1-4
★
いつまでも隠れていられるわけではなかった。僕は妹を連れて、人間達がいなくなった隙を狙って飛び出した。吹雪の中では僕らの方が圧倒的に有利だ。僕達は大きすぎる上着をはおり、ただひたすら歩き続けた。
どこへ?わからない。どこへ行けば助かるのかはわからない。守ってくれる人達はもう、誰もいない。けれど、守らなければならない人はいる。小さな手を握ってはぐれないように歩く。時折ふらふらと転げそうになる妹を抱き寄せ、一歩、また一歩、確実に。
突然聞こえたがなり声に、見つかったのだと悟った。飛んでくる銃弾をなんとかかわして転げる。バランスを崩した妹を抱き抱えるようにして、素早く戦闘態勢を取る。ほかに足音は聞こえない。なら、大丈夫だ。人間一人に遅れなどとらない。
「さがっておいで」
小さく頷いた妹を下がらせ、相手の姿を確認する。視界の悪さに距離を見誤ったりしない。ここは僕達の生きている場所だ。しっかりと近づき、惑わし、追い詰めて、真っ直ぐ喉を貫いた。ヒト型の特権である言葉を奪えば、仲間は呼べないだろう。動かない残骸となるのを見届けてから、僕はまた妹の手を引いて、歩いていく。
ふと、その繋いだ手が赤黒く汚れているのに気付いて、慌てた。急いで手をはなし、服の裾で拭いてやろうとすると、妹はその手をとめて、首を横に振った。
「イロもいっしょにいくからね」
そう言って笑い、僕の手を両手で包み込む。いままで気にもしていなかった、まっくろになってしまった僕の手と、雪よりも白い妹の手。
頷いて、手を繋ぎ直した。そしてまた、歩き出す。そのうちに風が強まって来て、体がふられるようになってきた。休める場所を探した方がいいだろうな、と、散らばる雪のあいだから目を凝らす。
だが、そんな暇もなく、後ろから近づいてくるのは大量の足音だった。
★
「まだ見つからないのか」
不機嫌な声に、決して広くない会議室に集められた数名……此度の任務のために特別に集められた数人の腕利きの男達は、やや視線を下げた。ある者は気まずそうであり、またある者は面倒そうであり、態度は様々だ。だが、声の主に逆らおうという気概は見られない。
たったひとり、馬鹿にするように笑い始めた、赤髪の男を除いては。
「何がおかしいんだ、アグノム」
「いいや?キレてんなあ、って思ってよ」
ヒヤリとした空気が場に流れる。本来なら、立場上、アグノムも彼に口など出せないはずだった。現に、相手はなお一層不機嫌になっている。
が、何事か、近づいていったアグノムが耳打ちをすると、彼は顔色を変え、幾分か穏やかな声で室内の男達に集会の終わりを告げる。解散と二度言われ、納得の行かないような、変な表情で各々部屋を出ていく。
部屋に二人だけ残されてから、少し悩む素振りを見せ、男はやがて口を開いた。
「場所がわかったのか」
「もちろん、俺に出来ないことがあるわけないでしょ?総司令サマ。妹様はご無事ですよ」
わざとらしく頭を下げながら、いっそう綺麗な発音でアグノムはすらすらと言った。彼にとってこちらの言葉は母国語ではないが、丁寧な表現からパンチのきいた嫌味まで、すっかり使いこなしているようだった。そんな細かいアグノムの芸には興味が無いようで、若い男はただ、安堵の息を漏らす。
「で、アイツはどこだ」
「まあまあ、焦んなって。落ち着いて。その前に俺にお礼とか言って」
「ありがとう。で」
「雑だなァ……」
先を急かす男にハハハと笑いながら、それがさぁ、と、突如真剣な顔になり、低い声で言う。相手の少し緩んだ表情が、また引き締まるのを見て、心中でアグノムはまた笑う。
絶対に振り回されてはいけない男が、こんなにもたやすく振り回されている。たった一人の小さな存在に。これが愉快でなくて、どうだというのだ。しかも、自分のことを疑おうともしない。とんだお人好しだな、と半ば呆れながら、考えていた続きを口にする。
「俺に任せてくれないか」
絶対になんとかしてみせるから。真剣な顔で訴えるアグノムの瞳には、見る者を信じさせてしまうような光があった。青年はしばらくその紅の目を見つめた後、わかった、と頷く。
「必ず連れて帰ってきてくれ」
了解、と片手をあげたアグノムは、それ以上何を言うこともなく部屋を出ていく。満足げに口笛を吹きながら廊下を歩けば、すれ違う者はみな怪訝そうな顔をするものの、アグノムの顔とその胸元を見て慌てて目を逸らす。胸元についている色とりどりの小さな石が表しているのは、他ならぬ彼の強さの象徴だ。その強さの証とでもいうのか、些細な視線など気にせずに、そのままアグノムは自室の扉を開けた。
「ご機嫌だな」
「マアマアな」
よくわからんが上手くいったんだな、と声をかけてくる焦げ茶色の髪の青年は寝起きなのか、布団から顔を出し、寝癖だろう、ボサボサの前髪のあいだからアグノムを見つめる。
「オカーサンがオネボーサンなのは珍しいな」
「たまにはアグノムがオカーサンやってくれよ」
「悪ぃけどやることできちまったんで、無理」
「またどっかいくのか」
「聞いて驚け、司令命令」
「生きてかえってこいよ」
「誰に口聞いてんだ」
お互いに笑顔で軽口の応酬を終え、茶髪の青年の方はまた布団にもぐり、アグノムは机の引き出しや棚を漁り、武器の用意をしているようだった。
「あ」
不意にアグノム背後の布団から声が聞こえ、アグノムは首だけをやや後ろに傾けた。視線は手元を向いたままだ。その背後の青年も、アグノムのほうを少しも見ず、布団の中からのややくぐもった声で言う。
「いつ帰る」
「そこそこ時間かかるかも」
「終わったらすぐ帰ってきてくれよ」
「なんでだよ」
「人を紹介したい」
「……なんの?」
あからさまに嫌そうな顔をしたアグノムが、体ごと布団に向ける。布団はそのまま話を続ける。
「お前、その年で彼女の一人もいないんだろ。結婚はどーするんだ」
「テキトーに見合いする予定だけど」
「そんなんでいいのか。一度きりの人生だぞ」
「数百年も生きてっと新鮮味なくなるんだよ」
「長生きの妖獣だって、一時でも幸せな生活をしてほしい、そのためには伴侶がいるだろ伴侶が」
突然布団から顔を出した青年の真剣な顔に、アグノムは何も言わず目を逸らした。
「……ノディ、俺もう行くわ」
「おう、いい人探しとくからな。お前みたいなひん曲がったやつでも愛してくれる娘さんは、この世に必ずいるぞ」
「ひでー言いよう!俺みたいな模範的な紳士、アルフォードどころかレイフォード中探してもいないっつの」
いってらっしゃい、と手を振るノディと呼ばれた青年に、アグノムは視線をよこさずに片手をひらつかせ、部屋を出る。先程までの黒い制服の上に羽織っているのは、制服にあった水色のラインすら入っていない真っ黒なマント。それに身を包み、正面入り口まで向かわず、近くの窓を開け、そのまま飛び越えて外へ出る。
「わかってねえなぁ」
寝ぼけたノディの言葉を振り払うように、木の根元に唾を吐く。
「俺の幸せは、もっと遠い所にあんだよ」
あいつにはわからなくていいけどな、と一言笑い、次の瞬間には、夜の森だけがそこに取り残されていた。
★
「よ!」
驚いて目をまん丸にしたまま微動だにしないミヅキが驚いたのは声なのか、それとも目の前にあった顔になのか、とにかくしばらく息も止め、目には涙を浮かべて固まっていた。その様子をみて面白そうに笑っているのは、驚かせた張本人、アグノムだ。アグノムはニヤニヤしながら、ミヅキの体を起こしながら立ち上がった。ミヅキはそこでようやく「え、なんで」と声を出した。それにまた、アグノムは笑いながら答える。
「弟王子の襲撃受けたらしいじゃねーか。大変だったな、怖かったか?よしよーし」
「こ、こわくない」
そう答えながらもミヅキの顔は、何かを思い出したのか、一瞬で青ざめていく。それから思い出したようにキョロキョロと辺りを見回す。細く浅く流れる川のそばでは、アグノムと違って短い赤髪の男、ユクシーが手に水をくみ、口に入れている。視線を感じたのか、ユクシーがミヅキを振り向くが、ミヅキは不審なほど慌てて視線を逸らす。それを見てユクシーは苦いものを食べたような顔で溜息をつき、アグノムはといえば声を出すまいとして笑っている。ユクシーは一瞬だけそんなアグノムに鋭い視線を向けるも、すぐに逸らす。
「まあ仕方ねえよな。誰かに”結界が緩められてた”んだからよ。相手が一枚上手だった、それだけだ。ほら、沈んでねえでさっさといくぞ」
「行くって、どこに」
優しく諭すようにミヅキに囁くアグノムに、ミヅキはきょとんとした顔で首をやや傾ける。それを見て、アグノムは気味が悪いほどに明るい笑顔を向ける。
「決まってんだろ、クロキ狩りさ」
「アルフォード国のクロキ一族は数代前にアルフォード一族を滅ぼして王権を手にした一族なんだ」
パキパキと、なんてことない顔で小枝を踏みながらアグノムは言う。都会育ちのミヅキは、たまに足元で音を立てる枝や、躓きそうになる蔓や、時に自分の腰ほどまである植物にキョロキョロと、不安そうな嫌悪の混じったような視線を向けながら、右手はしっかりアグノムの上着の裾を握っている。時折転げそうにもなるが、アグノムや、ユクシーが支えていた。だが、ユクシーとは気まずいようで、すぐに体を離すし、目は合わせない。その繰り返し。
「礼くらい言ったらどうだ、クソガキ」
何度目かの繰り返しで、ユクシーが不機嫌さを露わにして言う。
「ドオモ」
それに対してミヅキは小さくそれだけ言う。ちっ、とユクシーの舌打ちの音が響いた。明らかに空気の悪い真ん中を歩きながら、アグノムは「お前ら仲良いなぁ」と笑っていた。
「んで、そのクロキ?になんであたしが狙われなきゃいけないの」
明らかにユクシーの方を見ないようにしながら、ミヅキがアグノムに聞く。アグノムは笑顔のまま、ミヅキの歩く姿を足元から頭の跳ねている癖毛の先までをさらっと、しかしじっとりと、何かを探るように見つめ、不満げな、しかしたしかに不安そうな色を浮かべるミヅキに言う。
「お前はちいっと特別なんだ」
「特別?」
「そ、トクベツ」
だから狙われちゃうんだよなぁ、とはっきりしない物言いをするアグノムに、ミヅキはもとより釣り上がり気味の眉をさらに釣り上げ、首を傾げていた。
「ねえ、もう足が痛いよ。あたしもう動けない」
歩き始めて一時間も経たないくらいで、ミヅキはアグノムの服の裾を両手で掴み、力いっぱい引っ張りながら言った。
「そんなに引っ張る力があるならまだ大丈夫だな」
アグノムは足を止めずに笑いながら言う。ミヅキは何かアグノムを言い負かす言葉を考えているようだが、うまく思いつかないらしい。眉間に深い皺だけが寄っている。口を挟んだのはユクシーだった。
「……兄貴、休もう。引きずってる」
ミヅキの足をさしながら言う。少し前から、ミヅキは歩き慣れていないせいか、足を引きずるようにして歩いていた。それも限界に来ている。
「これから長いのに、こんなとこでバテられたら困るだろ」
これから長い、と聞いて顔をやや引き攣らせたミヅキを見て、アグノムはわかりやすく大きなため息をついた。それから、低く屈んで、ほらよ、とミヅキに声をかけ、背中を差し出す。
「トクベツなお嬢さんの馬になってあげよう。乗れよ」
ミヅキは一瞬躊躇ったものの、乗らないなら歩けよと付け加えられた言葉に、急いでアグノムの背中に飛び乗った。アグノムはその衝撃にはふらりともせず、しっかりと立ち上がる。
「さぁてと、そいじゃ、先を急ぎますか。ユクシー」
「ああ」
「ってなワケで、ミヅキ様はちゃあんと捕まってろよ」
「え?なんで」
ミヅキが聞き終わらないうちに、アグノムとユクシーはスピードを上げて駆け始めた。草木を揺らし、影も残さない、ミヅキは振り落とされないように必死にアグノムの硬い背にしがみつきながら、まるで風になったみたいだ、と流れていく景色を見ていた。ミヅキが今まで乗ったどんな乗り物よりも速い。ミヅキは小さい頃に見た、アニメ映画に出てくるバスを思い出していた。
「アグノムって、ネコバスみたい」
「ネコバスなんかメじゃねーよ」
「アグノム、ネコバス知ってるの?」
「しらねーけど!」
なあんだ、と呟いたミヅキの声は、あっというまに後方に消えていった。
★
「これはどういうことですか」
暗く誇りっぽい地下室の中で、いまのトキにとって、それだけを口にするのがやっとだった。息を吸うと、内面から黴が生えそうな嫌な感覚。うまく口を動かせなくなり、このまま全身黴で覆われ、動けなくなるのではないかとさえ思ってしまうほど。
現に今、トキの心は既にびっしりと何か嫌なものが覆っていた。彼の腕には、薄い緑色の透き通る長髪を纏った、真っ白な肌の、目を閉じた女性が抱えられている。白い簡素な衣装を着ている女性には血の気が見えず、なにか粘性のある液体が体を、服を流れていた。そんな液体に触れてしまうのも構わず、トキは女性を、ただ引き寄せ、抱きしめ、その胸に耳を近づけ、しばらくして、体を離した。
そして再度、目の前で何事もないように作業を続ける男性を見つめながら、語気を強めて言った。
「これは、どういうことですか。フィリアは……なぜ息をしていないんですか。俺は、約束通り仕事をしているのに」
普段はあまり顔に感情が出ない彼だが、いまは誰の目にもわかるほど動揺している。不必要に視線は動き、口を動かそうとしたり、噤んでみたり、それでいて腕の中の女性を大切に抱いたまま、離そうとはしない。
「なぜですか、父様」
ついに痺れを切らしたトキが三度呼ぶと、ようやく呼ばれた男性が、コンピュータに何かを入力している手を止めた。半分体をトキのほうへ向けた男の顔は、彼の前のモニターの緑色の光を受けて、同じ色に光っている。
「お前は氷獣の捕獲任務に失敗したじゃないか。それで、その女の器がもたなくなってしまった。時間がなくなったのは、お前のせいだ。自らの失敗を擦り付けるのは愚者のやることだぞ」
驚くほど冷たい声。男はそれだけを言うと、トキに背を向け、また再びカタカタと音を立て、コンピュータに向かう。部屋の奥には、水槽のような大きなガラスの中に、一人ずつ人がいれられ、その一人ひとりにコードのようなものが繋いであった。そのうちのひとつの水槽が空いている。……トキは空になった水槽と、自分の抱えている女性を見比べ、それからは何も言わず、ただ優しく女性を抱えたまま、地下室から出ていった。
確かに任務には失敗した。氷獣の生き残りを連れてくることは出来ず、こともあろうかレイフォードの貴族であるフィリオール家に横取りされてしまった。だが、それでも居場所を突き止め、もう少しで手に入れられるところだったのだ。
しかし、とそこで思考が止まる。真っ暗な螺旋階段を、あかり無しで歩く。確かに任務に失敗したのは自分の非であり、誰かを責めるのは果たして正解なのかどうか、と考え、トキは結論を出せないままだった。そのうち、もうすぐ地上の隠し扉へと出るというところで、螺旋階段の途中で立ち止まり、座り込んで、もの言わぬ恋人であった女性を抱きしめた。
「……フィリア」
名を呼べど、返事はない。わかっているのにトキは数度名前を呼んだ。そして、ただ静かに抱きしめた。
そして、これから先のことについて考えた。トキは今まで、恋人を質に取られていたからこそ父の言う通りにしていたが、もう質はなくなってしまった。こうなってもまだ父を尊敬している自分にため息が出ながらも、その尊敬がこれから先ずっと付き従うほどのものであるかはわからない。
これから先、自分は一体何者として動くべきなのか。働くべきなのか。誰を助けるべきなのか。
そうしてまた、別の考えにも辿り着く。先日会った、自分たちの標的であった氷獣の女の子だ。何もわかっていないのか、俺たちに怯え、必死に生きようと逃げていた小さな少女。
「ねえトキ、あの子を死なせてはダメだよ」
しばらくぼんやりとしていたトキは、突然恋人の声が聞こえた気がして、現実に引き戻された。が、改めて眺めてみても、抱きしめてみても、恋人の体温が戻ることは無い。
けれどトキは、たとえ今のがすべて自分の妄想であったとしても、恋人が告げたことに何も意味がないはずはないと思った。いつもそうだった。恋人は、頭の硬い自分とは別の場所にいて、自分とはまったく違う考えをして、いつも刺激になり、話し合うことで前に進めるような関係だった。
「……悪い、フィリア。ひとまずお前には辛い思いをさせた。いまはゆっくり、休んでくれ……」
恋人の頬にいつもしないキスをひとつ落とし、トキは再び立ち上がった。ひとまず、一刻も早く恋人を埋めてやりたいと思っていた。自分のために必死に耐えてくれていた恋人を、静かに労ってやりたかった。
地上に出て、隠し扉を出、廊下を歩いていると、不思議と誰ともすれ違わなかった。そのまま裏口から森に出て、森の奥に墓を立てよう、とトキは思っていた。
先のことは、それから考えても遅くはないはずだ。もう、一番失いたくないものは、失ってしまったのだから。
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