Ⅱ 人 生

 Ⅱ 人 生  

       

(1) 人生 


 ① 人生


 魂には、無数の神性が、概念としての知識として付与されています。


 人生は、魂が宿った人間の生活活動を通して、神性を実体験して、体験としての知識に変えていくプロセスです。すなわち、現実の生活に起こるさまざまな出来事をツール(道具)として、考え行動することによって、概念としての神性を体験して、体験としての知識を体得していくのです。


 『神との対話』では、それをパソコンのCD-ROMを例えに、説明しています。


 CD-ROMの中には、目には見えないプログラムが入っています。それをパソコンに読み込ませると、パソコンはいろいろな作業をします。


 その作業が1つのゲームだとすると、(ゲームに例えるのは、神が人間を持て遊んでいるように誤解されて良くないが、とも述べています)ゲームの内容は、プログラムとしてCD-ROMの中にすでにすべて書き込まれています(これが、概念としての知識ということです)。


 ゲームの実行中に、その場面場面にゲームの主人公の行動パターンを選択、決定して、ゲームを進んでいきます(これが、体験としての知識です)。その選択の組み合わせは、数限りなくあります。


 それが人間が歩む人生に似ているのです。すなわち、神の分身としての魂には、概念としてのプログラムがすでに付与されています。人間が人生の中でいろいろな場面に出会い、いろいろな決断をして行動していくとき、いろいろなことを実体験し、その概念としての知識を、体験としての知識に変えていくのです。その時、同時に神ご自身がそれを実体験しているのです。


 魂は、人生において、自分自身を新しく創造あるいは成長させるために、身体に宿る時に(生まれる時)、それまで生きた前世の記憶を忘れます。絵を描く時、白紙のキャンバスでなければ、新しい絵を描くことができないのと同じです。


 過去の記憶を忘れることにより、神性を新たに実体験し、まったく新しい自己を創造していくのです。


 アメリカの精神科医ブライアン・ワイス博士は、過去にさかのぼるという退行催眠によって、その人の前世の記憶をよみがえらせ、現実の生活に活用するという、前世療法という心理療法を行っています。



 ② 魂と精神


 魂のレベルの意志と、精神のレベルの意志とは、必ずしも一致しません。というより、高次に成長していないレベルでは、精神は、魂の意志を感知できないのです。



 魂の目標は、神の神性を体験し成長していくところにあります。


 しかし精神の目標は、この現実世界で、より良く生きていくところにあります。そのより良いという価値観は、それぞれの成長レベルによって異なります。例えば、お金がすべてという価値観もあり、愛や真実が大切であるという価値観もあります。


 魂は、神性を体験していくためのチャンスを、人生の出来事として用意していきます。しかし、人間は精神の作用によって行動していますから、魂の意図するものとは異なる選択、決定がなされる場合があります。


 すなわち、精神は、出来事の場面場面において、おうおうにして、魂の意図するところとは違った選択、あるいは決定をしていきます。そのために、その人間からすれば、自分の精神の意図とは違った結果が、現実には起きてくることがあります。


 しかしこれは、決して意味のないものではなく、必ず魂が成長していくために役立つものであるのです。


 相当高次に成長した個体のレベルでは、この魂の意図を精神は理解できるのです。キリストや釈尊などのマスター(師)は、それらを理解できる人なのです。


(2) 生と死 


 魂-精神-身体が一体となった人間が、物質的世界(現実世界)で果たすべき課題が完了すると、物質的世界を離れて霊的世界に行きます。


 「死」は、物質的世界(物理的世界)から霊的世界へ移行する通過点であって、「生」の終わりではありません。


 その逆に、輪廻転生によって霊的世界から物質的世界に移行する通過点が、「誕生」なのです。


 人間は、物質的世界でも霊的世界でも、形(エネルギーの振動数)は変わりますが、魂-精神-身体の3要素からなっています。


 「死」のプロセスは3段階からなります。


 第1段階で、自分は物質的な身体ではないことに気づき、第2段階で、死ぬ時に抱いていた信念を経験します。


 第3段階で、神と一体化して、終えたばかりの人生を、関わった全ての人間の視点で振り返ります。


 そして神の「聖なる審問」を受けるのです。


 「聖なる審問」の時、霊的世界に進むか、今来た元の物質的世界に戻るかは、人間が自由に選択できるのです。


 霊的世界に進むという選択をして霊的世界に入った時、人間の「死」のプロセスが完了します。(つまりこの時点で、「死」が確定するのです。)


 霊的世界の人間が、新たに神性を体験したいと希望すると、物質的世界に行きます(輪廻転生)。


 その時にも、「聖なる審問」を受けるのです。


(3) 前世・現世・来世


 魂は、自己を完成させるために、現在の人生(現世)を通じて神性を体験しますが、その人間の個体で体験できる内容が尽きると、身体から離れて(死)、霊的世界(来世)に行きます。


 そして、さらに神性の新しい体験を希望・意図したときに、再び現世に戻って、別の人間に宿ります。


 前世とは、その魂がそれ以前に生きた現世をいうのです。


 魂には、前世の全ての体験が、記憶されているのです。


(4) 輪廻(りんね) 


 仏教でいう輪廻を、この『神との対話』でも述べています。


 すなわち、人間が死んでから、来世(霊的世界)に魂は行くのですが、魂の内包する概念としての神性が、完全に体験されないでいる間は、再び現世に戻って、それを完遂するために、また新たな人生を歩みます。その時、魂が宿る人間は、前(前世)とは違った人間です。


 これを繰り返すことを、輪廻というのです。


 ウォルシュ氏は、648回目の人生(現世)を、今、歩んでいます(すなわち、すでに647通りの前世を生きているのです)。


 それを繰り返して、神の分身としての魂に与えられた、すべての神性を実体験して完成したときに、その魂は神に帰一し、一体化するのです。


 神と一体化した後、それは再び高次の次元で分化します。すなわち、無限にこの分化と帰一が繰り返されるのです。これが、いわば神の呼吸であるのです。


(5)堕落・原罪・地獄


 『旧約聖書』の創世記第3章には、人間の始祖であるアダム(男)とイヴ(女)の失楽園の物語が書かれています。


 それを要約すると、


┌-----

 アダムとイヴは、エデンの園で、神から取って食べてはならないと言われた『善悪を知る木の実』を、ヘビの誘惑によって食べてしまうという罪を犯すことによって堕落し、神によってエデンの園(地上天国)から追放された。


 ヘビ(天使を象徴している)は堕落して悪魔となり、堕落したアダムとイヴの子孫 (すなわち全人類)は、神の戒めを破ったという罪すなわち原罪を、生まれながらにして負っている。

└-----


となります。


 キリスト教(カトリック教義)では、神の創造した宇宙は地上界と霊界から成り、人間は地上界での人生を通して人格を完成して地上天国を築き、死んだ後、霊界に天上天国を築くように創造されたとなっています。


 ところが、人間始祖の堕落により原罪を負った人間が繁殖し、地上界を支配することにより、地上、天上ともに天国の実現が不可能となったのです。


 『神との対話』では、「エデンの園の神話」は、人間始祖の堕落ではなく、神の「最初の祝福」を意味しているといっています。


 聖書にある「善悪を知る木の実を食べた」という出来事は、アダムとイヴで象徴される最初の人間が、相対的世界(現実世界)で、善なることと悪なることを自らの自由意志で選択し経験し始めたという、祝福すべき船出を意味しているのです。


 したがって、人間始祖の堕落は存在せず、人間に原罪はありません。


 キリスト教の教義では、この世(地上界)で、悪事を行った人間は、死んでから霊界に存在する地獄に行くといっています。霊界には、天国と、悪魔が支配する地獄の二極の領域(場所)があるのです。


 天国と地獄の中間には、煉獄、リンボーがあるとされています。


 『神との対話』では、霊的世界には天国のみがあり、キリスト教が説くような地獄はないといっています。


 地獄は、霊的世界の場所として存在するものではなく、低位の魂が自分自身で創り出し、経験するものだというのです。


 霊的世界では、思考が、即、現実となりますから、魂の成長レベルに合わせた現実が展開されます。


 すなわち、地獄という場所はないが、地獄の経験はあるというのです。


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