第7話

 丸一日が過ぎた、翌日の夕暮れ時。いくら夏だといっても蒸し暑く、遠い空では雷も鳴っている。近く雨が降りそうであった。

 ラングはひとり、薄暗い店でカウンターに座っていた。キッドは部屋に引きこもっている。無理もない。あれだけのことがあったのだ。

 正直なところラングも疲れていた。考えれば考えるほどに脳と心が疲弊していくのを自覚したが、ここで目をそらすわけにはいかなかった。

 目を瞑ってしまえば楽だろう。銃声など今時珍しくもないことだと、あの森であったことをすべてなかったことにしてしまえれば、どんなに気持ちが軽くなることか。

 だが、それではマーロとはキッドはどうなるのだ。兄弟同様にこの二年間を過ごしてきた親友ふたりの人生に、今度の事件はあまりに関わりが深い。無視することはできそうになかった。

 ラングは待っていた。これほど沈みきっていながら酒を一滴も飲まなかったのは彼なりの誠意のつもりであった。


(第一声は、なんだ)


先程から、そればかり考えていた。顔を合わせてまず一番に、どちらが、何を、言うだろう。

 夏である。陽は長い。だが、既に傾いてきていた。

 刻一刻と己の影が伸びていく。その内に室内に入ってくる光が少なくなってきて、夕の風が一筋吹き込んだ頃、ドアベルが澄んだ悲しい音を響かせた。入り口には、マーロが立っていた。

 幼馴染の二人は、数秒、黙って対峙した。今まで二人の間に発生したことのない異様な緊張感が、夏の蒸し暑さと手を取り合って窒息しそうに息苦しかった。ラングは睨むようにマーロの顔を見上げていた。マーロは沈痛な面持ちであった。

 第一声は、ラングが発した。


「座れば」


我ながら不愛想な言い方だ。だが、今はそれが精一杯であった。口を開けば感情が堰を切って溢れ出し、一方的な奔流が、ただひたすらに幼馴染の言葉を押し流してしまいそうで怖かったのである。


「このままでいい」


マーロの答えも実に散文的であった。

 雷の音が先程よりも近くなって、また冷たい風が吹いた。真剣な話し合いの時間に雨を降らせる用意があるとは、まったく空気の読める天気じゃないか、と、いつものラングなら下らない冗談を言ったかもしれない。

 マーロが立ったままで、何かを堪えるように奥歯を噛みしめた。ラングがその様子を見て苛立ちに目を細める。


「お前、知ってたのか」


マーロは答えない。足元をじっと見つめ、拳を握り、置物にでもなったかのように押し黙っている。目の前の幼馴染と違い、元々口数の多い方でも、愛想よくいつでも笑っている性質でもない男だが、少なくとも子どもの頃から気心の知れたラングに対し、ただこんな風に黙って立ち尽くしていたことはない。


「知ってたんだな」


ラングが深く息を吐いた。そうしなければ、吸い込んだ酸素が全部、恨み言だけを載せて喉から出て行ってしまう気がしたのであった。握り込んだ拳の中で、己の掌に爪を立てているのも、油断すると哀切に歪んだハンサム顔を殴りたくなってしまうからである。ケンカをするためにマーロを待っていたのではない。彼の話を聞くために、ラングはじっと、久しぶりでマーロが帰ってくるのを待っていたのである。

 マーロが眉間に深く皺を刻んで、歯を食いしばったまま、喉から声を絞り出した。


「こうするしかなかったんだ」


ラングがカウンターを拳で叩いた。やはり我慢などできそうにない。


「こうするしかだと?どうするんだ、言ってみろ!」


マーロが再び黙る。ラングがギリギリと拳を握りしめ、頬を引き攣らせながら、眉を怒らせてマーロを睨み上げた。


「じゃあ俺から言ってやる。カレンの親父は少し前からアレックの野郎とグルだった。町の連中にバレないように、あのアレックとヤクザ者を会社で抱え込んだ。近頃どうも羽振りがよかったのは、鉄道工事のための材料輸送を手伝ってるなんて言ってたが、実際は真っ逆さまに反対だ。工事の邪魔をするための武器の闇取引をしてやがったんだ!そうだろう!」


雷がまた近くで轟いた。厚い黒雲に青白い光が瞬いて、ドロドロと怖ろし気な音が空を這いまわる。ラングの声も激していく。


「お前が最近こっちに顔出さなかったのも、そういうことだったんだな!あぁ、俺たちがお天気だったよ!ちょっと考えればわかることだった!そうだよなぁ、鉄道が開通したら、人も荷も、運ぶのは船ばっかりじゃなくなっちまう!鉄道が来なければ、どっちも船の独り占めだもんなぁ!つまり、てめぇの利益を守るために、人命を捨てやがったんだ、あの親父は!」

「では彼らから仕事を奪えと言うのか!?」


マーロも負けじと叫んだ。


「ああ、そうだ!お前の推理通りだよ、名探偵!それとも作家に転職か?ギターをペンに持ち替えた、新人作家話題のデビュー作のタイトルはこんな感じか?"まきばの闘争:蒸気機関を停止せよ"。はじめにこう載せるのを忘れるなよ、"実話に基づく"、"あの頃、勇敢に戦ったすべての戦士たちに捧ぐ"とな!」

「その戦士ってのは誰のことだ!?アレックか!?それともそのヤクザのお仲間どもか!?今更、工事の邪魔したところでなんにもならねぇどころか、無関係の人間だって巻き込まれて傷ついてんのはお前、わかってるだろうが!?」


ラングが感情に任せてカウンターを何度も殴った。マーロが一瞬怯んでグッと言葉を詰まらせたが、一歩踏み出して強気を見せる。美しい男であるだけに、感情が激発したその形相は凄まじかった。


「犠牲なくして正義が行えるか!」


ラングが言い返すより先に、マーロがラングの胸倉を掴み上げた。


「思い出せ、ラング!俺たちがなぜ故郷を追われたのか!ダムだ!すべて沈んだ!あのダムは誰のためのものかわかるか?ほんのちょっぴりは近くの農村に水を分けたが、結局は山の上の金持ちの慈善アピールでしかなかった!あのときの口惜しさを俺は忘れん!」


マーロの頬が興奮で痙攣していた。その顔をまっすぐに見返して、自分も怒りに口元を引き攣らせながらラングは答えた。


「確かに、あのダムで俺たちの故郷はまるごと消えた!だが、だからなんだ!?誰か死んだか!?俺たちの生活の、根本的な何かは失われたか!?笑顔がすべて奪われでもしたか!?」

「俺たちの尊厳だ!僅かの金と新しいちっぽけな住居を与えられ、引っ越しを強制されても抵抗できなかった!俺たちは、先祖からの土地と誇りを奪われたんだ!あの村の状況は、あとのきの俺たちと同じなんだ!」

「それじゃあ、お前は!」


叫びながら、ラングがマーロの胸を思い切り突き飛ばして立ち上がった。


「お前は、今ここで鉄道開発を邪魔すれば、その先祖代々の誇りとやらが戻ってくるとでも言うのかよ!?あのダムはあの土地に必要だった!理屈はお前だってわかっていたはずだ!俺が故郷を出てお前と旅立ったのは、誰のせいでもない、俺だけの意思だった!俺は誇りを誰かに奪われたつもりなんか、これっぽっちだってない!お前が尊厳を失ったってんなら、お前のせいだ!あのときの俺たちと、今の隣村が同じだと!?寝ぼけたこと言ってんじゃねぇ、ヒーローごっこ野郎!お前が今やってんのは、ただの八つ当たりだろうが!」


外の空気を轟く雷鳴が引き裂いた。近くに落ちたのかもしれない。ポツポツと落ち始めた雨粒は、見る間に増えて激しさを増し、建物に叩きつけ、道に水たまりを作りながら夏の夕暮れを洗い流していく。開け放しの窓からは濡れた風が入り込み、雨音が室内にこもった。

 ラングがやるせなさに赤い頭を掻きむしった。ため息なんて、昨日から何度吐いたかわからない。


「マーロ。どうして言い訳なんてしてるんだ」


ラングの声が震えていた。マーロは突き飛ばされた胸を押さえて黙っている。


「あの時の口惜くやしさは、もちろん俺だってわかってる。でもお前は、それと今度のことを単純に一緒くたにするような奴じゃなかったじゃないか。それとも本当に復讐なんかやってるつもりなのか?あるいは……」


ラングが言いたくないことを言うために、一度唇を湿らしてから続きを声にした。


「カレンに遠慮してるのか?」


幼馴染と話すだけの時間には、あまりにも激しすぎる雨であった。囁く程度の声では雨音に呑まれてしまうに違いない。こんなことを、はっきり相手に届くように強く言わねばならないとは、野暮たらしくてラングの趣味ではなかった。


「……遠慮じゃない」


マーロが再び痛みを堪える顔でラングを見た。


「愛しているんだ」


聞いたことがないような、思いつめたマーロの声であった。

 稲妻の光に一瞬照らされたマーロの顔は、一拍遅れて響く雷鳴に引き裂かれるような痛みの中に、小さな覚悟を必死で握りしめている顔であった。ボロボロの小舟で海へ投げ出され、ほとんど絶望しながら最後の水を見つめているような悲壮さが、ラングの胸を刺し貫いた。

 ラングは目を閉じて顔を下げた。マーロの顔を見るのが、もうつらくてできなかった。

 それでも、これだけは訊かねばならない。ラングは、雨の音が響く中、やっとマーロに届くぐらいの声で訊ねた。


「キッドはどうなる?」


アレックの敵だったキッドは。あの美しい瞳で、燃え上がる炎と仲間たちの死を見つめていた少年は。仲間が首を括られ無残にぶら下がるのを、きっと野次馬に紛れて見上げていたであろう少年。それでも生きてこの町に辿り着き、もう一度他人を、自分たちを信じてくれた若い友人を、この男は見捨てるつもりなのか。

 いつも町のことに気を配っている役人のブルースが、昨日の森で殺人があったことを知らないのは、先に発見た何者かが秘密裏に処理したためであろう。マーロは気付いているはずであった。あの猫背の男とアレックを殺したのが、キッドだと知っているはずであった。そうでなければ、今日、ここに帰ってくるはずがない。

 返答に間があった。雨雲に隠れて太陽は沈んでしまった。ややあって、すっかり真っ暗になった部屋で、突如、マーロはむちゃくちゃなことを言った。


「キッドを、俺に渡さないか」

「何を言い出すんだ」


あまりの言い草に、ラングは怒鳴る気も起きなかった。


「アレックが死んで、それでキッドを代わりにするつもりかよ」

「代わりだなんて、そんな扱いはしない。俺たちの活動が、キッドのためにもなると思うから誘うんだ」


どこまで本気なのかもわからない、マーロの発言だった。


「キッドだって今度の鉄道事業には反対のはずだ。あの土地を取り戻すための戦いはキッドにも……」

「よせよ、マーロ」


もはや聞くに耐えない。ラングは、奥歯に苦いものを噛みしめて、マーロの話を遮った。

 ラングの脳裏には、いつぞや、フクロウの鳴く晩に恨み言を述べたキッドの姿が浮かんでいる。「クソくらえ」キッドは言った。「あんな村なくなっちゃえばいい」叫んだときの表情を、あの声を、ラングは忘れることができない。

 もしかしたら、本当にマーロの言う通りなのかもしれない。キッドにとっては工事に反対することは確かに復讐になるであろう。過激行為に走った末に村人が傷ついたとしても、彼はもともと村人のことも恨んでいる。自分たちがされた仕打ちを思えば当然の報いだと、彼にだけはそう言う権利が本当にあるのかもしれない。

 だが。だとしても。


「キッドは、もう"キッドこども"じゃない。誰が敵か、何をするのか、決めるのは彼自身だ」


マーロが切れ長の目を見開いた。ラングはそっと顔を上げて、暗闇の中、厳しい顔つきでその目を見つめ続けた。


「一人前の男になった。……俺たちもだ」


仲良しこよしの幼馴染だった時代は、既に過ぎた。悪童同士、はしゃいでいた季節は、とうに過ぎ去り、もう戻っては来ないのか。

 マーロが唇を引き結び、ラングのことばをゆっくり咀嚼するように小さく顎を上下した。


「そうだ。俺も子どもじゃない」


独り言のようにマーロが呟いたことばが、妙にラングの胸をざわつかせた。確かにラングが先にそう言ったのだが、何かちがう。どこか、二人の中に意味のズレがあるように思う。

 答えは、簡単であった。


「それどころか、俺は父親になった」


突然のマーロの告白に、今度はラングが絶句した。


「彼女のお腹の中に、俺たちの子どもがいるんだ」


そう言う親友の顔は悲痛に歪み、友情と責任の狭間で引き裂かれるように笑っていた。

 その狭間には、今、マーロが言葉にしたことで決定的な杭が打ち込まれた。本当ならばそんなものは、簡単に飛び越えていける柵ほどにも意味のないものであるはずであった。マーロがどれほどカレンを愛そうが、二人の間に何人の子ができようが、多少、男同士の自由な時間が減ることはあっても、失われることのない友情であるはずであったのだ。

 しかし、今、マーロにとって彼らは選ぶことのできない選択肢のひとつとなってしまった。もはやマーロを引き留めることはできないとラングは確信した。マーロもこれで終わりだと言わんばかりに踵を返し、店を出ようとする。

 ラングは絶望した。それでも、絶望しながら、なおも引き下がった。最後の望みを託して、崖っぷちにロープを投げる。助けられるのがたった一人だと言うのなら、ラングはキッドの手を取るつもりで、しかしマーロがこのロープに捕まってくれたなら、キッドと二人、マーロと彼の愛する女と子どもを引き上げてやることだって不可能ではないと、まだ信じていたかった。


「カレンと子どもも一緒に逃げたらいいじゃないか。この町にいられないなら、俺たちが手助けする!一緒に町を出て、四人で、子どもも入れて五人でも、六人でも、どこか別のところで暮らせばいい!また一緒に店をやればいい!」


マーロが一度、立ち止まった。


「彼女は母親を亡くしてる。父親まで引き離すなんて俺にはできない。子どもにとっては祖父になる人だしな」


いやになるほど淡々とした声で、そう言うと、マーロは再び歩き出した。

 ラングは呆然と遠ざかっていく親友の背中を見送るしかできなかった。マーロは最後に入り口のところでもう一度振り返った。


「もし俺たちに参加する気になったなら、明日の朝、港の三番倉庫に来てくれ。お前だけでも、キッドと一緒でも」


それだけ言い置いて、澄んだドアベルの音を響かせ、マーロは雨の中を駆け出して行った。バシャバシャと道にたまった雨水を蹴っていく音が、無感動で耳障りであった。

 マーロの足音が雨に呑まれて完全に消えてしまうまで、ラングはずっと力なく立ち尽くしていた。

 これが、二人の幼馴染の間で交わされた最後の会話になった。二十年以上の歳月をともに過ごしてきた親友との別れの会話が、こうもあっけなく、こうも簡単に、こうも暗澹たる気持ちで終わるなどとは、かつての自分にどうして想像できたであろう。


「マーロの、馬鹿野郎……」


せいぜい呟くことしかできない自分が情けない。

 ラングは両手でカウンターを叩いたが、それで何も変わるはずはなかった。雨は止まず、マーロは帰ってこない。彼の夢だと語っていた店に、彼は永遠に、戻って来ないだろう。


「大馬鹿野郎……」


どれだけ罵ろうが、嘆こうが、時間は戻りはしないのだ。叩きつけるような雨音が、容赦なく続いていた。

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