第8話

 キッドは部屋のベッドに腰かけて、雷雨の音を聞いていた。その音に時々混ざって聞こえてくる、階下のラングとマーロの叫びあう声は悲鳴のようで、それが聞こえるたびに、キッドはギリリと奥歯を食い縛った。自分の肩を抱くように組んだ腕に力が入り、握りしめられた両袖は今にも破けそうなほどに引っ張られる。

 交差した腕に顔を埋めても、目は瞑るまい、耳は塞ぐまいと心に決めて、キッドはひたすらにひとりで耐えた。一言も発さなかった。

 そうして、どのぐらいの時間が経ったであろう。

 二人が怒鳴りあう声は、いつの間にか聞こえなくなって、雨だけが無情に降り続いていた。キッドは、きつく肩を抱いていた腕を解いて、力なく下ろした。それ以外に、何も状況は変わらなかった。

 ひとりで薄暗い部屋に閉じこもって座っていると、時間の感覚が雨に流されて消えていくような気がした。それとも時間が止まってしまったのであろうか。なんだか、昨日からずっと同じ時間に閉じ込められているような気がする。


(あぁ、それは、いやだ)


虚空を見つめながら、キッドは思った。

 どんな時でも、時は流れていてほしかった。戻らないならば、先へ進んでいてほしい。少なくとも、こんな重苦しくて、息苦しい時間など、早くどこか遠くに行ってしまえばいいのに。膝の上で手を組んで、静かに願った。

 ふと、部屋のドアを遠慮がちにノックする音が聞こえた。返事は敢えてしなかったが、答えずとも、ラングは数秒後、中に入ってきた。

 顔を上げると憔悴しきったラングの顔があった。キッドがベッドに座ったまま見上げていると、ラングが涙を流さずに泣いているような笑顔を見せた。

 つい、と、キッドは目をそらした。


「となり、いいか」


キッドはまたも黙っていたが、やはりラングは返事を待たず、となりへ腰かけた。

 気まずい空気が流れた。「悲しみ」ということばで表現されるすべての感情が、今、この部屋を埋め尽くしているような気さえする。


「聞こえてたか?」


やがてラングが短く訊ね、キッドは俯いたまま小さくうなずいた。「そっか」ラングのため息まじりの呟きがとなりから聞こえて、キッドもようやく微かに口を開き、声を出した。


「叫んでたとこだけは。……ダムのこと、気の毒に」

「あぁ。昔話さ」


ラングが少し笑った気配があった。それはそれは、淋し気な、消え入るような、吐息とともに。


「俺たちがガキの頃に住んでいたところは谷間にあって、近くの川が氾濫しては、洪水の危険に晒されるようなところだった。そんな雨は本当に数十年に一度って言われてたけど、俺たちが産まれる前にも確かにあったらしいんだ。対して、川向こうの集落は水の流れが悪くて、頻繁に水不足に悩まされていた」


遠いところを見るような声でラングは話し出した。キッドは黙ってそれを聞いた。こんな形で二人の故郷の思出話を聞くのは、故郷らしい故郷を持たないキッドを侘しく空ろな気持ちにさせた。どうせなら二人で獣を追いかけたとか、雷親父に追いかけられたとか、そういう馬鹿馬鹿しい賑やかな思い出であったなら、冗談混じりで聞けたであろうか。こんな内容の話では、キッドには、見たことのないマーロとラングの子ども時代を想像することもできなかった。


「それぞれの集落のために、ダムを作ることは、たぶん、間違ってなかった。大人たちもほとんどが賛成してたが、マーロの家族は反対してた。昔っから暮らしてた集落がふたつ、いっぺんに水の底に沈んじまうような大工事だ。金もかかるし、人出もいる。なんたって、執着がある。反対するのも、やっぱり、間違いじゃなかったんだと思う」


「どうも俺は、やっぱり曖昧だな」ラングは途中にそんなことを言った。キッドは首を振って否定してから、黙ったまま、見上げる瞳で続きを促した。


「工事を進めたのは、金も権力もある上流階級の家だった。貴族も絡んでいたと思う。ガキの俺には難しいことはわからなかったけど、少しの住民の反対なんて通るはずがないってのはわかった。みるみる内に話が進んで、俺たちはみんな、ダムから少し離れた場所に移住することになった。マーロの言うほど悪くない場所だった記憶がある。俺の家族や近所の連中は割と喜んでいたよ。自由だった水の権利は奪われたが、安心して暮らしていけるって。自分たちだけの力で引っ越すのは、金も時間も不足してたしな。……だけど、俺たちは故郷を飛び出した」

「どうして」


キッドがそっと囁くように訊ねた。木の葉をさらう風のような声である。ラングはそんなキッドの目を見て、また少し寂しそうに笑った。


「どうしてだろうな。たぶん、若かったんだ。それだけさ。今のお前ぐらいの歳だった。理不尽な社会とか、大人とか、そういうものに反発せずにはいられなかったんだ」


そこでラングは一度ことばを切って、静かに目を伏せた。


「でも、マーロにとっては、もっと違う意味があったのかもしれない。自由を差し出したことを、当時決定権がなかった子どもだったのに、ずっと後悔してきたのかもしれない。あいつが故郷を発つ前に、一度ひとりで水に沈んじまった前の家を見に行ったことは、俺、知ってたんだ。だからわかってると思ってた。ずっと一緒にいて、わかっているつもりで、俺はあいつのことを見誤っていたのかもしれないな」


そう言うラングの横顔は、静かに微笑んでいるはずなのに、ひどく切なかった。

 ほんの少しの間、また二人は黙って雨の音を聞いていた。出会ってから二年、こんなに長くラングとの間に沈黙が流れるのは初めてであった。

 やがて再び、ラングが呟いた。


「子どもが、できたってさ」


キッドが目を瞠ってラングの横顔を見た。たっぷりと間を取ってから、ラングがとなりを向いて、キッドの見開かれたヘーゼルグリーンの瞳を見つめる。


「カレンと、マーロの……?」


当たり前のことをキッドは問うた。ラングはうっすらと微笑みながら答えてやった。


「ああ。俺たちの、姪っ子か、甥っ子になる予定のな」


それを聞いたキッドが、何度も瞬きを繰り返した。何度も、何度も、ラングの目を見て、そらして、口をうっすらと開いて、閉じて、その間ずっと瞬きを繰り返した。長い睫毛が上下するたびに、だんだんと涙が目にたまっていって、表面張力の限界を試すようにヘーゼルグリーンの瞳を透明なヴェールが覆う。


「なんで……そんな、今……」


キッドがやっとことばを拾い集めていくのを聞きながら、ラングは天井を見上げた。

 雨の音がまだ続いている。その雨に向けた独り言であるように、ラングは呟いた。


「明日の朝、三番倉庫でマーロは待っているそうだ。本当かな」


声に、小さな決意が滲んでいた。

 キッドが首を真横に向けた。ラングは虚空に視線を投げて、


「役人に、届けようと思う」


そう言った。言ってから、立ち上がってキッドを見下ろし、にっかり笑った顔を作った。


「それで、終わりにしよう。あいつの長い勘違いも、お前の少年時代のしがらみも、俺の青春の夢も」


キッドが唇を噛むように頬を膨らませた。ラングがそれを見て苦笑する。そんな顔をしてくれるな、と、言いたげであった。

 ラングが部屋を出ようとドアに手を伸ばした。その背に、キッドが呼びかける。


「ラング」

「ん?」


振り返ったラングの目が、


「大丈夫?」


キッドの声に小さく見開かれた。


(あぁ、こいつは、本当に……)


必死で感情を、表情を、穏やかに保とうとしていたラングの兄貴ぶった努力が、このたった一言で崩れた。

 ラングは戻って、キッドの手を取った。キッドの、このヘーゼルグリーンの瞳にうつる自分は、今どれほど情けなく見えているだろう、そんなことを思った。

 ラングはキッドのシャツの袖を軽く引っ張った。意味をはかりかねて瞼を上げるキッドの頬を軽く手の甲で撫で、ラングは万感の思いを込めて白い歯を見せた。


「本当に、お前、大人になったな」


キッドが一瞬、泣きそうな顔をした。先ほど滲んだ涙がまだ残っていたが、キッドはすぐにそれを払って、下唇を噛んで、ゆっくりとひとつ瞬きをしながら、笑顔でラングに頷いて見せた。

 ラングの骨ばった案外に大きな手が、キッドのゆるやかな癖のある金褐色の髪を、くしゃりと掻き上げるように撫でた。


「もうキッドなんて呼んだら、おかしいかもな」

「いいよ、今更。じじいになってもキッドでいるさ」


これにはラングは、声を出して笑った。


「それじゃ、おやすみ、キッド」

「うん、おやすみ、ラング」


ゆっくりとドアが閉められた。

 そのドアに、ラングは背を預け、天を仰ぐように深呼吸をした。それから閉じていた瞼を上げて、人生の大半をにやついた形で過ごしてきた唇を引き結んで歩き出す。

 ラングは町役人のブルースのところに行くつもりであった。彼ならば普段から町民と懇意だし、なんの証拠もない今のラングでも、話だけは聞いてくれるであろう。どこまで信じてくれるかはわからないが、最悪、首に縄付けてでも港へ引きずって行ってやると覚悟していた。

 ラングが去った部屋では、キッドが厳しい顔つきで机の上の銃を手に取っていた。ロブからもらったこの銃を握るのも、ずいぶん久しぶりな気がした。

 弾倉を一度外して中を改める。きちんと弾が入っていることを確認して、実に丁寧な手つきで元に戻した。

 左手に愛銃を握りしめ、弾倉を額に当てて目を閉じる。ひとつ深呼吸。ゆっくりと瞼を上げ、体を起こしてからの作業は迅速であった。

 身支度を終え、ホルスターの銃を一度高速で引き抜き構えた。勘は少しも鈍っていない。

 最後に、夏のことで、ここのところ被っていなかった黒い山高帽を手に取った。二年前にマーロが買ってくれた帽子である。それを先ほどラングに撫でられた頭に乗せる。初めて被ったときよりも、様になっていた。

 通り雨はいつしか立ち去って、雷鳴はデ・クレッシェンドで遠ざかった。雲の隙間から月光が差し込んでいる。

 キッドは、ほんの数秒、風のにおいを嗅ぐように空を眺めた。それから躊躇ない足取りで、ラングに気付かれぬよう、窓から外へと降り立った。

 雲は切れ切れに星を隠し、遠くでコヨーテが月に吠えている。蛙や虫の声もした。人々は寝静まっていて、恋人たちが囁きかわす声も聞こえない。雨に濡れた道を、キッドはひとり、ゆっくりと歩いていった。

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