3.もっと他者を知ろうと思う

 南部京子は彼の姿を見て苛立ちを隠さなかった。舌打ちをして鞄を床に落とす。質量のこもった音を娘の部屋に響かせて、席に向かった。


「なぜ、ここに」

「私は私の家に帰ってきただけです。不自然さはないと思いますが」


 足に絵の道具や教科書が当たれば踏みつけるか蹴飛ばした。テーブルに足が当たれば力任せに押し出して先を作る。


「答えろよ、ハシュ」

「調査でここに来ました。娘さんに事情を聞こうかと」


 彼女の中で何かを押した。明らかに表情が一変し激怒を滲ませる。


「おい菜月!」


 隣の菜月が飛び上がる。その後、彼女は机の上と向かいのソファー歩き、怯えた娘に近づいていく。


「京子さん。あまり動かないでください」

「なに?」

「貴方は疑いをかけられています」


 屋敷と特務機関の施設は距離があり、権堂の到着まで時間がかかる。それまでに彼女を外に出してはいけない。


「貴方がハシュと取引した形跡がありました」


 しかし、心理的虐待を受けた娘と加害者をずっと会わせるわけにはいかない。そう京子は考え、なにか口にしようとした。


「なぜそんなことをしたんですか」

「残念ながら私はやってない。たしかに私の部下が勝手に行動したかもしれない。それは謝りますよ」

「その弁明は施設で聞きます。とにかく動かないでください」

「……はあ」


 京子が大きく腕を振りかぶって、胸倉を掴もうとしてきた。咄嗟にケヴィンは片腕だして前に出る。


「邪魔をするなよ、ハシュ」


 監督役の権堂がいなければハシュの力は違法行為になる。それを見越して菜月に手を出そうとした。


「おい菜月。また絵を描いたのか。私へのあてつけか?」

「ち、違います!」

「辞めましょう京子さん。なぜ彼女を追い詰めるんですか」

「そうしなきゃわからないんだよコイツは」


 拘束すれば権堂に迷惑がかかる。せめて娘に危害を加えないようにしたかった。これを放置するのは彼女に良くないことだから。


「これは南部家の教育で、私は何も間違ってない。作られた貴様が何偉そうなことを語る」


 熱が入り饒舌になって、周囲の空気を支配していた。顔が少しずつ普段の様子と遠のく。


「すべての人々が私を馬鹿にしやがって、バカバカしくて反吐が出る! 黙らせるには武力が必要なんだよ! お前にはわからないだろうがな!」

「それと菜月は関係ないでしょ。子供を巻き込むなよ!」

「どうせ死なねえんだから構わねえだろ! 菜月はずっと引きこもって使えねえガキだ。せめて使えるように悲劇を着せたんだよ」


 京子の目的は菜月への暴行ではない。菜月の奥にあるクローゼットを見ていた。それを気づいたときには遅く、押しのけられる。

 クローゼットに足が当たる。反動でドアが半開きになって、中の絵の具がたれてきた。


「母さん、やめて! ごめんなさいごめんなさい」

「お前がいるせいで、私は馬鹿にされる。お前のせいだ!クソゴミのせいだ!」


 ケヴィンは二発許してしまう。扉から木屑がこぼれてしまい、中の液体が使えないものになってしまった。


「違う。こんなのは許されない」

「バケモノの貴様に何がわかる!」


 暴れる女性はハシュの力を凌駕しようとした。子供の武器が脆くも落ちていこうとする。それでも、ケヴィンは意思表明した。


「俺がわかるのはこれが間違ってるということです。俺の正しさが許せないです」


 彼は倒される。尻餅ついたハシュに京子は殺意を向けた。


「子供の屁理屈が!」

「ケヴィン!」


 開かれた扉に権堂の声がする。目だけを動かし、彼の姿を見つけた。


「力を使え。ケヴィン」


 護身用の刃物を自分に突き立てる。漏れ出てくるのは血液と、凝固したトランスの黒い影。血を纏うように泥に似た液体に変わり、それが糸となる。彼は腕を差し出し、思った通りに動かした。


「権堂、固定した」

「よくやった」


 権堂の目は伸びた俺の腕を見て異様に殺気立ってる。トランスの先で、南部京子が影を取り払おうとせわしなく動いた。


「南部菜月。選ぶときが来た」


 彼女は地面に腰を下ろし、乱れた髪の先で瞳が揺れる。好奇心が世界を知るために暴れていた。今にも倒れる勢いだ。


「絵を学び自分を解き放つのか、南部として生きるのか」

「そ、そんなの」

「俺は菜月さんの絵を評価してる」


 ケヴィンの頭ではクラシックが流れている。菜月を応援したいと取り付かれたように必死だった。軋む黒い物質と、口を塞がれてのたうち回る女。先ほどの話に見出した。菜月が本当にしたいこと。


「俺は望まれて産まれた。それを裏切って生きてる。ハシュだから障害が大きかった。決められた生き方しかできない。でも、君はどうだ」


 言われた彼女は反復する。


「わたし?」

「俺は”何か”になれなかった。でも、菜月は絵を描きたいといった。その何かに近づけるんじゃないか」

「私は、できない」


 胸をつよく押さえ過呼吸が止まらなかった。彼女はその一歩を怖がっている。京子が教育と称して与えてきた抑圧が蘇っていた。


「君はできる」

「ぐっ……ううっ」


 黒い影が後退していることに理解して、京介を締め付けた。彼女は顔を赤くして、憎悪がこもっている。


「私は……」

「きさま!」


 京子は執念で口を開いた。ケヴィンは呻くほど縛ってるのに、彼は頭が回っていない。


「貴様、誰が食わしてやったと思う。学校にも行かず絵ばっか描く無能にずっと構ってられないんだよ!」

「と、母さん」

「お前が外に出ないせいで周りから言われるんだよ。家族を疎かにするクズに何が出来るって。お前のせいで、お前のせいで上手くいかないんだよ!」


 彼女はついに開き直った。どこか勝ち誇った笑みを浮かべている。それは実のムスメに見せる顔じゃない。


「いい勉強になったじゃないか。なあ?」

「菜月。君は抱え込まなくていい」


 権堂は部下に命令した。拘束された彼女の脇に警官共が群がる。劇みたいな現状を終わらせた。ケヴィンは拘束を緩めて、国家の権力に手渡す。京介は血走った目で正当性を主張している。


「……」


 俺は手首を回して接近する。彼女は見上げ、髪の毛が下に避けていく。出てきた頬は赤い線ができていた。


「菜月。よく頑張ったな」

「ケヴィンさん。ケヴィン、私」


 部屋の喧騒を権堂は連れていく。暴れる大人はスーツが乱れても気にしない。扉が閉まり、二人の子供が残される。道のないバケモノと、才能を秘める少女。


「私の絵を初めて褒めてくれたんです。父さんは」

「そう、か」


 公的な手続きが行われなければ、ハシュのトランスを強要してはならない。彼はそれに接触し監禁されることになる。


「ケヴィンさん。母さんは」


 これから京子はどうなると純粋な質問をしてきた。彼女は聡く理解しているが、前に進むために聞いてみたのだ。


「帰ってこない」


 そう聞くと、彼女は腕の力を使いクローゼットへ座ったまま寄る。ケヴィンは何かを覚悟した背中に声かけることができない。木屑の散らばるクローゼットに手を突っ込み、腕を回している。すると、何か白い紙と折れたペンを取り出した。

 クローゼットに背中を預け、膝を立てた。曲がった紙にペンを立てる。


「菜月、何を」

「母さんを描きます」

「?」


 その瞳には決別が宿っている。母親に破られた紙で、京子を描いていた。とても綺麗とは言えない紙だ。


「母さんの顔、忘れたくない」


 彼女は人を描くのが苦手と言いながら指を動かした。十字を取って丸くしてもデフォルメの顔になる。それで、なにか決断していた。


「ケヴィンさん」

「どうした?」

「私、絵を勉強します。飛び込むのは怖いけど、今よりもマシだから」


 彼女はありがとうと素直な感謝を述べる。ケヴィンは顎の右側を人差し指で描いた。


「そして、貴方に手紙を描きます。届いたら読んでください」


 二人の前に職員が入室してきた。彼らは二人の顔を交互に見て指をさす。彼女はスーツを着た年配の女性に連れられていく。他の大人数はケヴィンを取り囲んで質問してきた。


「ケガは平気ですか」

「無事です」


 耳を抑えて通信している。

 彼らは困憊したハシュと一緒に廊下へ出て家を出ようとした。ケヴィンは目で菜月を探したけれど、姿が見えない。


「容疑者はどうなるんですか」

「これから尋問され刑務所行きですね」

「分かりました。ありがとうございます」


 それから彼らはケヴィンを建物に押し込んだ。そこは特務機関が隠れ蓑としてる雑居ビルで簡単な質疑応答をした。能力を振りまいてないか、彼が何をしたのか全てだ。ケヴィンは緊張の糸が切れて瞼が重くなっている。




 尋問後に彼女はハシュグループとの関与を認めた。彼らと結託した愚策は、一時的な感情によって崩壊する。菜月をさらった理由については未だ不明となっていた。推測では菜月への教育ではないか、ということになっている。



 数日後。ケヴィンと権堂は雑居ビルの3階で仕事をこなしていた。廊下では人々が慌ただしく行き交い、その日常の中で権堂は欠伸をする。


「そういえばケヴィン。京子の話は聞いたか?」


 彼はテレビから目をそらさないまま答える。


「何かあったのか」

「京子はうつ病を患っていたらしい」


 テレビからニュースキャスターが冷淡な口調で原稿を読んだ。

 内容は20代の男女を育児放棄により逮捕したという、耳障りにわるい事件だった。彼らは子供の世話をせず、家に放置して餓死させた疑いがあるようだ。夜な夜な子供の悲痛な叫びがタンションに響いていたらしい。


「手紙を読んでほしいと言われた」


 座ってるソファに背中を預ける。穴の空いた天井は黄色なシミができていた。


「良かったじゃないか」


 菜月の顔が頭に浮かんだ。そして、彼女の友達のタスケテという顔。人間は色々な顔があった。


「もっと人に目を向けようと思う」

「気をつけろよ。お前は危うい人間だから」

「ケヴィン、腹減った」

「うどん食うか」

「うどんいいな」


 冷房を切って背中の骨を鳴らし、ケヴィンはデスクから財布を手にして扉に手をかけた。

 後ろから権堂もスーツの上を脱いでシャツの手首をまくっている。


「ケヴィン、今回は満足したか」

「うるせえ。早く行こう」

「はいはい」


 二人は扉を開けて、気だるい夏の暑さにうめき声をあげた。

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