第6話 激闘!二種の襲撃

 春の夕闇が、浅い水底のような青みを帯びてきた頃。肌寒さに焦りを感じていた、そんな時だった。木の根元に靴を二足見つけた。ふと、頭上を見上げた。

 そこには、太い枝に座って、足をぶらぶらと交互に振る女の子がいた。彼女は、空を仰いでいた。

 特徴が一致し、護衛対象のウイヒメを発見することが出来たはいいが、俺の予想に反して国との距離が離れている場所での発見だった。それよりも問題なのは時間帯だ。春は日が沈むのが早い。



「ウイヒメ様、下りてきてもらえますか?」



 こちらを覗き見たウイヒメは、木をずるずると伝って下りてきてくれた。それから靴を履いて、どうして名前を知っているのかと尋ねられた。経緯を説明すると、ふて腐れたように頬を膨らませる。



「父上め、面倒な事をしてくれたわね」

「こちらの台詞です。帰れないじゃないですか」

「私を見つけなかったことにして、一人で戻ればいいじゃん。その服装って闇影隊の人でしょ? 強いんだから、平気だよ。言っておくけど、私はまだ帰らないからね」



 本当になにも知らない子なのだと、厄介な状況に困り果てる。どこから説明すれば、この子は納得してくれるだろうか。



「自己紹介がまだでしたね。俺の名前は走流野ナオトっていいます。好きに呼んでください。ウイヒメ様には、今置かれている状況を理解してもらう必要があります。もうすぐ日が暮れますが、夜は人害認定の生き物が活発になる時間帯です。なので、早急に国に戻らなければなりません」

「それって本当なの? 父上も同じ事を言ってたけど、私は会ったことすらないんだけど。皆が言うほど、歩き回ってないんじゃない?」



 やはり、そうくるか。カケハシの注意に背くだけの根拠を、この子なりに持っているようだ。意地でも帰らないという気持ちがひしひしと感じられる。ならば、別の方法でいくしかない。



「恐らく、ウイヒメ様は運が良かっただけです。俺は、仲間が死んでいくのをこの目で何度も見ていますから」



 闇影隊が言うと説得力があるのだろうか。ウイヒメの表情に少し不安の色が見えたような気がした。



「たくさん死んだの?」

「はい……。それに、俺はウイヒメ様が思ってるような強い闇影隊ではありません。正直、守れるかどうか確証もないのが本音です」

「えー! ナオトって弱いの!?」

「はい、激弱です」



 まるで方向感覚を失った人みたいに、同じ場所を右往左往するウイヒメ。なにをそんなに悩んでいるのだろうか。しばらくして答えを出したウイヒメは、俺に着いてくるように言った。



「どこに向かうんですか?」

「どうせ、私が帰るって言うまでナオトは帰らないでしょ?」

「勿論です」

「やっぱりね。それに、弱いって言うし、仕方ないから秘密の場所に連れて行ってあげる。絶対に内緒だよ!」

「わかりました」



 青島隊長に託されたもう一つの任務。果たして、その場所は大勢の命を救う足がかりとなる場所なのか、それとも、ウイヒメの我が儘に付き合うだけとなるのか。前を歩く彼女の背中を見つめながら、そんなことを考える。


 間もなくして辿り着いたのは、濁った池と、その周辺に膝まである草が生い茂った場所だった。その奥には、高さはないものの、蔦でびっしりと覆われた崖がある。池を覗き込むと、結構な深さがありそうだった。

 辺りの地形を確認していると、池の上をウイヒメが歩いていた。その姿はさながら忍者だ。



「早くおいでよ」

「いや、あの……。どうして水の上を歩けるんですか?」



 困惑する俺を見て、ウイヒメはキャッキャと笑った。



「歩けるわけないじゃん。水が汚いから見えないだけで、大きな石があるんだよ。最初の石はちょっと遠いから、思いっきり飛んでね。そこにあるから」



 そう言って、感覚だけで飛び移っていくウイヒメ。慌てて後を追いかけた。


 聞けば、この池の深さが知りたくて中に入ったとき、手探りで何ヵ所かに石を発見したそうだ。水面から見えないものの、何度もここを訪れているウイヒメは石がある場所を覚え、今では池を渡ることは簡単だと言う。


 そうして、池の向こう側に辿り着いた。崖まで来て次はどうするのかと思いきや、蔦を掻き分けて、奥に消えてしまう。驚くことに、そこには入り口の小さな穴があった。四つん這いで中に入ると、奥行きはないものの身を隠すには十分な広さがあるとわかった。四人くらいなら並んで寝られるだろう。


 それよりも気になったのは、薄い毛布が一枚に、中身のないお菓子の袋の数々。身を隠すというよりも、まるで住んでいるかのような雰囲気が漂っている。それらを見て、俺はある疑問を抱いた。



「もしかして、帰りたくないんですか?」



 くつろぎ始めていたウイヒメの肩がぴくりと跳ねる。図星のようだ。



「ウイヒメ様、あなたは〝待つ立場〟というものになったことがありますか?」

「なに、それ」

「俺の父さんは闇影隊です。まだ俺が入隊する前の頃、外の世界を知らずとも、怪我をして帰ってくる父さんを見て何度も怖い思いをしました。そして、訓練校に通い始めて、人害認定の三種を知った時、もっと怖くなりました。実際に遭遇してからは怖いなんてものじゃありません。カケハシ様も同じ気持ちです。帰りを待つというのは、それだけ精神的な苦痛を伴うんです」

「精神的な苦痛?」

「ずっと、ずっと、胸の奥が重苦しい。そんな気持ちです」

「だって帰りたくないんだもん。国も、お家も、大嫌いだから……」

「その理由を聞かせてください。じゃないと、明日になれば、俺は無理矢理にでもウイヒメ様を連れて帰らなきゃいけません。どうして帰りたくないんですか?」

「皆、人形みたいだから……」



 少しずつ、ゆっくりと話し始めたウイヒメ。彼女が心に抱えている物は、俺が想像していた以上に大きい物だった。


 月夜の国の当主を代々務めている、天野家。彼らの懐を豊かにしているのは、ある特別な土のおかげだった。


 天野家は昔から豪商で、主に陶器を売っているそうだ。月夜の国にしかない土で作った陶器は、艶がとても良く、頑丈で、色がとても生えるそうだ。玄関にあったあの壺もそうだろう。王家御用達の品だ。各国からの注文も増え、今では国の人を雇って作っているらしい。

 さらには、王家が月夜の国から陶器を買う理由は他にもあった。それは、天野家に生まれる女子が美しいと噂されることにある。俺は聞いたことがないけれど、王家や金持ちの間では有名な話しなのだそうだ。目の保養、心の癒やし、といったところか。


 言われてみれば、口は悪いけれど、ツキヒメは綺麗な顔立ちをしていた。ウイヒメも将来が楽しみな容貌である。カケハシが激愛するのも無理はない。しかし、そのせいでウイヒメは全てにおいて居心地が悪い思いをしていた。



「他国に行ったとき、試しに万引きしてみたの。謝る父上に、お店の人は、あげた物だって言った。王家に壺を持っていったときに、目の前でわざと割ったこともある。でも、誰も怒らなかった。家に居ても外に居ても同じ。どんなに悪さをしても、周りはいつもニコニコしているだけ」



 それに比べて外の世界は、人の感情こそないものの、作られた表情や嘘の言葉も存在しない。時に山中は暑く、涼しく、激しい雨や、肌をしっとりと覆う朝霧があり、ウイヒメにとってそれは喜怒哀楽のように感じていた。

 本来ならば人から受け貰う情を、自然から貰っていたのだ。しかし、家に居ると、他国から買い物に来た客や、接待中の両親の表情はまるで人形のようで、それがとても怖いのだと言う。


 意外にもしっかりとした理由に、返してやる言葉が見つからなかった。俺とは逆だからだ。



「人には色んな悩みがあるものですね。俺は、どちらかというと外の方が居心地が悪いです。人の目が嫌いですから」

「だからそんなに前髪を伸ばしているの?」

「まあ、そうですね」

「ふーん。歩きにくそう」

「ツキヒメ様には不気味だと言われました」



 そう言うと、先程までの重たい雰囲気がパッと消えて、ウイヒメは腹を抱えて笑った。




「家での姉様は思ったことを素直に言っちゃうから。でもね、天野家のことになると人が変わったみたいになるの。恥にならないようにって、遠方に出向いたときは別人だよ。あ、ナオトに似てるかも」

「え?」



 きっと、今の俺は顔全体で否定しているだろう。頬が引きつっているのがわかる。面白かったのか、ウイヒメはまた笑顔を見せて、理由を教えてくれた。



「だって外の居心地が悪くて、人の目が嫌いなんでしょ? それでも、任務になるとこうやって外に出るし、私のことをちゃんと見てる。だけど、この場所は家の中に居るみたいなものだから、ナオトは素直に話してくれてると思うの。ってことは、本当のナオトは、ちゃんと周りを見ていて物事をはっきりと言う人。ね、姉様みたいじゃん」



 不気味だと言われたその日に似てると言われて、あまり良い気分はしないが、ツキヒメをよく知る妹がそう言うのだから、きっと似ているのだろう。



「褒め言葉として受け取っておきます」

「ものすごーく、嬉しくなさそうだけど! でも、切った方が良いと思うよ? ナオトの顔、全然わかんないし」



 ケラケラと笑いながらそう言って、ウイヒメは自身の肩を抱きながら身震いした。それもそのはず、いつの間にか外は暗くなり、風は冷たくなっている。一気に下がった気温は俺たちの体温を少しずつ奪っていった。



「ウイヒメ様、こちらへ」



 俺の足の間に座らせ、肩から毛布をかけて、二人で暖を取った。半袖に半ズボンのウイヒメは俺よりも寒いだろう。焚き火を起こしてあげたいが、残念な事にここは出入り口が一カ所しかない空洞だ。煙が籠もってしまうし、何より居場所を知らせてしまう事になる。


 自己暗示で体温を上げ、ウイヒメの身体を暖めた。それからしばらくして、ウイヒメの頭がこくりこくりと上下に動き始める。眠気が襲ってきたようだ。ふと、毛布が置かれてあった場所に大量の封筒があると気がついた。容赦なく入ってくるすきま風で飛ばされてしまいそうだ。それに、手を伸ばした、その時。



「ダメ!!」



 突然、うたた寝していたウイヒメが声を上げて覚醒した。足の間から出て封筒をかき集めると、隠すように抱きながらこちらを睨みつける。



「……読んだ?」

「いえ、風で飛ばされそうだったので、片づけようかと……」

「なーんだ。ビックリした」

「俺の方が驚きました。耳も痛いし」

「読まれちゃったかと思ったんだもん、ごめんね」



 封筒には宛名が書かれていた。手紙のようだ。どうしても気になるのか、一向に眠る気配がなくなってしまったウイヒメ。


 外に出て、石を拾ってきた俺は、それを重しに手紙が飛ばないようにした。



「これで安心できますか?」

「ありがとう。寝よっか、ナオト」



 自ら足の間に戻って来たウイヒメは、数分とかからずに眠りに落ちた。


 ウイヒメを横にして一人で外に出る。池の縁に座り、長い見張りの時間を過ごした。そして、俺は呟いた。



「眠れたら、そうしている」



 あんな悪夢さえ見なければ、きっとウイヒメと一緒に眠っていたことだろう。だけど、その悪夢は必ず夢に出てくる。そしてその悪夢は、俺にとって現実の世界だ。逃げることの出来ない〝現実〟。ならば、睡眠を避けるしか方法がない。


 邪魔で仕方のない前髪。そこから見渡せる視界の悪い景色。前髪を掻き上げて、大きく息を吐き出した。

 俺が髪を切らないのは、現実を見たくないからだ。――いや、正しくは、これが現実なのだと受け入れたくないから。俺にとっては、夢も、この世界も、両方が現実だ。夢は睡眠時間を短くすれば済むが、起きている間は、こうやって視界を悪くするしかない。

 不気味だと言われて周りに笑われても、そのせいで恥ずかしい思いをしても、俺が言い返さないのは自分で選んだ方法だからだ。


 いつものことだ、そうやり過ごすしかない。



「さてと……」



 自分の頬を叩いて気合いを入れ直す。背中でウイヒメの寝息を聞きながら、三種の襲撃に備えた。ここからは、自身の身体を温めるのにやっていた自己暗示を解いて、力の温存に入る。


 しかし、待てど暮らせど三種は姿を現さなかった。この場所になんらかの特別な理由があるのか、それとも偶然か。空を仰げば、東の方は、朝焼けでオレンジ色に染まっていた。ついで、雲一つない、水色の空が一面に広がる。誰かの声が森中に響いたのは、そんな清々しい朝を迎えた時だった。


 耳を澄ませると、その声はツキヒメのものだとわかった。


 蔦を掻き分けて、いまだに眠るウイヒメの寝顔を覗き見た。秘密の場所だと言っていた彼女を思い出して、今はまだ起こさず、ひとまず声の主の元へと移動する。そして、ツキヒメの目の前まで来て、立ちくらみするほど同時に押し寄せてきた怒りと焦りを、たった一言で本人にぶつけた。



「なにしてんだ!」



 その理由は、生い茂る木々だらけの場所で大声を出したことと、何よりヒロトと一緒でなかったからだ。

 ツキヒメは大声でウイヒメの名を叫んでいた。帰って来なかった不安からの行動だろうけど、ここに来るまで、一般人の足だと二時間はかかる。つまり、ヒロトが眠っている間に家を出てきたのだ。


 そんな彼女は、俺の頬を思いっきり叩いた。



「この、無礼者!」



 自分で着たのか、せっかくの着物は台無しで、とても良家のご息女には見えない。妹を探すためだとはいえ、家を出るのだからと着込んできたのはわかる。しかし、言わせてもらおう。



「ここをどこだと思ってるんだ。そんな格好で来るような場所じゃないし、なによりも、あんたのせいで三種に居場所がバレてしまった。来い」



 強引に腕を引っ張ると、顔を真っ赤にして怒りを露わにしたツキヒメは、「離しなさい!」と声を荒げた。だが、そんなものは無視だ。ウイヒメには申し訳ないけど、あの場所に連れて行くしかない。ツキヒメに合わせて早歩きで進むも、既に聞こえてきているのだ。ツキヒメも気づいたらしい。



「なによ、この声……」



 声の正体はハンターだ。数を増しているのか、それとも近くまで来ているのか。はたまた両方か。とにかく、たった一言しか喋れないハンターの「サチ」という声は、そよ風みたいに優しく吹いてくる風のようにして鼓膜を刺激した。その瞬間、全身の皮膚が粟立った。


 池に近づくにつれて、俺は走っていた。途中、何度も転げそうになるツキヒメに腹が立ち、俺が着ている服よりも重たい着物を脱ぐように指示して、身軽になってもらった。負ぶうことを嫌がったためだ。脱いだ着物をその場に置こうとすると怒られてしまい、着物は俺の肩に担がれている。


 こんな時に我が儘はよしてくれと喉まででかけた。だが、ウイヒメからあんな話しを聞いたばかりで、着物でいるツキヒメの心情を全く知らないわけではない。悪気はないのだとわかっているからこそ、その言葉は飲み込んだ。


 池まで来ると、汚さからか、ツキヒメが後ろに下がった。そして、あろうことか彼女はまた大きな声を出した。



「まさか、水の中に入れって言うんじゃないでしょうね!?」



 何気なくウイヒメが眠っている場所に視線を向けると、蔦から顔を出すウイヒメの姿があった。嫌な予感がした。



「ナオトの嘘つき!!」



 直後、がさがさと音を立てて茂みが揺れた。獣が喉を鳴らす音が、その奥から聞こえてくる。しかも、猫がじゃれてくる時に耳にする可愛いものではなく、狙った獲物をいつ襲おうかと殺気だっているかのような低い音だ。


 ハンターより先に獣が来てしまった。どこにいるのか姿は見えないが、向こうは違う。ツキヒメを背中に隠して、担いでいた着物を下に降ろした。

 乱れている呼吸を整えて、獣の気配を探った。その間に自己暗示で両手と両足を強固なものに変えて、さらに両手には言霊をかける。



「炎・包火ほうか



 火に包まれた俺の両手を見て、ツキヒメが小さな悲鳴を上げた。



「あなた、人間じゃないの?」

「人間……だと思う」



 そう答えると、視界の左端で獣が飛び出してきたのを捉えた。喉を鳴らしていた獣の正体は虎だ。体長は三メートルくらいあるだろう。かなりの大型だ。



「獣は夜に狩りをするんじゃないのかよ……」



 寝ているところを起こしてしまったのだろうか。とにかく機嫌が悪そうだ。


 虎へ歩みを進めると、虎は右へ左へと動き始めた。そして、前屈みの体勢となり、一気に飛躍する。鋭く、長い爪を剥き出しにして、押し倒そうと飛びかかってくる虎。そいつの両手首を俺の両手が掴んだ。食い込む爪に俺の顔が歪む。一方、虎は熱すぎる俺の手に咆哮した。離れようと暴れだし、あまりの力に互いに距離を取る形となった。


 体勢を立て直した虎はまた襲ってきた。今度は俺の喉めがけて牙を剥き出しにする。


 こんな状況にも関わらず、ツキヒメは着物を抱きかかえていた。よほど大切な着物なのか、「こっちに逃げて!」と叫ぶウイヒメに、首を横に振り続けている。さなか、ハンターの囁き声が再び聞こえ始め、あちらこちらの茂みがざわざわと揺れた。


 慌てて、虎の横っ腹に蹴りを入れた。闇影隊のブーツのつま先には鉄板が組み込まれており、加えて俺の足は硬く重い。太い鉄の棒で殴ったかのような、ずしりとした感触。これには流石の虎も身を引き、ハンターの存在に気づくと逃げるように去って行った。


 タイミングを伺っていたのだろうか。虎が去ったのと同時に茂みから出てきたハンターの群れ。その数およそ三十。瞬時に察した。



(ここじゃ戦えない)



 怯えるも逃げようとしないツキヒメに、離れた場所に居るものの、ウイヒメを一人にするわけにもいかない。かといって、こちらに来させるわけにもいかない。となれば、手段は一つだ。


 ツキヒメの手を引いて池に走った。だが、ツキヒメは入ることを頑なに嫌がった。



「水は……、水は無理なの!」

「はあ!?」

「――っ、怖いのよ! 小さい頃に溺れて、それからダメなの!」



 仮面を外したかのように、弱い一面を見せたツキヒメ。それは、ハンターが唾液を散らしながら両手を広げて飛びつこうとしている、まさにその時であった。



「炎・衝撃砲!」



 散り散りに吹き飛んだハンター。その隙にツキヒメを横抱きにして、彼女の腹の上に着物を乗せた。



「掴まれ!」



 言いながら、池の中に身を隠す岩に飛び移った。一つ、また一つと移動している間にツキヒメの身体は震えを増していく。よほど水が怖いのだろう。それも束の間、初めてハンターを目の辺りにした姉妹は大きな悲鳴をあげた。鼓膜がじんじんと痛むほどの絶叫だ。


 ツキヒメを穴の中に押し込んで、二人に出来るだけ奥に行くように指示した。幸い、入り口は狭く、俺の身体で塞ぐことができる。片膝を突いて、背中で入り口を覆い隠し、ハンターの襲撃に身構えた。しかし、その相手はこちら側に来ようとはせずに池の周りを走り回っている。


 それから、三十ものハンターが一斉に動きを止め、俺に向くなり、それぞれ違う茂みへ散っていった。その理由は、あの虎が仲間を連れて戻ってきたからだ。あろうことか、虎は迷うことなく池に身体を沈めた。泳いでこちらに来ようとしている。


 そんな時、父さんとの修行が脳裏に過ぎった。ある技についての注意点を話されたときのことだ。緊急事態でない限り、この技はむやみに使ってはいけないと、口酸っぱく言われた。なぜなら、身体に受けるダメージがあまりにも大きすぎるからだ。


 しかし、連れてきた虎の数は六頭もいるし、どれも同じような体長だ。奴らは目の前まで迫っていた。躊躇している場合ではない。



「炎・業火防壁ごうかぼうへき



 これこそが、使用の頻度を注意するよう言われた技。攻撃ではなく、身を守るための技だ。


 両手を広げて前へ出すと、梅の花のような明るい紅赤色の壁が浮かび現れた。その壁を筒状にするため、前へ出した両手を横に広げていく。


 防壁に虎の身体が触れると、みるみるうちに燃え上がった。近づくにつれて熱が伝わったのか、虎は泳いできた道を引き返し始めた。一方、壁に最も近い俺は焼かれるような熱さを直に感じていた。肌からは湯気のような煙があがり、体内の水分が蒸発している感覚に襲われる。次第に、戦闘服が焦げたような臭いが鼻を刺激した。



「ナオト、もういいから! 逃げようよ! ナオトが死んじゃう!」



 泣きじゃくりながらウイヒメが言った。


 俺だって、今すぐにでも二人を抱えてこの場から逃げ出したいんだ。だけど、池から上がった虎は未だに様子を伺っているし、こちらの体力が消耗するのを待っているかのようにみえる。まだ言霊を解くわけにはいかない。



「ウイヒメ様、俺は平気です。闇影隊ですから」



 そのうち諦めるだろう――、そう思っていた。

 だが、虎は諦めなかった。その間に、業火防壁の熱が空洞に充満してしまい、姉妹は汗だくで、俺は唾もでないほどに水分を奪われていた。となれば、七頭対一人の力勝負しかない。


 やむを得ず、言霊を解いた。瞬時に岩から岩へ飛び移り、最初の岩の上で立ち止まる。



「よし、来いっ!」



 二頭が同時に飛躍して、そのうちの一頭は池に下半身を沈めながら俺の片足に咬みついた。業火防壁で体力を削られているせいか、すぐに自己暗示で硬くするも、最初の時と違ってほとんど生身のままだ。

 もう一頭は喉元を狙いにきていた。



「炎・包火!」



 火のついた右腕で喉を守り、代わりに腕を咬まれてしまう。バランスが崩れ、危うく池の中に落ちるところであった。池に落ちたら最後だ。全身を喰い千切られてしまう。立て直して、腕に咬みついた虎を振り払った。瞬く間に別の虎が飛びついてくる。今度は左腕を犠牲にした。


 燃え上がる左腕に怯んだ虎は、俺への攻撃に失敗し池に落ちた。その虎を踏み台にして、次の虎が襲いかかってきたとき――。

 俺の全身に影がかかった。見上げると、太陽の光で照り輝く坊主頭が、虎に向かって飛びつこうとしている最中であった。その正体は青島隊長だ。池の向こう側にはユズキの姿もある。


 咬まれる寸前で、虎の首をがっしりと締め上げた青島隊長は、虎と共に池に身を沈めた。ユズキは、未だに俺の片足に咬みつく虎に全体重をかけて、青島隊長と同じくして沈んでいく。


 解放された俺は、急いで穴へ向かった。二人は無事であった。

 二人に手を差し伸べると、背後から物凄い大きな音が鳴り響き、続いて子猫のような泣き声が聞こえてきた。振り返ると、青島隊長が二頭を地面に叩きつけたのだとわかった。


 虎も体力が尽きたのだろう。一頭が逃げると、後を追うようにしてこの場を去って行った。それを確認して、もう一度手を差し伸べた。すぐにしがみついてきたのはウイヒメだ。



「俺が怖いと言った意味がわかりましたか?」

「うんっ。もう二度と勝手に出歩かない! だから、ナオトもあんな事はしないで! 約束して!」

「俺は闇影隊ですから。これが仕事です。それと、秘密の場所、皆にバレてしまいました。申し訳ありません」

「そんなこと、どうだっていいよ!」



 こうして、二人を連れて月夜の国に歩みを進めた。その間、俺は誰の肩も借りずに自力で歩いた。俺の様子をウイヒメが心配そうに見ていたからだ。これ以上の不安を抱かせないためにも、大丈夫だと態度で示したかった。


 国に到着すると、門のところで、カケハシと知らない女性が落ちつきなく立っていた。姉妹が同時に走り寄って行く。



「あの女の人は誰?」

「名は、マナヒメ。姉妹の母親だ。昨日の夕方に帰ってきて、隊長が顔を合わせていた」



 そうユズキが説明していると、マナヒメと目が合った。会釈すると、マナヒメは俺よりも深く頭を下げて、ウイヒメの頬を音の鳴る強さで、愛情を感じる手つきで叩いた。俺の姿を見て起きたことを想像したのだろう。


 母親に会えて安心したのだろうか。国への不満や、家族に対する違和感を語っていても涙一つ溢さなかったウイヒメが、小さな身体を震わせながらマナヒメに抱きついて、そして声を上げて泣いた。

 その光景は、胸に空いた穴を閉じるために、雑に縫い付けてあった糸をほつれさせるものだった。



「……母さん」



 暗闇に堕ちるような虚無を感じながら、無意識に、俺はそうポツリと呟いた。

 再び開いてしまった胸の穴から、「会いたい」という欲求が溢れ出てきた。



「生きてるよな……」

「そう信じよう」



 頭の中には、唾液を撒き散らしながら喰らいつこうと襲ってきた、獣とハンターの姿が浮かんでいた。

 すると、突然、身体の力が抜けて俺は前のめりに倒れ込んだ。力のコントロールを誤ったためだろう。走流野家について語ってくれたあの日、父さんが話していたとおり死にそうになった。



「修行の期間が短すぎたようだな。平気か?」



 俺の身体を仰向けにさせながら、ユズキが眉を下げた顔で見下ろす。



「どうだろう。こんな状態は初めてだから、どれくらいで回復するか……。それよりも、ウイヒメが心配だ。外の世界をどう思ってるのかな」



 そう話していると、当の本人がこちらにやって来た。大きな瞳に涙を溜めている。ウイヒメはユズキの隣に腰を下ろした。



「ナオト、ごめんなさい。帰ろうって言われたときに、ちゃんと帰ればよかった……」

「闇影隊ですからと、そう言ったじゃないですか。だから気にしなくていいんですよ?」

「でも、ナオトの怪我が……」

「でしたら、もし良ければ、俺が動けるようになるまで面倒をみてくれませんか?」

「私なんかでいいの?」

「勿論です。仲間は皆、壁の建設で忙しいので、ウイヒメ様が話し相手になってください」

「ずっとそばに居る!」



 そう笑顔で答えてくれたウイヒメの瞳から、溜まっていた涙が流れた。


 このようなわけで、天野家の豪邸の一室を借りて怪我の回復を待つこととなった。ウイヒメはずっと隣に居てくれるし、形だけではあるけれど、護衛にもなって一石二鳥だ。それと、任務の休憩時間にはヒロトが見舞いに来てくれた。

 包帯の交換をしてくれたり、自分で食べられるのに、食事まで面倒をみてくれている。今は、背中を拭いてくれている最中で、その間ウイヒメは部屋の外で待っている。



「同じ班だったらな……」



 そう言って、下唇を噛み締めたヒロト。ピアスごと噛んだようで、ゴリゴリとした音が聞こえる。



「ユズキから、ナオトが倒れたって報告されて気が動転しちまったけど、任務だからって自分に言い聞かせてやり過ごすしかねぇんだよな」

「やり過ごせてないじゃん。時間さえあればここに来てるし」

「まあ、そうなんだけどよ。……卒業試験に合格した日、約束したこと覚えてっか?」



――「いいか、ナオト。必ず俺と親父のところに帰って来い」 ――、ヒロトはそう言っていた。



「うん、覚えてるよ」

「この約束は絶対だぞ。もうなにも失いたくないし、俺だってそんな思いはさせねぇから」



 虚ろな笑みで言ったヒロトは、自身の両手を擦り合わせて、その手で俺の両頬を包み込み、軽く叩いた。



「安心しろ、だろ?」

「そういうこった」



 月夜の国へ向かう最中に抱いていた違和感を、綺麗さっぱりと消し去ってくれたヒロトは、休憩時間が終わる直前に部屋を出て行った。入れ違いでやって来たのは、まさかの人物だ。

 傲岸不遜な態度で、座る様子もなく、黙って俺を見下しているのはツキヒメだ。


 襖の隙間から凍りついたような表情でこちらを覗いているウイヒメは、気まずさからか、そっと襖を閉めた。任務前の出来事を聞かせてしまったからだろう。


 それはさておき、俺はツキヒメを怒らせるようなことをしただろうか。自分に問いかけるも、思い当たる節がない。



「とりあえず、座ったら?」



 そう声をかけて、「これか」と気づいた。なぜかというと、ツキヒメは目尻をこれでもかと吊り上げて、さらに凄まじい怒りを眉の辺りに這わせる顔つきへと変わったからだ。

 妹には敬語で、自分にはタメ口なのかとご立腹であるらしい。正直なところ、無礼者だと言い返してやりたいくらいだ。しかし、ツキヒメは依頼人の娘だ。本音は飲み込み、任務遂行中である以上、ここは折れるしかないだろう。



「数々の無礼をお許しください」



 言いながら、腸が煮えくりかえる。我慢しろと、何度も自分に言い聞かせた。

 ようやく腰を下ろしたツキヒメは、鼻で笑った。



「わかればいいのよ。これからは身分をわきまえる事ね。それと、今回の件だけど……」

「なにか問題がありましたか?」

「大ありよ。私の着物を汚した挙げ句、可愛い妹を泣かせ、青島隊長と……、名前は忘れたけど、あの女が来るまでやられっぱなしだったじゃない。あなた、それでも闇影隊なの?」

「申し訳ありませんでした。もっと修行に励みます。あと、彼女の名前はユズキです」

「どうでもいいわ。あなたと同じで役に立ちそうにもないし。居るだけ邪魔よ」



 その言葉に、プツン――と、血管が切れた。前言撤回だ。ツキヒメに折れる必要はない。不気味だろうが、無礼者だろうが、見下されようが、俺に対する言動はいくらだって我慢してやる。だけど、ユズキを馬鹿にされては黙っていられない。


 苛立ちを覚えた俺は、身体中が痛いのなんて無視して、溢れ出てくる殺気をそのままツキヒメにぶつけた。



「お前みたいな奴は今までにイヤというほど見てきたけど、お前より酷い奴はいなかった」

「な、なによ。そんな長い前髪でなにを見てきたっていうの? 不気味なだけじゃなくて、気持ち悪いわ」



 かろうじて動く左腕で前髪を掻き上げた。真っ直ぐにツキヒメを見てやろうと思ったのだ。目に焼きつけて、死ぬまで脳裏に刻み込んでやる。



「お前のことは一生忘れない。大嫌いだ」



 目を見開いたツキヒメは、瞬く間に部屋を去って行った。そんな姉の姿を目で追いながら、そろそろとそばに来るウイヒメ。



「謝らないですからね、俺は」

「わかってるよ。ただ、その……、なんていうか……」



 一息置いて、妙なことを口にした。



「頑張ってね、ナオト」

「……はい?」

「姉様は、きっと諦めないと思うから」



 なにが面白いのか、口元に手を添えて笑うウイヒメは、「あんな姉様の顔、初めて見た」と言葉を続けた。


 あれから数日がたった。壁の建設が終わり、俺の怪我の具合もほとんど回復した。俺たちは今から、北闇に向けて出発する。


 帰る前に、姉妹を助けてくれたお礼だと言って、マナヒメがある物をくれた。俺の瞳と同じ色をした、薄紫色の平べったい石が紐に通された首飾りだ。身に余る高価な物を手渡されて、最初はとても戸惑った。俺は王家のような貴族でもなければ、当主という地位にある家庭で育ったわけでもない。一般人が闇影隊に入隊した、ただそれだけの存在だ。

 それなのに、俺の背後に回ったマナヒメは、何も言わずに首飾りをつけてくれた。



「ありがとうございます」

「いいのよ。あの子たちの命に比べたら、こんな物は安すぎるわ」



 自分の瞳と同じ色の首飾り。手の平に乗せて、こう思った。



(あの言葉を忘れずに過ごせるかもしれないな)



 薄紫色の瞳を持つ者は、必ず命を狙われる――。

 握りしめて、マナヒメに深くお辞儀をした。



「ツキヒメがね、ナオト君の瞳がとても綺麗だって言ってたの。だからその色にしたんだけど、気に入ってくれたかしら?」

「え? あ、はい。大切にします」



 こうして、俺たちは北闇へ足を進めた。その間、考えることは山ほどあって、なかでも特に心に引っ掛かったのはマナヒメの最後の言葉だ。

 俺の事を全く知らない者に褒められたのは、生まれて初めてのことだった。しかも、褒めてくれた相手はあのツキヒメだ。

 歩きながら、ふと小川の方を向いた。ゆっくりと穏やかに流れる水は、ツキヒメとのやり取りを思い出させた。

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