第10話 次元の魔術師は奴隷の語りを聞く

 涙は頬を伝って首元のナイフに滴り落ち、大きな二つの黒い耳は垂れてしまっている。まるで子供のように泣き始めた彼女は、つい数秒前まで人を殺そうと拳を振るっていた亜人とは思えないくらいだ。

 警戒を解く、ことはない。嘘泣きの可能性も捨てられない。トライアンフの中衛を担うタマラが小さい頃から使っていた女の武器である。むしろ最大限まで警戒を高める。

 だが、このままでは埒が明かないのも事実。俺はナイフを彼女に突き立てたまま問いかけた。


「元の場所に帰りたいって言ってたな。

 亜人の大陸はここより北だが相当に遠い。そんな中をお前一人でどうにか進むのは無理だ。俺を殺して逃げようだなんてのは愚策だったんだよ。どうしてこんな無茶しようと思ったんだ」


「本当は……そんなの、ない。いつも、一人で……何もできない、何も持ってない。

 大切なものも、守りたいものを失くして。

 全部、一人きり。この世界でも私は一人で、ずっと一人で。そうやって死んでいくんだ」


 要領を得ない返事とともに、泣き声がさらに大きくなった。どうも溜め込んでいた感情が死に際になって爆発してしまったらしい。

 だが、そんな子供みたいな喚きが、俺の心には妙に刺さった。


 一人きり。


 ヨツノは奴隷になる前も一人だったのかもしれない。

 そして奴隷にされて、ここまで来たのかもしれない。

 もしそうなら、それはすごく寂しいことだ。


 親に捨てられ、孤児院で過ごしてきた俺と重なる。

 一人きりのときは寂しさが強かった。何気ない朝に怯え、静かな夜に震える日々。守ってくれる人はいない。助けも呼べない。自分は孤独に生き続けなければいけないと、子供らしい幼稚な考えで過ごしてきた。


 だけど、俺は救われた。

 孤児院で出会ったトライアンフの仲間たち。孤独の闇に伸ばしてきてくれた暖かな手。それを掴んだからこそ、いまの俺がいる。

 もしもあの時、差し伸べられた手を掴まなかったら、俺はヨツノと同じような感情に侵されていたかもしれない。

 一人だけでどうにかしようとして、失敗していたかもしれない。


 ヨツノは、まだ誰からも手を差し伸べられていないんだ。

 一人で彷徨い続けて、ここにたどり着いてしまったんだ。

 彼女は、俺のもうひとつの在り方。誰からも手を差し伸べてもらえなかった孤独の末路。


 なら、いまの彼女に手を差し伸べられるのは。


「俺だけか」


 彼女の首元に添えていたナイフを下ろす。そして、いまも涙をポロポロと零すヨツノの頭の上に手を乗せた。

 赤く腫れた目が「え……?」とこちらを見る。


「お前のいまの状況を考えてみろ。

 奴隷になって俺に買われた。なら俺はお前の主だ。だからお前の悩みも、願いだって聞いてやることはできるし、叶えることもできるかもしれない」


「どういう……」


「亜人……いや、獣人だから、奴隷だからってのは置いておくとしてだ。

 お前はいま、一人じゃないんだよ。俺が近くにいるんだよ。一人で考える前に、俺に尋ねてみたってよかったんだ。だから――」


 言葉を続けようとしたとき、視界が二重に揺れる。

 突如として意識に白い靄がかかり。

 あ、やばい。回復薬使うのが少し遅かったか。

 意識が遠くに――――


 ***


 ほんの八年前のことだ。

 母親は行方知れず、父親は孤児院に俺を捨てた。院長は捨てられたんじゃないと言うが、当時の俺にはその言葉が慰めにしか聞こえず、余計に自分の立場の惨めさに苦しんだ。捨てられたことへの絶望と、自分の無力さに嘆き、俺は孤児院でも孤立していた。

 これから自分はどうなるのか。どうしたら生きていけるのか。先の見えない不安を一人で抱えて押しつぶされそうな時だった。


「君、僕たちと冒険者にならないか?」


 四人の少年少女が手を差し伸べてきた。みんな俺と同じ孤児院の子供だ。しかし俺とは違い、いつも元気で明るく、活気に溢れていた。

 彼らとの違いは何か。それはとても単純なことだ。


 夢があるかないか。


 彼らには夢があった。冒険者になり、化神を狩り、栄誉を掴むこと。

 それがどれだけ難しいことだろうとも、絶対に諦めないという意思。

 俺は彼らの心にあるその熱くて眩しい思いに絆されたのだ。

 俺も一緒に追いかけたいと思ったのだ。

 だからあの日、彼らの手を握り返し。

 俺は冒険者になった。


 ***


「――――ぁ」


 懐かしい光景を見た。

 忘れもしない、過去の俺が今の俺へと変わるきっかけ。

 あの時の喜びも、輝きも忘れることはない。俺の大事な思い出だ。

 そうだ。思い出であり、いま見ていたのは夢だ。

 瞼を開くと、薄暗い空間に僅かな光が差し込んでいて、ここが宿の一室であることを容易に教えてくれる。どうやらダンジョンから戻ってこれたらしい。

 いや、先程までの出来事が全部夢で、目覚めた俺はいまもひとりぼっち。だったらよかったのかもしれない。


 俺はベッドの上で天井を見上げたまま、隣にある気配へと問いかけた。


「どうして殺さなかった」


「…………」


「回復薬を使うのが少し遅かったんだな。たとえ毒が消えて癒えたとしても、身体にかかっていた負担が戻るわけじゃない。負荷を掛けすぎて気絶したんだ。

 魔術師が気絶すると魔法陣は効力を失う。だから槍も全部土に戻ったはず。お前は俺を殺せたはずなんだが」


「……ご主人様の言う通りでした。

 私には覚悟がなかった。自分の望みのために誰かを殺めるなんて選択、できなかった」


「そんな覚悟は持ってるやつの方が少ねえよ。ダンジョンだって魔物は死体が残らない。殺めているという感覚は頭の片隅にしまいこんでおくんだ。お前が特別弱いわけじゃない」


「いいえ、私は弱いです。覚悟もないのに、あなたを殺そうと画策した。自分の手を汚さずに、運に任せるような手段で」


「だけどな、俺はお前のこと立派だと思うよ。

 ほとんどの獣人奴隷が、自分の立場に諦めを持って生きている。だけどお前は自分で自分の道を切り開こうとしたんだ。それは誰でもできることじゃない。俺だって出来なかったことだ」


「ご主人様は立派に冒険者をしています。

 私は……いままでの私は何もしてこなかった。ありったけ与えられた時間の中で、何にでも手が届きそうな環境で、自由の与えられた場所で。私は何もしなかった。自分が弱いと決め込んで、甘えて、ずっと部屋の隅で潜んでいるような、そんな無駄な時間を過ごした。

 本当は嫌だった。そんな自分に嫌気がさしていた。変われるなら変わりたいと思った。だけどできなかった。自分って生き物は環境が一変したところで、中身が一新されるわけじゃないんだって痛感したよ」


「当然だ。あっさり変われるような奴はそもそも悩まない」


「悩まない……そうだね、ご主人様の言う通りだね。全部ご主人様の言う通りだった。私は間違っていた」


「まあ、手段は間違えたな。だけど、お前の想いまでは間違っちゃいねえよ」


 俺は起き上がると、ヨツノへと顔を向ける。

 月明かりの影となった彼女の表情は、涙で目を赤くしたのを隠しているようだった。自分の犯した罪に押し潰されかけた、そんな顔だ。


「そんなに罪悪感を抱くくらいなら、やらなきゃよかったのにな」


「でも、それでも私は」


「そんなに自分の生まれた地に戻りたいか?」


「……正直分からなくなりました。私は自分の知っている場所で安心したいだけなのかもしれません。生まれた場所なら、安心できるかもしれないと思っただけかもしれません」


 でも、と彼女は言葉を続ける。


「本当はもう、そんな場所ないんです。戦争に巻き込まれて村は壊されました。住んでいた人たちもみんな捕まり、逆らった人は殺されました」


 返す言葉が見つからなかった。

 人族と獣人の地の境界線では戦争が続いていると聞く。当然周辺の村は襲われるだろう。本来は無関係な住民が巻き込まれてしまうのだ。ヨツノもそうした被害者の一人なのだろう。


「姉がいたんです。早くに両親を失った私たちは二人で生活していました。村の人たちの支えもあって、不自由無く暮らせていました。姉は逞しく、みんなからも慕われていて、私の憧れでした」


「姉貴さんも、奴隷に……?」


「いいえ。姉は村を滅ぼした人族に立ち向かって殺されました。勇敢だったと思います。私は怖くて、隠し部屋の中で震えていることしかできませんでした。人族が去り、街に残ったのは最後まで戦った人達の死体です。姉は火だるまにされて黒くなっていました。私は生き延びるために、炭同然の姉を食べました」


「…………」


「苦しかった。辛かった。でも生き延びないといけないと思いました。いつか村を滅ぼした人族に復讐するために。

 でも、私には勇気が足りなかった。強い意志も足りなかった。変わらなきゃいけないのに、変わるのが怖いんですよ。なのに奴隷になって時間が経つにつれて、これが自分のあるべき姿、足掻いてもこれが末路かもって思い始めて、次第に復讐心も廃れていく。

 復讐に関係のないご主人様へ殺意を向けながらも、直接手を下さなかったのがいい証拠です。心って単純なんですよ。生きるためにって、辛いことも悲しいことも時間で薄めていくんです」


 彼女は一度俯いて震えた息をゆっくりと吐き出してから俺を見る。


「過ちの罰は受けます。ご主人様、私を殺してください」


「いやだ」


 俺は即答した。

 ヨツノはどうしてだと言わんばかりに俺の事を睨みつけてくる。


「死んで詫びるっての嫌いなんだよ俺。

 被害者が殺したいって言って殺すなら、まあわからなくもないけどさ。加害者側が自己満足に死んで悦に浸るのなんて納得できるかよって話だ」


「それじゃあ、私はどうすれば」


「どうもしねえよ。お前にも事情はあることは分かったし。俺だって死んだわけじゃないし。不問だ不問」


 俺はベッドから降りてヨツノの隣に立つと背をぐぐぐと伸ばす。固まっていた肉体と骨が音を立てながらほぐれていく。


「さて、旅支度をしないとな」


「へ?」


 我ながらやや唐突な発言に、当然ヨツノも首を傾げる。


「昨日言わなかったか? 俺もこの街を出なきゃいけない事情があるんだ。

 特に目的もない旅をするつもりだったが、丁度いい。お前の望みを叶えに行くぞ」


「望みって……獣人の地に行くってことですか!? でも、境界線は戦地ですし、私の村ももう……」


「無くなってたとしても、行かずに後悔するよりはいいだろう。旅の途中で住みたい場所が見つかればそれでもいい。獣人の地に戻って、やっぱりここがいいって言うなら、そのまま戦地より遠くまで行けばいい」


「でも、ご主人様を巻き込んでしまいます」


になるってなら、それくらい構わないさ。

 いいか、いまお前は一人じゃない。だから、頼れる時はちゃんと頼れ。でないと、俺がお前に頼れなくなっちまう」


 俺はヨツノに笑いかけ、そして手を伸ばす。


 孤独だった俺がそうしてもらったように。


 今度は俺が誰かに差し伸ばす番なのだ。


「ヨツノ、俺と旅に出よう」


「…………」


 ヨツノは目を大きく見開き、そして俯く。

 何度か頭を小さく縦に振り、再び顔をあげた時には、また目元に涙を溜め込んでいた。


「ありがとう……」


 そう言って彼女は、俺の手を握り返してくれた。

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