の製造費――主にポラリスメイデンの材料費にあたる数字を見て、理子はしばらく考え込んだ後に工房に入っていった。
やりとりの詳細は分からない。しかしかなり厳しいやりとりになったことは前後の文脈から分かってた。事務所と工房は隣り合っている部屋なので、たまに強い言葉で言い合う声も漏れ聞こえてきた。
二人の工房での話し合いは3時間にも及んだ。それでもまだまだ話し合いが終わる様子はなく、たまたま理子宛ての電話が来てその取り次ぎをし、工房の扉をノックして理子を呼んで一回話を打ち切らせた。
その時の理子の顔は、優奈が見たことがないほど疲れ切ったものだった。そして一瞬だけドアの隙間から見えた希の顔は――本当に女性に使う表現ではないが――まるで痩せさらばえたオオカミを連想させる、なんともおっかないものであった。
詳しいことは分からないが、大体の輪郭だけなら優奈にも分かる。
おそらく大枠はこうだ。ポラリスメイデンの製造において、本来必要がないほどのクオリティを希が追求しようとしている。その過程で、本来ならかけるべきではない余計な製造コストがかかってしまった。「オーダーメイド製品の利益率は90%」を基準に掲げる理子としては、さすがに行き過ぎた製造コストを認めるわけにはいかず、希のこだわりと理子の意見が衝突した。
事実、優奈が調べた限り、今回の3体のポラリスメイデンの製造にはそれまでとは比較にならないほどの材料費がかかっていた。既に原型が完成しているはずの複製品であるにもかかわらずだ。
もちろん複製品と言っても手間暇がかかるオーダーメイド製品であることには変わらない。過去にも造形に失敗して作り直すなんてことはザラで、その点も踏まえて今の価格帯と利益率が設けられているらしい。やむを得ない理由であれば、材料費が多少かかったとしても大目に見ていた。
だが希は何を思ったのか、今回の製造では、ちょっとでもボディの造形に気にくわないところがあれば、何度となく作り直しを繰り返していたらしく、そのせいでコストが跳ねあがったのだ。
「不良品」と書かれた段ボールの中に積載されたパーツの山を優奈も見たことがある。その不良品のパーツと完成品をどれだけ見比べても、全てそれに勝るとも劣らないクオリティであり、なにがどうダメなのか、優奈には全く分からなかった。
結局、希は納期はきっちり守ったし、実際にはまだペイできる範囲のコストであった。
しかしこのまま彼女のやり方を容認してしまえば、必ず採算を度外視しした製造に傾くのは目に見えていた。理子もその辺が分かったから、あえて今この場で釘を刺したのである。
その結果、二人の意見は真っ向から対立し、話は平行線をたどることになる。
おかげでこの一週間ほどの間、二人はロクに口も利かず、そもそも顔を合わせようともしなかった。
試しに貴理子おばさんにどうすればよいか相談をしてみたところ「いつものことよ。ほっときゃそのうち仲直りするって」と、カラカラと笑い飛ばしていた。事実、彼女はその件には全くと言っていいほどノータッチで、理子とも希とも普通に話している。
だがこの中年のおばさんほどの度胸と達観を備えるほど、優奈の心は強くない。ピリピリとした空気を発する二人にどうしても委縮してしまう。
それにしても……。
(あんなに辛そうな先輩、初めてだなぁ)
上下関係の希薄なアットホームな会社とはいえ、仮にも会社の代表である理子からすれば、他の誰かにこの件を相談するのもためらっているに違いない。自分から進んで聞こうとも思ったのだが、こちらからそんなことを訪ねてはかえって迷惑じゃないか、とも考えてしまう。
そんな風に考えていると、優奈の視線に理子は気づいたらしかった。理子がこちらを見て疲れた笑みを浮かべて見せた。
「ごめん、心配させちゃって」
「いえ、私の事は気にしないでください」
そう言って見せるが、やはり不安はある。
このまま会社が空中分解してしまわないか、心配でないと言えば嘘になる。
「まぁアレよ。優奈だから言える話しだけど、起業したての頃から希と喧嘩なんかしょっちゅうしてたわ。中にはつかみ合いの喧嘩だってしたこともある。でも、それでもお互いに忍耐強くやってきて、それで今があるの。このくらいの仲違いなんて大した問題じゃないから」
とはいえ、全幅の信頼を寄せているはずの仲間との喧嘩だ。精神的に苦しくないはずがない。
「でもまぁ、今回は理子先輩の方が絶対正しいと思いますよ」
フォローする意味合いも込めて、優奈は言う。
「こんなにお金かける必要なかったはずですもん。希さんの作る人形は確かにすごいし、妥協したくない気持ちも分かります。でも、だとしてもちょっと行き過ぎというか、あれじゃあ周りの見えてない子供の駄々っ子と同じかなと」
「これが本当に子供の駄々っ子なら、たしなめたり丸め込んだりできるんだけどさ」
いよいよ理子は自分の苦しい胸の内を吐き出した。
「アイツは仕事は最後まで責任持ってるし、何より自分の信念で突き進んでる。その情熱があったからポラリスメイデンは売れている。だからこそ彼女の信念を変えるのはとても難しいのよ。それに信念を変えさせて良いことがあるのかっていうのも、正直悩ましいわね。その信念が失われれば、売れなくなる可能性も確かにあるから」
ある種のジレンマだ。理想と現実、相反する課題をどうやって融合させるか、それこそがビジネスの一番の難問なのだ。
なまじ扱う品がマイナー分野なだけに厳しい戦いである。玩具全般を扱っているなら様々な方法がとれるが、アニマのビジネスは基本的に「ドール」が主軸だ。かといってビジネスを多角化できるほどのノウハウや原資は、まだない。
「希にはね、もう少し我慢してくれって言ったのよ。あなたの人形は十分に素晴らしいし、理想を追い求めたい気持ちは分かる。でもその気持ちをもう少しだけ抑えて、我慢してほしいって」
「そしたらなんて?」
「黙り込んじゃった。でも目は完全に怒ってたわね。それで『もういい、出てって』って言われちゃって、私もそれでムキになっちゃった。それこそ子供の喧嘩よ。あれは我ながら完全に失敗だったわ……」
なるほど、確かにムキになるというのは理子らしくない。意気消沈していたのは、自己嫌悪もあったというわけだ。
「今度はドールの展示会もあるっていうのに、どうしよう。こればっかりは私と希の二人で行かないといけないからなぁ」
展示会は、即売会も兼ねているイベントである。日本全国のハンドメイド職人やドールのクリエイターたちが集まるイベントなので、ポラリスメイデンのお披露目の他、理子の営業の現場にもなっている。
しばらく黙り込んだ後、優奈は改めて口を開いた。
「でも、それなら大丈夫じゃないですか?」
「何が?」
大丈夫という言葉の意味が分からなかったらしく、理子は訊き返してくる。
「希さんも子供じゃないってことですよ。信念をもって仕事しているなら、子供みたいに感情まかせで無責任に物事を放り出したりしません。絶対仲直りできます。いいイベントになるはずです。だからきっと大丈夫です」
優奈も優奈なりに、希のことを理解しようと頑張ってきた。たしかに頑固でこうと決めたら曲げない人だが、人の気持ちもわかるし責任感も強い。
なにより、希がプレゼントしてくれたあの人形が証明だ。希は良い人だ。
お互いに悪気があったわけではないのだから、必ず修復できるはずなのだ。
「それもそうね。ありがとう。ちょっと気持ちが楽になったわ」
そう言って、理子はうんと伸びをし、パソコンに向かい始めた。
と、ブーとスマホが鳴動する。理子のスマホだった。
「はい、もしもし。いつもお世話になっております。――はい、え? はい、分かりました。ちょっとクリエイターと相談してみますので、明日の午後までお時間いただけますか。はい、それでは」
電話を切ると、理子は何かを考えるように腕組みし始める。だが口元には少しだけ笑みが浮かんでいた。
「どうかしたんですか?」
「んー。ま、とりあえずさっさとアイツと仲直りする必要はありそうかな」
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