第7話 水浴びは、命懸け!


 結局、白兎との死闘から丸4日間、水場らしい水場が無く、ただただ歩いて、ただただ樹に登る毎日を送ることになった。


 未だに町らしいものは見えず、先を行く集団の通った跡以外に、人の痕跡は見付けられなかった。


「やれやれ・・」


 勢いよく流れている川の流れを見付けて、年寄りじみた溜息をつきながら、ポイポイ服を脱いで水に入る。


「冷たっ!」


 思わず身を縮めるくらいに川の水は冷たかった。

 それでも、汚れきった体を洗いたい。杖代わりに持っている短槍で河底を確かめながら、もう少しだけ深い場所へと進んで行く。


 じわじわと身を屈めて腰から下を水に入れる時には、全身を強張らせて震えていた。

 ただ、そこを乗り越えると、ほっ・・と一息つける。


 冷たさを紛らわせるために、力一杯、ゴシゴシと体を擦り、薄皮のように体に粘り着いたものを洗い流す。

 まあ、綺麗な着替えが無いから、気休めの域を出ないのだが・・。


 思い切って、頭まで冷水に浸かって、乱暴に頭をこすりあげる。


「・・はぁぁぁ」


 これは気持ち良い。癖になりそうだ。

 もう一度、頭まで潜って思いっきり頭を指でき回す。


(これ、気持ち良いなぁ)


 水面に顔を出して、しみじみと息をついた。


 そのまま、少し固まった。

 いや、動けなくなった。



(・・えぇ・・っと?)


 水辺に、大きな熊が居た。


 さっきまで、そんな気配は無かったのに、いきなり降って湧いたように、いつぞやの白兎と同じくらいの、小山のような巨体をした黒い熊が川の水を飲んでいた。


 こちらを見付けているらしく、金色の双眸でじっと見つめている。


 川の深さは、小柄な俺がしゃがんで首まで浸かる程度だ。巨熊にとったら水溜まりと変わらないだろう。


 どうする? どうしよう?


(・・死んだフリ? 川の中で?)


 巨熊との距離は、わずか3メートルほどだ。ちょっと歩けば熊の手が俺に届く。フゴフゴ・・と、巨熊が鼻を鳴らす音が聞こえる距離だ。


 他には、獣は見当たらない。


(とりあえず、逃げ回るしか・・)


 俺は短槍を手にゆっくりと立ち上がった。


 水を飲んでいた巨熊が顔を上げる。


 次の瞬間、俺は滑るように足を送って斜め前へと踏み込んでいた。入身といって、相手の死角へ真っ直ぐに踏み込む技だ。

 やや遅れるようにして、熊の巨体が先ほどまで俺が居た場所へと飛び込んで来た。

 ガラ空きの脇腹を短槍で突いてみる。兎の獣皮みたいに固くて弾かれるかと思ったが、意外にも穂先の半分ほどだが突き入れる事ができた。



 ゴァァァァーー・・


 巨熊が咆哮をあげて身を捻りながら前脚を振って掴みかかってくる。


 同じ方向へ回転しながら、前脚の届かない位置を維持する。


(・・見えるな)


 巨熊の動き出し、足の送りが事前に感じ取れる。

 ぎりぎりの位置だが、気持ちの上では余裕を持てていた。


(そう来るか)


 後ろ脚で立ち上がりながら、両逆を拡げて倒れ込むようにして襲いかかって来た。

 巨体を生かした強引な仕掛けだ。

 川底の石に短槍の石突きを当てつつ、槍を残して前脚を潜るようにして背後へと抜け出る。地響きを立てて倒れ込んだ巨熊が激しい怒号を張り上げ、猛り狂いながら血走った眼で俺を追って向きを変える。

 その回転に合わせ、俺も巨熊の脇近くに身を寄せたまま移動する。

 武器が無いのでどうしようも無いが、熊の攻撃を回避することは出来ている。

 ちらと見えた感じでは、短槍は巨熊の後ろ脚の付け根辺りに突き刺さっていた。


 川の流れに、かなりの鮮血が拡がっている。


 怒りで痛みを感じていないのか、腹に深々と短槍が刺さったまま巨熊が、ゴウッゴウッ・・と吠えたて、何とか俺を正面に捉えようとして追って来る。


(ちょ・・もう、そろそろ・・勘弁して)


 巨熊の動きはよく見えているし、正確に予測できているのだが、残念ながら息があがってきた。明らかな体力不足である。

 許して欲しい。

 俺は、ただの高校生なのだから・・。高校男子の平均を下回った体力なのだから・・。

 しかし、よっぽど頭に血が昇ったのか、巨熊はあきらめる素振りも無く、いよいよ猛り狂った形相で牙をき、吠え声をあげながら追いかけ回してくる。


 円転といって、本来は相手に手刀を触れた状態で円を描いて動くのだが、俺は相手に触れないままに円を描いて立ち位置を移している。これが、円転の真理の効果だろうか。


(本当に、達人の人達・・御免なさい!)


 こんな貧弱な高校生が、合気道の極みだの真理だのと、分不相応な技を使ってしまって申し訳無い気持ちで一杯だ。


(でも・・)


 とにかく、死にたく無いのだ。命を1つ失ってしまっている。次は生き返らずに死んでしまう。


 巨熊が必死なら、こちらも必死だ。


 これは、絶対に負けられない鬼ごっこなのだ。



(こいつ・・違うのか?)


 大きな白兎は、雷を放ったり、角を光らせて突進したりしていたが、巨熊は体が大きいだけで、これと言って変わった事はやって来ない。


 その上、少しずつだが巨熊の動きが落ち着いてきたようだ。

 このまま逃げ回って時間を稼げば諦めるかもしれない。


 そう期待した俺が馬鹿でした。



 ガアァァァァァァァァーーーー・・



 いきなり後ろ脚で立ち上がったかと思ったら、長々とした咆哮をあげながら、真っ黒な煙を噴き出して来た。


「うわっ・・ちゃっ!」


 ギリギリで大きく川へとダイブする。


「ぃっ・・だだだだだっ・・」


 強烈な痛みが眼と鼻を襲ってきた。

 もう駄目だ。

 眼からも鼻からも色々な液体が溢れ出てくる。ダダ漏れである。


 川の水で薄まって、この威力だ。


 まともに浴びていたら、あまりの痛みに狂い死にしていたかもしれない。


 半ば川に流されながら、俺は冷水の中でジタバタと足を暴れさせ、もんどり打って身悶みもだえしていた。


「あぁぁぁぁーーー」


 思いっきり声を張り上げて、少しでも痛みを紛らわそうとするが、どうやったって痛いものは痛いっ!


 もう熊なんか意識からすっ飛んで何も考えられない。


「ぐうぅぅぅ・・・うううううう」


 川中に蹲って顔を冷水に浸け、唸り声をあげ続ける。

 もう一歩も動けない。

 こんな痛みを感じたのは、生まれて初めての事だ。

 気が狂いそうだった。


 ブクブクと・・気泡を噴き出しながら川中に沈み、顔を上げて息を吸い込んで、今度は喉の痛みが肺まで拡がってせ返る。


(もう嫌だ・・もう・・止めて)


 土下座するように川に蹲ったまま俺は背を震わせ続けていた。


 しばらくして、溺れる寸前の形相で川面に顔を持ち上げた時、俺は少し痛みが引いた事に気が付いた。


(・・痛くない?)


 灼けるようだった眼も、引き裂かれるようだった鼻腔びこうも、喉も、胸も・・いつの間にか痛みが治まっていた。



「ぁ・・く、熊はっ!?」


 突然、巨熊のことを思い出して、俺は大慌てで川の中に立ち上がった。


「え・・?」


 巨大な黒い熊が川辺で倒れて動かなくなっていた。


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