【一次創作】AGAIN

ヤネウラ

#00+‪α‬

今年の夏は、異例の暑さになると、先週ニュースキャスターが言っていた。言っていた、けど。

「こんなバカみたいに暑いとは聞いてないわよ……」

 視界は歪み、水分を摂取したばかりのはずの喉は、潤いが足らないと文句を垂れる。足は思ったところに踏み出せず、短いスカートさえ脱ぎ捨ててしまいたいほどに、暑い。暑い、という言葉が崩壊してしまうほどに。

「帰りたい…」

 ダミ声と死んだ顔で隣を歩く幼馴染に声をかけるが、幼馴染はしばらく足を止めてあたしの顔を見て、何も言わずにまた歩き出した。

「ねー、ねえってば、カイトー」

「今までサボりすぎたから夏休みもろくに休めないんだろ。さっさ行くぞ、ミヅキ」

「成績はとってるもん〜」

「出席足りてねーんだよバカ」

「めんどくさ〜」

「いいから行くぞ。ほら」

 幼馴染のカイトが差し出した手をとり、体重をかけて、よたよたと前に進み出す。ちらりとスマホの画面電源を入れると、もう夏期講習はとっくに始まっている。だけどまあ、怖い顔をしたカイトに「どうせ遅刻じゃん?帰ろう?」なんて言える雰囲気でもなく、そのまま学校へと向かった。

 幼馴染みの温かい手。いまは少しだけ、煩わしさを感じる。


 幼馴染みは二歳年上の男の子で、隣の家に住んでいる。名前はクロバカイト。二歳上だけど、学年は一緒。彼が留年してるわけでなく、あたしが飛び級してる。あたしらの通う私立水無月学園は、初等部から大学部まで揃った、バカ広い敷地のちょっと特殊な教育機関。いつだって入試を受けられるし、いつだって卒業できる。飛び級もできるし、初等部や中等部でも留年する。他はめちゃめちゃ自由な校風で、成績至上主義みたいなところ。

 あたしはその中で、幼馴染みと一緒の教室に通うために飛び級で高等部一年生に在籍中。

 んでもま、いろいろあってさ。行くのめんどくさくなって、あんま学校行ってなかったから。課題も、遠隔で受けたテストもいつも首位のはずなのに、単位が足りなくなったわけで。飛び級して留年なんて馬鹿みたいなことにならないためにも、そして二人で暮らしてる、馬鹿高い学費も出してくれてる兄に心配をかけないためにも、今日の補講は受けなければならなかった。

 それにしても、今日がこんなに暑いとは思わなかった。この夏でも異例の暑さじゃなかろうか。記録的。

 あたしはもうほとんど引きずられながら、涼しい学校へと連れていかれた。


学校が終わったのは、まだ明るい午後六時。補講を受けたメンバーのほとんどが、等しく死んでいた。あたしは、ほとんど寝てただけなので、特に疲れてはいない。まあ、居眠りで怒られたので、ちょっと精神面が疲れたかもしれないけれど。

 カバンに特に使いもしなかった新品同様の教科書を乱暴に入れると、カイトの顔を探した。来る時に一緒に帰る約束まで取り付けていたのだ。いつだって一緒に来るし、一緒に帰るし、帰ったら一緒に夕飯を食べる。もうずっと昔からそうやって過ごしてきた。

 だからカイトだってあたしのことを探してるって、勝手に思い込んでいた。あたしには友達もカイトしかいないし。

 でも、カイトのほうはそうじゃなかった。

目が合ったカイトは、部活の友人に囲まれ、準備を急かされている。そういえばカイトの所属するサッカー部は近々試合があったんじゃなかったっけ。もしかしなくてもあたしを連れてくるために補講を受けて、練習をサボったのかもしれないな、と思うと、体の内側に冷たい感覚が走った。。

 あたしはサボり魔だし生意気だし、人に嫌われて避けられるタイプだけど、幼馴染みは違う。本当はもっと、輪の中心にいるような、好かれて頼られる存在のはずだ。何しろ優しいし、いろんなことができる。あたしがいるといつだってそばにいてくれるけど、それは本当はすごく、すごくもったいないことだ。サッカー部でもエースなんだから。

「いや、俺今日部活には……」

「カイト!また夜ね!」

 あたしは笑顔で手を振ると、引き留めようとするカイトから逃げるようにその場を離れた。どうせ夕飯は一緒に食べるんだから、ほんの数時間の間一人になるくらい寂しくなんかない。寂しくなんか。


 別になんにも寂しくなんてない。

……はずなのに、暗くなった公園でひとり、ぼんやりとブランコをこぎ続けながら、家に帰ることもできずにいた。ふとスマホの画面をつけると、もう時刻は午後八時半を回っている。そういえば日が落ちるのもだいぶ早くなったような。

 カイトもそろそろ部活を終えて、着替えている頃だろうか。いつも九時ごろには家に来ていたはずだから、既に学校を出て、夕食の買い出しをしてくれているのかもしれない。家に行ってあたしがいなければ、また血相を変えて探してくれるのかな。きっとあたしはそうやって心配をかけたくて、ここから動けずにいるんだ。カイトの心の中に、たしかにあたしがいることを、確認したくて。嫌なやつ。

 それからしばらく経ち、ようやくブランコを止めた時、目の前に見慣れた顔を見た。ああやっぱりと思い、嬉しくもあり、自分がいかに面倒な人物なのかも実感する。複雑な気分で、ブランコから降りて、カイトに駆け寄った。見れば、制服姿ではなく、見慣れない全身黒のいで立ちだった。夜もくそ暑いってのに、なんでそんなロングコートにブーツなの?

「そのかっこ暑くない?」

 思わず問いかけた途端、歯に激しい痛みと、口の中に鉄の味。一気に全身が冷えていく。硬く冷たい金属の味と、自分の血の味が混ざりあい、軌道が確保できず、息が苦しくなる。何が起こったのかがうまく呑み込めない。……そして口の中に突っ込まれていたものが、銃口であったのだと理解して、さらに頭がぐちゃぐちゃになった。

「探したぜ」

 こんなことで体が冷えたって、嬉しくなんかなかったのに。かちゃ、と音がした。彼の引き金を引く音だ。

「どこをぶち抜いてほしいんだよ、特別に決めさせてやる」

 よく知ったはずの幼馴染の顔が、あたしの知らない感情で歪んでいるのを見た。


 火事場の馬鹿力だ、と、昔見たクイズ番組の解説を思い出していた。何が起こったのかを冷静に説明することはできるけど、反して体はろくに動かないほど震えており、しかしいつもの百倍の力を発揮できたと思う。形容し難い現象だった。

 何をどうしたのか覚えていない、何故かどうにか銃口から逃れ、転びそうになりながらも手をついて回避し、さらに全速力で駆け出した。自分でも驚くほどのスピードで、それこそあたしのなかでは法定速度を超えるレベルのスピードで、細く何本にも枝分かれした裏路地を走り抜け、ようやく後ろに「鬼」の姿は無くなっていた。普段学校をサボってその辺をふらふらと探索していたのが、こんな形で役に立つなんて。

「り、りあるおにごっこ…」

 人通の少ない街のはずれのそのはずれ。普段なら来ることもない、自分の縄張りでない場所で、ついにあたしは座り込んだ。息は切れ、呼吸は苦しく、心臓ははち切れんばかりに体内に血液を回す。体中が熱く、このまま溶けて消えてしまいそうだ。裏路地の室外機の陰で、大きく深呼吸をする。辺りはもう、真っ暗だ。

 そうだ、時間は、連絡は、と、まとまりの無い単語を頭に浮かべながら、乱れた制服のポケットを探った。……が、あるはずの硬さに手が触れない。

「……嘘でしょ」

 スマホを何処で落としたかなんて覚えていなかった。それよりも、あたしはもっと恐ろしいことに対して身をこわばらせた。

 もしも、あたしのスマホをあの男が……「幼馴染によく似た鬼」が、拾っていたら?スマホは個人情報の巣窟だ。あたしだけでなく、たくさんの人たちの情報が、あんなに危険なやつに渡ってしまうんじゃ……。

 だけど、あたしが完全に震え上がった時、突然目の前に、その不安の種であるスマホは現れた。

「お探しのものは、これか?」

 あたしはそっと、視線をスマホから上にあげる。

 どこかで見たような、でも初めて見る男の人だった。綺麗な顔立ちの、肌の白い黒髪の青年。

「そう、だけど…」

 明らかに普通の人ではないオーラをまとったその人は、あたしの力の入らない手にスマホを握らせた。そこであたしはあることに気づき、息を飲んだ。

 この人が着ている全身黒づくめのロングコートスタイルは、さっきりあるおにごっこを繰り広げたあの人と同じ服だった。そして顔立ちや雰囲気も、どこかさっきの人と似ている。……やばい、と思った。

 あたしは掴みかけたスマホをまた落として、全速力でそこから駆け出した。

 足はふらふらで息はろくに出来ず、体は痛いのか熱いのかわからなくなり、どこを走ってるのかもわからなくなり、顔に痛みを感じたと思ったら、アスファルトの凹凸に躓いて転げてしまっていた。なんとか体を起こしたところで、街頭に照らされた二つの影に囲まれているのに気づく。恐る恐る顔をあげると、先ほどの男性と、それから、その男性に銃口を手で抑えられている、あのカイト……に似た男。体の疲れも極限、意識も朦朧としていて、なんかもうなんでもいいや、という感情でいっぱいになってしまっていた。

 まず口を開いたのは、先ほどのスマホを拾ってくれていた男性だった。あたしにゆっくり近づくと、今度こそあたしの手にスマホを握らせた。

「さっき落とした衝撃で壊れたみたいだ。すまない。電源が入らなかった」

 画面の割れたスマホ。さらに電源が入らず、真っ暗。反射的に画面電源を入れようとしたが、やっぱり画面は真っ暗なままだった。

 それから、すぐに彼は頭を下げた。もういろいろ意味が分からなくて、あたしも頭を下げた。

「こちらの不手際で、不安な思いをさせてしまっただろ。弟の粗相を詫びよう。我々はお前に危害を加えるつもりでここに来たわけじゃない」

 弟と呼ばれたあの男を見ると、なんとも面白くなさそうな表情で、こちらを睨みつけていた。なにかを言おうと口を動かしては、隣の男性の表情を伺うと、また口をつぐんだ。それから丁寧な男性の方は膝をつき、座りなおしたあたしと目の高さを同じにして、右手を差し出す。

「俺はクロキトキ。こっちは弟のツバサ。俺たちはお前に会うために、遠いところからやってきた。ただお前と話がしたい。話を聞いてくれないか?」

 はぁ、とあたしは何ともとれない声を出した。

まず、状況を自分に置き換えて考えてみてほしい。ある日突然命を狙われ、なんとか逃げ切ったデスレースを終えた後で、あれはただの遊びだったから許してくれ、そしてこちらの話を聞け、と言っているようなものだ。はい、分かりました、なんて言える人間は、そう多くないとあたしは思うわけで。

「残念だけど、お話も聞きたくないわ」

 あたしは言う。挑発だった。クロキトキと名乗った彼は、眉一つ動かさずに、いつ手に持っていたのか、銃口をあたしに向けた。そして、そのまま口だけを動かす。

「話は聞いてもらうし、条件は飲んでもらう」

「なんだ、やっぱ話し合う気なんてさらさらなかったわけ」

 一瞬、にらみ合った。

 彼が引き金を引くのと、あたしが逃げようとするのと、鈍い金属音が響くのが、ほぼ同時に起こった。

 それからあたしの目の端に、トキが持っていた拳銃と、それを弾いた小さなナイフが、硬い音を響かせ転がる。トキは拳銃を落とした自分の手を睨みつけ、ツバサはいつのまにか臨戦態勢である。

 正直にいえば状況はよく飲み込めていなかったが、あたしは一つだけ理解した。

 走るなら、今しかない。


今日一日で、恐らく一生分走った。普段ろくに運動をしていない身のあたしにとっては、本当に一生分だと思う。

 あたしの家は要塞でもなんでもない、本当に普通の一軒家なのだけど、それでもこの長い長い数時間の間に、家に帰ればこの悪夢が終わるのではないかと、家が愛しくて仕方がなくなっていた。

 家に帰れば、家にさえ帰れば。そう、家にさえ……。

 家の近くの街灯の明の切れ間、暗闇の中、息を切らして走り続けていたあたしは、何かにぶつかってよろけた。でも倒れる前に、その何かに支えられて、体勢を整える。

 もう、今日何度も見た、真っ黒な……慌てて離れようとすると、目の端にチラついたのは、初めて見た、赤。

 恐る恐る見上げると、暗闇の中で、二つの赤い瞳が、あたしをじっと見つめていた。

 赤い瞳に、腰のあたりまである、一纏めにされた長い、これも赤い髪。足元は地味だけど高そうな革靴。服装はさっきのやつらと同じものだけど。もう一度顔を見上げると、目があった男性がニカッと笑った。

「大丈夫かー?」

「……は?」

 一瞬、何もかもを忘れて、ただ反射的に不機嫌な声を出した。男はといえば、変わらず笑顔のまま、目はしっかりと、あたしを上から下までじろじろ見ている。

何かを確認しているような、そんな感じだ。でもなんというか、のんきというか、陽気というか、さっきまでの殺伐としていたものは感じられなかった。

「……大丈夫に見えるの?」

 あたしは自分のかすり傷とか息の上がった肩だとかをあえて強調しながら、赤髪の男を睨みつけた。男は「そうだよなー」と、のんびりとした声を出した。

「今日は大変だっただろうしな。もうゆっくりしたいだろ?」

 優しく言う彼を突き飛ばし、あたしは後ろに下がった。

「あんた、やっぱさっきのクロキとかいうやつの仲間なんだ」

 もう逃げる体力は残ってない。足は立っているのも苦しいくらい震えている。でも、逃げなければ、きっと殺される。

 必死に頭を働かせていると、赤髪の男は何かに気づいた顔をして、「ごめんな」と一言、それから上着を脱いで抱える。そして、あたしに一歩近寄った。

「色んなことがあっただろうし、お前もよく頑張ったと思うし、いきなり信じろとも言わねえけど、俺はあいつらとは違えよ。俺はお前を助けに来た側」

 そして彼は、あたしがまた一歩下がる前に、街灯の下で跪く。さっきまでのお気楽な感じとは打って変わって真剣な色を帯びた赤い瞳が、あたしを捉えた。

「俺はアグノム=フィリオール。第七世界フロンスティアのレイフォード王国の三大貴族フィリオール家が当主であり、現代の炎獣の長。……お前を迎えに来たんだ」

 固まったままのあたしの左手をとると、そっとその甲にキスをする。あたしはその優雅な仕草と容貌に、そして彼の口から流れるように出てきた意味のわからない言葉の数々に、完璧にフリーズしていた。

「ちょっとよく意味わかんないし、あたしは早く家に帰りたいんだけど」

 掴まれていた手を振りほどき、あたしの前に膝をつく赤髪の男……アグノムと名乗った彼に言う。アグノムはさっと立ち上がると「まあ聞けよ」と、また馴れ馴れしく肩に手を置いてくる。それも外そうとしたが、思った以上にしっかりと掴まれていて、どうにもならない。身長も頭二つ分くらい違う。精神的にも萎縮してしまいそうなのを、必死に立て直す。

 アグノムはあたしの目をまっすぐ見て言う。

「さっき、なんで兄王子……クロキの兄の方の拳銃が吹っ飛んだと思う?」

「……え?」

 なぜ知っているのか、それなら前からあたしを見ていたのか、どこから見てたのか、どこで見てたのか、本当にやつらの仲間ではないのか……一瞬でいろんな質問が溢れる。アグノムはといえば、そんなあたしを知ってか知らずか、にやにやしたまま、でも力を緩めずに、あたしが何か言うのを待っているらしい。

「……何処かから飛んできたナイフに拳銃が当たって、隙が出来たのよ。だから走って逃げたの」

「おーその通りだ。よく出来ました」

「見てたっていうの?」

「見てた?まさか、誰がナイフ投げたと思ってんだ、よ」

 よ、のところで、アグノムは右手をあたしの肩から離し、軽く手を振る。と、いつのまにか指にそれぞれ小型のナイフが装備されていた。それは、あの飛んできたナイフと同じものだった。あたしはぽかんとしてしまう。

「あなたが助けてくれたの…?」

 あたしの問に、アグノムはにっと笑った。


あの綺麗な夜景は、働く人々の残業で成り立っているのだと、いつか誰かから聞いたなあ、なんて呑気なことを考えていた。ほんとにどうでもいい話なんだけど。

 そういうこと考えてないと、ちょっといま、やってられなくて。

「下ろして下ろして下ろして下ろして!!!!!!」

「何言ってんだ、下ろしたら街に真っ逆さまだぞ?」

「いや、無理、やっぱ降ろさないで、マジ無理だから!!!!!!!ごめん無理!!!!!!」

「何に謝ってんだ?」

 遊園地で絶叫系は駄目なタイプなのに。高いところも飛行機も出来れば遠慮したいタイプなのに。

 あたしは今、夜の街の上空を、上がったり下がったりしている。どういうことかって、空高くジャンプしては、またビルの屋根まで落ち、高くジャンプしては、民家の屋根まで落ちる、その繰り返し。気分も悪くなってきた。夕飯を食べる前で、本当によかった。

 あたしを抱き抱えたまま、アグノムはまるで忍者のように?怪物のように?夜の空を走り飛び回る。もう、トキもツバサもどこにもいない。

「ね、ねえ〜、これ、いつまで〜??」

「あー、もうちょっとだ!」

「も、もうちょっとって〜!?」

 目が回り、死んだ方がマシかもしれないと思い始めた頃。

 ふいに、動き続けていた視界が止まった。体が振られ、体液が本当に飛び出そうになる。その重力に抗い、アグノムの首にしっかりと抱きつき、ぎゅっと目をつぶった。

 そして、しばらくして落ち着いたところで、そっと目を開ける。

 目に入ったのは、夜の森と、黄色い「この先立入禁止」のテープの数々だった。


あたしたちの街には1箇所、立入禁止の場所があった。周りには「立入禁止」のテープが張り巡らされ、更に「入るな」や「危険」の立て札。だいぶ古いやつで、壊そうと思えばすぐに壊れそうだ。

 それでも、今まで誰も、標識を壊してまで先に進もうとする人を見たことがない。なぜなら、この街に住む誰もが、この先がどうなっているのか、ここから先に立ち入った者がどうなるのか、知っているからだ。

 磁場は狂い、コンパスは八方を指し、いつのまにか迷い、二度と出ることは叶わない。

「裏山の樹海…?」

 ぽつりと呟くあたしに構わず、アグノムはずかずかと進んでいき、警告のテープを乗り越える。戸惑っていると、アグノムが振り返って、手招きした。

「ほら、早く」

「は、早くって?」

 アグノムは不思議そうな顔をして、首をかしげた。そして一回あたしの所まで戻ってくると、ぱっと腕を掴んで、歩き出す。

 そのまま、樹海のほうへ。

「あ、ちょっと、ねえ!!!」

「大丈夫だ、俺がいるから」

「は、は?」

「いい子だから」

 そうやってあたしも、無事に警告のテープを乗り越える。そのままどんどん、アグノムに連れられるまま、歩いていく。

 ふと、振り返ると、真っ暗な闇が続いているだけだった。来た道も、もうわからない。

「おっせーぞ、クソ兄貴」

 闇の中で突然不機嫌な声が聞こえたかと思うと、ぱっと明かりがついた。久しぶりに見た光に、あたしは思わず目を細めた。それと同時に、あたしをずっと引っ張っていた手が、離れた。なくなった体温に不安を覚えた。明かりの先にいたのは、アグノムと、もうひとりの赤髪の青年。

「んー、わりーわりー。思った以上にこいつ走り回るから、見つけるの時間かかっちまって」

「さっさと連れてくればいいだろが。ったく、使えねーな」

「まあそう怒んなよ。こいつが怖がっちまうだろ」

 ぽかんと間抜けに口を開けていたあたしの肩を、アグノムが抱き寄せる。ぽかんと口を開けていた理由は、ただ一つ。

「手、から、火…」

 アグノムによく似た、赤い短髪の青年の手からは、青やオレンジ交じりの炎が燃え、あたりを照らしている。

 短髪の青年はあたしを見ると、何故かため息をついた。

「んで、準備はできてんだろーな?」

「当たり前だ」

 アグノムと青年は何か話を進めていた。あたしはとりあえず、もうわけがわかんなくて、少しでも安心したくてアグノムの近くに寄った。少しアグノムの服の裾を掴むと、アグノムは何を思ったのか、手に持ったままの脱いだ上着をあたしの肩にかけてくれた。寒いわけではなかったが、とても温かかったので、そのまま袖を通した。……ぶかぶかだ。

「んじゃ、早く行こうぜ。クロキが来てる」

「知ってる。会ったらめんどくせえからな、さっさと行くぞ」

 アグノムじゃないほうの人が、上着のポケットから、赤く光る石を取り出した。彼はそれを空に翳すと、明かりをともしていた右手をそっと重ねる。

 石の輝きが、周囲に反射した。……闇に光る赤が、とても綺麗だった。

「開、ゲート」

 噛み締めるように青年が言うと、石と重ねた手のあたりから、まるで波紋が広がるように、「景色が歪ん」だ。

 そして景色の歪みは、どんどんと広がっていく。

 気づけば景色の歪みは森の一番高い木のあたりまで広がり、短髪の青年はそっと右手を、「歪み」に当てる。……と、彼の手が、景色の中に「めり込んだ」。

 半身を「歪み」の中に突っ込んだ当たりで、青年はあたしとアグノムを振り返った。

「おら、早く来い」

 早く来いと言われても、と、今の状況も飲み込めていないあたしが戸惑っていると、体が思い切り引っ張られた。

「えっちょっ」

「話はあとだ!」

 アグノムに引っ張られるまま、そのまま勢いよく、あたしたちも歪みの中に吸い込まれていった。

 最後に覚えているのは、「歪み」に飛び込んだ瞬間に目に写った数々の「色」と、どこかへ落ちていくような感覚。そして、何故かわからないが、とても懐かしい感覚……。

 温かさと寂しさ、悲しさの入り混じった感情。だけどそこにきちんと安心もあって、静かさもある。

 …………●●●。

 誰かに呼ばれた気がしたが、意識はどんどん霞んでいき、いつのまにかあたしは気を失っていた。

 目を開けると、いつもの場所。

 目に入るものは何も無い。明かりなのか、そこだけそんな色なのか、わからないが、僕はそれを「上」だと思っていて、上を向いて、いつもただ、流れに身を任せている。果ても地面も何もない、曖昧な空間。

 頭の中は靄がかかったように何も思い出せず、ただいつも通りの当たり前の事実だけを、受け入れていた。

 また、繰り返したのだと。

 また、また――。

「……わかってるよ、わかっているから、そんなこと言わないで」

 話す度に、記憶が泡となって口を飛び出し、「上」へと上がって行く。また一つ忘れた。今回出会った女性のことも、食べたもののことも。そうやってまた、繰り返す。

 でも、繰り返しているということ、ただその事実だけは、忘れることを許されなかった。

「うん、大丈夫、大丈夫だから――」

 その時、ふわりと、見覚えのある少女が頭をよぎる。

 抜け落ちていない、珍しい記憶だ。

(もし、もし会えたなら)

 次の僕へ。


 もしも、会えたなら――その時は。

時計の針が進む度に、来ない幼馴染みへの心配が膨らんでいった。

もう時刻は十時を回った。連絡はつかない……電話を掛けたら、電源が入っていないアナウンスが流れた。あの予備充電器を三つは持ってるスマホ依存症が、電源を切ってるなんて考えにくい。

 ……やっぱ何か、あったんじゃないのか。

 あまりにも過保護なのもいかがなものかとは思った。特に最近、学校関連で無理やり縛ることが多かったので、少しは離れることも必要かと思ったのだが。

「…バカミヅキ」

 そのへんで猫と遊んで遅くなってたりしたら、アリの巣を壊して遊んでいたりしたら、その時は怒ればいい。

 でも、そうじゃなかったら。

 無事でいてくれ。

 ほかには何も、いらないから。

 俺は鍵をかけて、制服のまま家を飛びだした。


 今日ほど夜が恐ろしく感じた日はないかもしれない

 いない。

 いない。

 どこにもいない。

 いつものゲームセンターも、ファミレスにも、大好きな楽器屋にも。

 落ち込んだ時に一人でブランコを漕ぎに来る、公園にも……。

(どこにも、いない)

 今夜も熱帯夜のはずなのに、俺の周りだけ温度が冷えていく。

 まさか。

 まさか。

 最悪の事態が頭をよぎるが、頭を振ってなんとか考えを切り替える。

 そんなはず、ない。

 俺はもう一度、地面を蹴った。


 そして、最悪の事態が当たっていたことを、俺は知った。

「この、紋、は」

 ボロボロになった幼馴染みのスマートフォンのそばに落ちていた、飛び道具としての小さなナイフ。その柄と、刃のところに小さな紋が掘ってある。草花の蔦をモチーフとしたデザインは、高そうだなと思わせるデザインだ。……これを使うのは、レイフォードの貴族だけだ。それも、この家紋は。

「……………って、こと、は…………」

 恐らく、接触したのだろう。そして、そして。

 頭の中で容易に想像できた画。そして、これから先のことも。

「………ミヅキ」

 ここにいない幼馴染みの名を呟いた。

 どうか、無事でいてくれ。

 俺は覚悟を決めて、自分のスマートフォンを取り出した。通話履歴から番号を選ぶと、かけた。

『もしもし?カイト?どうしたよ』

 電話の主は、いつもと変わらないあの人。なんと切り出すか迷って、俺は口を開いた。

「……キタさん、すいません」

 電話の相手が、息を呑むのが伝わった。

 俺はそのまま、返事を待たずに続けた。

「俺、あいつを迎えに行きます――」

 凪いだ夜に、俺のはっきりとした声が響いた。

そして秒針が動き出した。

 まるで水の中にいるみたいだ、と、思った。

 ふわふわと漂う体は、重力や慣性の影響を何も受けていないように、自由に流されていく。右へいったかとおもえば、左へ。どこへ流れ着くのかもわからない、曖昧な流れ。

 はっと気がつくと、目の前に、小さな男の子がいた。驚いて口を開けると、あたしの口から、ボコッと泡が飛び出していく。水の中なら息苦しくなるのに、ここではそうはならなかった。あの泡は、一体何なんだろう。

 目の前の少年は、薄紫色の色素の薄い長い髪の毛を三つ編みにして、一つに結んでいる。動物の尻尾のように、彼の後ろで漂っているのが見えた。

 少年の二つの大きな赤い瞳は、あたしの目を捉えると、ゆっくり細められた。四、五歳程の、本当に幼い少年だ。両目の下には、ペイントだろうか、赤い何かの印が描かれている。

 少年が、あたしに向かって手を伸ばした。反射的にのけぞろうとしたが、体は動かなかった。

 少年の手が、あたしの両頬を包む。とても、温かい手。

「あはは、おねーさん、ぼくとおなじなんだね」

 少年はそう言って、声を上げて笑った。

「……あはは、ごめんねえ。ぼく、もちろん、きみのことも、だーいすきだよ!」

(……なに言ってんのよ)

 少年の目は、もうあたしを見ていない。漂う空間に焦点の合わないまま、少年はしばらく笑っていた。

やがて、少年はあたしからぱっと手を離すと、細められていた目を開けた。

なぜだか、少年が少し――十歳くらいの男の子に、見えた。さっきの印象よりは、少なくとも、大きな子に見えた。この短時間で成長するなんてありえないのに。少年はあたしに柔らかく微笑むと、寂しそうに言った。

「ごめんね、もう時間みたいだよ」

ふわ、と、少年が離れていく。少しずつ、遠くなっていく。一人になる、と思ったとたん、とんでもない恐怖があたしを襲った。

(待って……!!)

あたしの声は出ない。それを見越しているかのように笑うと、少年は言った。

「またね、お姉さん」

少年があたしにひらひらと右手を振った時。

ふわふわと柔らかく漂っていた空間が、急にスピードを上げた。真っ逆さまに、少年のいる方向と反対方向へと「落ちていく」。

「また、会えるといいね」

声にならない叫びを上げているあたしに、さっきの少年の声が――まるで、大人のような声が、聞こえた気がした。


「待って!!!!」

やっと出た声と、視界に映る自分の手。そして、知らない天井。

天井?裏山の樹海にいたはずなのに?

あたしはまだ覚醒しきっていない頭で、考える。今まで一体何をしていたんだ?考えて、考えて、ふと寝返りをうつ、と。

「きがつかれたのですね」

薄水色の髪の毛に、綺麗なグレーの瞳。透けるような白い肌。

いつかアンティークショップで見たドールを思い出すような、綺麗な少女が、タオルを持ってこちらを見ていた。

「………はあ」

あたしの間抜けな声など気にしないかのように、少女はニッコリと笑った。

「よかった。ちょっと、まっていてください。せんせいを、よんできますから」

少女は持っていたタオルをあたしに手渡して、部屋から出ていった。ばたんと、木製の扉が閉まる音。一人になった部屋。改めて、あたしは、部屋をぐるっと見回した。

あたしの寝ているベッドと、その脇にある小さな棚以外には、何も無い、簡素な部屋。天井や壁を見る限り、白い石造りの建物らしい。むき出しの石面。窓というには雑な、ただ穴の空いただけの空間のそばには、申し訳程度の布が下げられている。カーテンのようなものだろうか。……雨が降ったら、ひどく振り込むんじゃないだろうか。

 上体を起こして、そのまま座っていると、扉が開いた。さっきの少女が入ってくる。そしてその後から、すぐについて入ってきた少年を見て、あたしは思わず「あー!!」と声を上げた。

「……充分元気じゃねーか」

赤髪短髪の青年は、面倒くさそうにあたしを睨みつけた。

[newpage]

 恋人の虚ろな瞳には、「俺」はもう、映っていない。

「お前は頭がいいからな」

 ガラス越し、触れられないその体をなぞる。数多の管に繋がれ、蛍光を放つ液体に纏われ、口や鼻から漏れるその小さな気泡には、生命を感じられない。

「言いたいことは、わかってくれるだろう」

 急がねばならない。ろくに返事をしないまま、無機質な石造りの階段を駆け上がっていく。灯りを持たずに来たせいで、躓きそうになりながら、牢へと向かう。

 仕事のパートナーを呼びに。

 仕事だ、その声はなぜか焦っている。

「何言ってんだ、さっき行ってきたばっかだろ」

 休ませろ。壁側に寝返りを打ち、右手を軽く振った。帰れ、って意味で。体を動かすと、俺の首、両腕、両足……にかけられた枷の鎖がちゃりちゃりと鳴る。あー、うっぜー。あいつはほっといて寝よう、と思って目を閉じようとしたとき、牢の扉が静かに……でも、あいつにしては乱暴な開け方だった。驚いて、飛び起きる。

「……行くぞ、仕事だ」

 いつになく冷たい眼をしたオニイサマになんとなく逆らえず、俺は疲れた体をもう一度起こした。

 ゲートの動きを確認した。相棒から報告を受け、やっぱりな、と思った。

「わり、俺しばらく仕事抜けるわ」

「おう、頑張れよ」

 理解のある相棒。拳と拳で挨拶。仕事では絶対的にお互いを信頼し協力し、プライベートではお互いのことに深く干渉しない。そのスタイルが、俺がもう何年もこいつを傍に置いている理由だった。

「あ」

 去り際、相棒の声に振り向くと、何かを投げられ、受け取る。最近はやりの、栄養がすぐとれるっていう軽食の類だった。

「飯、食えよ。お前、そういうのおざなりにするから」

「あーはいはい、わかりましたよオカーサン」

 ちゃんと帰ってくるのよー、と、女言葉になった相棒に笑いながら、俺は数年ぶりに会う少女のことを思っていた。

 使い物になるかどうか。

「せんせえ、だいじょうぶですか?」

 くりくりとした灰色の瞳に不安を宿らせながら、チビは言う。しまった、と思って、すぐ笑顔を作る。そっと頭をなでながら、大丈夫だと答える。それでもチビは、眉をしかめて俺を見て、隠し事が何なのかを探ろうとしている。

(……俺には何がしてあげられるんだ)

 こいつらも、この場所も、俺にとっては大切で、言ってしまえば会ったことのない少女なんて大切でもなんでもない……けど。

「…せんせえ?」

「んや、何でもねえ。もう夕飯だからな、ガキども呼んできてくれ」

 はい、と返事をして去るチビの表情には不安が残っている。その姿が見えなくなってから、俺は自分の頬を叩いた。

 今夜、兄貴が迎えに来る。…俺がしっかりしなければ。

 そっと聞き耳を立てる。ああ、こっちじゃダメだ。でもこっちでもダメだ。植木鉢の隅に体を縮こまらせて、なんとかやり過ごす。気配がなくなってから、静かに息を吐いた。

「大変なことになった。早く見つけなければ」

 僕を見つけてどうするつもりだ。頭の隅に追いやったはずの嫌な記憶が、胃の中身とともにせりあがりそうになり、懸命に抑える。やめろ、落ち着け。嫌な酸味が口に広がった。

 屋敷を出、慣れ親しんだ森を抜けていく。月明りを反射する自分の髪で見つかるのではないかと、時折周囲を見回す。森の先へ行くことはあまりなかった。一歩踏み出した。

「ねえ、待って」

 一瞬だけ足を止めて、声に振り返らずに走り出す。待って!と、もう一度声が響く。

 知らない声だ、そうでしょ、僕じゃないよ。自分に言い聞かせて、ただ走る。

 僕は自由になりたいだけだ。

 やられたな、と思った。前触れも何もなかった。予測不能。そりゃそうか。頭を抱えながらも、相手には関心してしまう。

「行くって、あいつ、一人で行く気かよ」

 電話越しで焦っていた弟分のことを思い出す。情報に寄れば相手は……やっぱりあいつ一人じゃどうにもならない相手だ。

 どうする。

 移動の車に揺られながら、そっと目を閉じる。運転手は俺が寝たと思ったのか、次第に話しかけなくなっていった。

 行ってらっしゃい。

 何日も、何日も前に聞いた妹の声を思い出す。

 生きていてくれ、助けに行くから。

 意識が、記憶が、混濁していく。「俺」は「私」でなく、「私」は「俺」でない。存在が入り乱れていくのはいつも感じていたが、こんな風に、頭が割れそうになることは珍しい。

 机の引き出しを開けた。凝った装飾の拳銃の表面を手でなぞると、懐かしいような、そうでもないような、微妙な気分になった。だが、使えと言われれば……遅れをとることはない、そんな自信があった。

 小さなリュックに、拳銃と、ボロボロのスマートフォン、それから落ちていたあの小さなナイフを入れ、更に引き出しの奥……拳銃よりも奥に隠していた、小さな水色の石を手にとった。紐が通してあり、ペンダントにもなる。そっと、首にかけた。

 泣いてはいないだろうか。不安がってはいないだろうか。怖いのに、虚勢を張って、攻撃を仕掛けてはいないだろうか。

 どうか生きていてくれ、と石を握った。俺がいるから、大丈夫だから。

 リュックを持ち、兄への置手紙を小さなメモに書き残し、俺は家を後にした。

[newpage]

 あつい。

 あつい。

 あつい。

 あつい。

 あつい。

 あつい。

 あつい。

 あ、ああ、おにーちゃん。

 ねえ、きいて、たいへんなの。

 あのね、おにーちゃん。

 おにーちゃん。

 …おにーちゃん?

 おにーちゃん、どうしたの。

 あれ。

 どうして、おにーちゃん、おかおがとれちゃったよ。

 おにーちゃん。

 おにーちゃん。

 ねえ。

 おにーちゃん。

 あついよ。

 ねえ。

 おにーちゃん。

 おにーちゃん。

 こわい。

 こわいよ。

 ねえ。

 おにー、ちゃん。



【AGAIN #00+α END】

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