第4話 壊れかけた心

 その日、初めての休暇をもらった。

 

 父さんとヒロトが帰ってきたのは、俺が居間で二度寝の体勢に入った頃だった。慌ただしく土足で家に上がってきたのを見て、眠気は飛んでしまった。二人の行動にはこんな訳があった。

 

 父さんはこう話してくれた。


 任務を終えて、北闇へ歩みを進めている時のこと。領土内に踏み込んだかと思いきや、気がつけば領土外に出ている。これの繰り返しで、まるで鏡を出入りしているかのようだったそうだ。そうこうしている間に他の部隊と合流していき、その中にはヒロトの班もあった。全員で調査を試みるも解決策は見つからず、野宿生活は半月にも及んだという。


 しかし、今朝、煙ったような青白い夜明けに照らされる空が、北闇の方向だけそれよりも明るく光った。ドームが消えた瞬間を目撃したのだろう。父さんたちの目には、爆発したように見えたらしい。とにかく、大勢の闇影隊が無我夢中に正門を目指した。



「そうして、やっとの思いで帰って来られたんだ。ナオト、いったいなにがあったんだ?」

「それがよく覚えてなくて……」



 咄嗟に嘘をついてしまった。父さんとヒロトの視線から逃げるように、畳の縁に視線を落とす。


 二人の戦闘服は汚れているだけでなく、所々に怪我を負っていた。ヒロトなんて、頬に抉られたような深い傷跡まである。それなのに、俺は傷一つない。人ではないナニかと接触したっていうのに、まるでそんな出来事などなかったかのように。


 おもむろに立ち上がり、玄関に向かった。靴を履いていると、背中に父さんの気配を感じた。



「ナオト、出かける前に父さんの話しを聞いてくれ」

「……なに?」



 父さんの声はどこか寂しそうだ。



「父さんが国に戻ってきたとき、まだ朝日が昇って間もないというのに、大勢の人が家から出ていたんだ。お年寄りから子どもまで、みんなが混乱しているみたいだった。それから、口を揃えて言ってたんだ。どうして自分たちは同じ行動を繰り返していたんだろうってね」

「…………行ってきます」



 身体が強張っていたせいか、乱暴に玄関のドアを開けてしまった。すると、目の前には肩をピクリと揺らす男性の姿が。戦闘服を着ている。



「えっと、父さんに用ですか?」



 咳払いをする男性。



「いや、君にだ。本部からの呼び出しだ」



 男の声が聞こえたらしく、父さんが顔を出す。



「息子になにか?」

「すまないが、こちらにも内容は伏せられている」

「これだけ教えてくれ。誰からの呼び出しだ?」

「……タモン様直々に」



 父さんの全身が、先程の俺よりも目に見えて分かるほどに強張った。一方、俺も似たような状態にある。


 玄帝・タモン――。


 この人は、北闇の国で一番偉い人だ。俺は一度もお目にかかったことがない。しかし、父さんの反応を視るとあまり良い予感はしない。



「ナオト、本部に行くのだから、今すぐ戦闘服に着替えてくるんだ」



 冷静を装っている父さんだが、このタイミングでの呼び出しだ。感づいただろう。今回の一件と俺が関係している、と。


 本部へ向かう足取りはとても重かった。なぜなら、そこに行けばユズキがいるからだ。


 彼女はあの時のことをどう思っているだろうか。二人で初めて任務らしいことをしたのに、なにも出来なかった俺に呆れているのではないだろうか。もっと言えば、友達になったことを後悔していないだろうか。


 なんのための力だ。なんのために罵声に堪えてるんだ。もう聞き慣れているはずなのに、呪われた双子・化け物、この二つの言葉が重くのし掛かる。


 自責の念に駆られていると、つま先に石段があたった。そこには、鳥居と、見上げるほどに長い石段がある。ここを上がれば本部だ。



「あの、一つ質問してもいいですか?」

「なんだ?」

「タモン様ってどういう人なんですか? その、会ったことがなくて……」



 石段を登りながら、少しの間をおいて男が答える。



「鬼のような人だ。絶対に怒らせてはならない。これだけ言えば意味はわかるだろう?」

「はい……」



 聞かなければよかった。


 石段を上がりきると、見渡すほどの和風庭園が出迎えてくれた。池の中では色鮮やかな鯉が泳ぎ、手入れされた木々では鳥が羽を休めている。その奥にある大きすぎる平屋の建物、あれが本部だ。ここには、青島隊長のような上官や、他国から使者、国を出入りする際に必要な通行書を発行するために訪れる一般人や商人しか来ない。


 つまり、用がない者は立ち入るな、ということだ。


 中に入ると、廊下を挟んで業種別の部屋が並んでいた。入り口近くにあるのは医療隊室と伝令隊室だ。医療隊室のドアには白い布、伝令隊室には青い布がぶら下がっている。ふと、俺を呼びに来た男の人の肩を見た。右肩に青い布が巻かれていた。伝令隊らしい。


 さらに奥へ進むと、ここで聞いたことのない職業が出てきた。



「上級歩兵隊?」



 零れた声に、男がちらりと振り向く。



「闇影隊には二つの階級がある。お前のような新米は下級歩兵隊と呼ばれる。青島さんは上級歩兵隊だ。上級歩兵隊になれば、そこからさらに職を選択できるようになるが、まあ、時期がくれば訓練校で説明があるだろう」



 話し終えたところで男性が立ち止まる。後ろから覗くと、〝不撓不屈〟の文字が彫られた大きな扉があった。



「タモン様、走流野ナオトを連れてきました」

「……ご苦労。お前は下がれ」

「御意」



 入るように促して、男は去って行った。


 扉の向こうに居る人には、出来れば死ぬまで会いたくなかった。

 ふつふつと湧いてくる怒りに、深く息を吸う。


 僅かな情報だけど、これだけは知っていた。


 国や民を守るだけでなく、闇影隊を統率している玄帝。他にも外交や国帝会議、その他諸々に出席し、多忙な日々を送っている。他国では、闇影隊の統率は別の者が取り仕切ると聞くが、タモン様は違う。国や民を想う心は熱く、そのためなら何事にも一切手を抜かない人なんだそうだ。憧れを抱く人も多い。けれど、俺は違う。


 ヒロトが喧嘩をするようになってからはなくなったが、同じ年くらいの子に石を投げつけられたり、家の壁に落書きや張り紙をされたことがあった。悔しくて、悲しくて、「誰か助けて」と、ずっとそう嘆いていた。


 壁の汚れは、ヒロトと二人で、父さんが帰ってくる前に綺麗にしていた。余計な不安を抱かせないようにとしていたせいか、ヒロトはみるみるうちに喧嘩が強くなり、俺は作り笑いが上手くなった。


 民を守る? 一度だって、守られたことなどない。


 重たい扉を開けると、やはりユズキがいた。玄帝がいるというのに、敬意を払う気がないのか見事な仁王立ちでいる。態度の悪すぎる彼女に、先程までの怒りを打ち消されてしまった。二人は睨み合っていた。


 そんななか、俺は初めて目にするタモン様を凝視していた。


 年齢は三十代半ばくらいだろうか。片手で赤い髪を掻き上げたタモン様の額に見えた、二つの黒点。それは隆起していた。鬼のような人だと言った伝令隊の言葉を思い起こす。


 机に両肘をついて、組まれた指を土台にして顎を置いたタモン様。



「ようやく揃ったことだ。本題に入るとしよう」



 ピリピリとした執務内に、タモン様の声が静かに吐かれた。慌ててユズキの隣に歩みを進める。



「まず始めに、この国を呪縛から解いたこと、礼を言う。下級歩兵隊にしては大手柄だ。ユズキから詳細を聞いたが、お前にも確認したい」



 タモン様からの質問は、国民の言動や、外の様子。犯人の特徴や、俺たちの体調に変化はないか、などであった。その全てに答えると、ユズキと同様であったのか、椅子に背中を預けた。



「あいつは何者なんですか?」



 俺の問いに、タモン様が眉を寄せた。



「わからん。だが、姿を変えられることから推測するに、ある生き物ではないかと考えている」

「人ではなく、生き物ですか……」



 代わって、ユズキが口を開いた。



「お前たちでいうところの、重度だ。間違いない」



 重度――。授業ではほんの少ししか触れなかったが、それはある体質を持つ生き物のことである。


 この世界には、人害認定の化け物以外に、人間と混血者と呼ばれる生き物が存在する。


 前にも説明した通り、混血者とは、普段は人の姿をしているが、その姿を半分だけ別の生き物に変えられる人たちのことだ。その現象を、半獣化・半妖化という。


 しかも驚いたことに、ベースとなっているのは、人害認定の生き物だ。獣になる者を半獣人、妖となるも者を半妖人というが、まとめて混血者と呼ばれている。


 なにかの病気であるらしく、特定されていない原因不明の難病で、人の姿に戻れることから軽度であるとされている。


 これらを踏まえた上で、つまり重度とは、人の姿をしていない者のことだ。本来の姿が、半獣人か半妖人のままであるということ。彼らは発見次第、すぐに王家へ引き渡す決まりだが、発見されたのは何十年も前のことらしい。


 そこで、ふとこんな疑問を抱いた。



「どうして重度なんですか?」

「それは、なにを根拠に……ということか?」

「はい」



 気にするところはそこかと、タモン様は大きく息を吐き出した。



「あいつらは、症状が悪化すると、獣や妖そのものになると言われている。あくまで王家の推測にすぎんが、そんな報告は、俺がこの地位に就いてから一度も聞いたことがない」



 タモン様の鋭い眼光が俺の身体に突き刺さる。



「重度ってのは、それくらい伝説に近い存在だった。それがどうだ。老人に姿を変えられることから、お前たちの目の前に現れたのは、おそらく妖化の進行が始まっている奴だ。いいか、お前が気にしなきゃならんのはここだ。顔がバレてないとはいえ、そいつは可能性が二つと言った。ここまでやったくらいだ。喉から手が出るほどに欲しいってことなんだよ」

「重度ではなく、妖の可能性はないんですか?」



 人害認定の一種、妖。教科書に妖の絵が載っていたが、絵の下には想像図と書かれていた。誰も見たことがないからだ。こちらの方が伝説っぽく感じるが、重度よりも時間をかけて説明された。



「妖は確かに存在するが、奴らは人との接触を避けている。こちら側から事を起こさない限りは姿を現すことはない。だが、重度は違う。人に抱く殺意は凄まじく、当初発見した闇影隊が捕獲に挑んだところ、陣形は半壊したらしいからな」

「じゃあ、本当に重度なんだ……」

「ナオト、厄介なのはこれだけではないぞ」



 黒岩ジロウという男は、北闇に存在しない――。

 ユズキから告げられた真実に目眩を感じられずにいられなかった。



「最初から監視されていたってことなのか?」

「というよりは、ジロウという男になることで、外の様子を伺っていたんだろう。幸い、僕たちは依頼人と距離を置いて歩いていたし、会話も全て小声だった。人間に嫌われていなければ班員のそばを歩いていたところだ。皮肉だが、感謝するしかない」



 どうしてだか、ユズキの最後の言葉は、自分自身も含めて言っているような気がした。


 それにしても、どうして俺とユズキだけが幻覚にかからなかったのだろうか。俺たちの共通点といえば、友達以外になにもない。



「とにかくだ。今後は今まで以上に警戒して任務に励め。本来なら国内待機を命じるところだが……」



 次に国民が被害に遭うときは、これだけでは収まらないかもしれない。俺たちは外で囮になるしかないのだ。その現実に、思わず拳に力がこもる。



「そんなに怖がることはない。常に精鋭部隊の者に監視させるから安心しろ。何か起きたとしても重傷で済むだろう。死にはしねぇよ」

「そうじゃありません。死ぬことが怖いんじゃ……」

「じゃあ、なんだ?」

「どうして俺が、あんな奴らのためにっ――」



 全てを言い終える前に、ユズキが俺の口を塞いだ。本心は彼女の手の平に吸い込まれてしまう。そして、無言で首を横に振られた。


 こうして、俺とユズキは執務室を後にした。帰る前に気分を落ち着かせるようにと、石段に腰を下ろす。そして、前のめりに座り込んで、腹の底から息を吐き出した。


 あの時、ユズキが止めてくれてなかったら、闇影隊として恥ずべき発言をタモン様に吐露していた。



「ごめん……」

「僕に謝る必要はない。前にも言ったが、お前の気持ちを理解できないわけではないからな。ただ心配だ」



 上体を起こしてユズキの方を向いた。



「お前が壊れそうで壊れないから、もしそうなったとき、どんな崩れ方をするんだろうと思うと、とても放っておけない」

「別に俺は壊れたりなんかしない」

「このままでは嫌でもその日はくる。今のお前は、父と兄に尊敬を抱きながらも、どこか劣等感を抱いている。その相反する感情のせいで、ずっと苦しんでいるんじゃないのか? だからタモンに感情をぶつけようとしたんじゃないのか?」



 視線を落として一点を見つめたまま、ほんの一瞬ではあるが俺の思考はストップした。


 そういえば、父さんとヒロトが帰ってきたときに、俺は二人のどこを見ていただろうか。なにを見て、どう感じていただろう。そんなことが脳裏に過ぎったのだ。


 気持ちの悪い汗が肌を這う。



「そうかもしれない……」



 家族が無事に帰還したことよりも、戦闘で負った傷の具合を比較するだなんて。



「俺ってどこか変なのかな?」

「いいや、正常だ。だが、あまりにも視野が狭すぎる。着いてこい、一つずつ片付けるぞ」



 どこに行くかと思えば、人が多い商店街で足を止めた。そして、俺に「ここから動くな」と言う。ユズキは一人で歩き始めた。


 俺はただ彼女が遠ざかっていく後ろ姿を眺めていた。すると、どうだろう。道ばたで会話をしている人々が、彼女のために道を空けてくれるではないか。しかも、通り過ぎていく彼女を見つめる視線は問題だらけであった。


 ユズキがこちらに振り返り手招きをした。それから公園に向かう。ベンチに座って、ユズキに尋ねた。



「なんでユズキが?」



 ユズキは、俺とヒロトと同じ視線を浴びていたのだ。


 公園の入り口を眺めながら、ユズキが言う。



「僕についてはまた今度だ。どうだ、視野の狭さに気づけただろう? とはいっても、まだまだ……だがな」



 俺に向いてふわりと微笑む。

 ユズキの行動に、自分の小ささを突きつけられる。



「女々しいなあ、俺って……」

「限界の頂点は人それぞれだ。でも、だからといって、周りを突き放すようなことはするな。余計に孤独を感じるぞ」

「たしかにそうかも」



 さらに、ユズキはタモン様とのやり取りを持ち出す。



「あと、執務室でお前が言いかけたこと。自分も同じことをしているんだぞ?」

「身に覚えがないんだけど」

「じゃあ、どうしてお前はそこまで悩んでいるんだろうな」

「俺がみんなとは違うから……――っ」



 ああ、本当だ。俺は無意識に周りとなんら変わりないことを考えている。しかも最悪なことに、自虐でだ。

 ただでさえ息が詰まりそうなのに、さらに追い詰めているのは自分自身じゃないか。



「言い方は悪くなるけど、お前はもう慣れているはずだ。周りに振り回されるな。時間の無駄だ。それと、家族の件だが、問題ないと思うぞ」

「どういう意味だ?」

「父と兄が自分と〝同じ〟だとわかっているだろう? ……いいか、〝同じ〟なんだ。最初から比較する必要なんてどこにもない」



 そう言われて、急に、風船から空気が抜けていくような脱力感に襲われた。ずっと悩みの種であった、噂と家族。この二つの悩みは、鎖となってずっと俺の心を拘束してきた。


 それなのに、ユズキの言葉で鎖が緩んでいく。まるで、足枷が外れた囚人みたいに、身体が自由になった気がした。



「本部に向かいながらずっと考えていたんだ。あの時、俺はただ逃げただけだったから、呆れてるんじゃないかなって、そう思ってた。友達になって、しかも同班で、後悔していないかなって……」

「後悔はしていないが、呆れたのは確かだ。嫌というほどヒロトの気持ちがわかった。お前のような奴と一緒にいれば自然と過保護にもなる」

「だよな……」

「だが、呆れたから友達をやめるっていうのは違うだろう? 僕なりにお前を取り囲む環境は理解しているつもりだ。その上で、友達として出来ることは、ケツを蹴り上げることだと思ったから僕はここまで言うんだ。この世界は強くならなきゃ生きていけない。今回の事件でそれを学んだはずだ。ならば、やるべき事は一つだ」


 強くなれ――。


 そう言ったユズキの目は、黄金の瞳がいつもよりも強く輝いていた。


 家に帰ると、居間には父さんとヒロトが座っていた。話があるみたいで、俺の帰りを待っていたらしい。よほど大切な内容なのか、父さんは硬い顔つきで「座りなさい」と言った。


 ヒロトの隣に腰を下ろすと、父さんはそのままの表情で話し始めた。



「二人がもう少し大人になってから話そうと思っていたんだけど、今回の事件で気が変わった。今から話すことはとても大事なことだから、ちゃんと聞いて欲しい」



 俺たちが頷いたのを確認して、一息置いてから話しを続ける。



「走流野家に生まれた子どもは、父さんを含めてこの薄紫色の瞳を持っている。とは言っても一家の歴史は浅く、お爺ちゃんと父さんと、お前たち二人の四人だけだ。父さんは任務で何度も国外に出向いているけど、同じ瞳の色をした人に出会ったことはない。おそらく、これは走流野家だけの特質だろう。その事で、父さんが小さい頃に、お爺ちゃんからよく言われていた言葉がある」



 それは、〝薄紫色の瞳を持つ者は必ず命を狙われる〟とのことであった。これは母さんも知っていて、結婚したその時からよく聞かされていたらしい。


 二人が爺ちゃんの言葉の意味を理解したのは、俺たちが生まれてからだった。



「なにかあったのか?」



 天井を仰ぎながら、毛ほども関心のなさげな声で問うヒロト。父さんは目を伏せて、記憶の糸をたぐっているかのような口調で答えた。



「ヒロト、お前は一歳の時に誘拐されているんだ。その時、父さんとお爺ちゃんは任務で国外に出向いていて、代わって救出に向かったのは母さんだ」



 あまりの衝撃的な発言に、ヒロトはテーブルの上に乗っかる勢いで前を向いて、声を大きくした。



「ナオトは!? こいつは無事だったのか!?」

「色々あって、ナオトは三歳まで本部で育ったからね。タモン様や闇影隊も近くにいるから、身に危険が及ぶ事はなかった。でも、あいつはまたやって来た。二人が八歳の頃だ。国内に侵入する前に阻止されたが、二度あることは三度ある」



 そして、その三度目が今回の事件なのではないか。

 父さんが走流野家について話すことを決心したのには、こういった理由があったからだった。


 そこでしばらく沈黙した。俺は幼い頃の記憶を思い起こしていた。




 出産時からの記憶があるのだから、もちろん本部で育ったことも覚えている。迎えに来てくれた父さんが涙目だったことも、家に帰ると、じいちゃんの後ろに隠れながら様子を伺うヒロトがいたことも、鮮明に。


 だけど、そこに母さんの姿はなかった。それどころか、写真や衣類といった、母さんを知る全ての手掛かりが家には存在していなかった。唯一知っているのは、爺ちゃんが教えてくれた髪色のことだけ。


 あれは確か、双子なのにどうして髪色が違うのかを聞いたときだった。じいちゃんは言った。「ヒロトの髪は、母さんの遺伝だ」、と。


 それくらい俺は母さんを知らない。しかし、それもこの瞬間までだ。父さんの口から母さんの話が聞けたことによって、ついに真実を知れる日がきた。



「母さんは、俺のせいで家を出たんじゃないの?」



 父さんが目を見開いた。



「なにを馬鹿なことを言っているんだ。そんなわけないだろう。でも、どうして消えたのかは父さんにもわからない。母さんはヒロトを正門に置いたまま戻っては来なかった。だけど、置いた姿を見た人はいない。あれだけ監視がいて、門番もいるのに、母さんは煙のように消えてしまった」



 軟らかい目色で、しかし声は頼りなく震えているように感じた。まるで、渦巻きの中に心を浸しているかのようだ。きっと、すごく大切な存在だったに違いない。


 そんなことを思いながら、俺は深く息を吐き出していた。ずっと胸の奥でしこりのように固まっていた罪悪感が、徐々に形を失っていくのがわかる。ヒロトから母さんを奪ったのが俺ではないとわかったからだ。その代わりに、今度は母さんの身になにが起きたのか、それだけが気にかかる。


 父さんは、「次は身体能力について話そうか」と、半ば強引に母さんの話を終わらせた。


 訓練校に通っていた頃、先生はよく、「さすがセメルさんの息子だ」と褒めてくれた。

 父さんが訓練校時代に残した成績は、混血者ですら超える者はおらず、最近になってようやく並んだ子がいると先生から聞かされたことがある。他のクラスの子で面識はないけれど、つまりは、父さんの身体能力は混血者よりも抜きん出ているということだ。

 そういったこともあって父さんは有名人なわけだが、これは瞳に力が宿っているからなんだそうだ。



「二人はまだ無意識に能力を使っているから気づいていないかもしれないけど、自己暗示をかけることができるんだ。もっと速く、もっと遠くへ。そう強く思えば思うほど足は軽くなり、記録は勝手に伸びていく。だけど、父さんは人間だ。混血者よりも体への負担は大きく、燃えたように熱くなった体のせいで死にかけた事もある……」



 身に覚えのある現象に、俺の頭にはある出来事が過ぎった。老人から死に物狂いで逃げたときのことだ。たしかに身体の内側から熱くなるのを感じていた。


 思い返せば、あの時のスピードを今までで一番速かったのではないだろうか。


 ともかく、暗示をかけられるのは自分にのみで、他の人には全く効果がないと父さんは続けた。



「それと、父さんたちには「言霊」と呼ばれる能力がある。自己暗示で身体の一部にエネルギーを集めた後に必要となる、いわば呪文のようなものだ。発動させるには強い念が必要で、しかし、時に最悪な結果を招く事もある」



 そこで、ヒロトは父さんの話しに割って入った。



「ちょっと待てよ、親父。話しが大きすぎてすぐに理解するのは無理だ。それって今話さなきゃいけねぇ事なのか?」

「あんなことがあったんだ。二人には少しずつでいいから理解してもらわなきゃならない。それに、言霊は自己暗示よりも重要なことだ。いいね?」



 いつもよりも低い声でいて、父さんは俺たちの目をじっと見ていた。



「例えば、人の死をイメージしてはいけない。言霊は使い方を間違えると簡単に人を殺してしまう。相手に対して少しでも哀れみや同情といった感情があれば別だが、もし仮に本気で死んでほしいと願った時……。相手は悲惨な死を迎えることになる。これは、〝絶対〟だ」



 言い終えるのと同時に、それが簡単なことではないと思い知る。なにせ、執務室でのことがあったばかりだ。



「それって難しいんじゃ……」

「ナオト、どれだけ難しいことでも自由に使いこなせるようにならなきゃいけないんだ。仮に、ただのデコピンに言霊を与えるとしよう。指先にエネルギーを集中させて、技を発動させる。単純な動作だが、放たれた力の差を決めるのは感情だ。それに込められた念がどれほどかによって、相手が受けるダメージは大きく異なる」

「もしも、殺意があったら?」

「相手の頭は吹っ飛ぶ。そうならないために、父さんはこれから二人に言霊の使い方を教える」



 つい、視線がヒロトに集中した。

 ヒロトは喧嘩っ早く、口も悪い。この年齢で不良だと認知されるほどだ。俺は格好いい兄だと思っているけど、それはヒロトの優しさを知っているからだ。

 ただ喧嘩をするだけではなくて、必ず理由があって、信念がある。ヒロトの喧嘩は、家族を守るためであり、噂を否定するためだ。噂を根っからひっくり返せる証拠こそはないけれど、噂が消えない限りヒロトは喧嘩をやめない。


 けれど、そんなヒロトが言霊を習得したらどうなるのだろうか。


 父さんの話しで最も重要なのは、感情だ。今までに死者がでていないことから、手加減を知っているのだろうけど、それでも過剰に考えてしまう。


 余計な不安を抱く俺を他所に、ヒロトは疑問を口にした。



「そういえば、俺たちの能力は混血者に劣らない……って先生が言ってたけど、あれってどういう意味だったんだろうな。だってよ、あいつらは半獣化しない限り俺たちには勝てねぇわけじゃん?」



 言われてみればそうだ。彼らは、半獣化・半妖化しないかぎりは人だ。とはいっても、そこらの人間よりは力のある人だが。しかし、半獣化・半妖化されると、力量の差は大きく広がる。


 少しの間を置いて、父さんが答える。



「父さんからの話しはこれで最後になるけど、今言ったヒロトの言葉がそうだ。父さんたちと混血者は実は似た力を持っている。そして、先生が言ったのは、身体能力のことではなく言霊のことだ。混血者は己の特技を生かして、言霊で力を与える。このやり方は父さんがやっている方法となんら変わりない。ただ、彼らは半獣化・半妖化しないと言霊を使うことができない」

「……つまり、俺たちも病気ってことなのか?」



 走流野家に混血者はいないのに、なぜヒロトはそんな謎めいたことを口にしたのだろう。


 沈黙が続く中で、突然、出の悪い水道水のようにして答えが喉を通ってくる。



「俺たちも……じゃない。正しくは、俺たちのほうが、だよ……」



 どうして、人々は化け物だとか、呪われているだとか、飽きもせずにずっと同じことを言い続けるのか。それは、俺たちの姿が人間だからだ。


 混血者は姿を変えない限り言霊とやらを使えない。周りもそれは知っているだろう。それなのに、無意識のうちに俺たちは力を見せつけていたのだ。


 まだまだ、と言っていたユズキ。あれはおそらく、このことを指していたのだろう。だけど、俺がこんな調子だから、全てを話してはくれなかった。


 無性にユズキに会いたくなったのと同時に、友達を守る力が欲しいと心の底から思えた。


 全員を黙らせる事が出来るのなら、ユズキを少しでも危険から遠ざけることが出来るのなら――。



「父さん、俺、やるよ」



 自然と出てきた言葉だった。今までとは違う、なにか新しい感情が芽生える。



「場合によっては大怪我をするぞ?」

「それでもいい。やらなきゃいけないんだ」



 父さんの目を真っ直ぐに見た。その横で、「やってらんねえ……」とぼやきながら部屋を後にするヒロト。止めはしなかった。これでいいと思えた。


 こうして、俺は父さんに連れられて、もう一度タモン様の居る執務室に行った。修行をするために、休暇の許可をもらうのだ。


 タモン様が俺に向く。



「ほお……。迷いは消えた、か」



 そう言って、父さんに向いた。



「話したのか?」

「はい。息子達には早すぎると言いましたが、正直なところ、遅すぎたと思っています。親父がそうしたように、息子達がもっと幼い頃に話しておくべきでした」

「そうか……」

「それで、許可は頂けますか?」

「いいだろう。ただし、場所は指定させてもらう。それ以外の場所での修行は認めん」

「わかりました」

「ナオト、外にいる男に鍛錬場と伝えるんだ。案内してくれるから、先に一緒に言って待ってろ。セメルと話す事がある」

「了解です。……じゃあ、父さん、また後で」



 執務室を出ると、ここに案内をしてくれた、あの伝令隊の男の人が立っていた。タモン様に言われた通りにすると、「着いてこい」と言って歩き始める。


 男は、ニスケと名乗った。



「まさか、今日の内で二度も会うとはなぁ。それに、鍛錬場を使うときた。あそこは特別な者しか入れないんだぞ」

「特別……ですか。例えばどういう人が?」

「人前で修行できない者……。精鋭部隊って知ってるか?」

「名前だけなら何度か耳にしています」

「奴らが請け負う任務は機密なものばかりだ。そのぶん日々の鍛錬は怠れない。精鋭部隊は隠密行動で任務を遂行しなければならないこともあって、決して人前では修行をしないんだ」



 話しながら、ニスケさんは重たそうな鉄の扉を開けた。中はとても薄暗く、壁は人工的な手触りで滑らかだ。長い階段は、かなり下へと続いている。驚いた事に、本部には地下が存在するらしい。松明を手にとって一段ずつゆっくりと下りていった。


 暗闇の奥から吹いてくる風に、ふと歩みを止めた。水の匂いを含んだ風が肌をなでてくるのだ。

 いつの間にか、滑らかだった壁はゴツゴツとした岩肌のような質に変わり、階段も形がいびつになっていた。そして、辿り着いた場所を見て息を飲み込む。


 鍛錬場だというから、道場みたいな場所を想像していた。しかし、目前に広がるのは、人が大勢住めるほどの空間だったのだ。そこには作業をしている人が何人かいる。


 壁に開いた穴から滝のようにして流れてくる水を引くために作られたであろう、用水路。だが、用水路にしては浅い。ニスケさんによると、小川に似せているらしく、中を覗くと底には削って掘ったような跡があった。土や石、水草や小魚までいる。


 この空間に光を与えているのは、天井を支えている何本もの支柱に設置された幾つもの松明だった。電気がくるまでの代わりらしい。他にも、建設中の大きな建物がある。



「ここは、いったい……」



 ニスケさんが振り向いた。



「十二年前の大地震……。あれのせいじゃないかって噂だ。本部が建つ丘の真下にあるんだが、地震の被害に遭うまで、足もとにこんなバカでかい空間があるなんて誰も気がつかなかった。タモン様はこの場所を鍛錬場と呼んでいる。合言葉みたいなものだ」



 火をおこせば魚を焼いて食べられるし、簡易トイレもある。「生活には困らないだろう」と、ニスケさんは笑った。


 しばらくして、父さんがやって来た。俺と同様で驚きを隠せないでいる。どうやら限られた人しか知らないようだ。


 ニスケさんは、作業をしていた人たち全員を連れて鍛錬場を出て行った。だだっ広い地下に父さんと二人きりだ。

 もらえた休暇は二週間。その間、ヒロトは同班の混血者の家にお世話になるらしい。



「早速、始めようか」



 そう言って、父さんは両手を前に出した。すると、淡い光が父さんの身体を包んでいく。



「第一段階、エネルギーの集中……」



 こうして、俺は二週間、誰とも会わずに修行に打ち込んだのであった。

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