第9話 序章の幕開け

 正門に着くと、召集のかかった百人を超える闇影隊が集まっていた。皆を前にして、この任務の上官を任された上級歩兵隊の者が大声で内容を説明した。



「今しがた、ハンターの群れに襲撃された一般民から、ハンターの巣があると報告を受けた! 場所は国内から徒歩二時間ほど行った山の中腹にある洞窟だ! 我々の任務は、ハンターの討伐と巣の排除、及び、東昇の手から逃走した大型生物の捕獲だ! 先頭を行くのは混血者を含む班だ! 残りは隊列を組み、周囲の安全確保に勤めよ!」



 説明が終わると、いつの間にか俺の後ろに立っていた青島隊長が、俺の肩に手を置き前に行くよう促した。青島班に混血者はいない。だが、俺の班は囮になる役目がある。


 先頭に行くと、そこには同期全員の姿があった。


 卒業した十一人は三つの班に配置された。他の二班には混血者がいる。どれだけ重大な任務でも年齢は関係ないのだとわかり、こんな隊列を組んだ上官に怒りを覚え、思わず睨みつけてしまった。

 この行為がまずかった。タイミング悪く上官と目が合ってしまい、なんの警告もなしに頬を殴られる。



「なんだその目は! 命令に歯向かうのか?」

「いえ……」

「貴様は確かセメルの息子だったな。貴様ら双子には噂もあるし、訓練校での成績も耳にしている。混血者とは別物ではあるが、人間の姿をした化け物という点では同じだろう。どれだけ呪われているのか、この目でしっかりと見届けてやる」



 その言葉に、荒々しいものが疾風のように心を満たした。耐えきれないものがふつふつと湧き上がり、やがて制止できないほどの怒りに駆られる。悶々とした感情を浄化しきれないでいた俺の耳に、青島隊長の声など届いていなかった。



「俺を馬鹿にするのは構わないけど、父さんとヒロトまで悪く言うのは許さない。それに、俺はあんたを守る気なんてない。守るべき人間は自分で決めさせてもらう。っていうか、上官なら、お前が先頭を歩きやがれ! 混血者に頼るな!」



 言うまでもなく、すぐに手が出るような奴だから俺は見せしめのように制裁された。


 こいつは、ヒロトの後ろに隠れている俺と同じで臆病者だ。殴られながら、このまま成長したらこんな大人になるのかと思うと、自分自身、変わらなきゃいけないなんて、まったく他のことを考えていた。


 すると、急に上官の拳が止まった。顔を上げると、隣に誰かが立っていた。



「見送りに来てみれば、いったいなんの騒ぎかしら」

「貴女は、月夜の国のご息女、ツキヒメ様……」



 その間に、手を差し伸べてくれたユズキに立たされた。俺の身を心配しながら怒りを露わにするヒロトをなだめて、口内に溜まった血を吐き捨てた。もう痛みはなかった。



「ナオト、父様からの伝言よ。娘たちが二度も世話になり申し訳ない。休暇が取れたとき、月夜へ来なさい。今度はこちらが接待する……ですって。だ、だから、生きて帰ってきなさい! ウイヒメのためにも、必ず!」

「……わかりました」



 待つ立場の話しをしたせいだろうか。自然と頷いてしまった。

 戻ろうとしたツキヒメが振り返って、「上官」と呼んだ。



「名前を覚える気はないから名乗らなくて結構。出発する前に、言いたいことが一つだけあるの。……次、ナオトに手をあげてごらんなさい。天野家が黙ってないわよ」

「――っ、なぜこいつを、ツキヒメ様の一族がそこまでして庇うのですか?」

「妹のお気に入りなの。とにかく、生かして帰しなさい。それだけよ」



 青島班と赤坂班に深くお辞儀をして、前回の任務のお礼を口にしたツキヒメは国内へ戻っていった。


 隊列を組んで、正門から出発した俺たちは報告にあった場所に向けて歩いた。

 向かいながら、ユズキが青島隊長に問いかける。



「こんなに多くの闇影隊を出動させる必要があったのか? 混血者を先頭に行かせるのなら、僕たち新人三班だけでも良かっただろう?」

「緊急召集がかかった場合、今回のように正門には多くの闇影隊が集合する。そして、そこに待ち受ける任務は今まで以上に生死を賭けたものになる……。今回は、最悪なことにハンターの討伐と被ってしまった。そのための人数だ。しかし、我々が先頭を行くのはまた別問題だ。巨大生物が北闇に向かってきているのならば、対処できるのは混血者だけだ。迎え撃つ他ない」



 まさか、その先に待ち受ける出来事が青島隊長の言葉通りになるとは、この時は誰も想像すらしていなかった。


 向かっている途中で、青島班に新たな隊員が加わった。ユズキの同居人だ。同じ年齢の子で、年上を想像していた俺は素直に驚いた。

 彼が現れてから、隊はざわざわとし始めた。気持ち悪いくらいの目の数が青島班に集中している。

 そんな視線を浴びているなかで、癖のあるふわふわとした緑の髪の毛を揺らしながら、彼は自己紹介をした。



「初めまして。同期の青空イツキです。訓練校では別のクラスだから面識はないけど、これから宜しくね」

「走流野ナオトです。よろしくお願いします」



 風に吹かれた草原に立っているみたいに、爽やかな印象をうける子だ。ただ気になるのは、ユズキとの距離だ。隙間もないくらいにべったりとくっついている。しかも、ウイヒメよりも年下のように感じる。印象とは違った行動に、俺は困惑した。


 それから、一時間ばかり過ぎようとしている頃。


 青島隊長に呼ばれ、二人で先頭の隊列と距離を取り、並行しながら歩いた。


 呼ばれはしたものの、青島隊長は無言だ。怒っているのか、あるいは呆れているのか。上官に対する発言を注意するわけでもなく、ただ黙々と進んでいた。

 目的地まで半分の所で、ようやく青島隊長は口を開いた。厳重注意を受けるのだと覚悟を決めていたのに、出てきた言葉は俺の予想とは反対のものだった。



「よくやった」

「何がですか?」

「上官に背いた事だ」

「でも、青島隊長は止めようとしていたんじゃ……」

「まあな。あの人はすぐ暴力にはしる傾向がある。だから止めようとしたのだ」

「すみません……」

「謝る必要などない。あの言葉は混血者の胸に届いただろう。お前の言う通り、混血者は人に頼られているし、その期待に応えるべく命懸けで戦っている。だが、帰還したとて、国民から称賛されるのは決まって我々人間なのだ」



 混血者の並外れた能力は、どんな戦闘においても力を発揮するだけでなく、己の生存率をも高めている。

 一方、人間には限界があり、一度の戦闘で出る怪我人や死者の数は混血者よりも多く、体に残る傷跡は、人間の方が死に物狂いで戦ったように映るのだそうだ。


 後ろを振り向くと、そこには混血者と若干の距離を保ちながら歩く闇影隊の姿がある。その中央を歩く上官は仲間と談笑していて、まるで危機感がないようだった。

 これほどまでに混血者が与える安心感は大きく、おかげで隊は平和そのものだ。


 それに比べて前を歩く混血者は、アンテナを張り巡らせたみたいに周囲を警戒していて、身に纏う緊迫感は静電気を帯びたかのようにピリピリとしている。

 この違いには落胆した。前を向いて小さく息を吐いた。



「ところでナオトよ、お前はハンターが出現する前触れってやつを知っているか?」

「えっと……」



 突然の質問に急いで思考を切り替えた。



「囁き声……ですか?」

「その通り。ハンターが出現する前触れとして囁き声のようなものが聞こえるとされている。私も何度か耳にした事があるが、ハンターは〝サチ〟の一言だけ喋れるのだ。その理由は解明されておらず、未だに何を意味するのかは不明だ。だが、声の大きさである程度の事は把握できる」

「どういう意味ですか?」

「ハンターの数が少ないと、その声は風にかき消されてしまうほどに小さいが、もしハンターが大集団で襲ってくる場合、サチという言葉は耳元で叫ばれたかのごとくはっきりと聞こえてくるのだ。その時は、戦闘を放棄して死に物狂いで逃げろ」



 そう言った青島隊長に、俺は唖然としてしまった。


 闇影隊とは、国外に出る人を護衛したり、時にこうやって討伐に出向いたり、他国からの依頼で動いたり、最悪の場合は戦争に参戦したりと、とにかく逃げるなんて許されない部隊だからだ。

 しかも、これは王家直々の依頼だ。向こうも必死に捜査してくれている。



「なぜそんな事を言うんですか? 闇影隊が引いては、隊そのものの存在理由がなくなります」

「言っただろう? 緊急召集された場合、その先に待ち受けるのは今まで以上に生死を賭けたものになる、と。上官の行動が物語っている。混血者に先頭を任せたのは自分の命を最優先した作戦だろう。だからこそ、私はお前たちに逃げてほしいのだ。こんな愚にも付かない作戦で命を無駄にするな」



 過去に何かあったのだろうか。混血者に視線を送る青島隊長からは、どこかもの悲しさを感じた。



「しかし、上官の作戦はあながち間違えたものではない。仮にハンターの襲撃にあったとしよう。後方に混血者を配置していては、動こうにも前方を塞ぐ大勢の人間が邪魔で混血者は力を発揮できないだろう?」

「あの上官がそこまで考えているとは思えません」

「それに関しては同感だ。だがな、任命された闇影隊の数を考えてみろ。もう少しで目的地に着くが、そこに待ち受ける物が見えてくるはずだ」



 後方に振り向いた俺は、百人はいる歩兵隊の数に息を飲んだ。その多さに圧倒されたのではなく、青島隊長の言葉が引き金となり、ある想像が頭に浮かんだからだ。



「大人数だから安心できるんじゃない……。この人数じゃないと太刀打ち出来ないから……」

「そういう事だ。だからこそ、あらゆる可能性を考慮した上で先頭に混血者を配置する他ないのだ。お前は気に食わないかもしれんが、向かっている先がハンターの巣となれば納得せざるを得ないだろう? ついでに、私が死に物狂いで逃げろと言った意味も理解できたはずだ」

「はい……。でも、もし後方から攻められた場合はどうするんですか?」

「それは上官の責任だ。我々が配置されたのはあくまで前方。後方は後方で何か策があるのだと信じるしかあるまい」



 そう言い、青島隊長が隊列に戻ろうとした、その時だった。



「サ……チ……」



 耳元で聞こえてきた声に足が止まり、ゆっくりと青島隊長の顔を見上げた。すると、青島隊長は小さな声でこう言った。



「すぐに先頭と合流して、逃げろ」



 青島隊長は、後方に振り返りながら俺の背中を押した。俺は急いでユズキたちの元へ戻った。そして、ユズキとイツキの手を握り、背中から聞こえてくる叫び声から逃げるように前方へ走った。続いて、他の二班も同じ方向に走り始めた。


 握っていた手を離したユズキは、追いついた青島隊長と共にもっと先頭へ行った。青島隊長の指示に瞬時に反応し、道を邪魔する障害物を次々に排除していく。

 その技能に見入ったのも束の間、今度はユズキの手に目が釘付けとなった。

 犬よりももっと大きな生き物。例えるなら狼とか、そういった類いの物だろうか。太くて、大きくて、折れそうにもない爪が生えていた。木の幹は簡単に抉られてしまい、まるで斧で切り倒したかのように音を立てながら倒れていく。


 その光景を、イツキは目を輝かせて見ていた。背後からハンターが迫っているというのに、「やっぱりユズキは凄いや」と笑顔でいる。


 そして、気がつけば、雑草や茂み、蔦や木の根っこなどが一面に広がる場所に足を踏み入れていた。人の手が一切くわえられていない、原生林に入ってしまったのだ。すると、悲鳴の数が一気に増えた。


 ハンターはウサギほどの体長しかない。こんな視界の悪い場所では、発見する前に殺されてしまう。その光景は、まだ正常な思考を保っている俺を、安易に恐怖へ流そうとした。


 道を作っていた青島隊長や混血者、ユズキの努力も、原生林が相手じゃ勝ち目はない。ひたすら掻き分けて、安全な場所を捜し回った。


 しばらくして、少し開けた場所に辿り着いた。逃げ遅れてやって来た後方部隊の人たちを誘導し、上官は混血者の後ろに行くように指示した。

 しかし、いつまでたってもハンターは現れなかった。それどころか、気配すら感じられない。痺れを切らせたのか、後方辺りにいた上官は先頭に移動し、新たな命令を下した。



「混血者を率いる班は、ハンターの襲撃地点まで偵察に向かえ! 残りの者……は……」



 全てを言い終える前に、口を閉じてしまった上官の顔から血の気が引いていく。なぜだか唇はわなわなと震え、目は怯えに染まり始めた。



「……どうしたんだ?」




 隊の誰かがそう呟いた。


 上官の身体は追い詰められた小動物のように丸くなり、そして機械仕掛けの歯車のごとく逃げて来た方向に振り向いた。それから、一歩、二歩とこちらに寄って大きく息を吸う。



「た、退避ー!!!!」



 目を凝らすと、上官が立っていた場所の奥に見える茂みが、闇の中で上下左右に音をたてながら動いていた。



「アレはハンターじゃねぇ……」



 そう言葉をこぼしたヒロトが、俺を庇うかのように両手を広げながら後ろに下がった。


 やがて、木が大きく揺れ初め、鼓膜を突き破るような咆哮と共に馬鹿でかい獣が姿を現した。

 十メートルはあるだろうか。

 その体長の高さに絶句し、ハンターとは別物の存在に体が強張る。


 三種の中で最も危険とされるのはハンターだ――。そう教えられてきたが、コレを目の前にしてそうは思えない。



「ハンターも……獣も……危険レベルは同じじゃないか……」



 俺たちの前に姿を現したのは、巨大な猿だった。



「なあ、ナオト。お猿さんってこんなサイズだっけ?」

「こんな時に冗談言ってる場合かよ!!」



 丸くて太い尖った爪を地に食い込ませ、喉は低く唸り声を発し、目尻を険しく吊り上げて、大猿は獲物を物色するように俺たちを見下していた。

 そして、大猿が体勢を低くしたその瞬間、ただならぬ空気を感じた俺は咄嗟にヒロトの戦闘服の襟を掴んで、左方向に転がった。

 直後、突進してきた大猿は、両手足で歩兵隊を踏み潰し、あるいは片手で何人も弾き飛ばした。逃げ惑う歩兵隊はまるで隊列を崩された蟻みたいだ。


 ふと、大猿のお腹辺りに傷があるのが確認できた。おそらく、この大猿が東昇から逃げてきた重度だ。


 立ち止まって、天にまで届きそうな雄叫びを上げた大猿。その隙を突き、一目散に逃げた上官は、あろうことか洞窟に逃げ込んだ。依頼にあったハンターの巣の可能性だってある。後を追った俺たちは、大猿から身を隠すために、仕方なく洞窟へと走った。原生林に戻るよりはましだからだ。


 洞窟の入り口では、安全の確保をしているどころか、呆然と突っ立っている上官の姿があった。

 この行動には、談笑していた仲間も怒りを爆発させた。



「なにしてんだ!! 安全確保を経ての誘導は基本中の基本だろうが!!」



 怒鳴り声は洞窟中に響き渡った。

 隊の一人が上官の胸ぐらに掴みかかるも、すぐに暴力にはしるはずの上官は足もとを指さしただけで言い返しもしなかった。

 指を目で追うと、差し込む日の光で見えたのは、地面を埋め尽くす大量の骸骨だった。俺たちはその上に立っていて、気がつくと照らされていたはずの骸骨が影に覆われていた。


 どこからともなく背中に吹き付けてきた生暖かい風は、洞窟の奥まで行き渡る。反響した音は、大猿の唸り声で、俺の頭上を血をまき散らしながら数人の歩兵隊が飛んでいった。


 頭上を仰ぎ見えたのは、上半身と下半身が真っ二つに避けた仲間の姿。降り注ぐ血を全身に浴びながら、俺の目には涙が滲んでいた。

 洞穴の中を逃げ回り、山びこのように聞こえてくる仲間の悲鳴に怯えながら、訓練校に通っていた頃の妄想を思い出していた。


 胸を膨らませていた、あの頃の俺たちを――。



「なあ、ナオト! 親父と同じ階級に上がったら、親父には引退してもらって、俺たち二人で頑張ろうぜ! ある程度の戦果を残して、それから……」

「それから、なんだよ」

「と、とにかく! 頑張ろう!」



 男手ひとつで育ててくれている父さん。照れくささを誤魔化しながら言ったヒロトの意見には俺も賛成だった。

 それまでに、臆病な俺ではなく、安心できるような息子になろう――。なんて、そんな甘い事を考えていたのに。

 どうせ死ぬのなら、男らしく派手に華やかに舞い散って、教科書の隅っこに載るような歴史の一部になれたら――。なんて、臆病ながらに夢見たこともあった。


 どうして予測できなかったのだろうか。


 三種の中に〝獣〟が含まれている時点で、マイナス思考な妄想力を生かして色んな生き物を思い描く事だって出来たはずだ。



「貴様っ、混血者を率いる班は前進との命令だろう!」



 逃げながら肩にぶつかってきた歩兵隊を目で追った俺は、両手に血を握り、荒々しく吐き出される呼吸に現実を見た。


 大猿は、すでに半数以上の歩兵隊を叩き潰し、咬み殺し、握り締め、肉片を四方八方に投げつけていた。もう誰の血や肉片を浴びたのかもわからず、戦闘服はあらゆる液体を吸収して重くなり肌に張り付いている。

 少し動けば、足裏に響く骨を踏み砕いた音で体は硬直し、大猿を見上げては顔色が青くなるのを感じていた。


 救いなのは、大猿のおかげなのか、ハンターの巣だと思われるこの洞窟にハンターが一体もいないという事だ。今のところ、敵は入り口にいる大猿のみで、ハンターの襲撃は先程の後方部隊の被害のみである。



「はは……」



 乾いた笑みが漏れたのは、状況を理解しながらも、恐れを隠しきれずにいる臆病な自分に呆れてしまったからだろう。


 オウガ様を思い出したのは、そんな時だった。


 東昇に向かう前に、北闇に立ち寄ってくれた皇帝。この世界に君臨する王が、俺とユズキの行いを褒め、顔を拝みに来たとまで言ってくれた。


 未来を担う精鋭だと、期待を背負った。


 そうだ、俺は闇影隊だ。入隊した理由がたいしたものではなくとも、今は違う。オウガ様の声に反する俺の意志ではあるけれど、今目の前にいる重度は、フードの男と繋がりがあるかもしれない。俺の命を、家族や友達の命を狙う敵かもしれない。


 ならば、一刻も早く討伐しなければならない。これが闇影隊である、俺なりの職務だ。


 恐れを拭うと、自分が今いる立ち位置が最も安全な場所であるとわかった。それから、大猿を観察した。動きや攻撃パターン、なにか弱点はないかを探す。すると、ある事に気がついた。



「あいつ、見えていないのか?」



 俺からは、大猿の身体の隙間から差し込む光で、僅かに洞窟の中の状況がわかったり、被害を把握できる。けれど、自分の背中で前方を影にしている大猿は手当たり次第に攻撃しているように見えるのだ。

 つまり、あいつの影にいる者は大猿の目に映っておらず、さらには血のニオイが充満する洞窟で鼻が利いていない。


 大猿の足もとで戦うヒロトたちを観察しても、日が当たる場所に入ると攻撃を受け、影に入ると標的にされていない事がわかり、俺の推測は確信に近づいた。

 そして、俺が立っている場所は、恐らくこの洞窟内で最も影が濃い場所だ。


 顔を横に振り、気合いを入れ直すために両頬を叩こうとすると、片手の自由が奪われていた。未だにイツキの手を握っていたようだ。



「ずっと呼んでたんだけど……。大丈夫?」

「あ、当たり前だろ! 作戦を練ってただけだ!」

「怖くないの?」



 薄暗い洞窟の中で、ぼんやりと浮かぶイツキの顔。思わず手を振りほどいた。イツキは笑っていた。何気なく頬に触れてみると、指先にイツキも血を浴びている感触が伝わってくる。それなのに、どうして――。



「怖いに決まってるじゃん。あんなデカい猿、見たことないし」



 負けじと笑って見せたものの、きっと俺の笑顔は不気味そのものだろう。だけど、これが俺に出来る精一杯の事だった。


 大きく息を吐き出して、気合いを入れ直した俺は大猿に向かって足を進めた。最初は、怖くて一歩踏み出すのが限界であったが、自己暗示のおかげでスピードは増していき、骸骨に足を取られながらも危険地帯に辿り着いた。それから、すぐに皆に声を投げた。



「ヒロト、今すぐ大猿の影に入れ! 他の人たちも早く!」



 すると、大猿は足もとをしきりに警戒し始めた。片足を上げては勢いよく振りかざし、それを何度も繰り返している。やはり、影の部分はあまり見えていないようだ。


 それを見て、混血者は大猿の巨体をよじ登り、鋭い歯を剥き出しにして首を狙った。しかし、喉元を逞しい腕で覆われてしまい、人の何十倍もある腕を退かそうとしているが、簡単にはいかない。巨体を振り、混血者を振り落とそうと暴れ始めた大猿は、一瞬だけ日の光を浴びた混血者の男の子を見逃さなかった。


 開いていた片方の手でその子を掴み、握り潰そうと手に力を入れる。だが、捕らえられる瞬間に両足を大猿の手中に収めていた彼は、背中と足の裏で反発して、握り潰されるまいとしていた。

 半獣化した彼の脚力は凄まじく、大猿の手は尋常じゃない力を入れているのが一目瞭然で小刻みに震えている。一方、彼はというと、長く続く戦闘のせいで徐々に力を失っていた。



「新人三班は右の足もとを崩せ! 左は私たちに任せろ!」



 青島隊長の声で、右足に移動した俺たちは、拳を作って地を強く殴った。広がる骸骨が砕け散って、地に拳が届くと、大猿の足を中心に地面が割れて壁のように突き上がる。これにより、少しだけよろめいた大猿。瞬時に、俺とヒロトは彼を握る手に飛躍した。

 それから、俺は親指に、ヒロトは人差し指にしがみついて、互いの足の裏を合わせて押し合った。すると、力が入らなくなった大猿の手から彼が滑り落ち、その下で赤坂隊長が受け止めた。


 再び暴れる大猿を見て、青島隊長が再び命令を下す。



「全員、奥に後退!!」

「あの場所が最も安全です! 一度退くならそこに! 態勢を整えましょう!」

「ナオトの言葉を聞いたな!? 行くぞ!」



 青島隊長は、先に新人歩兵隊の三班を行かせ、隊長たちは援護しながら着いてきた。ところが、青島隊長が途中で立ち止まってしまう。青島隊長の視線の先には、逃げ遅れたユズキの姿があった。



「――っ、ユズキ!」



 青島隊長の横を走り抜け、ユズキの元に向かった。振り上げられた手から守るために、大猿の片足を思い切り蹴り飛ばす。巨体は、大きな地響きを鳴らしながら横に倒れた。




「なぜ戻って来た!」

「いいから! 早くあの場所に逃げるんだ!」



 走ったユズキを確認し、後に続いて俺も向かおうとすると、左足を捕まれてしまい顔面から派手に転んだ。

 骸骨に強く顔を打ち付け、その衝撃は脳にまで響き、左右する視界に吐き気を覚える。


 足はすぐに解放された。仰向けになると、俺の真上で四つん這いになった大猿が、唸り声を上げながら顔を近づけてきた。


 それは一瞬のことであった。俺の身体を片手ですくい上げた大猿は、そのまま洞窟の外に放り投げた。急なことに反応できず、水切りのごとく体が地を跳ね、木の幹にぶつかってようやく動きは止まる。

 両膝をつき、腹の底から嘔吐する俺に、大猿は容赦なく攻撃してきた。


 これは死ぬかもしれない――。


 そう冷静に思えたのは、教科書通りにはいかない現実を身をもって経験したからだろう。踏み潰そうと持ち上げられた大猿の片足に目を閉じ、死を覚悟した、その時――。



「ナオト! 諦めるな!」



 聞こえてきたユズキの声に、すんでのところで大猿の片足を両腕で受け止めた。体ごと地面にめり込み、のしかかる体重により背中と両腕が悲鳴を上げ、両足も使って抵抗するも大猿の体重は支えきれない。



「この、クソ猿が!! 包火!」



 死を覚悟したはずなのに、俺は必死に逆らおうとしていた。改めてユズキの存在の大きさを実感し、あまりの単純さに我ながら情けなく感じるけど、友達に諦めるなと言われたら、今ここで死ぬわけにはいかないのだ。


 けれど、戦況が変わるわけでもなく、俺の思いよりも大猿の体重の方が勝っており、徐々に火を帯びた両腕が自分の顔に近づいてくる。


 ここまでか――。


 顔を横に背け、くる衝撃に身を構えた。すると、突然、大猿の足から力が抜けた。両腕が軽くなっていくのと同時に、強烈な目眩と激痛が襲ってくる。


 なんとか足もとから離れた俺は、揺れる視界で周囲を見渡した。驚いた事に、ユズキが大猿の横顔にしがみついているではないか。

 寸秒、大猿とユズキは動かなかった。その隙を突いて、電光のごとく緑の物体が大猿の下顎に直撃した。その正体はイツキだ。だが、それでも大猿はふらつく程度であった。


 ふと、大猿と目が合った。大猿はゆっくりと後退し、森の奥深い闇の中へと姿を消した。


 いったい何が起きたのだろうか。膝から崩れ落ちた俺のもとにヒロトが走ってきた。横になるように言われ、怪我の具合を急いで確認している。



「なんで大猿は逃げたんだ? なんで……」



 頭の中が疑問で溢れかえっているのに、上手く言葉にできない。



「隊長、強く頭を打ってるみてぇだ!」



 俺の隣に腰を下ろし、安堵と腹立たしさの両方を顔に浮かべる青島隊長を見て、目頭が熱くなるのを感じた。



「ナオトよ、なぜ一人で立ち向かったのだ! 私の言葉を忘れたのか!?」

「すみません……」



 外に出てきた歩兵隊の数は、あまりにも少なかった。だけど、悲しみは少しも感じなかった。感じるのは、硬直していた体の緩みだけだ。


 その後、動ける歩兵隊が洞窟内をくまなく調べた。そこで衝撃の事実が浮上した。



「ハンターの巣じゃないぞ……」

「だな……。そもそも、あいつらがこんな綺麗に肉だけを食うはずがない……」



 逃げ込んだ場所がハンターの巣だと思っていたのは俺だけではなかったようで、生き残った全員が虚脱状態だ。


 と、その時――。


 日も落ちた始めた頃、見計らったように突如として現れたのはハンターだった。

 あちらこちらの茂みが揺れたのと同時に、囁き声が聞こえてくる。一度奪われた戦意に、もはや隊としての機能は完全に失われていた。かくして、俺も同じだ。


 痛みは全身にあって、上体を起こす事もままならなかった。だからといって諦めたわけではない。



(動け……動け……動け!!)




 足の先から頭のてっぺんまで熱くなるのを感じる。それは自己暗示が成功した事を意味していた。手を見ると赤く染まっており、心臓は激しく鼓動を繰り出す。


 上体を起こして立ち上がった俺に、ヒロトはすぐに暗示を解くように言った。だが、ハンターを目の前にしてそれは無理な頼み事だ。

 やれるところまでやってやる――。

 大猿を相手にして死を感じた今の俺に、恐怖心など微塵もなかった。



「や、やめろぉぉおお!!!!」



 声に振り返ると、一人目が襲われていた。


 ハンター四体が飛びつき、みるみる内に肉が削がれていく。筋肉が露わになり、やがて骨が見え始め、倒れた歩兵隊にはさらにハンターが群がった。払い除けようと、近くにいた他の歩兵隊が駆け寄るも、巻き添えを食らい同じように残骸と化してしまった。


 大猿の捕獲と、ハンター討伐のために百人はいた歩兵隊は、大猿との一戦で半数以下になっていた。そのため、ハンターとまともに戦えるだけの人数がいないのだ。


 最悪な状況に為す術もなく、この時点で隊に与えられた選択肢は二つに絞られた。いや、混血者に与えられた選択肢、が正しいだろう。


 見捨てるか、戦うか――。


 足手まといになる人間を見捨てれば、混血者は簡単に生還することが出来るし、きっと、俺とヒロトやユズキも生きて帰れる。考えている事は同じなのか、誰を見ても混血者と目が合ってしまった。

 究極の選択に頭を悩ませていると、いきなり視界が左右にぶれ始めた。しだいに意識は朦朧とし、腰が砕けたかのように地に倒れ込む。

 体は限界まできていたらしく、土を握り締めて意識を保とうとするも、視界は暗転しかけていた。


 そこに、父さんのいる部隊が偶然にも通りかかった。思いがけない増援に戦意を取り戻した歩兵隊が、一斉に反撃に出ようと奮い立った。だが、圧倒的にハンターの数の方が多く、死者が増えていくばかりだ。


 朦朧とする意識を吹き飛ばすため、俺は地面に強く額を打ち付けた。そして、ほんの少しだけ覚醒した瞬間に、父さんに叫んだ。



「父さん! ハンターは水に弱い! 父さんの力なら――っ……」



 そこまで言って、意識を手放した。


 俺は夢を見た――。

 いつも見ていた悪夢ではなく、初めて見るものだ。

 森をがむしゃらに走っている夢。

 走っていると、視界が真っ白になって、「いつか、必ず迎えに行く」と声が聞こえてきた。


 夢なのに、まるで俺自身が走っているような感覚がする。すると、今度は別の誰かの声が聞こえてきた。



「そこには行くな! 戻ってこい! もう取り戻せないんだ!!」



 夢の中で俺は声に振り返ろうとしていた。けれど、そこで夢は終わってしまい、目が覚めると真っ白な天井を見上げていた。



「どこ、ここ……」



 起き上がって、自分の身体を見た。薄い上掛けを着ている事や、薬品の独特なニオイで、寝かされていた場所が病院だと知る。気を失った後、ここに運び込まれたようだ。


 いや、そんなことはどうだっていい。

 ハンターは? 皆は無事なのだろうか。色々と気にはなるが、考えると頭に痛みがはしる。


 誰か見舞いに訪れてくれたのか、ベッドの横に置かれている台には花瓶あり、花が生けてあった。その横には手紙があるが、痛む関節に手を伸ばす事が出来なかった。無茶をしすぎたようだ。


 大人しく目を閉じた。生きている事を実感しながら、再び眠りに落ちた俺が夢を見る事はなかった。

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