第6話
それから、一か月ほどが過ぎ、季節はまた夏を迎えていた。まだマーロとカレンの結婚式の日取りは未定であったが、町の人々もいよいよらしいぞと気が付いてきて、ラングやキッドに会ってもまず第一にそのことを話すようになっていた。
マーロはカレンの父親の信用を得て、この頃、カレンの家に寝泊まりしている。彼女の家のことを手伝うようになり、店は休みがちになっていた。常連客達は少し淋しく思いながらも概ねは祝福してくれた。
キッドとラングは、昼の間は相変わらず、それぞれに近所の雑用をして稼いでいた。マーロがいないと安定した料理が出せないので昼は店を閉めがちであったが、二人とも酒と簡単なつまみぐらいは用意できたので、最近では夜、二人で店を営業している。
二人がそうやって、少しの時間でも店を開けていたのも、短い営業時間に客が来てくれていたのも、いつでもマーロが戻って来られるようにという思いがあるからであった。
そんな常連客達から、気になる噂が店に持ち込まれるようになったのもこの頃であった。例の隣村の鉄道事業がいよいよ本格化し、それに伴って、いくらかの反対運動も起こっている、という噂である。この頃にはキッドもすっかり町になじんでいて「隣村の騒動に巻き込まれた哀れな坊や」という認識はすっかり薄れていたから、客もつい口を滑らせてそんな話をして帰っていく。ラングとキッドは表面だけは何気ない風を装っていたが、内心穏やかではなかった。
「反対運動って、どんなことをするの?」
床屋の娘のサラが単純に疑問をぶつけてきた。森の中、草むらにハンカチをひろげて、その上に行儀よく座っている。木漏れ日の奥から小鳥たちの囁きかわす声も聞こえて、この素朴な少女にはよく似合う場所であった。
「村の人たち?それともあの騒動で生き残った人たちが大声出して騒いだりするの?まあ、キッド、それじゃ、あなたは?」
本当に無邪気で素朴な少女であった。年相応に体つきは女らしくなってきたが、純朴な笑顔が変わらない。キッドのような生まれつきの素質というよりは、争いとは無縁に生きてきた彼女の人生が、そういう穢れのなさを生み出していた。
「おれは関係ないよ」
そういう消えない少女らしさにキッドは惹かれていた。彼の周りにはいなかった質の女の子だったのは間違いがなく、その美点を失わないように、キッドはごく軽い笑顔で答えた。
新聞や風評では、近頃、反対運動が過激化し、銃や爆弾まで使用してゲリラ的に工事を妨害するようになり、村民も迷惑しているのだということであった。武器弾薬の入手経路も、ゲリラの隠れ場所も不明らしい。噂を聞くたびキッドの心は少なからず痛んだが、サラには言わなかった。もう自分は無関係なのだ、それは、嘘ではない。
「だって、あなた生き残りなんでしょう?」
「おれの他に生き残ってるやつなんてほとんどいないし、いたとしても、おれと同じで当事者から傍観者へ転職してるはずさ。騒いでるのは別の連中じゃないかな。今更騒ぎ立てたって工事が止まるわけでも、いなくなったやつが帰ってくるでもないんだから。その場にいた連中の方が、それはわかっていると思うな」
キッドの考え自体に変化があるではないが、あの夜、ラングと話していたときよりもずっと平然とした顔を作ることができる。一度、話を聞いてもらっていたからかもしれないな、と、キッドは頭の片隅で思った。おかげで、彼の恋人は深く追求しなかった。
「そうなの。よかった。キッドがケンカをしないなら嬉しいわ。約束も守ってくれているみたいだし」
サラは上機嫌である。キッドは肩を竦めて左腰に手を当てた。
「きみと会うときは銃でもナイフでも、武器になるような物は持たない。きみのお父さんから出された、きみと出かける条件だからね」
「他の人と会う時だって、本当はそんなものいらないのに」
正直、キッドは落ち着かなくてソワソワしているのだが、サラは気付かなかった。この少女の世界には他人を傷つける道具は存在を許されないらしい。あるのは色とりどりの花と、小鳥のさえずり、甘いフルーツパイに、優しい歌……そんなところであろう。それから、恋人たちの物語は少女の心のときめきのために欠かせなかった。
「ところで、マーロの結婚式はいつなの?」
「どうなんだろう。最近あまり帰ってこないんだ。カレンのお父さんの会社が忙しいみたいでさ」
「はやくカレンの花嫁姿を見たいね。きっと、すっごくきれいよ」
そう言って、サラが愛らしい笑顔を作った瞬間であった。平和の時間を引き裂くような銃の音が森に響き、鳥たちが一斉に飛び立った。
「きゃあっ!」
小鳥と一緒にサラが飛び上がってキッドの背中にしがみついた。
「なぁに?何があったの?」
「……小銃の射撃音だ。こんなところで?」
独り言のようにキッドは呟いた。それから思い出したように背中のサラを振り返って、彼女の両肩に手を置いた。
「少し様子を見てくる。きみはここで待ってて」
「でも……」
「大丈夫。すぐに戻るよ」
怯える少女をひとまず座らせて、そのままさっさとキッドはひとりで森の奥へと踏み入っていった。
この辺りは町民が自由に出入りできる森である。この季節は海に行く者が多いから静かだが、魚釣りに来る町民だっている。人里近いから狩りの獲物になるような獣も少ないし、護身用の小さな拳銃やナイフ程度ならばともかく、小銃を携えてくるような人間は、ほとんどいないはずであった。いるとすれば何かよからぬことを考えている輩か、事情をまるで知らない余所者か――いずれにせよ、ここで銃を撃つなど、放っておけるはずがなかった。
キッドは音のした方向を注意深く見極めながら、そっと歩みを進める。こういうときに小柄な体は便利であった。木の陰、藪の陰に隠れつつ、足音にも注意しながら進んでいくと、いくらも行かない内に、奥から男の声が聞こえてきた。
「どうだ。これなら」
「悪くない。だが旧式だな」
二人の内、一方の声に聞き覚えがあった。木の陰に隠れて、キッドは訝しみながらそっと様子を窺い、相手の顔を認めて危うく声をあげそうになった。
(そんな馬鹿な!どうしてアレックがここに?)
キッドは咄嗟に自分の口を手で抑えた。万が一にも声が漏れてはいけない。
アレック。あの牧場地をめぐる騒動で、ロブが殺したとされている男である。
あの騒動は、口論の末、牧場主ハンの手下であるアレックをロブが刺殺したという噂が流れ、それが契機となって全面抗争へと発展したものである。つまり先に手を出したのが役人のロータス一味だということになっている。そのためロータス一味に罪は偏り、一味の実行犯のリーダー格であり、自らが
ハンの手下どもとは、キッドも何度も衝突した。ロブがアレックを刺したと噂が流れるまでは皮肉の応酬程度のものであったが、殴り合いになったこともある。そんなことを日々繰り返していたから、キッドは何度もアレックの顔を見てきた。アレックのためにロブが死んだと聞いた後にも、何度その顔を夢に見たか知らない。今更、人違いもあるまい。
アレックが銃を眺めながら男と話している。相手の男は肩幅が広く猫背で、不気味であった。人の嫌悪を刺激する男である。
アレックが「旧式」のボルトアクション式のライフルを構えては下ろし、先ほどの射撃の感触を確かめている。話から察するに、猫背の男がアレックに銃をまとめて売ろうとしているらしい。こんな森の奥で、人目を避けて密談している時点で、正規の取引でないことは明らかであった。
キッドは迷った。今すぐサラのところへ引き返すか、それともここでもう少し探っていくか。
ここでこうして生きて怪しい取引をしている以上、アレックは何か企んでいるにちがいない。だいたい何故生きているのだ。今すぐとっちめてやりたかったが、今、キッドは丸腰である。サラの父親との約束で本当に銃もナイフも持っていなかった。この状態で深入りするのは、やはりあまりにも危険すぎる……。そう考えていたとき、予期せぬことが起こった。
「キッド?キッド、どこなの?」
サラの声である。その場を動かず待っていろと言ったはずなのに、あろうことかキッドのことを呼びながら、どんどんこちらへ近づいてきていた。
「……おい」
アレックと猫背の男が頷きあうのが見えた。キッドの背に冷たいものが流れた。
「キッド、お願い、返事をして!あんなところでひとりで待ってろと言われたって、怖くていられないわ!」
怖い、と言いながら、サラは足元を確かめもせずにどんどん近づいてくる。恐ろしいなら先に何があるか想像しないのか?そう思いながら、キッドは願った。そこで蛇でも出て、驚いて引き返してくれまいか、と。男たちに遭遇する前に、何かもっと別のもののために、ごく自然な様子で森を出てくれ……。
もちろん、そんな願いは叶わない。
「怖いとは、何が怖いんだ、お嬢さん」
猫背の男がサラの目の前に跳び出して、両手を広げて通せんぼした。
「きゃあっ!誰!?誰なの、あなたたちは!?ここで何をしているの!?」
サラが悲鳴とともに余計なことばかり口走り、キッドは思わず両目をきつく瞑った。純朴な少女の、常ならば長所たる率直さが散弾銃のように無造作に撃ちだされ、小さくとも確実に相手を刺激していく。
「銃を持ってるの?わかったわ、さっきの銃声はあなたたちね?危ないわ。どうしてこんなところで?」
「よく喋る娘だ」
アレックが不機嫌そうに舌打ちした。
「さっさと始末しちまおう。何を喋るかわからん」
「誰か呼んでいたな。連れはどこだ?」
猫背の男とアレックが一歩一歩距離をつめていく。サラはようやく恐怖に引き攣った顔で後ずさり始めたが、人生で味わったことのない恐ろしさに、もう足も喉もうまく動かない様子であった。小さく、か細い声でやっと「たすけて」と口にする、それが精一杯である。
「それじゃ、彼氏には聞こえないんじゃないか?」
猫背の男がさらに体を屈めてサラに覆いかぶさろうとした。
その瞬間、キッドは地面を蹴って飛びだした。
既に手近な石を拾ってある。アレックが反応するより速く前を通り抜け、思い切って跳躍し、猫背の男のこめかみ近くを石で殴打した。
「キッド!」
サラが叫ぶ。キッドは更に、グラつく相手の顔面を、先ほど殴ったこめかみ付近めがけて横薙ぎに蹴り倒して、すかさずサラを背に庇った。
「なんだ、このガキ!?」
「待ってろって言ったじゃないか!?」
猫背の男とキッドがほとんど同時に叫んだ。サラがびくっと肩を縮こませて目をぎゅっと瞑った。怒鳴ったことを詫びる時間も、返事を聞いている暇もない。猫背の男が両手を頭上に振りかぶって、二人めがけて振り下ろそうとしている。
「ごめん!」
短く謝罪して、キッドはサラの体を横に突き飛ばして相手の攻撃を躱した。
勢いあまって前につんのめる巨体を横目に、アレックを最大限警戒しながら、キッドはすぐに身を起こした。サラはまだ地面に転がったまま起き上がれない。そのためにキッドも迂闊に動けず、彼女を庇う姿勢が低くなる。
「この野郎……!」
怒気をあらわにした猫背の男がキッドを睨み下ろしている。
「おい、銃は使うなよ。そう何度も銃声がしては、さすがに町の連中に気付かれる」
アレックが不機嫌そうな声を出した。
「わかってらぁ!こんなガキ、素手で捻りつぶしてやる!」
「おっと。それは勘弁願いたいな」
お道化てみせながら、キッドは必死に後ろ手でサラに合図した。自分ひとりだって危ういのである。いつまでも少女を背に庇ったままでは戦えない。
サラがやっと状況を理解して、慌てて少し離れた岩のうしろまで逃げた。
「おい。娘が逃げるぞ」
「放っとけ。こっちのチビをやってからで間に合う」
投げやりに言ってから、アレックの視線がキッドに留まった。
「ん?おい、待てよ、お前……」
まずい。キッドの顔が強張った。
「見覚えが……ああ、ロブのとこにいたガキじゃねぇか」
「なんだと?このチビがか?」
岩陰でサラがどんな顔をしているか、そんなことが一瞬キッドの頭をよぎった。出会ったときの約束通り、町ではキッドは本来敵対していたハンの手下で通っていた。あの髭もじゃの勘違いから始まった嘘であったが、ロータスとロブの一味よりもハンの手下の方が、まだ罪が軽いように世間には認識されていたからである。
サラもその嘘を信じていた。サラは父親から、牧場主のハンと手下たちは、自分の牧場を守るために権力者と戦った英雄であるかのように聞かされていたらしく、キッドがどんなに否定しても謙遜であると解釈して、恋人を、悪者と勇敢に戦った若者だと思っていたのであった。
その戦いの詳細が、どんなに残酷であったかは、当然ながらサラには想像できていない。
「もっとチビだった。そうか、かわいそうになぁ。生き残っちまったのかよ、お前。ハハーハハハ!」
アレックがいかにも下卑た顔でキッドを見下している。独特の、耳障りな笑い声であった。
キッドは努めて冷静を保とうと深く息をした。しかし口元に憎悪が蠢いて、それを必死に噛みしめていることをアレックは見抜き、更にニタニタ笑ってキッドをからかった。
「お前なんで死ななかった?ん?逃げたのか?一緒に死ぬのが、仲間じゃないか?」
「……うるさい。黙ってろ」
「なんだって?恥さらし野郎。ああ、あれか?復讐か?無理だね!あの事件の直接の責任はロブにあるんだぜ?
キッドのヘーゼルグリーンの瞳が、怒りに燃えた。それを見たアレックが顔を歪ませる。
「おお、怖いこわい。そうだよなぁ。怒るよなぁ。だって。
「貴様、なぜ生きていやがる、アレック!」
ついにキッドが叫んだ。アレックはまだニタニタ笑いを顔に浮かべ、下卑た声で笑った。
「アハーハハ!なぜ、だと?ロブの野郎が逃がしてくれたんだよ!」
「ふざけるな!ロブが逃がしたんなら、なんでお前、ロブに殺されたなんてことになったんだ!」
「俺が噂を流したに決まってんだろ!」
アレックが叫びながら小銃で木を殴った。「おっと、いかん」すぐに手元に銃を引き戻して傷を確認する。
「こりゃあだめだな。もう売り物にならん。まあ、このガキを殴り殺すにはちょうどいいか」
キッドが呼吸も荒くアレックを睨んだ。その姿を猫背の男が嗜虐的な笑みを浮かべて見下ろしている。
「間抜けだなぁ、ロブって男は。このアレックから聞いたぜ、とんだお人好し野郎だってよ。アレックがちょっと嘘ついて、こんなところからは逃げたいんだ、なんて言ったらよ、すぐに馬を手配して逃がしたんだとよ」
キッドの右目の瞼が、ピクリと痙攣した。
「そんで、こいつはてめぇで噂をばら撒いたのよ!"ロブがアレックを刺し殺した。死体は川に流しちまって見つからない"ってよ!そうしてさっさと自分は雲隠れして、こっそりハンのじじいとロータスの大馬鹿野郎どもがやりあうように仕向けてやったんだとよ!」
「なんで、そんなことを……?」
「はああ?」
アレックが呆れかえった、という顔つきで息を吐いた。
「あの土地をさっさと空にするために決まってんだろ?薄汚ねぇゴロツキどもが居座ってたんじゃ、いつまでも売れねぇじゃねぇか」
「お前があの土地を売ったのか!?」
アレックが苛立たし気に地面を蹴った。手に持った小銃を振り回しながら、イライラと怒鳴り散らす。
「そうするつもりだったんだよ!苦労してやっと手に入ると思った土地だったってのによ、騒動が収まってみたら教会の差し押さえだと!?ふざけんじゃねぇ!結局信じられねぇ安値で鉄道会社なんかが買い上げやがって、あれは俺の土地だ!あの土地を鉄道会社に売るのは俺だったはずだ!あんな安値じゃねぇ、あの五倍、いや、十倍の値だって売れたはずだった!」
キッドの中で、考えないようにしてきた事実が少しずつ、つながっていく。掠れる声が、更に男どもの顔を歪ませた。
「工事の反対運動……」
「あぁ、俺たちだよ」
アレックが最上級にニタリを深くした瞬間、キッドの左側面から猫背の男の張り手が飛んだ。キッドは咄嗟にそれを躱したが、動揺が抑えられず呼吸が荒れている。足を滑らせて体勢が崩れた。
すかさず猫背の男がキッドの上に圧し掛かり、馬乗りになって押さえつけようとする。体格差があまりにも大きい。キッドは必死でもがきながらわめいた。
「てめぇ!恥を知れ、アレック!ハンを裏切り、ロブの親切を悪用し、おれたち全員の人生を無茶苦茶にしやがって、その上、無意味なゲリラだと!?」
「なんとでもわめけ小僧!貴様にわかるもんかよ!コケにされたのは俺の方さ!これはその復讐だ!てめぇにもわかるだろう、俺たちの戦いは、あの事件に関わる全員の報復なんだよ!あの村を、てめぇだって憎んでいるんじゃねぇか?あの村の連中と、俺たちを馬鹿にしやがった鉄道会社とを困らせてよ、ついでに武器の売買で懐もあったまるってもんだ!アーハハッハハー!」
アレックが言い終わらない内に、猫背の男の手がキッドの首に届いた。キッドは必死にその腕を掴んだが、首を締めあげられ、ほとんど抵抗になっていない。
口惜しさと息苦しさに、キッドの口の端から呻き声が漏れた。その瞬間、
「このクソったれええええっっ!!」
格好いいとは言えない叫び声とともに、何か硬質な物がぶつかる音が森に響いた。
「うわああ!当たった!これ、どうしたらいいんだ!?」
藪の中からラングがあらわれた。彼の前には脳天からギターを叩きつけられたアレックが、まったく予期していなかった衝撃にぶっ倒れている。
猫背の男も、予想外の展開にキッドの首にかけた手の力を一瞬弱めた。ラングの声とその一瞬でキッドの頭に酸素と冷静さが戻ってくる。キッドは地面の土を雑草ごとむしりとって、思い切り相手の目鼻に擦り付けた。
たまらず猫背の男が身を起こし、両手でそれを拭おうとする。キッドはその瞬間に、猫背の男の股の間から下半身を引き抜いた。
しかし、簡単に逃がしてくれるほど甘い相手ではない。猫背の男は乱暴に拳をこすって泥を拭い、視界を回復するや否や、またも巨体を折り曲げてキッドを地面に押さえつけようとした。
また首を折られかけるのではたまらない。キッドは咄嗟に、相手の太い首に足を絡みつかせた。両の太ももでガッチリと相手の頭を固定して腹筋の力で体を起こし、先ほど石で殴った部分に思い切り掌底を叩きこむ。痛みに悶えながら、なお掴みかかろうとする相手の体を、今度こそ素早くすり抜けて、追い打ちの蹴りを顔面にお見舞いすると、キッドはラングの元へ駆け寄った。
ラングは少年時代に悪童であったが、殺意を持った敵と相対したことはない。当然、彼自身が人を殺そうと思ったことなどあるはずはないし、誰かを殴って気絶させるのも初めての経験であった。
「およよよ!キッド、どうしよう、これ!?」
「いいから!これ持って!こっち!」
キッドはラングを巻き込んでしまったことへの罪悪感を心の隅に追いやって、ちょうどいい具合に足元にあった十五センチほどの大きな石をラングに押し付けた。そのままラングの手を引っ張って逃げようとするが、そろって頭を押さえながらアレックと猫背の男が起き上がる。
「ふざけんじゃねぇぞ、てめぇら!!」
アレックが小銃を握りしめ、猫背の男が自慢の膂力を頼りに二人に殴りかかってきた。
「ひゃああああっ!?」
ラングが、聞いているこちらが気の抜けそうなほど格好悪い悲鳴を上げて、キッドに渡された石を反射的に頭上に持ち上げた。両手でしっかり持ち上げられた石は、アレックがギターのおかえしとばかりに脳天めがけて振り下ろした銃床を、鈍い音とともに跳ね返す。
力を込めて振り下ろした銃を弾き返された反動で、アレックの体ものけ反った。ラングはその隙に木の幹の後ろに逃げ込んで、二撃目、三撃目も巧みに石と木を使って耐えている。
となりでは猫背の男の拳をキッドがギリギリで躱し、殴りかかってきた相手の腕と勢いをいなしながら、反対に自分の拳を相手のこめかみに叩きこんだ。更に一歩飛びのいて距離をはかると、細いが、しなやかな脚で、ガードを固める相手の太い腕を繰り返し、右に左に蹴りまくる。
一撃、一撃は体重が軽いためにそこまでの威力はなくとも、とにかく数を撃ち込めば、相手は嫌がり、後ずさっていく。いいところでキッドは体を捻りながら跳躍し、相手の胸を踏み抜くように後ろ向きに蹴り飛ばした。
たまらず猫背の男の体は後ろに飛ばされ、背中を木に打ち付けて、前のめりに倒れ込む。その拍子に男のポケットから隠し持っていたナイフが地面に零れたのを、すかさずキッドは拾い上げた。
「キッド!やばい!助けて!!」
限界を感じてラングが叫び、ほとんど同時に猫背の男が唸り声とともにまた立ち上がる。
救出に向かおうとするキッドの前に、なおも猫背の男が立ちはだかった。しつこい奴だと顔をしかめながら、キッドは先程までよりも動きの鈍くなった男のパンチをするりと躱し、躊躇なく急所を蹴り上げて、悶絶する相手を無視して左手に握ったナイフをアレックに向かって投げつけた。
ナイフはアレックの腕を掠めて小さな傷を作りながら木に突き立った。アレックの興味が間抜けな赤毛からナイフを投げた犯人に移る。しかし怒りの形相で彼が振り向いたときには、既にキッドが眼前に迫っていた。
瞬きする暇もなく、キッドの左肘がアレックの顎をかち上げて、右手が銃に伸びる。わずかの攻防の末にキッドはアレックから小銃をもぎ取ると、思い切り横に振りぬいてアレックの憎らしい顔面を強かに殴りつけた。
アレックが横っ飛びに地面に倒れるのを確かめもせず、キッドはすぐに木の幹に突き立ったナイフに手をかける。
「うしろだ、キッド!」
ラングが叫ぶ。倒れるアレックのかげから、不死身でもあるまいに、気合でまた立ち上がった猫背の男が獣のような雄叫びを上げた。
しかし、既に何度もキッドに頭部を集中的に攻撃された上に、心臓付近に股間と、急所に確実なダメージを蓄積しているのである。もはや怖れる相手ではない。
キッドは冷徹とも言えるほどに恐ろしく鋭い瞳の光とともに、幹から引き抜いたばかりのナイフを投げた。まっすぐにとんだナイフは狙いを過たずに男の眉間に突き刺さり、猫背の男は驚愕の眼差しのまま、二、三歩歩くと、ぐらりと巨体を傾けて倒れ、今度こそ動かなくなった。
「すっげぇ……」
呆然とラングが呟いた。そのラングを、肩で息をしながらキッドが振り返る。
「ラング……どうして、ここに?」
呼吸が乱れているせいで切れ切れにキッドが尋ねる。慣れない殺意と戦ったラングの興奮が爆発した。
「どうしてって、ウェディングソングの作曲だよ!ここならマーロもカレンもしばらく来ないだろうからコッソリ作れると思って、そしたら銃声がダダーン!!驚いてこっそり様子を見に来たら女の子の声がして、耳を澄ましたら、なんだかお前を呼んでるだろ?うわあ、サラとキッドだ!サラとキッドがなんか危ないっっぽいって、もう無我夢中で走ってきたら、お前がアレックとか言ってて、おいおいおい!アレックって野郎はロブに殺されたんじゃなかったのか?どういうこと……」
「ややこしいな。やっぱり後で……伏せて!!」
まくし立てるラングに呆れた顔を見せたキッドが、突如何かに気付き、ラングの胸倉を引っ張って強引に頭を下げさせた。間一髪でアレックが撃った銃弾がラングの赤毛を掠め、背後の木に命中する。
「ぎゃああああっ!生きてるうっ!!」
「「うるせぇ、黙ってろ!!」」
おばけでも見たようなラングの悲鳴に敵味方がそろって叫んだ。
叫びながらアレックが二発目のために小銃のボルトを操作した。同時にキッドが走り出す。アレックの二発目がキッドの足元を掠めた。アレックが舌打ちをして小銃を捨てる。今度は右腰の拳銃を引き抜こうとしたアレックの手に小石が当たった。アレックが顔を上げて、怒りに引き攣らせた目で犯人をにらむ。
「やーい!やーい!」
ラングが懐かしの悪ガキ根性を発揮して、ほんの一瞬アレックが気を取られた刹那、キッドがアレックに体を当てながら、先に相手の拳銃を抜き取った。
「このクソガキ……」
言い終わる前にキッドの右手は撃鉄を起こし、左手は引鉄を引いていた。アレックがカッと目を見開いてキッドを睨みつける。
その浅ましい色をした目を、キッドがヘーゼルグリーンの瞳に凍てついた湖のように冷たい光を浮かべて見返した。二人の間には、それ以上の会話はなく、引き攣った表情のまま、アレックはドサリと地面に崩れ落ちた。
「使いづらい銃だ。持ち主に似て最低のごみ屑だな」
アレックの、血が噴き出している体の上に銃を投げ捨てて、今度こそキッドは深く息を吐いた。それからラングを振り返り、微かに片頬を持ち上げて笑う。
「助かった。ありがと」
一度堰き止められたラングの興奮が、また流れだそうとした。
「すっ……げぇな、お前!?なんだ!?なんか特殊部隊かなんかか!?むぐぅっ!」
面倒になったキッドがラングの口に自分の手を押し付けて黙らせる。
「馬鹿言ってないで早く逃げよう」
咄嗟のこととはいえ、二人とも殺してしまった。襲ってきたのは向こうだが、誰かに説明しても信じてもらえる保証はなかった。こういうときに限ってキッドが隣村から来たことが持ち出されて、一方的に責められる可能性もある。そうなっては厄介だ。
「あぁ、そうだな。急いで……待て、キッド」
まだどこか興奮した様子だったラングが、急に真面目な声を出した。
「どしたの?急がないと……」
「こいつ、この間カレンを迎えに来た馬車の御者だ」
「なんだって?」
ラングが見下ろしている男の顔をキッドも見た。猫背の男が、猫背のままうつぶせに倒れ、首だけ横に向けて死んでいる。ラングが拳を握りしめた。間違いない。この猫背の男は、あの四人で飲んだ夜、カレンを迎えに来た男である。
「どうして、こいつが……?」
「……気にはなるけど、今は行こう。サラ!サラ、まだそこにいるの?」
ラングの肩を軽く叩いて、キッドは急ぎ足にサラが隠れた岩陰に駆け寄った。
キッドが覗き込むと、サラはまだそこに蹲って耳を塞いでいた。俯いた視界に何かの影が現れて小さく悲鳴を上げかけたが、それがキッドの靴であることに気がついて、恐る恐る顔を上げた。
「……キッド、終わったの?」
ぼんやりと夢でも見ていたような顔でサラが呟く。その顔色は青ざめて、大きな瞳は震えていた。
「終わったよ。怖がらせて、ごめん」
キッドの声に、サラがゆっくりと首を振った。
「ごめんなさい、あたし、待ってろって言われたのに……。キッド、ケガはない?」
ケンカが終わったことと、キッドが無事であったことに安堵したのか、涙をにじませながら見上げてくるサラに、キッドはちょっと笑っただけで答えた。ケガどころか疲労困憊である。
「さ、帰ろう。立てる?」
「えぇ。ありがとう……」
キッドが差し出してくれた手に、いつもどおり己の手を重ねようとしたサラの動きが止まった。大きな瞳が揺れて、何かを凝視している。それが彼の手や体についた血であることにキッドはすぐに気が付いた。
「……ごめんなさい」
サラの声は、消え入りそうに小さかった。先程よりも一層血の気の引いた顔色で、サラはカタカタと手も肩も、瞳も震わせている。キッドは差し出した手を引っ込めて、あいまいに笑うしかできなかった。
そこへ、ラングが追い付いてきた。手に壊れたギターを持っている。
「いやぁ、こいつを置いてくとこだった。危ない、あぶ……」
ただならぬ二人の雰囲気に気付いて口を噤む。サラが顔面蒼白になりながら自力で立ち上がった。
キッドが何か言おうと口を開きかけたとき、サラがまた風にさらわれそうな声で告げた。
「ごめんなさい。これっきりにしましょう。……誰にも言わないから」
キッドが息を呑んで、目を閉じて俯いた。拳を血が滲みそうなほどに強く握りしめて顔を上げ、
「送ってくよ」
やっと、それだけを呟いた。
三人は森を後にした。
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