1-5


「ねえ、イロ。体は痛まない?」

「うん、だいじょうぶだよ、おにいちゃん」

「おなか、すいてない?」

「だいじょうぶだよ」

「……そっか」

 酷い吹雪の中、ふらふらになりながら、雪を踏み締めて歩く。倒れそうになっても、妹の手だけは離さないようにと、しっかりとその小さな手を握って歩く。僕たちの後ろに出来た足跡は、一瞬で消えていく。

 歩くたびに、体中の傷が傷んだ。先程、大勢の兵士に見つかって、戦った時にできた傷だ。もう血は止まっているが、痛みは残っていた。それに、流れて行った血は帰ってこない。明らかに体に力が入らなくなっているのがわかる。……でも。

 こんなところで力尽きてしまう訳には行かないのだ。妹を一人残して……。

 そのとき、ふと妹が足を止めた。何事かと思って僕も足を止めると、一瞬遅れて、また大勢の足音が聞こえることに気がついた。……索敵が遅れてしまったことに、自分で愕然とする。そんなに疲弊してしまっているのだろうか。こんな状態では妹を守れない。

「……イロ、ここは危ないから、どこかに隠れておいで」

 妹と目の高さをあわせて言い聞かせると、今度は妹は首を横に振った。僕が驚いていると、妹は真剣な……覚悟を決めた目で、僕にはっきりと言った。

「イロもたたかう。イロも……おにいちゃんといっしょに、たたかう」

 緑と紫。僕と揃いの、左右色違いの瞳が僕を見つめる。……”獣”の瞳だ。

僕はしばらく妹と見つめあっていた。近づく足音が、迫る時間を知らせていた。

「……わかった。イロ、一緒に戦ってくれるかい」

 僕がそっと頬を撫でると、妹は優しく微笑んで、頷いた。その笑顔を見ながら、僕はより一層覚悟を決める。

 この子をなんとしても、守りきらなければ。

 妹と共に、今まで歩いてきた道を振り返る。足音のする方だ。息を吸い、意識を集中させる。……大丈夫。

 この雪の領域は、僕達の縄張りだ。人間になんか渡さない。

 人間になんか、負けない。


 森が暗くなって来た頃、合わせたかのように、アグノムとユクシーはぴたりと足を止めた。ミヅキは体が大きくふられて、慌ててアグノムの背にしがみついた。

「んじゃあ、今日はこの辺で野宿だな」

 あたりを見回しながら言ったアグノムの野宿という言葉に、ミヅキは渋い顔をした。

「あたし、ふかふかのベッドがいい」

「またまたァ、わがまま言わないでくださいよ、お嬢さん」

 そう言って笑いながら、アグノムは背からミヅキをおろす。ミヅキは一瞬ふらつきながら地面に立った。

「我儘言うんじゃねえぞ、クソガキ」

 ミヅキはそう窘めたユクシーとは目を合わせようとせず、そっぽを向いた。チッ、とユクシーが舌打ちをし、それを見てアグノムは笑った。


 アグノムとユクシーが野営の準備を始めると、ミヅキは手伝う気がないらしく、そばをうろうろしたり、座りこんだり、落ち着かない様子だった。

「……なあ、そんなに離れなきゃそのへん歩いてきていいぞ」

 そう提案したのはアグノムだった。同時にユクシーが「兄貴!」と声をあげた。よほど退屈していたのか、ミヅキは目を輝かせ、すぐに、行ってくるわね、と言い終わらないうちに、姿が見えなくなった。ユクシーは眉間の皺を深くして、アグノムに低い声で言う。

「……おい、あんなこと言って大丈夫なのか。一人にして、襲われでもしたら……夜の森は危ないし……」

 そんなユクシーを見て、更にアグノムは笑う。

「おいおい、誰が付いてると思ってんだよ。アグノム・フィリオールだぞ」

 自信に満ち溢れた顔で言うアグノムを見て、ユクシーは大きくため息をついた。


 薄暗くなってきた森は視界が悪く、都会育ちのミヅキはすぐに自分の居場所がよくわからなくなってしまった。普段目にしない背の高い植物は、ミヅキの背の半分ほどもあり、足元も見えづらい。この場で待っていたら、アグノムが迎えに来てくれないだろうか、と考えたミヅキは、大きな木の根元に座り込んだ。足が痛い。風に吹かれて、ミヅキの長い赤茶髪が揺れた。虫の声や動物の声が聞こえる。わずかに肌寒くなってきて、ミヅキは少しずつ怖くなってきていた。

 そのとき、聞こえたのは子供の声だった。

「おねーさん、どうしたの?」

 驚いてミヅキが顔をあげると、そこには薄い紫色の髪の男の子がほほ笑んでいた。ぶかぶかの黒いコートは、よく見ればボロボロに擦り切れている。上にはコートしか羽織っておらず、裸の腹が見えていた。長い髪はぼさぼさだが、三つ編みにして、一つに束ねているようだ。首からは薄暗くてよく見えないからだろう、直接懐中時計のチェーンが伸びているように見えた。そんな暗さの中、何故だかその大きく丸い瞳と、頬に描かれた赤いペイントが、光を放っているように見えた。

「……いや、あんたこそ、どうしたの」

 こんな森に、幼い少年が一人きり。ミヅキは慌ててあちこち見回したが、保護者と思しき人物はいない。それとも、ここではこんな幼い少年が、夜に森の中を歩き回るのはおかしいことではないのだろうか。明かりも持たずに……。

「おねーさん、おねーさん。いっしょだね」

「え?」

 ミヅキは思わず自分を見た。何か少年とおそろいのものがあっただろうかと思ったのだ。だが、よくわからない。ああそうか、服のサイズが大きいことだろうか?と思い立つが、色は違うし、なんとなくおそろいという感じはしなかった。

「ねえ、おねーさん、あのね」

「……な、なによ」

 ミヅキは少しずつ、このずっとほほ笑み続けている少年に恐怖を感じ始めていた。声を出して助けを求めたいのに、体が動かない。立ち上がり、ここから去りたいのに、やはり体が動かない。そうしているうちに、目の前の少年がミヅキのほうへと両手を伸ばした。

 少年の両手が、あとわずかでミヅキの両頬に届く。その時。

「おーい!ミヅキ!どこだ!うまい夕飯食わせてやるぞ!」

 アグノムの声だった。声に振り向き、また少年を振り帰ったとき、少年はもう、そこにはいなかった。どこにもいなかった。

 少しだけ、背の高い植物が揺れていただけだった。

「よ。腹すかして座り込んでたのかァ?」

 ひょい、と頭上からミヅキを覗き込んできたアグノムが、にかっと笑った。それを見て、ミヅキはほっと息をはく。助かった、と思った。全身から力が抜けていく。

「……もう、なんなのよぉ」

「おうおう、どうしたよ。なんかあったか?」

「別に何も。疲れた。おぶって」

「我儘なお姫様だな」

 笑いながら、アグノムは軽々とミヅキを背負っていく。もうすっかり森は暗くなっていたが、アグノムには道が見えているようだった。ミヅキは少し悩んだが、アグノムには少年のことを話さないことにした。


 その夜、ミヅキは夢を見た。

 燃えていた。村が燃えていた。どこの村なのだろうか。よくわからないが、とても懐かしい感じがした。

『ねえ、イロ』

 その声に、名前を呼ばれたのだと思った。声の主は、左右色違いの紫と緑の瞳を持った、綺麗な顔の黒髪の少年だった。自分は反射的に、おにいちゃん、と答えていた。

『二人で戦おう、人間と。……復讐するんだ』

 ふく、しゅう。言いなれない言葉を口で繰り返した。頷く“おにいちゃん”の手を強く握ると、相手もまた同じように握り返してくれる。……とても温かい、と思った。見れば、“おにいちゃん”の手は赤黒く血で汚れていた。

 自分の手もまた、同じように赤黒く汚れていた。

 夢はそこで終わった。


朝の日差しがミヅキをさす。寝返りを打つと、柔らかな布団の感触がミヅキの頬を包む。

 倦怠感が酷い。足が痛い。何故だか疲労感が全身を襲っている。

 寝返りを打つ。布団を手繰り寄せ、もぐりこむと、幸せに包まれる。もうひと眠りしようかと、ミヅキが体勢を整えたときだった。

「おい、ミヅキ」

 ガチャ、という扉の開いた音とともに、耳慣れた声が部屋に入ってくる。

「おい、朝だぞ。起きろ。補習、遅刻するぞ」

「ううん……あと五分……」

「駄目だ。朝飯ができてるぞ。ほら」

 制服姿の黒髪の少年は、ミヅキを揺り起こす。ミヅキは目を覚ますと飛び起き、上から下まで少年を見た。

「か……いと……?」

 そうカイトの名前を呟くと、今度は自分の寝間着姿を見、両手、足、と確認していく。

「……あれ?」

「どうした、変な夢でも見たか」

 首を傾げたカイトの顔を見上げ、ミヅキは次第に瞳を潤ませていった。それから、カイトに抱き着く。カイトは一瞬驚いたものの、すぐにミヅキの頭や背ををぽんぽんと撫でていった。

「怖い夢、見てた。全然覚えてないけど」

 ミヅキは震え声で言った。ミヅキのただならぬ雰囲気に、カイトはミヅキをより一層優しく抱きしめながら言った。

「……今日は、補習休むか」

「うん」

「しょうがねえなあ」

 カイトはミヅキの頭をくしゃくしゃと撫でていた。

「今日は、遊びに行くか」

「……遠くに、行こうね」

 カイトは笑って、わかったよ、と答えた。

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