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 パチパチと、何かの弾けるような音にそっと目を開けた。なんの音だろうか、と考えて、これは木が燃えている音だと思った。暖炉の炎を消し忘れたのだろうか?と思い、いや、そんなはずはないと思いを打ち消す。寝ぼけているのだろうか、と夢に戻ろうとする中、まるで煙のような匂いが鼻につき、呼吸が乱れ、咳き込んだ。慌てて目を開く。

 一瞬、何が起こっているのかわからなかった。僕らにはあまり馴染みの無い赤、黄、橙、あまりに鮮やかすぎる暖色。そして、あまりにも刺激の強い熱。

「イロ、起きて、イロ」

 妹を激しく揺さぶると、驚いた顔で目がぱっちりと開く。左右色違いの瞳はまだ眠そうで、すぐに瞼を閉じようとするが、僕は必死に妹の体を起こした。状況に気づいた妹はぽかんとして、すぐに僕の服の裾を掴んで震え出す。……僕は自分の着ていた服を妹に被せた。

「僕にしっかり捕まっていて」

 妹を背負うと、僕は三度唾を飲み込んで、思い切り地面を蹴った。熱さよりも感じたのは痛みだったが、妹のためにも立ち止まるわけには行かなかった。燃えてボロボロになっている扉を裸足で思い切り蹴って、外へ出た。

 そこに広がっていたのは絶望だった。白銀の世界に揺らめくのは赤い猛獣。暴れる炎に食われていく村、人影、聞き覚えのある誰かの悲鳴。

「おい、まだいたぞ!」

 背後から浴びせられた声にびくりと反応する。見れば、真っ黒な装束に身を包んだ数人の男。彼らはそれぞれ手に武器を持っている。こちらを見る目は、明らかに友好的ではない。

 人間だ、と思った。

「獣を捉えろ!」

 その声を皮切りに、耳をついたのは痛い発砲音。妹を背負ったまま、僕は背を向けて走り出した。体中が割れてしまいそうな程に軋んでいた。恐ろしいと思う暇などない。それは獣としての本能だったのかもしれない。

 視界は透き通り、足音はすぐ後ろにいるかのように聞こえる。体は自分でも信じられないほど速く動く。ここから逃げなくては、ただそれだけを考え走り続ける。

 何度か足元を銃弾が掠めた後、ついにふくらはぎにそれを受けて、僕はバランスを崩して転げた。何度も世界が回って、回って、それから大きな木の幹に背中と腰を打ち付けて、止まった。吐き気がこみ上げ、頭はひどく痛む。近づいてくる足音に、無理やり体を動かした。ふと、背負っていた妹がいない。転げた時に放ってしまったのか。急いで見回すと、雪面に蹲る妹の姿が見えた。

 その目前には、黒装束の男が立っている。

「これで俺も昇進確定だ!」

 下卑た笑いを浮かべながら、男は妹に銃口を向けた。



 食事、掃除、学習、昼食、遊び、掃除、学習、夕食、シャワー、就寝、起床、食事、掃除……。ぼそぼそと呟く赤茶髪の少女に、幼い男児が声をかける。

「おうお前!今日こそ俺らの遊びに混ぜてやるぜ!」

「結構。子供と遊ぶの苦手なの」

 ちっ、チョーシ乗りやがって!と去っていくほぼ丸坊主の少年は、少女に背を向けてからも一歩歩くごとに振り返る。

「……いつでも入っていいからな!鬼ごっこするからな!俺、足はえーからな!」

「はいはい」

 ため息混じりにその背を見送って、ミヅキは大きく伸びをした。こうして毎日遊びに誘ってくるのは彼らにとっては善意なのかもしれないが、彼女にとっては少し面倒になっていた。もとより、人とのコミュニケーションがうまいタイプではない。年下であっても、例外ではない。

「遊びの時間に遊ばねーのはなんか理由でもあんのか、ないなら殺すぞ」

「うわ、野蛮」

 ミヅキの上向いた癖っけを引っ張りながら、隣に腰掛けたのはユクシー。痛い、はなしてよ、と言われ睨まれるも、ミヅキのほうを見もせずに前を見やる。視線の先には、さっきの少年たちが走り回っている姿。

「ダンもディエルもレンも困ってたぞ、新しくきたおねーさんをうまく遊びに誘えないって」

「なに、それ」

「自己紹介できないバカはここにはいない。知らないならお前が聞いてねえだけだ、このクソガキ」

「名前呼ばない野蛮なセンセー様に言われたかないわよ」

 ちっ、とユクシーのあからさまな舌打ちが聞こえる。ミヅキは視線を反対方向にそらすだけだった。


 得体の知れない赤髪の男に突如さらわれたのは数日前。アルフォード国の使用する地図を見てその中央の南寄り。ただの森としか表記されていないそこにたしかに存在するフィリオール孤児院。文化や食事や生活もまるで違う毎日に、ミヅキが疲弊していないわけがなかった。

「おねーさん、あの、せっけん、つかいますか?」

「……どーも」

 美しい水色の髪を揺らし微笑む愛らしい幼女をなんとなくあしらうことができず、ミヅキは差し出された固形石鹸を受け取った。くすんだ薄緑色をしている。興味本位で鼻を近づけるが、嫌な匂いはしなかった。

 シャワー室は広くはなかったが男女分かれており、女性用は一度に二人が使えるようになっていた。初めミヅキは一人で最後に使おうとしていたのだが、使い方がわからず、たまたまその時現れたカノンと一緒に入るようになってしまっていた。

「……おねーさん、ここがおきらいですか?」

 唐突に隣からきた質問に、ミヅキは振り向いた。目を瞑って髪を洗い流しながら、カノンは言う。

「みんな、おねーさんのこと、しんぱいしてます」

「別にかまって貰わなくてもいいのよ、あたしは直に帰るんだし」

 ……本当に帰れるのだろうか、とぼんやりとした不安がよぎった。

「……ここはね、おねーさん、いろんなひとがいるんですよ。れいふぉーどのすらむからきたひとたちもいれば、ちかくのもりにすてられていたこたちもいる、わたしたちはみんな、ゆくしーせんせえにひろってもらわなかったら、ここにはいなかった」

 そこでカノンは口にシャワーが入ったらしく、咳き込む。ミヅキは何も言わずに、そのシャワーを止めてやった。ありがとうございます、と顔の水をはらいながらいうカノンから、ミヅキは目をそらす。

「……みんないろいろ、つらいことがあったひとたちで、ここにきて、みんなでやさしくしあうようになったんですよ。つらいことがたくさんあったひとには、いっぱいやさしくしてあげようって、ゆくしーせんせえもいってました。だからみんな、おねーさんがにこにこしてあそべるようにしてあげたいなぁって、おもってるんです」

「そりゃ、随分勝手だこと」

「はい、そうですね、でも、かってなやさしさでいいんだって、ゆくしーせんせえがいってました」

 へへへ、と笑うカノンの顔に不自然に張り付いた前髪が気になって、ミヅキは手で払ってやった。

「……どーせ仲良くしたって、あたしはすぐ家に帰るんだから。帰るとこのないあんたたちとは違うの。あたしは渋々ここにいるだけ。わざわざ仲良くしてやる気はないって、伝えておいてよ、みんなに」

「……でも、おねーさん、ごはんもちゃんとたべてないし」

「あんなまずいもん食えないわよ、やってらんない。アグノムがパンでも買ってきてくれるから、それでいーの。……ちょっと、ユクシーには言わないでよ」

 慌てて声を潜めるミヅキに、カノンは少し悲しそうに笑った。

 

「……いつあたしはここから出られるんだろう」

 ほかの子供たちは集団部屋のようだったが、ミヅキは相変わらず最初に寝かされていた部屋を宛てがわれていた。人付き合いが苦手なミヅキとしては、そちらのほうがありがたかった。

 ベッドに腰掛けて月明かりに目を細める。街の夜のネオンよりも明るいのではないかと思った。それほどこの森は暗かった。

 食事は外見からして口に合わず、ろくに食べれなかった。学習では文字と言われたものは記号にしか見えず、掃除ではやり方が違うとやかましく言われ、遊びではうまく溶け込むことができず、シャワーや就寝時でも心が落ち着くことは無かった。

「……帰りたいな」

 ぽつりと口をついて出た言葉に、自分でも驚いた。頭に浮かぶのは幼馴染の姿に、兄の声、仲間と遊んだ日々の景色。そういえば自分はなぜここに連れてこられたのかもよくわかっていない。身が危ないと言われても、なぜ狙われているのかもわからない。

 組んだ手の上に何粒も落ちていく生暖かい雫に、自分が泣いていることに気がついて、ミヅキははっとした。気付かないうちにだいぶ心が折れていたようだった。顔を覆ってすすり泣いて、ここには慰めてくれる幼馴染はいないのだと思い、また泣いた。

「なーに泣いてんだよ、ほらほら」

 不意に温かな感触を頬に覚えて、ミヅキは驚いて顔から手を離す。飛び込んだ文字は、”あったかいレモンティー”。見覚えのある小さなペットボトルを持ってニヤニヤ笑っているのは、アグノムだった。

「意外と脆いなぁ、もーちょい耐えれるかと思ったんだけど」

「うっさい、見んな」

「気が強えなぁ、甘えてもいいんだぜ?こう見えて、俺もオニイチャンなので」

「絶対イヤ」

 急いで涙を拭ってからミヅキはペットボトルを受け取った。ひとくち飲んでから、首を傾げる。

「いま、夏じゃなかったっけ」

「グリーンティーじゃなくて紅茶がいいっていうから、紅茶はあったかいほうがいいだろ、探したんだよ」

「……はぁ、おつかれ」

 あたしの話覚えてたんだ、とぼそりと呟くミヅキの顔は、どこかほっとしているようだった。それを見てアグノムはニヤニヤと笑う。

「帰りたい?」

「当たり前でしょ」

「あと二週間くらい待ってよ」

「無理」

「いい子だから」

「あたし不良のリーダーやってんだけど」

「いい子いい子」

 無理やり頭を撫でようとするアグノムの手を、ミヅキは精一杯押しのけていた。やがてアグノムは笑いながらその手を引っ込める。

「女の子は笑ってるほうがいいぜ」

「なあにその、取ってつけたようなセリフ」

「レイフォードが三大貴族、フィリオール家の者として、女性の笑顔は守りたい、ってね」

「そのチョコみたいな名前のやつ、長くてめんどいからやめてよ」

「手厳しいお嬢さんだなぁ」

 ほい、と手渡されたビニール袋に入っているパンを見て、ミヅキの腹の音が鳴った。そのままアグノムのほうは見ずに、パンを頬張る。

「食いもんはこうして持ってきてやるし、居心地がどうあれここは安全だし、キツいかもしんねーけどもうちょいここにいてくれな」

 パンを頬張りながらまた泣き出していたミヅキの頭を、アグノムの大きな手がそっと撫でる。優しい大人の声。僅かに震えるミヅキの体を後ろから抱きしめるようにして、アグノムは大丈夫、と繰り返す。

「そうだ、ついでにいいこと教えてやるよ。お前も毎日同じ繰り返しじゃつまんねーだろうし」

「いいことって」

「ユクシーさぁ、明け方は子供らのメシやらなんやらでバタついてて、一人一人の様子に気なんか配れないんだ。だから、その時間ならちょっとあそべるぞ」

 ミヅキの肩に頭を乗せるようにして、アグノムが囁く。

「ここの正面玄関を出て、右に入って、けもの道をまっすぐまっすぐ行ったところに、そりゃもう綺麗な花の咲く湖があるんだ」

「湖」

「ここの庭でユクシーが一生懸命育てた花だって、あそこの花の美しさには叶わない。赤に紫、青に黄色、橙、白。女は花好きだろ?しかもあれはな、朝にだけ咲く、特別な花園なんだ。ちょっと距離があるけど、道は複雑じゃないし、お前の足でも一生懸命走れば、朝食前には戻ってこれる。最悪外にいるの見つかっても、そのへん散歩してただけだって言えばいい」

「……いいよ、めんどいし」

「でも、きっと元気になるぞ、それくらいきれいな場所なんだ」

 ミヅキは少しだけ頭で想像した。湖の脇に咲いている花々、美しい湖面。囲われたような決められた毎日で、少しだけ悪いことをするスリル。何よりミヅキは同じことの繰り返しが苦手だった。アグノムの提案は、良い娯楽に聞こえる。そこでアグノムは思い出したように付け加える。

「ただし、お前は湖のこちら側にしか行ってはいけないからな。向こう側へ行くと、大変な事になる。……わかったな?」

「……行くなんて言ってない」

「はは、そうだな、好きにしろよ」

 する、とアグノムの体がミヅキから離れた。背もたれを失ったミヅキは少し姿勢を正す。また窓から去っていこうとするその後ろ髪に、ありがと、と小さく言った。届いたのかはわからないが。

「……うっかり大変な事になったりしてなぁ、うっかり、な」

 闇夜に真紅の瞳を光らせて、アグノムは楽しそうに笑った。

 

 子供たちの起床時間の前に、孤児院の主であるユクシーは食事やその他の準備をする。現在子供たちは約二十人ほど。めんどうな少女をもう一人預かっているせいで、先生としての仕事がさらに増えたことには嘆息しつつも、嫌な顔はしない。が、新入りであるミヅキの食の好みはさすがに気にしていた。

「あいつ食わねーもんなぁ……贅沢なやつ」

 文句を言いながらも、作っているのは一般的なアルフォード食ではない。昔少しだけ日本にいた時のことを思い出し、なるべくその味に寄せて作っているのは薄茶色く濁る甘い香りのするスープと、柔らかく焼けたパンに、新鮮な葉野菜のサラダ。材料費の面から普段はこんなものは作らないが、何も食べないのはさすがに心配だったので、ユクシーも行動に出ることにしたのだ。……陰でアグノムに何か貰っているとも限らなかったが、どうせ栄養も何も考えていないだろう。

「……先に起こすか」

 院の子供たちとも上手くやれていないことはわかっていた。あまり口を出さないようにはしていたが、何度も遊びに誘う子供らが挫けてしまっているのを目にし、どうしたものかと悩んでいた。そもそも一時預かりという扱いの彼女に、どこまで接していいのかもよくわかっていない。

「面倒事が多すぎる」

 逆らえない兄からの”頼み”でなければ引き受けていない、とため息をつきながら、そっと扉を開ける。寝起きもあまり良くないことをここ数日で把握していた。

「おい、お前のためにわざわざ飯作ったから起きて食え。んでさっさと」

 乱暴に布団をはぎ取りながら、ユクシーは一瞬、時間が止まったように感じた。頭を駆け巡るのは、ここ数時間の物音や景色の記憶。ユクシーはまず起きてから全ての子らの様子を確認に行くが、その時には、確かにいたはずなのに。

「……あのクソガキ、どこ行きやがった」

 窓の外に僅かに残った足跡を追いかけ、ユクシーは動物の声の響く森を駆け抜けていく。


 朝の森は、静かなのに動物の声が響き渡り、草花は湿っていて、景色は少し白くもやがかかったようで、空気は澄んでいる。胸いっぱいに吸い込むと、街にいたときには感じたことのない冷たさが体をめぐる。裸足に小枝や石が刺さって痛いが、戻っていると湖に行く時間はなくなる気がして、そのまま急いで歩いた。

 ミヅキの足で二十分ほどだっただろうか、どこからか飛び込んでくる光に目を向けると、思わず声を漏らし、駆け寄った。

 ゆらゆらと揺れる湖面が朝陽を反射し、その光が周りに咲き誇る花々を照らしている。アグノムが言っていた通り、色とりどりの花がそこには咲き誇り、まるで夢のような世界だとミヅキは思った。

「……すご、い」

 一歩、一歩、恐る恐る近づき、その花園の端の花に触れた。夢のようなのに、触った花の茎や葉、花びらの感触は本物だった。ふわふわとしていた心地が一気に現実味を帯びながらも、包まれているのは幻想的な空気。

「……カイトと来たいな、ここ」

 アグノムが言う通り大人しくしていれば、いつか帰る日がくれば、今度は幼馴染と一緒にここに来れるだろうかと考えた。幼馴染は花などに興味ないかもしれないが、綺麗なものは嫌いじゃないはずだ。花を踏まないように花畑の中を歩きながら、ミヅキはもしそうなったらの幼馴染の反応をあれこれ考え、楽しんでいた。

 やがて湖の前にきて、ミヅキは恐る恐る水面に手を差し入れた。冷たい、と思い、一度取り出して、また手を入れる。ドキドキしながら、その水を少し掬って、口に運ぶ。柔らかく甘みを帯びたその水に驚き、そのままかわいた喉を潤した。

 花畑の上に横になり目を閉じると、心が軽くなるように感じた。窮屈な数日間の息苦しさが消えていく。わけのわからない状況に縛られていた感覚が薄れていく。やがて、首元にもしゃもしゃした感覚を覚えてミヅキが目を開けると、リスのような猫のような、毛の生えた動物と目が合った。

「あ、かわいい」

 さわろうと手を伸ばすと、人懐っこくミヅキに擦り寄る。ミヅキの手のひらいっぱい程の、小さな生き物だった。やがて気づけばその生き物に囲まれ、擦り寄る彼らにミヅキは笑ながら頭を撫でてやる。

「可愛いなぁ」

 彼らと転げ回りながら遊んでいるうちに、ミヅキは湖の向こう側にも美しい花が咲いているのを見つけた。こちら側に咲いているものとは異なり、その花は紅に染まり、まるで結晶のように輝きを放っている。硬そうだ、とミヅキはおもった。しかし、この場に咲いているどの花よりも美しい。触ってみたい、とミヅキは強く思った。

 湖はかなり広かったが、回っていけば向こう側へもつけそうだなと思った。ふと陽を見上げ、ユクシーの起床が気になったものの、あの厳しい”先生”のこと、一度見つかれば二度とは来られないだろうと思い、どうせなら見つかるまで遊んでいようと考えた。動物を引き連れながら、湖の周りを歩いていく。

 やがて、例の赤い花は目前に迫ってきた。一輪ではなく、不規則なのに妙に規則的に並んだ咲き方をしていて、それらはすべて蔓のようなもので繋がっている。なにかの境界線のようにも見える。ミヅキはすぐそばにしゃがみ、しばらく花を眺めていた。花の輝きは、まるで警告のような、それでいて誘惑のような、形容し難い空気を吐き出している。

 その時、ミヅキの足元にまとわりついていた動物たちが、一斉に花の向こうへと走り出した。

「あ、ねえ!まってよ」

 短い時間ながら勝手に友達のように思っていた動物たちが行ってしまい、ミヅキはしばらく呆然としていた。この向こうに彼らの家があるのかもしれない。今日のお遊びはここまでにしろ、という警告かもしれない。

「……あたしも、かえろっかな」

 帰る、その言葉にまとわりつく違和感に、綺麗な景色が見れたからしばらくは我慢しようと心に決め、ミヅキは立ち上がる。……が、戻ろうとして、振り返る。日本では見たことのない、その硬質的な赤い輝きを放つ花。見れば、たくさん咲いている。もしかすると、そんなに貴重なものではないのかもしれない。

「……いっこ、だけ」

 ミヅキは手を伸ばした。恐る恐る人差し指で花弁をなぞると、つややかな石のような感触がする。そのまま手を滑らせていき、茎の根元に触れ、思い切って、折った。パキン、と、ガラスの割れるような音がした。

「……キレー」

 微笑んで、ミヅキは上着のポケットにそっとその花を入れた。花はその中で、キラキラと輝いていた。

 だいぶはっきりと輪郭を持ち始めた景色に、急いで帰らないとと、ミヅキは走った。湖の元のほうに帰りついた頃、聞き覚えのある声がして、はっと身をこわばらせた。見なくてもわかる、が、恐る恐る見れば、息を切らせたユクシーが仁王立ちしている。明らかに怒っているなと思い、何故かミヅキは花を入れたポケットを隠すように抑えた。

「こんのクソガキ!!どこいってやがったんだ!!」

「いや、ほら、なんとなく、外でたくて」

「まさか向こう側に行ってないだろうな!?」

 頭を掴まれ上向かされ、そう言われたときにミヅキは一つ思い出した。昨日、アグノムもそんなことを言っていたのだ。湖の向こう側にはいくな、と。……行ってしまったが。

「ま、まさかぁ。足痛くなったし、ここで休んでただけよ」

「……チッ」

 ユクシーはミヅキの傷ついた裸足を確認すると、舌打ちをして軽々しくミヅキを背負った。そのまま孤児院の方へ歩いていく。

「……外行きたいなら、一言いえ。一緒に行くから。……心配するだろ」

「え」

 心配。ミヅキが繰り返した言葉に、ユクシーは反応しなかった。その大きな背に揺られながら、ミヅキは湖の向こう側へ行ったことと、花のことをユクシーに話さなかったことを、少しずつ後悔し始めていたが、切り出すタイミングは掴めないままだった。

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