episode1-4:起業と雇用-初日の終わり

 終業時間の10分前、優奈は自分がこなすべき仕事をきっちり終わらせていた。

 優奈は「お疲れ様でした」と愛嬌のある挨拶を残し、そして退社した。

「で、どう? 優奈さん、イケそう?」

 希が理子に尋ねる。

 希は昼下がりくらいに材料を買って戻ってきた。

 一応ポラリスメイデンの製造の目途はついたらしく、彼女にしては殊勝なことに工房の片づけや書類整理、顧客からのメールチェックなど細かい作業を片付けている様だった。

「アンタも一応見てたんじゃないの? あの子の様子」

 工房の片づけをしている間も、希は優奈のことを気にしていたように感じた。

 工房の掃除が済んでからは、希は書類整理などで自分のデスクに座ったまま、優奈の様子をうかがっている様だった。

「ああ、ずいぶん熱心な奴だなぁと、そう思ったよ」

 感心するように希は言う。

「そうでしょ? 大学時代からのお気に入りでね。気の小さいところはあるけど粘り強いし、根性もあるから頑張ってくれると思うわ」

「でも今更だけどさ、このタイミングで本当に雇用なんかしてよかったワケ?」

 希が首をひねって質問してくる。

「もしかして資金繰りの心配?」

 希は首を縦に振る。

「通販で稼いだおカネだって、まだまだウチらの給料と維持費を引いたら雀の涙じゃん」

 プリントアウトしたここ数か月の収支の計算表と、預金残高に目を通しながら希はぼやく。

「今の残高なら、ウチらと貴理子おばさんだけなら一年くらいは食いつないでいけるけど、従業員を雇ったら一気に支出でかくなるじゃん。今期からは消費税も払うし、ホケンリョウだってバカにならないし……」

 社会保険料、つまり健康保険と厚生年金保険のことだ。零細企業にとってこの負担ほど胃にくるものはない。特に希は保険についてまったく無知、というより無関心だった。後先考えるタイプではないので、なんでそんな形のないものにカネを払わなければならないのか全く納得できていなかった。経営者としては問題のある認識だが、保険料で毎月会社から出て行く金額を知っている希は、たまに病院に行くたびに「月々払うくらいなら全額負担の方が安いじゃん」と思っていた。

「融資だって受けないんでしょ? けっこう厳しい気がするんだけど? 資金ショートとかしない?」

「まぁ多少は心配しているわよ。でもウチってPB製品以外在庫を持ってないし、それに先月以来ウチを利用するクリエイターもユーザーも結構伸びてるわ。管理画面見てみなよ」

 言われてサイトの管理画面を開く。月次の登録者数を見ると、確かに先月から今月にかけて、登録者数の伸び率が上がっており、それに比例して売り上げも増加傾向にあるようだった。

「そして希大先生が手掛けるポラリスメイデンの定期的な受注は、利益をかなり底上げしているわ」

 オーダーメイド製品の利益率は90%。それがポラリスメイデン販売の際の理子の方針だった。これが月に5~6個くらい売れるだけで、少なくても役員二人と貴理子おばさんの食い扶持は賄えてる。

 理子は、もろもろの細かい数字や今後の見通しなどを詳細に検討したうえで、西川優奈を雇用することを決めたのだ。

「それにね、当面は優奈にはサイトの運営を任せるつもりだけど、彼女にはゆくゆく経理を担当してもらおうと思ってる。経理を担当する人間をまさか非正規雇用にするわけにもいかないでしょ?」

 理子が優奈を雇った本当の目的はそこにあった。

「なんで経理を任せたい奴にサイトの運営なんかさせるの? そっちは貴理子おばさんだけでも十分回せるじゃん」

「経理は金勘定だけしていればいいわけじゃないでしょ」

 と、理子はぴしゃりといった。

「ウチの会社の顧客像を理解しているかしていなかいでは、カネに対する意識も全然違ってくる。お客を知ることが、使うべきカネと無駄ガネの違いを理解するうえで一番必要な事。その出発点は『お客様に接すること』だと私は思う。じゃないと、いざ経理を任した時、必要なカネだから費やしているのに、そこを削れとかいうトンチンカンなことを言う結果になりかねない」

 そこまで聞いて、苦い思い出が湧き、希がため息を漏らした。

「そういや、税理士の中にまさにそんな奴がいたわよね」

 希と理子は、顧問税理士を探すべく税理士事務所を回っていた時のことを思い出す。

 ひたすら上から目線で、とにかく零細企業は経費を抑えろ、人を雇うならバイトで労働時間がうんぬんと、とにかくその会社の色や将来などおかまいなしのアドバイスを受けたことがある。ビジネスモデルやお客を維持するための投資に全く理解を示そうとしないのだ。挙句の果てに強引に融資の話を持ち掛けてきたりと、面倒くさいことこのうえなかった。

 そう考えれば、理子の言う「顧客像を理解する経理」というのは、財務という高度な世界の蘊奥を突いていると思えた。

「アンタも、もしお客の事を考えない奴に『人形のコストかかりすぎ、もっと安いもの作れ』とか言われたらどうする?」

「殺す」

 表裏のない希のストレートな表現に、理子は苦笑いを浮かべた。

「でしょ。だからこそ必要なのよ。西川優奈みたいに、ひたむきに物事に向き合える人間がね。そんな子に私たちが報いるなら、やっぱり誠意をもって彼女に接しなきゃ」

 人形作りに魂を込めることが希の信念ならば、公明正大と誠実さが理子の美学だ。

 納得し、希は書類をまとめてデスクの引き出しにしまった。

 すると今度は理子が口やかましいことを言い始める。

「そんなことより、アンタもう少し女の子らしい言葉遣いできないの? そのオッサンみたいな口調いい加減なんとかならないわけ? 優奈ちゃんせっかくアンタの人形大好きなのに、つくってる人がそんなんじゃ幻滅よ幻滅!」

「仕方ないじゃん。アタシ、父子家庭でオヤジの話し方もこんなんだったもん」

「あーあ、希ちゃん、OL時代はもっとかわいい女の子だったのになぁ……」

 そういってスマホを見せびらかす。

 そこに写っているのは、お酒を飲んで理子に甘えている希のなんともだらしない姿たった。

「まだそんな写真持ってたわけ? やめてよマジで」

「愛らしい希ちゃんのあられもない姿だもん。あーあ、このときの希ちゃんはどこに行っちゃったんだろう……」

「チッ。――そんなことを言ったら、あんたもとーっても可愛かったわよねぇ」

 ぎくりとして理子は身構える。

「あの時の動画、まだ家のパソコンに入ってるんじゃないかなぁ。アレ、ユーチューブとかに乗っけたらきっと受けるんじゃないかなぁ。優奈ちゃんも泣いて喜ぶよねぇ」

「ちょちょちょちょっと!」

 理子が顔を赤くして慌てふためく様子が面白く、希は更に畳みかけた。

「ユーチューバーアイドル守谷理子の誕生かぁ。アニマ合同会社は人形の小売りからアイドルプロダクションに転身――」

「バカ!」

 顔を真っ赤にした理子に消しゴムを投げつけられる。頭にクリーンヒットし、希はオーバーなポーズをとって痛がって見せた。

 そして二人はカラカラと笑うのだった。

 理子が立ち上がる。

「今日は結構疲れちゃったし、もう仕事はお終い」

「飯行く?」

「カネないっしょ。私の家に来なさいよ。どうせまともな食事してないでしょ?」

 二人は事務所の戸締りをして、越谷の明るい街の中を歩いて行った。

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