episode1-3:起業と雇用-ポラリスメイデンとオオカミの憂鬱

 明坂希は一度自宅に戻っていた。汗と粘度で汚れた服を洗濯籠へ無造作に放り込む。

 希の自宅は家賃5万円で借りているマンションである。八畳くらいはある1Kの部屋で、賃料の割に広々としている。安いのはユニットバスのため敬遠されがちだからなのだろうが、希は結構気に入っている物件だ。

 シャワーを浴びても疲労はなかなか取れなかった。ここ数日、根を詰めすぎたかもしれない。くたびれた自分の顔を鏡で見て、つい笑ってしまう。

「なんだこの顔、アタシなの?」

 リビングに入る。最近片づけを怠っていたせいで、床には人形や衣装のための材料があちこちに散乱していた。設計用にと思って最近購入した3Dプリンタは、しばらく使われることなくうっすら埃が積もっている。

 部屋の一角に設けた人形用のスペースに目を向ける。

 すべてポラリスメイデンの初期モデルである。事務所の工房ではなく自宅で試作したもので、今販売しているものに至る完成版までに試行錯誤して造り出した、いわば「失敗作」である。

 だが希にとって、完成度は関係ない。魂のこもった人形は、すべて自分の愛すべき家族である。

 そしてその中に、一つだけ古ぼけた人形が置いてあった。

 自分が子供の頃、クリスマスプレゼントでもらった球体関節人形「カナエ」である。

「カナエ、あんたはいつまでも可愛いまんまだな。アタシ、いつの間にかもうオトナになっちゃったよ」

 カナエの頭に触れ、話しかける。

「カナエ、アタシ、昔よりはマシになれたかな?」

 カナエに話しかけながら、会社を創業してからの過去を振り返る。


 専門学校を卒業して入社したのは、中堅どころの玩具メーカーだった。その会社がいつも気にしていることは、良い製品を作ることではなく、売り上げの事ばかりであった。

 部長は、いつも流行に乗った模造品ばかり企画し、製品のコストも可能な限り削っていた。子供が遊んで三か月も持たないような粗悪な品ばかり。「玩具なんかとにかく売れればそれでいいんだ」という部長に対し、ある企画会議の折、本気で激怒してしまった。

「なんでこんなニセモノばかり作らなきゃいけないんですか!!」

 そう啖呵を切り、結局半ば追い出されるような形で、希は勤めていたその会社を辞めることになる。

 退職がおおむね決まった折、同じ会社に勤めていた理子といろいろ語り合って、それでドール専門の会社を二人で作ろうという話になったのである。

 アニマという社名は希が考えたものだ。アニマとは魂という意味だが、魂の宿った人形を作りたいという想いを込めてこの社名にした。

 だがアニマ合同会社を理子と一緒に創業してからというもの、慣れないことや新しい仕事の連続だった。嵐のような日々と言ってよかった。

 収入源となるモール型ECサイト「アイファンシー」が軌道に乗るまで、理子も自分もお互いの実家で生活をしながら各々の仕事をこなしていた。一応分類すればアニマはメーカーに入るのに、ファブレスでやっているのはこれが理由と言って良い。

 最初の1年間はほとんど鳴かず飛ばず。というかどんな仕事を手掛けてよいのか、まったく見当がつかなかった。

 創業当時の希は典型的な職人気質であり、「良い製品さえ作れば買ってもらえる」と思っていた。

 しかし現実はそんなに甘くはない。どれだけ良い人形を作ったとしても、ちゃんとした売り方をしなければ売れることなどないのだ。

 考えてみれば当たり前の話だが、しかし希には「売る」という発想が乏しかった。ビジネスのノウもなければハウもない。そんな状況が会社の第一期だった。

 結局最初の一年で売れた人形は、展示会への出展のため作った一体だけ。「カナエ」のデザインを元に試作した、ポラリスメイデンの原点となる人形「ミコト」であった。

 希にとっては双子人形ともいえるミコトを、誰かに売るつもりで作ったわけではなかった。

 お金もなく、ギリギリの生活をしていた彼女は、またいつ新しい人形を作れるか分からないので、今のうちに自分の技術とクリエイターとしての魂を宿した人形を残しておきたいという気持ちで作ったものだった。しかし展示会でそこそこ注目された事もあり、理子が「どうせだから売ってみようよ」といって、ネットオークションに出品したのである。

 人形としてはそこそこの価格で売却に成功した。

 この展示会への参加と、ネットオークションでの販売という出来事が、アニマ合同会社の大きな転機になった。

 理子が同人クリエイター向けのモール型ECドールサイトをやろうと提案したのだ。

 このECサイト「アイファンシー」の立ち上げをきっかけに、アニマ合同会社はドールの関連製品の小売事業を手掛けることで、やっと鳴かず飛ばずの苦境から抜け出せた。さらに試行錯誤して造り出した希オリジナルの球体関節人形を「ポラリスメイデン」と名付け、受注を開始。これにより収益性が大幅に向上したのである。

 だが、自分がやりたかったのは、販路拡大や小売りの商売なんかではない。売り上げばかりを気にするのなら、結局、前の職場でやっていることと何も変わらないはずだ。

 ――玩具は子供を笑顔にするために存在するのだ。

 中でも球体関節人形は、作り手の魂が宿り、手に取る子供たちに幸せを与えられる特別な創造物であると希は信じている。

 自分がそれで救われたのだから間違いないのだ。

 母親を亡くして父子家庭となり、家族が欲しくて寂しがっていた希のため、父親はこの「カナエ」をプレゼントしてくれたのだ。

 そんな思いの表現として、アニマという名前の会社を立ち上げた。はずだった……。

「でも、今の人形に私のアニマは宿っているか?」

 そんな風に思う自分がここにいる。

 アイファンシーが軌道に乗り、ポラリスメイデンシリーズの依頼が来るようになって以来、希の忙しさに拍車がかかった。創業から一年以上が経っていよいよ自分のドールが売れるようになり、希も熱に浮かされたように高揚し、夢中になってドールの製作に打ち込んだのだ。

 だが駆け抜けるような日々が続いたある時、ふとお客の感想が知りたくなった。

 そしてお客の実態を知り、希の中に違和感が芽生えた。

 そのほとんどが男性で独身。理子が言うところのオタク層と呼ばれる人たちが、明坂希の作る人形を買っていたのである。

 別に誰がどのように人形を愛でるか、そんなことは本人の自由だと思う。

 だから「今、誰が買っているのか」ということは、希は気にするつもりはなかった。

 希が疑問に抱いたのはそんなことではない。

 疑問の源泉は、子供たちのために作っているはずの人形が、なぜ、肝心の子供たちに届けることができていないのか? ということだった。

 考えてみれば当然のことだが、球体関節人形はおしなべて高額で、ポラリスメイデンはサイズにもよるが、高ければ20万円前後もする高級品である。

 考えれば確かに子供やその親が買うには高価な品だ。お年玉を貯めたってそうそう買えるものではない。金払いの良いオタク層がメインになるのも当たり前かもしれない。

 だが、自分が「カナエ」で体験したように、ひとたび手にすれば必ず子供たちの心に私の魂は届くはずなんだと、希はそう思っていた。

 現に、一番最初のポラリスメイデン「ミコト」には、確かに希の魂が宿っていた。展示会では子供たちも「ミコト」に関心を寄せていたのだ。だからポラリスメイデンのコンセプトが子供たちにも受け入れられるものであるという自信があった。

 だが、アイファンシー運営後に作った人形に、果たして自分の魂が宿っているのかと考えると、どうにも自信が持てなかった。

 何が足りない? 何が足りなくて、子供たちに私の魂が届かないのだろうか?

 いきついた希の結論はこうだ。

 もしかして自分自身、いつの間にか売り上げを優先してしまい、子供たちへ届ける情熱を失ってしまったのではないだろうか?

 知らず知らずのうちに「売れる人形」を作ることに気持ちが向いてしまっていた可能性は否めない。希も、カネが欲しくて、金払いの良さそうな人たちに「ウケる」製品として、人形を利用してしまったのではないだろうか?

 事実、売り上げの立たない日々に疲れ果てた時期が希にもあった。カネになるなら何でもしようという時期が、希にもあった。

 売り上げは大事だ。カネが無ければ食っていけないし、人形を作るための道具をそろえることもできない。

 なにより、売れるというのは、とても気持ちの良い体験であるということだ。

 オークションで初めて人形が売れた時、希は強い興奮を覚えた。

 売れる、売るという行為に、はっきり「気持ちいい」という感情を覚えたのだ。

 そしていつの間にか、売れる製品を作りたいという気持ちがどんどん大きくなり、その分だけ子供たちを笑顔にしたいという気持ちが衰え、結果として自分の本当の魂が人形にこめられなくなってしまったのではないだろうか?

 少なくても最初に掲げだ魂のこもった理念は、背景に追いやられ、今や売り上げが第一の会社に傾きつつあるのは間違いない。

 そして自分もその一員だ。

 そんな答えに行きついたのが、おそらくいま取り組んでいる人形を作り始めたころだった。

 希は一人、がっくりきてしまった。

 希の心の中から、ポラリスメイデンを手にして喜ぶ子供たちの姿が消え失せてしまったからだ。

 それだけじゃない、今作っているポラリスメイデンに、自分の魂を宿すことができているのか、そんな初歩的な問題にすら、今の希は自信をもって答えることができなくなってしまった。

 売れるために魂を捨てたのなら、それこそあの以前勤めていた玩具メーカーでやってたことと、なにも変わらない。ならいっそ、人形作りなんかやめてしまったほうがマシなんじゃないだろうか?

 そう考えるところまで希は思い詰めていた。

 しかしこんなこと、理子にも誰にも言えない。

 アニマ合同会社はようやく軌道に乗り、新しい社員を雇用するところにまで成長した。

 それは理子の知識と知恵、そして血の滲むような努力の賜物だった。それは傍らで見ていた希が一番知っている。

 会社経営という意味では、希なんかよりもはるかに苦労しているのだ。

 その努力に対して、「こんなこといつまでも続けたくない」なんていうのは、さすがに失礼だし、無責任すぎる。自分だって半分は会社の株主で、役員の立場でもあるのだから。

 クリエイターとしてしか生きられない不器用な自分が立ち上げた会社が、玩具の中でもマイナー分野にあたるドールを専門に取り扱う会社としてなんとか生計をたてられているのは、幸運と、そして守谷理子の経営努力があってこそなのだから。

 思索をそこで打ち切り、部屋に陳列している人形たちを眺める。

 どの子もとても綺麗だ。希の技術と理子のカネで生み出した、アニマ合同会社の傑作である。

「理子のおかげで、カナエとアタシには、家族がこんなに増えたんだ。理子に感謝しないとだよな」

 それでも、今作っているドールにアタシの魂は宿っていない。

 その想いは、いつまでも彼女の心のなかでくすぶり続けていた。

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