1-1


 今思えばあの日は、その年で一番寒い日だったように思う。

 橙色に燃える暖炉に薪をくべると、ぱきぱきと空気の爆ぜる音が静かな部屋に響いた。暖かいね、と笑う妹に、そうだね、と微笑んで頷いた。

 妹は大変体の弱い子だった。小さい頃から、兄には「僕が働きに行くから、お前がこの子を守ってやって」と言われていた。その通りに、僕はいつも妹の世話をしていた。また将来、妹は僕のお嫁さんになるのだと、兄さんは言っていた。だから僕も、妹でありお嫁さんになるこの子のことを、何があっても守ろうと決めていた。

 妹は体は弱かったけれど、明るく心の優しい子で、いつもニコニコとしていた。時折母さんや父さんのところへ行くことはあったけれど、きちんと言い聞かせればちゃんと帰ってきた。そうやって、二人で兄さんの帰りを待つ生活になっていった。

 兄さんは体の弱い妹のために薬を買って、十日に一度帰ってきてくれた。なんでも、村の外で人間と共に働いているのだと言っていた。バレたら殺されるかもしれないけれど、仲間はみんないいやつだよと笑って話してくれた。そして、兄さんの冒険の話を、僕と妹は楽しみに待っている。

「おにーちゃん、おそいね」

 妹はそう言って咳き込む。あわてて水を用意して渡すと、ひとくち飲んでニコニコ笑った。そっと妹の頭を撫でる。ちらりと窓の外を見ると、暗闇の中は酷い吹雪だった。外には出られないな、兄さんを迎えにはいけないな、と思うと同時に、こんな日には兄さんも帰ってこれないかもしれないと思った。

「……今日はもう、寝ようか。時間も遅いし」

「……うん、おにーちゃん、いそがしいのかもね」

「そうだね」

 電気を消して、暖炉の火を消して、妹を抱きしめるようにして布団に入る。ガタガタと窓が風で揺れる度に震える妹の背中を撫でる。

 兄さんが帰ってこなくなって六十の夜が過ぎた。もしかしたら、もう、どこかで殺されてしまったのかもしれないな、と眠りに落ちていく頭で考えていた。



 アルフォード国の使用する地図を使って、その中央の南寄り。周囲を森に囲まれ、その存在はあまり知られていない、ちいさなちいさな孤児院。幾重にも張り巡らされた結界がその存在を更に隠していた。

 そこにあるのは石造りの、決して豪華とは言えない簡素な白いちいさな建物。三角形の屋根に、時計の針を模したような十字がそのてっぺんに刺さっている。見かけに胸をときめかせることはないかもしれないが、丈夫さは保証されていることが伺える。

 朝から森に響くのは、孤児院から漏れる言い合いをする声。小鳥たちが数度鳴いて、そばの木々から飛び立っていった。

「だから、あたしにわかるように言いなさいよ!」

「キーキーうるせえな」

 ベッドの上で騒ぐ赤茶髪の少女に、わきに置いた椅子に座る赤髪短髪の青年は眉をしかめてため息をつく。

「……もう一回最初っから説明してやるからちゃんと聞け」

 青年は一枚の地図を取り出し、少女の膝の上に広げる。それから指で中央をさしながら、話す。

「俺達が今いるのはここ、アルフォード国の国境付近にあるステロッサの森にある、フィリオール孤児院」

「社会苦手なあたしでも、世界がこんな形してないことくらい知ってるわよ。なんなのこれ。馬鹿にしてるの?」

 地図に示されている地形は、少女が知っているものとは大きく異なっていた。地図の半分は占める一つの大きな大陸に、北と南に別れた島。細々とした島はあるものの、彼女が住んでいたはずの島国は存在していない。そもそも、その島が浮かんでいた海も存在していない。

「だから、なんべんも言ってるだろ。ここはお前が生きてきた現実世界……レイノラルとは違う。ここは第七世界フロンスティア。お前のいた世界の隣に位置する世界だ」

「……異世界とか、マジで意味わかんないんだけど」

 いつまでも同じ問答を繰り返しどうにも納得しない少女に青年はため息をつくと、見てろ、と青年は少女の前に手を出した。少女が不思議そうに首を捻ると、青年はなんの前触れもなくその手から炎を出す。……青白く美しい炎が、青年の手のひらの上で静かに踊っている。

 わ、と少女が声を漏らし、表情が変わる。青年はようやくか、と呟いて、手をそっと結ぶ。消えていった水色の炎を惜しみながら、少女は笑顔で言う。

「あんた、手品がうまいわね」

「……もう、いいや、いいからお前は寝てろ。ゲート通ってきて疲れてるだろ」

 ゆっくりしてろ、と言い残して、大きなため息とともに青年は部屋を出ていく。

 ひとり残された少女は「……で?」と、おなじく取り残された知らない文字の書かれた地図を睨みつけて、首をひねっていた。

「ヨーロッパ系の言葉みたいだけど、こんなの見たことないわ」

 このあたしの知らない言葉なんて、と、傲慢で物知りな少女の声が地図に吸い込まれていく。

 

「わたしはカノンです。さっきのあかいかみのせんせえは、ユクシーせんせえです。おねえさん、おなまえをきいてもいいですか?」

 まるでアンティークショップに置いてある人形だわ、と少女は思った。薄い水色の綺麗な髪を高い位置で一つに束ね、おなじく綺麗な青の瞳は宝石のように煌めいている。間をあけてから、少女はまさに人形に語りかけるように話す。

「あたしはヤハラミヅキ……西地区ならあたしのこと知らない人いないと思うんだけどね、ここどこなの?」

「にしちく、ですか、うーん、わたしはしらないです、ごめんなさい。ここはあるふぉーどこくの、にしのほうなんですけど」

 ぺこり、とカノンが頭を下げるのに釣られて、ミヅキもやや頭を下げた。それから、アルフォード国、と繰り返す。さっきの赤髪短髪の青年、ユクシーも言っていたなとぼんやり思った。

「……変な夢、見てるのかしら」

 少しだけつねった頬が痛い。カノンが水を持ってくると言って部屋を出ていってから、ミヅキはしばらくの間、自分がどうしてここへ来たのかを思い出していた。

 幼馴染の顔をした殺人鬼に追われ、殺されかけ、それから赤髪の男……名はアグノムだっただろうか。彼に助けられ、立ち入り禁止のロープを潜り【裏山の樹海】の中へ入り、そして。

 さっきの、そう、ユクシーの何かの掛け声と共に景色が【歪み】……その中へ連れていかれ、意識を……とそこまで思い出したとき、ミヅキは突然痛み出した頭を抑えた。痛みも一緒に思い出したようだった。

 どこかで頭を打ったのかしら、と思うとともに、もしかしたら本当にここは異世界なのかも、などと考える。何一つ現実味のない、ふわふわとした感覚。でも。

「……それよりも」

 早く帰らなきゃ、と、幼馴染のことを思い出しながら、ミヅキは帰ってきたカノンから水を受け取った。ひと口飲むと、都会では飲めない澄んだ水の味がした。

 

 ヴァーストリッドの伝承。時の女神に祈りを捧げよ。ミヅキにとっては意味もわからず長く退屈な文言が続いた後、よくわからない言葉で祈りとやらは締めくくられた。

 孤児院の中では一番広いであろう部屋には長机が置かれ、小さな子供から高校生ほどの年齢に見える人たちがそれぞれ席についている。目を閉じ頭をやや下に向けていた子供たちは、ユクシーの掛け声で、食事に手をつけ始める。

 それを見たミヅキも同じようにフォークとナイフを手に取り、そこに並んだものを見て、力なく手を下ろした。

「……なんだろこれ、肉?……これ、灰色の液体って、なんの実験なの……?」

 食に不自由することのない、日本で育ち、生活し、スープといえばもちろん味噌スープ。トマトスープやコンソメスープ、いろんな汁物は飲んできたはずだったが、食卓に灰色の汁物が並んだことはそうなかったなと思い返し、ミヅキは手が進まない。

 ひと口おそるおそる口に含み、隣の食べ足りなさそうな少年にそっと皿を押し付けた。

「食べないのか?具合悪いのか」

 気づけば後ろにたっていたユクシーに、目をそらしつつ頷くと、ユクシーはため息をついて、ミヅキを持ち上げた。

「あ!ねえちょっと」

 抵抗する間もなく連れていかれたのは、元の小さな部屋。ベッドに寝かされて見上げると、数度頭をぽんぽんと撫でられて、ミヅキは動揺する。

「まあ、世界間移動は疲れるからな。本調子になったらいっぱい食えよ。お前の為にたくさん用意してやるからな」

 優しい声で言い残し出ていったユクシーの背を見ながら、ミヅキはぐうぐうと音を立てる腹を押さえ付けていた。

 

 騒がしい子供たちの声と、時折響くユクシーの怒る声、笑い声、そして……静まり返った孤児院の闇の中、はたはたと風に柔らかく揺れるカーテンを見ながら、ミヅキはベッドの上でごろごろと寝返りを繰り返していた。

 窓の役割であろう穴からは、月明かりがまっすぐに差し込んでいる。立ち上がり、ふらふらと窓まで歩き、腰掛けた。そこでミヅキはようやく、自分がまだ制服姿であることに気がついた。靴はどこかへ行っていて裸足だが。

「……お腹すいたし……お風呂入りたかったな……帰りたいし……」

 ぽつぽつと独り言を繰り返す。大好きな特撮ヒーロー番組は録画していなかった、幼馴染は心配してるだろうか、学校の単位は結局落とすだろうな、遊び仲間は元気にしてるだろうか、兄は心配していないだろうか。

 帰りたいな、ともう一度ぽつりと呟いて、窓の外を見ると、そこに広がる真っ暗な森に、なぜだか怖くなる。こんな場所、街にはなかったはずだと思うと同時に、ここが異世界だという話がさらに現実味を帯びてきて、ミヅキは何度も手を組んで組み直してを繰り返していた。

「……お腹すいたな」

 ぐう、と腹が再び鳴ってため息をつく。窓枠に腰掛けて、さらにため息をつく。

「そーか、んじゃこれ食えよ」

 突然背後から伸びてきた手と差し出されたものにミヅキは驚いて小さく悲鳴をあげた。窓枠から飛び退いて声の方を見ると、ミヅキが座っていた所に体格のいい男が座っていた。月明かりに照らされて煌めく赤い髪。一つに束ねた長い後ろ髪が、風の動きに合わせて揺れる。

 ニヤニヤと気味の悪い笑顔を浮かべるのは、ミヅキが殺人鬼に襲われていた時に助けてくれた青年だった。長く色々と口上をつけていたが、確か名前はアグノムだったなとミヅキは思い出す。

 アグノムはミヅキの反応を見て、大げさにガッカリのジェスチャー。

「んだよ、せっかくパン買ってきてやったのによ」

「……びっくりさせないでよ」

 ミヅキは大きく息を吐いてから、アグノムのほうへ一歩近づいた。アグノムは、邪魔するぞー、と言いながら部屋の中へ入ってくる。その足が靴のままなのに気づきミヅキは顔をしかめるが、アグノムは何か言われる前に「こっちの世界は土足が主流だぜ」と言う。言われたミヅキは言葉を飲み込む。そういえば、ユクシーや子供たちもそうだったかもしれないなと思った。自分の足を見ると、裸足だった。砂だらけなことに、また風呂が恋しくなる。

 促されてミヅキはベッドに腰掛ける。その隣に座ってからアグノムは改めてビニール袋を差し出した。ミヅキがよく知っているコンビニエンスストアのロゴがかいてある。そっと中を覗いてみると、100と値札の貼られたパンがいくつか入っていた。税別。

 ミヅキがアグノムを見上げると、アグノムはにかっと笑う。言葉はないが、食えよ、と言っているようだった。ミヅキは恐る恐るひとつ手に取り、アグノムの顔と見比べながら袋を開ける。恐る恐るひとくちかじると、普通のメロンパンの味がした。

「うまいよなぁ、この絶妙にパサパサしてんのとか癖になるよな」

「……馬鹿にしてんの?」

「誉め言葉だよ」

 ミヅキはアグノムを睨みつけながらも、ようやく手に入れた馴染みのある食料を次々食べていく。パンを三つほど食べたところで、一息ついた。飲み物、と思ってあたりを見回す前に、アグノムが差し出したのはまた、コンビニのプライベートブランドの緑茶。

「ジャパニーズグリーンティーってやつ、日本人はみんな好きなんだろ?」

「……あたしは紅茶派なんだけど」

 ミヅキは文句を言いながらも、水分のなくなった口の中を潤していく。それから、ふう、と大きく息をつく。その様子を見て、アグノムは満足そうに笑った。

「……借り二だな」

「………え?」

 ニヤニヤと笑うアグノムを振り返ると、右手で二、と数字を表している。ミヅキは何を言っているのかわからず、首をかしげた。アグノムはミヅキにやや顔を近づけながら言う。

「一、クロキの襲撃から守ってやった。二、アルフォードのクソ不味い飯から守ってやった。優秀な騎士だろ?」

「仮にあなたが優秀な騎士なら、借り、なんて言葉は使わないと思うけどね」

「逆だよ逆、優秀な騎士はどんな手を使ってでも上手くやる、そーゆーもんだ」

 コンビニパンがまだいくつか入っているビニール袋の端をぎゅっと握り、ミヅキはアグノムを警戒する。確かに自分を守ってくれた人で、いま食料を分けてくれた人だが、貸し借りなどと言い出す相手が果たしてまともなものかどうか。なにか仕掛けてくるのなら、逃げる準備は、反撃する準備は。と、そこまで考えていたところで、「まあ、そんなにカッカすんなよな」とのんびりとアグノムは言う。

「慣れない場所で敵を増やす態度は得策じゃないだろ。こっちはお前に危害を加える気がないどころか、守ろうと思ってるんだぜ?お前のオニーチャンとの約束もあるからな」

「え?」

 途端、ミヅキの表情がぱっと変わる。ピリピリとしていた雰囲気が、少し気の抜けたものに変わったのをアグノムは感じて、また笑う。

「安心しろよ。俺はキタがちっせーときから世話してんだから」

 ミヅキはそう言うアグノムのあちこちを見て、嘘ではないか、本当に兄の知り合いなのかと思案しているようだ。もともと逆八の字の眉は更に釣り上がり、眉間に深いシワを刻んでいる。アグノムのほうはよりいっそう笑顔になる。

「……きたにぃに頼まれてるって、なにを」

「いまお前は狙われてる。だから、お前を安全な所に連れていけ、ってね」

 アグノムの淀みない、しかも恐らくは兄の口調を真似たものだろう言い方とジェスチャーに、ミヅキは信じざるを得ないかもしれない、という曖昧な感情を抱いていた。信じていいか信じるべきではないかと考えると、どちらかというと信じていいのではないかという感情だ。

 やがて、だいぶ間を置いて、ミヅキは「わかったわ」と言った。腰よりも長い、自らの一つに束ねた後ろ髪を弄びながら、アグノムは満足そうに微笑んだ。

「そんなわけだ。お前はしばらくこの施設で大人しくしててくれよ。ここ出ると、クロキがめんどくせーから。そのあいだに、俺があいつらなんとかしてくるよ」

「……それもきたにぃに頼まれたの?」

「何言ってんだよ。あいつはただの歌手だろ?俺に戦えなんて命令しないよ」

 胡散臭さは感じるものの、信じない理由もない。兄の職業が歌手なのもその通りだった。それにいまのところは、自分の味方だ。ミヅキはとりあえず、もう一度頷いた。

「……でも、あの、ご飯」

「ここの飯は食わなくていいぞ。俺がちゃんと持ってきてやるからな。せっかく連れてきたのにミヅキ殺されるわけにはいかねえ」

「死ぬの!?」

 青い顔をして何も答えないアグノムを見て、ミヅキは先ほど自分が少しだけ舐めたスープの味を思い出しかけて……首を激しく左右に振った。

「まあなんも心配すんな。お前はただ、ここにいてくれりゃいいんだよ。それで借りが一つチャラになる。な」

 ぽん、と頭に乗せられた手は大きい。アグノムはミヅキから手を離すと、来た時と同じように窓から出ていこうとする。

「あ、ねえ、ちょっと!」

 また明日来るから寂しがるなよ、と言い残して、アグノムの姿は夜の森へ消えていった。

 部屋に取り残されたミヅキは、今までのことがようやく現実味を帯びてきたような、まだ夢見心地のような、曖昧な気分でベッドに横になった。だが腹が満たされていたおかげだろうか、直に眠りに落ちていった。


【AGAIN1-2に続く】

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