第5話

 ひたすらに幸福だった宴が終わり、後片付けもそこそこに解散した後、ラングは自室でぼんやりと座り込んでいた。何をするでもなく、酔いが醒めるのを待っているだけである。それは酒の酔いだと思っていたが、幸福に酔っていたのかもしれない。薄く開けた窓から入り込む夜風に頭が冷えるにつれて、そんな気になってきた。遠くでフクロウの鳴く声がしている。静かな夜であった。

 ラングに言われたことが余程恥ずかしかったのか、キッドは一番に席を立ってそそくさと自室に引っ込んだ。マーロはいつにない深酒をしていたが、カレンの家から迎えが来るのを一緒に階下で待っている。泊っていけばいいのに、とラングは思ったが、そこはまだ父親の目が厳しいのかもしれなかった。こんなに夜更けまで、男だけの家で遊ばせるだけでもかなりの譲歩と言えるのだろう。婚約者の家なのだが。

 穏やかな風がほろ酔いの体に心地よく、窓辺に座ってフクロウの声に耳を澄ませていると、カレンの迎えが来たらしい音がした。なんとなくラングは外を見下ろした。わざわざ会社の馬車を迎えに寄越すあたりが過保護だと呆れながら、やはり何気なしに御者の顔を見た。


(嫌なやつだ)


酔いの残る頭でラングはそう思った。

 妙な不気味さのある男である。過保護な父親が大事な一人娘を夜中に迎えに行かせるだけあって膂力のありそうな体格だったが、猫背気味で、月明りの下で口を歪ませて笑っている。この状況でこれだけ印象に残る見た目なのだから、昼間はずいぶん目立つだろう。

 ラングの不快感をよそに、カレンは笑顔で男に手を預けて馬車に乗り込んだ。マーロもカレンしか目に入っていないのかニコニコと笑顔を絶やさずに見送っている。カレンの父親の会社の従業員ならば二人にとって当然怪しい者ではないのだろうが、ラングは肚の底に嫌なものを投げ込まれた気がして口をへの字に結んだ。先程までの幸福感が台無しだ、そう思った。

 しばらくするとマーロが階段を上がってくる足音がして、すぐにドアの閉まる音が続いた。ずいぶん飲んでいたから、そのままベッドに倒れこんで朝まで起きないだろう。さて、そろそろ自分も寝ようかと、ラングがひとつ伸びをした時である。再びドアの開閉音が聞こえた。


(マーロのやつ、何か忘れものでもあったかな)


そう考えた直後、遠慮がちにラングの部屋のドアをノックする音がした。


「ラング?起きてる?」


キッドの声である。ラングはすぐに立ってドアを開けてやった。

 ドアを開けて、驚いた。先程の笑顔は何処に行ったのか、キッドが何か思いつめた様子で立っている。


「どうした?怖い夢でも見たのか?」


幼児に対するような冗談を投げた。これでキッドが枕かぬいぐるみでも抱えていたら完璧だったと思う。するとキッドは小さな声で、


「見た」


と答えた。

 ラングが固まった。まさか、キッドはそんな年齢でもない。だいたい怖い夢を見たからと言って甘えてくるような性格でもない。一年余りでずいぶん打ち解けたとはいえ、そんな親子のような関係になった覚えはなかった。

 返すことばが見つからず、無意味に手を虚空に漂わせているラングを見て、キッドが噴き出した。


「あっ。からかったな、この野郎」

「ふふふ。ごめん。ちょっとだけ」


こういうときのキッドの悪童じみた顔は、小憎らしいが何故かまったく赦せてしまう。それですっかりこっちまで子どもに戻ったような気になって、忘れていた夢まで引っ掻き回してしまうのだが、そんな副作用があることなどキッド本人は思いもよらないだろう。


「ちぇっ。そんでどうした?眠れないのは本当なんだろ?」


せめて年上の威厳を保とうと兄貴ぶって言って、わざと少し乱暴にベッドに腰かける。キッドは素直にドアを閉めて中に入ってきた。

 ラングの部屋はマーロのそれと正反対に散らかっている。「創作の刺激になるんだ」を言い訳に本を買いあさる癖があって、蔵書のほとんどは音楽や絵画、最新の写真や物語、世界の名建築、などと言った、カレンに言わせれば「美しいが役には立たない本」たちである。それらを眺めまわしながら部屋に踏み入ったキッドが、軽い調子で言った。


「怖い夢ってのも、あながち嘘じゃないんだけれど」


言いながら、ラングの蔵書の一冊を指さして振り返った。ラングが許可するジェスチャーをすると、いつもの癖でちょっと首を傾げて微笑みながらそれを抜き取って、ラングの前の床に座り込んだ。


「鉄道の本だ。すごいな。こんなのに、人がどれだけ乗るの?」

「たくさんさ。数えきれないぐらい」


一ページ目から大きな挿絵で蒸気機関車の解説が載っている。キッドはそれを指で撫でるようにしながら目を凝らした。隣村のことを考えているのだろうか。俯いたキッドの表情は落ち着いて見える。


「ふぅん。たくさんか」

「なぁ、キッド。話があるんじゃないのか」


なんだかソワソワして、落ち着きなくラングは尋ねた。先程の猫背の男のせいか、気分がどうも落ち着かない。ラングはチラチラとキッドの方を見ながら訊ねたが、キッドは顔も上げずに答えた。


「きみが、遠くに行ってしまう気がした」


また森でフクロウの鳴く声がしている。まったく予想外のキッドのことばに、ラングは返事に窮した。


「答えられない?やっぱり、どっか行っちゃうんだ」

「いや、待て。待て、待て、キッド。どうしてだ?そんな話、俺はしなかっただろ?」

「しなかったけれど」


言いながら、キッドはまた一ページ本をめくった。次のページにも同じ機関車についての説明が続いている。


「そんな気がしたんだ。怖い夢だろ?」


ラングの肩が落ちた。本当に本を読んでいるのかわからないキッドの姿を見つめて、静かに息を吸い込む。


「怖いって、思ってくれるのか」


キッドが顔を上げた。ちょっとラングの顔を見て、それからまた視線を本に落とす。


「思うよ」

「そうか」


ラングは短くそう言ったのみで、キッドの言うことを否定できなかった。マーロはラングが自分のために音楽を諦めたのではないかと思ったらしいが、ラングはマーロとこの店を言い訳に音楽から目を背けていたのである。キッドの澄んだヘーゼルグリーンの瞳は、それを見抜いたらしかった。

 キッドの予感は、ラングにとってもこの瞬間まで予感でしかなかった。行きたい場所はあったが、行こうと本気で考えたことはない。その時期は過ぎたと思っていた。

 数秒、二人は黙った。先程の声を最後にフクロウも眠ってしまったのか、外は夜の静寂に包まれて、風の音がたまにするだけである。ラングが窓を閉めに立ち上がる。すっかり酔いも醒めていた。


「それで、どこへ行くの?」


キッドがその背中を見ながら口を開いた。「そうだな」答えながらラングは戻ってきた。座り込んだキッドの上から手を伸ばして一冊の本を取り出す。パラパラとページをめくって、三分の一ほどのところで手を止めた。


「ここだ」


ラングがキッドの顔の前に開いた本を差し出すと、キッドは一度ラングの顔を見上げてから受け取った。各地をまわった旅行本らしい。かなり読み込まれた様子で、角落ちし、表紙も他の本に比べて汚れていた。

 その中からラングが示したページには、見開きで豪華な時計塔の絵が、様々な角度から描かれている。美しいページであった。

 絵から読み取れる情報では、塔は街の中、おそらくは中心部にあるようで、周囲の建物より高く作られている。この絵の通りならば街のどの方向から見てもだいたい尖塔のてっぺんが見えることであろう。いくつかの鐘も見えた。時を告げる鐘楼である。


「世界一美しいカリヨンだ」


そっと語り掛けるような声にキッドがまたラングの顔を見上げて、今度は微笑みながら視線を本に戻した。


「これがラングの夢?」


ラングも同様に口角を持ち上げて、反対側から絵を指さした。


「ここんところに演奏室があるんだ。ピアノの鍵盤みたいにバトンが並んでてな、鐘とワイヤーで連動してる。そのバトンをこう、拳で叩いて演奏するんだ。かっこいいだろ?」

「拳で?一曲?」

「一曲ぜんぶ。拳であの荘厳な音を鳴らしてメロディを奏でられるって、考えたらワクワクするだろ?しないか?俺はするんだけど」


早口で喋っている自分に気がついて最後は少し自信なさげであったが、それを聞いているキッドはやはり微笑んでいた。


「うん。かっこいい。そうやって街中にきみの曲が響く」

「ああ。……いや、夢だ。それはただの夢」


突然ラングが真剣な顔で否定するので、キッドが今度こそ顔をあげてラングだけを見た。例の澄み切った瞳で。


「どうして?行くんだろ?」

「そこに行きさえすればいいってもんじゃない。演奏者になるのは大変なんだ。作曲家だって。挑戦するには、俺はそこまで若くないし……」


聞いているキッドの表情がみるみる渋くなっていく。ラングの態度が不満なのは明らかであった。


「そんな顔するなよ……」

「行くんだろ?」

「……わかった!行くよ!本当に行くから、そんな目で見るな、まったく……。怖い夢じゃなかったのかよ」


最後を独り言みたいにブツブツと口の中で呟いた。今度の返事には満足した様子のキッドが、また好奇心いっぱいの顔で本へと顔を戻した。


「ここへは、どうやって行くの?船?」

「……船酔いがひどいんだ、俺は」

「それじゃ、汽車で?いいな。どっちも乗ったことない」


ふ、と、ラングにも好奇心が湧いた。「なぁ」気軽な風を装って声をかける。キッドは本から顔を上げずに生返事した。


「なぁに?……ねぇ。ここもきれいだ。近くの噴水だって。へぇ、となりに劇場もある」

「なぁ、キッド。嫌だったら答えなくてもいいんだが……」

「だから何が?……美味しい食べ物はあるかな」


すっかり本に夢中になっている様子にラングは少し躊躇ったが、この際、訊いてしまおうと思った。なるべく気軽に……。なるべく重くならないように……。


「お前は正直どう思ってるんだ、隣村の鉄道のこと」


失敗した。

 ラングのことばに、あからさまにキッドの動きは止まってしまっている。ピタリと、そこだけ時が止まったかのように、ページを繰る指までもが静止していた。

 ラングは慌てて身を乗り出して、キッドの見ていた本を指さし、必死に話題を戻そうと試みた。


「いや!なんだ?食べ物?そうだな、この辺りは名物ばっかりで……」

「"クソくらえ"だよ」


キッドの掠れた声がした。今度はラングの動きが止まる。自分の行いに後悔が襲い掛かってきて目を閉じたが、今更取り消せるはずはない。

 キッドの唇が卑屈に歪む。ラングには、それがキッドの心に入ったヒビの形に見えた。そこから二年間隠していた感情が、堰を切って溢れだす。


「おれたちが流した血は完全に無駄だったわけだ。みんな無駄死に。死に損。なんだよ、村の連中なんて日和見決めてさ。言い合ってる間はどっちにもいい顔してたくせに、騒ぎが始まったら家中締め切って、家畜小屋すらおれたちは入れないようにして」

「キッド、すまない。俺が悪かった」


ラングの声が聞こえていないのか、キッドは止まらなかった。いや、肚の底にたまったドス黒いヘドロが込み上げて、彼自身にも止められなくっていた。


「結局、ロータスも、ハンも、なぁんにも無くなって、鉄道だってさ。後から出て来て全部持っていきやがって。死体の上だぜ。あいつらの血のしみた土だぜ。そいつをひっくり返して、何が汽車だ」

「なぁ、おい」

「どうせ無くなるんだったら、一緒にぜんぶ燃えちまえばよかったんだ。あの家だって燃えればよかったのに。死にかけの仲間引きずって助けを求めたら、窓から水ぶっかけてきやがって、"これでいいだろ、貴族の犬野郎!"そう言いやがった。それで死んだよ、そいつは。血が水にとけて、あの家の玄関はずいぶん汚れたけどね。そうだよ、ほんとにぜんぶ更地にしちゃえばいいんだよ」

「もうよそう、キッド」

「あんな村なくなっちゃえばいい!」

「キッド!」


ラングがキッドの肩をつかんだ。反射的にキッドの顔が上がる。睨み上げるようにラングの目を見つめたキッドのヘーゼルグリーンの瞳は、こんなときでも碧玉のように美しく、ガラス細工のように繊細で、痛ましかった。


「……最初からその鉄道会社ってやつが、あの土地を買ってくれてたらよかったのに」


キッドが唇を噛んで俯いた。言ってもどうしようもないことだとは、キッド本人もわかっているのだ。

 ラングはキッドの肩に置いた手に少しだけ力を込めた。慰めにもならないだろうが、近くにいることだけは伝えたかった。

 今にして思えば、すべて鉄道敷設のための絡繰りだったのかもしれない。ハンと手下連中にせよ、ロータスとロブ一味にせよ、一介の牧場主だろうが、貴族と癒着した役人たちだろうが、村の人間にとってはまったく同列に厄介者であったのだ。ならず者どもが日々、肩で風切って歩いてくる。本人たちにそのつもりはないにせよ、住民たちは彼らがいつ乱暴を働くかと怯えていたのかもしれない。

 手っ取り早く二勢力が潰しあってくれるのが一番だとでも考えたやつがいたのであろう。他所へ追い出す理由を探すのは面倒だし、体よく追い払ったところで戻ってこない保証はない。

 何者かが貴族に入れ知恵した可能性もあった。虎の威を借る狐に、虎はそろそろ見切りをつけたがっていて、貴族は増長してきたロータスを切り捨てるいい口実ができると思ったのかもしれないし、そうだとすれば、恐らく事業成功の暁にはいくらか懐に入るような話もあったであろう。

 あれだけの騒動の跡地である。鉄道会社は相当な安値で土地を手に入れたと専らの噂であった。漁夫の利というには、あまりに話が出来過ぎている……。

 今日までキッドがこの噂について聞き流してきたのは、未だにロブ一味を非難する声が根強かったからである。雇い主のロータスはともかく、ロブの潔白だけはキッドの中で絶対だったが、それを証明するものはない。ロブと一味が、騒動の末にハンと手下たちを多数殺したのは事実であったし、最近ではロブこそが鉄道会社と仕組んだのではないかと邪推する馬鹿すらがいて、この際、沈黙だけがロブの名誉を守る術だと少年は頑なに堪えてきた。

 ラングには、それこそ哀れでならなかった。

 この町に来たばかりの頃と比べて、キッドは明らかに変化していた。銃を枕元に置いたことを確認して眠ることは少なくなったし、ときどき虚ろに空を眺めることも減っていた。ラングやマーロに向ける表情に警戒心は見当たらず、その瞳の奥に潜んでいた苦い過去の記憶は日々の平穏に溶けて薄れていたかに見えた。

 だが、少年がいつも銃の手入れをしていることもラングは知っていた。村の噂を聞くたびに誤魔化すように笑うのが痛々しくてならなかった。もしかして本当は、何か言いたいことがあるのではないか。本当はこの町にいるのが苦痛なのではないか。そんな思いがよぎることもしばしばで、それでつい、あんなことを言ってしまったのである。


「悪かった。俺が迂闊だった」


いっぱいの後悔を滲ませたラングの声に、キッドは俯いたままで首を振った。


「……ごめん。むしろ、おれの方こそ」


言ってから、戸惑っている様子で両手で前髪をかき上げた。


「変だな。絶対こんな話するつもりなかったのに。……でも、ありがとう。言ったら、ちょっとだけスッキリした……ような、気がする」


意外なキッドの態度であった。


(やっぱり、ずっと我慢していたのか)


そういえば、初めて話をしたときもラングは迂闊なことを言ったが、そのときキッドはここまで激しはしなかった。

 あの頃のキッドは、まだ騒動の体の傷すら癒えていなかった。敵であったハンとその一味はもちろんのこと、ロブを縛り首にした裁判も、そうさせた世間も、何もかもが信じられない時期であったろう。もちろん、「世間」には見知らぬトマト頭と黒髪のハンサムも入っていたはずである。

 信頼して本音を話せるような人間は、この世の中にはいないと思っていたのである。ラングは、この時はじめてそのことに気が付いた。そして同時に、自分がいつの間にか頼られる存在になっていたのかと思うと、気恥ずかしいやら、嬉しいやら……嬉しさが、勝った。

 キッド本人は、どうやらそれを自覚していない。必死に閉ざしていたつもりの厳重な戸が、赤毛の陽気な音楽家の手で、いつの間にか開かれていたとは思っていなかったのであろう。何度も長い睫毛が上下して、もじもじと唇を噛んだり、舐めたり、落ち着きがない。

 それでも、そうしてばかりもいられないので、キッドはまだ少し動揺した顔で深呼吸をして、一度目をきゅっと閉じてから、口を開いた。


「変な意味じゃなくてさ、本当に、あの村なくならないかな」


声音に穏やかさが戻ったことに安堵しながら、ラングはようやくキッドの肩から手を離した。


「なくなるって?」

「線路ができて、駅もできるんだろ?そうしたら人がいっぱい来て賑やかになって、今のままの、あんなちっぽけな村じゃいられなくなる」

「そうだな。きっと隣のこの町まで影響はあるよな。ここは港があるし、たぶん、船に乗る客を乗せて利益を出すつもりもあるだろうから」


ラングも人の往来が増えることを想像して、隣村からこの町まで、どのように開発されるかを想像してみた。まだこの町まで鉄道が入るという話は聞かないから、まずは道路が整備されるであろう。馬車が通れるように道幅は広く、きちんと石畳が敷かれた道路を期待したいところである。

 キッドがまた本のページをめくった。旅行本である。駅舎のページももちろんあった。ホームはいっぱいの人がいて、駅の周りに商店も多く立ち並んでいる様子が紹介されている。宿も必要であろうし、あの村もどんどん建物は建て替えられて、いずれまったく知らない場所になってしまうのに違いない。


「ぜんぶ忘れるぐらいになればいい。"昔ここで派手なケンカがあったらしいぜ"、"そのときのヤクザ者が今も夜中に化けて出るってよ"、なんて、不謹慎な噂話だけ流れてさ。それで、その内に、ロブどころか、ロータスも、ハンも、みんな忘れられちまうぐらい、大きな駅にならないかな」

「それは……それで、いいのか?」


ラングの心配顔に、キッドは本に視線を落としたままで頷いた。


「今のまま、燃えカスと一緒にくすぶっているより、ずっといい」


一抹の寂寥を隠してキッドは微笑んでいる。それはただ怒りや悲しみを諦めている笑顔ではない。次に進もうと、未来を探している顔であった。


「それに、そうやって忘れられるぐらいになったら、墓を建てても目立たないだろ?」

「墓?」


誰の、と、危うくラングは聞き返しそうになった。

 確認するまでもない、ロブと仲間たちの墓に決まっている。今は彼らは悪人にされてしまっているから堂々と弔うのは難しいが、鉄道によって開発が進み、それに目が眩んで、それから時が流れれば、きっと皆あんなならず者どものことは忘れてしまう。

 世間なんてそんなものだ。キッドの先程の恨み言は彼が真実、思っていることに違いないが、そのやり場のない感情に、キッド自身が決着をつけるためにも、墓を建てて仲間を弔い、別れを告げるのは悪くないようにラングも思った。


「そうか。それができたら、お前、どうする?ずっとこの町にいるつもりじゃないんだろ?」


もちろん、このまま町に残って暮らすことだってきっとできる。今はかわいらしい恋人だっていることだし、鉄道が隣村で止まるとも思えないから、その変化に紛れて、この町にキッドが生きる場所は、これからいくらでも作りようがあるであろう。

 だが、きっと彼はそうはしない。ラングは、確信を持ってそう思った。

 キッドはラングがどこかへ行ってしまうだろうと言ったが、同じ気持ちがラングにもあった。少年時代の終わりには、どこかへ旅に出るものなのだ。これはラングの持論であり、理想であったが、キッドは特に、これまでの人生からついに羽化して飛び立っていく、そういう瑞々しい可能性を備えているとラングはずっと思っていた。

 その時が、いよいよ、すぐそこまで来ているのだと、恐らく、キッド自身もどこかで感じているのかもしれない。それがラングとの別れを予感させたのであろう。

 その旅立ちを見守ってやれたらいい、というのが、キッドと出会ってから抱いている、ラングのもうひとつ秘かで小さな夢であった。キッドが少しの不安と大いなる希望を抱いて出ていく背中をマーロと一緒に見送ってから、今度は自分がトランクひとつにギターを背負って去っていく。そのときはきっとマーロとカレンの間に、愛らしい子どもが一緒にいて、手を振って送ってくれるであろう。その光景を、ラングは何度想像したかしれなかった。

 そんなこととは知らず、キッドはまたしきりに本のページを行ったり来たりしている。彼がまだ見たことない世界が、その中には広がっていた。


「おれ、船に乗ってみようかな」


とある国の、大きな港から船が出ていく写真が載っているページを見ながらキッドが言った。


「ここの港から出る船でも、遠くへ行けるよね。それに乗って、知らない町に行ってみたい」

「当てのない旅か?それもいいかもな」


気持ちを整理するにはそれもいい。自分探しなどと気取るつもりはなかったが、ラングは実際、各地を旅しながらずいぶんいろんな経験をしたものである。それも大抵はマーロと一緒であったが、マーロが各地の料理を学んでいる間、ラングはずっと音楽を聴いていた。


「当てか……」


何気ないラングの一言を拾って、キッドが呟いた。本を閉じる。


「妹が、いるはずなんだ」


唐突に言った。


「妹?……お前、親が誰かわかってるのか」


キッドが肯いて、ラングがほぉっと息を吐いた。ラングはキッドのことを、ロブ一味なんてならず者集団に拾われたぐらいで、自分の名前もわからないような子どもだから、てっきり親など見たこともないものと思い込んでいた。

 だが、よく考えてみれば、キッド自身がそんなことを言ったことはない。ラングたちも子どもにそんなことを訊くのは酷だと思って、敢えて質問したりはしなかったのである。

 それを、キッドが自分から話そうとしている。あぁ、やはり、この子は変わったのだ、と、ラングは驚きの中でしんみりと思った。


「おれ、父親に捨てられたんだ。だから父親にもらった名前は捨てた。母親とも小さい頃に別れたけれど、ときどき会えた。それで聞いたんだ、妹が産まれたって。それが決定打になって、ついに母親とも離されちゃったんだけれど」

「そうだったのか……。それで、妹を探しに?」

「探すってほど大袈裟なことじゃない。どこに住んでるのかも、それどころか生きてるかもわかんないしさ。……でも、いつか顔だけいいから、見れたらなって、思ってた」


それが、キッドの夢だろうか。ほんのわずかな間でも母親に愛されていた記憶があるのなら、救いかもしれない。しかし、顔も知らぬ妹に母をとられたとは思わなかったのだろうか。何か、それも仕方がないと幼い子どもを納得させるだけの理由があったのだろうか。それは、ラングには知る由もないことである。


「どんな顔だと思う、妹ってのは」


無意味なことだと思ったが、ラングは尋ねた。キッドも「おかしなことを訊く」と笑いながら、それでも、少し気恥ずかしそうに答えを返した。きっと日頃から想像していたのであろう。キッドの返事は滑らかであった。


「彼女は、青い目をしているんだ。おれの目ってヘーゼルだけど青っぽい緑のところがあるだろ。それからね、亜麻色の髪をしてる。これは母親がそうだったから。すごくきれいな髪なんだ、上等の絹みたいにさ。おれの妹だから、きっと背は高くない。あぁ、でも、どうだろう。母は背の高い美人だったような記憶があって……」

「よし、ちょっと待て。俺が先に、お前のおふくろさんのことを当ててやろう。青い目に、亜麻色の髪なんだな?ん?目の色は想像?そうか。それで背が高い、と」


ラングがキッドの顔をじっと覗き込んだ。


「きっと、澄んだ目をしてるな。でも、どこかちょっと旅愁を誘うような目さ。笑うときも考えてるときも、不意に首を傾げて相手を見つめる。唇を噛むように笑うだろう?あと、困ったときは目をパチパチパチっと、こう、瞬かせるんだ。それから頬っぺたというか口元を、こんな風に、ちょっと膨らます癖もあるな。何か口の中に飼ってるのかな?って感じに唇を結んでお道化た顔をする」

「……おれ、そんなことしてる?」

「なんだ、お前の話だってバレた?」


クツクツとラングが笑って、それからまじまじとキッドの顔をまた見つめ直した。


「お前はそうやって、案外、素直に顔に出る。きっと妹ってのもそうだろう。お前よりまだ子どもだから、たぶん、もっとわかりやすい」


言いながら、ラングはキッドの手元に右手を伸ばした。シャツの袖口を引っ張って、長さを確かめる。店主のテッドのすすめで、買った時は袖が数センチ余っていたシャツである。今では少し小さいぐらいであった。


「お前、大人になったな」

「急に、どうしたの」


キッドが戸惑いながら、はにかむように首を竦めて苦笑した。


「別に。そう思っただけさ」


恐らく、これは予感であった。キッドは首を傾げて、それでも子どもみたようなことを言う。


「でも、おかしいなぁ。そろそろラングの背は抜かしているはずだったのに」

「あのなあ。マーロのせいでわかりづらくなってるけど、俺だって平均より背は高いんだぜ?そう簡単に抜かされてたまるかよ」


ラングの渋面に、キッドが無邪気な顔でころころと笑った。それから「ああ、そうだ」と思い出したように目を開く。


「さっきのさ、妹の話、あれマーロには内緒にして。おれが本当は実の親のこと覚えてるなんて、マーロには悲しすぎて発狂しちゃうから。マーロはこれからカレンと新しい家族を作るのに、捨て子が妹をたずねる物語なんて、生まれる前から彼の子どもに過度なプレッシャーをかけちゃうよ」

「ああ、そうかも……。あいつ、自分のことじゃないのに、余計な責任感じそうだよな。"俺は絶対そんな親にはならん!"って肩肘張ってさ」


言っているうちに、二人はおかしくなってきた。あの堅物のハンサムが、どんな家庭を築くのかが、二人にも楽しみでならないのであった。気の強い女房の尻に敷かれるのはまず間違いないとして、自分たちにとって甥っ子か姪っ子になるという彼の子どもが産まれたら、彼はきっと溺愛するであろう。


「マーロって、絶対親バカだろ?」

「決まってる!子供が産まれたら、他の事ぜんっぶ切り捨てて生きるタイプだよ」

「うわー!どうしよう、おれたち捨てられちゃう!あれだ、よくある"究極の選択"。"崖っぷちに、家族と友人が同時に助けを求めてます。どちらを先に助けますか?"」

「絶対あいつ"まず子ども"だぜ。今ならカレンだな。選べないのが正しい選択とか言うけど、選ばなくっちゃならないときって、人生に絶対あるもんな」


二人は同じ想像をしてみた。カレンと、自分と、未来にいるであろうマーロの子どもが、今にも落ちそうになりながら崖にしがみついている。「助けて、マーロ!」。マーロは迷う。彼は苦渋の決断をし、子どもをまず引き上げる。それから、その子のために母親であるカレンに手を伸ばすだろう。「お前たちは男なんだから、自分でなんとかしろ!」そんなことを言うかもしれない。


「それが、あいつの美点だと俺は思ってるんだ」


脳内でマーロにひとしきり文句を言った後で、ラングが晴れ晴れとした顔つきで言った。キッドも頷いた。


「世界中の親っていう人間が、みんなマーロみたいだったらいいのに」

「そしたら家族が離れ離れになることはないかもな。いや、子どもの方から、ダディの愛で溺れそうになるって逃げたりして」


女の子だったら大変だ、と、かなり先までマーロの未来を想像して、二人はまた同時に噴き出した。


「さぁて、それじゃ、ま、その幸福な未来に向けて、俺はウェディングソングでも考えますかね。サプライズで歌ってやろう。泣くぞ、また、あいつ」


ラングがギターを弾く真似をした。


「結婚式、いつになるだろ。お互い何処か行くにしたって、その後だよね」

「それどころかお前、子どもが産まれるまでは引き留められちゃうぜ。カレン言ってたろ、俺たちがおじさんなんだって。……あ。二人に聞かれないところで作曲しないとサプライズプレゼントにならないな」

「森で考えたら?あそこは、ほら、これからの季節、海みたいに人いないしさ」


キッドの提案にラングが指を鳴らした。


「そりゃあ、いい。よし、意外とマーロはせっかちだからな。いきなり明日結婚式だ!なんて言われてもいいように急いで取り掛かろう。もう今夜は寝るぞ」

「おっと、長居してごめん。おやすみ、ラング」


キッドが立ち上がる。座ったまま見上げれば、やはり出会ったときよりは高くなったその背を、ラングは一度呼び止めた。


「待て。この本、持ってけよ」


ラングの手には、先ほど見ていた旅行本があった。キッドは躊躇した。


「だって、それ、きみの夢のカリヨンが載ってるやつだろ?」

「だからだよ。お前が妹を探せても探せなくても、いつか俺に会いに来るときに何処かわかんなくなっちまうだろ?」


キッドがふたつ、また瞬きをした。驚いたときや、何か嬉しいことがあったときにも見せる癖だとラングは知っている。ふっとため息のようにキッドが笑って、また下唇を噛むように閉じた口を、左手を伸ばしながら開いた。


「きみが、そこで成功してるかもわからないのに?」

「ひどいな。どんなに貧乏でもレモネードぐらい奢ってやるさ」


言いながら、ラングの脳裏に、あることが閃いた。キッドを送り出してから、慌てて枕元にあった譜面を取り出して、空欄になっていた曲名欄にペンを走らせる。


「"レモネード"だ。あいつは、確かに」


甘酸っぱい昔日の青春の飲み物。いずれキッドもその味に、過ぎた夏を思い出すようになるであろう。その思い出の中から、自分と、マーロとカレンが、きっと笑いかけているといい。そう祈りを込めて、ラングは譜面を見直した。


(カレンといえば、さっきのあの男……)


ひとりになった部屋の静けさに、カレンを迎えに来ていた男の顔が再び思い浮かんできた。別にちょっと人相の悪い男ぐらい珍しくもないはずなのだが、変に頭に引っかかる。


(馬鹿だな、俺も。夜中に酔っぱらったまんま見たんで、変な妄想が混じってるんだ)


忘れよう、そう自分に言い聞かせて、ラングは部屋の灯りを消した。頭まで布団をひっかぶって、間もなく眠りに落ちる。

 その夜見た夢は、朝になってすっかり忘れた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る