第4話

 少し袖の余っているシャツと、大人っぽい帽子。素晴らしいプレゼントを買ってもらって店舗兼住居に戻ってから、キッドはカレンの作ったレモネードを飲んだ。曰く、


「レモネードはひと夏の思い出の味よ。甘酸っぱさは少年時代の幻。過ぎ去った青春。あなたにはピッタリ。父さんが輸入したレモンだから安心安全新鮮よ」


とのことである。実際まだ青春のきざはしに足をかけたばかりのキッドには理解しがたい文句であった。肝心のレモネードの味はといえば、それはとにかく美味かったので、年上の女が何を言っていたのかキッドは忘れた。

 その代わりに、キッドはそのときから、これまでの人生になかった思い出をたくさん作りだした。

 まず、ラングとマーロとカレンという、三人の年長の友人である。それから隣の酒屋をやっているマイケルとロズの夫婦。床屋のレオン。彼の一人娘のサラは同世代の可憐な少女であった。衣料品店のテッドと女房。靴屋のジョルジュと新聞屋のジェット、それに郵便配達のベンはマーロの店の常連で、それから、町の人々と親身に付き合っている珍しい役人のブルース。多くの住人が、彼を歓迎してくれた。

 行く当てがあるわけでもないキッドを引き留めたのはロズであった。ラングとマーロも大賛成で、キッドもふたりのことは気に入っていたから、そのまま二階に住みついた。荒くれ者どもと狭苦しく暑苦しい暮らしをしていたキッドは、小さな部屋でも扱いに困ってしまって、慣れるまでちょっと時間がかかった。荷物と言ったらわずかの金と、最低限の衣類、あとは銃ぐらいのもので、買ってもらった帽子しか余計な物がないというキッドの身軽さである。あんまり殺風景な自分の部屋に、どうしたらいいのかわからなくて、ただぼんやり、じっとベッドに座っていたこともあった。

 ただ天井のしみを数えているわけにもいかないので、キッドは家主のマーロに頼んで、様々な雑用をするようになった。店の掃除、買い出し、日によっては近所の誰かに呼ばれて何かしらの駄賃を貰って帰ってくることもあった。手先が器用な少年で、ときどきマーロの横に立って料理を習うようにもなったし、ラングと歌をうたって踊ればこれも大好評であった。

 客に頼まれれば、キッドは例の早撃ちも披露した。轟音とともに撃ち出される銃弾は、ほとんど神業の域で的に命中し、また銃を握ったときのキッドの佇まいが別人のように凛々しく、優雅ですらあったので、客は非常に喜んだ。ところがこれは、そのたびに的になる何かと銃弾が無駄になるとマーロが嫌がって、すぐにナイフ投げに替わったが、これもそんじょそこらの大道芸人顔負けの技術であったので、やはりずいぶん人気があった。

 キッドの身長は結局あまり伸びなかったが、表情に余裕が出てきたんじゃない、と、カレンが言ったのは、一年ほど過ごしてからであったと思う。彼らと過ごす内に、悲しい思い出から閉ざしていたキッドの心が少しずつ和らいでいったのは事実で、元々無邪気ではあったキッドの笑顔に近頃親しみが加わり、ラングとマーロは眩しそうに目を細めて喜んだ。夜、悪い夢にうなされているような声も、だんだんと聞かなくなった。

 そうして町の人々に見守られながら、キッドは結局、この町で二年間を過ごした。


二年の間に作った思い出の中でも、キッドには、特に印象に残っていることが五つあった。


 ひとつは、夏、川に泳ぎに行ったことである。とにかく暑い日で、何もする気が起きないとラングが騒いだ。太陽の熱で溶けそうでとても体を支えていられない、かと言って、ただ寝ているのも息苦しくて耐えられない。暑苦しいから人混みも嫌だとわがままであった。


「キッド、お前なんとかしろ。元気が子どもの仕事だろ」

「そんな無茶があるもんか。おれだって死にそうなのに」


ふたりしてほとんど裸でひっくり返っていたのを見かねたマーロが「本日休業」の看板を出して、ふたりの尻を蹴り飛ばすようにして外へ叩きだした。

 少し歩くが、街外れの森に清流が流れている。川の流れが速く子どもに危険なこともあり、ほとんどの町民は海の方へ行ってしまうので、この季節、森は意外と穴場なのであった。


「お前、泳げる?」


冷たい水に元気を取り戻したラングに、キッドがニヤリと笑みを煌かせた。


「競争する?」


まさに水を得た魚である。二人は先程までの怠惰な態度をすっかり忘れて、岩の上から跳び込んだり、小さな滝を滑ってみたり、どちらがより長く潜れるか勝負したり、子どものような遊びぶりだった。


「ラングも、あれで体動かすのは好きなのよね」


木陰で休憩していたマーロのとなりに腰を下ろしながらカレンが微笑んだ。


「しかし、あんなにはしゃいでいると夜は二人とも役に立たないだろうな」

「文句言ってる割には、ずいぶん嬉しそうな顔」


保護者の顔をしているマーロをカレンがからかった。マーロが慌てて顰め面をしてみせたのがまたおかしくて、カレンは声を上げて笑った。その笑顔をマーロが眩しそうに見ている。カレンが気が付いて、またマーロに小さないたずらをした。


「見とれてるの?あたしも水着を持ってくればよかった」

「ちがう。空を見てたんだ。いい天気だと思って」

「なによ。あたしより空が好きなの?それじゃ空と結婚すればいいじゃない」


カレンがわざとらしく頬を膨らませてそっぽを向いた。マーロが慌ててカレンの手を握る。


「そんなことあるわけないだろう」

「それじゃ、父さんに会ってくれるわね」


すかさずカレンが言った。マーロが何度も肯き返す。


「もちろんだ。本当に会ってくれるなら、だが……」

「今度こそ本気よ。あなたに紹介したい人がいるとも言っていたわ」

「仕事のことかな」

「そうかもしれないわ。最近父さん、前より忙しそうだから。でも、仕事相手を紹介するなんて、余程の信頼がなくっちゃしない人よ。キッドのことも気にしている風だったし、きっとあなたに興味が出てきたのに違いないわ」

「そうだね。そうだと、いいんだが……」


少し離れたところで、キッドが息継ぎのために顔を出した。透明度の高い水がきらめく向こうにマーロとカレンが談笑しているのが見える。会話の内容は何も聞こえなかったが、二人の表情からきっと良い話だろうと思った。


「隙あり!」

「うわっ!?」


背後からラングが飛びついてきて、キッドを羽交い絞めにした。水の浮力もあって軽々と投げ飛ばされたキッドは、すぐに仕返しに飛びついて、反対にラングの頭を水に沈めてやった。その後もラングとやり合いながら、さっきの二人はきれいだったな、と、帰り道でもそんなことを考えていた。

 その晩は川で捕った魚をマーロがムニエルにしてくれた。パリパリとした皮や尻尾、骨まできれいに平らげて、マーロが喜んだことも覚えている。この年の夏は作物もよく取れて、食卓はいつもカラフルであった。


 ふたつめ。同じ森に、冬になってスケートに行った。川を少しのぼっていくと小さな湖があって、これがきれいに凍ると天然のスケートリンクになる。何人かの子どもらとその保護者達も来ていて、キッドとラングを見ると喜んだ。ラングは屈託のない性格が子どもらに人気であった。

 スケートに行こうとは前日の夜に急にラングが言い出したことである。マーロは店があるからと断ったが、どうもそのときの表情が不自然だったのでキッドには不思議であった。後で知ったのだが、マーロは昔スケートで派手に転んで以来、あまりこのスポーツを好んでいないのだそうだ。あのハンサムにも弱点があるのかとキッドは驚いた。

 キッドはスケートで滑るのはこのときが初めてであった。最初は上手く滑れないキッドにラングが得意気に指導していたのだが、体を動かすことが得意なキッドはあっという間に上達して、帰る頃には近所の子どもらの手を引いて滑れるまでになってしまった。


「お前さ、できない運動ないの?」


自分も子どもらの相手をしながら、ラングがちょっと残念そうに言った。

 キッドは体は小さいくせに、なんでもやってみる挑戦心と、やればなんでもできてしまう器用さがあった。ラングだって平均以上の身体能力を誇っているつもりだったのだが、キッドは軽くそれを凌駕していた。だがそのことを褒めると、相手が誰であっても少年は決まって首をちょっとだけ傾けて、


「でも、まだ力は二人にかなわないよ」


と、真剣な顔で言うのであった。正直それも危うくなってきたようにラングは思うのだが、そこは年長者の意地もあって自分からは言わないでおいている。

 口では言わなかったが、何かひとつぐらいは勝ちたいものだという、ちょっとしたいたずら心で、帰り道、ラングが雪玉を作ってキッドにぶつけた。もちろんすぐにキッドも投げ返す。二、三度それをやる間に二人ともまた楽しくなってきて、当然の流れで雪合戦が始まり、そのまま取っ組み合いになって二人して雪の上に転げた。

 見上げると冬の陽光に空気がキラキラと輝いて美しかった。となりを見るとお互い雪まみれで真っ白になっている。大笑いしながら帰った。

 無論、帰る頃には二人の体はすっかり冷え切ってしまっていた。いい年をして幼児のような馬鹿をやらかした二人を出迎えたマーロは、一瞬唖然としたが、すぐに薪ストーブの火を強くして、そのそばへ二人を引っ張っていった。ちょうどとなりのロズが来ていたが、これも二人の幼稚さに驚き呆れながら二人の服をひっ剥がして、ほとんと素っ裸の冷たい体を毛布でグルグルくるんでやった。

 マーロがあたたかいココアを淹れてくれた。キッドは嬉しくて冗談を言った。


「火と毛布とココアっていうのは、人類の歴史の中でも特筆すべき発明だと思うんだ」

「馬鹿言うな。風邪ひくなよ」


氷がとけるみたいに指先の感覚が戻ってくる。ココアを飲み終わる頃にはすっかりあったまって、気が付くととなりでラングが鼾をかいて眠っていた。キッドも間もなくウトウトしてきて、やわらかな毛布と安らぎに包まれながら少しばかり眠った。

 ならず者どもに囲まれて暮らしていた頃からは信じられないような、のんびりした時間であった。あの頃は、いつも誰かが喧嘩をしたりしていて、こんな風に無防備に寝るなんてことは滅多にできなかったのに。

 眠りながらうっすらと微笑んでいるキッドの額にかかる前髪を、マーロはそっとはらってやった。


「なついたねぇ」


ロズがしみじみと言うと、マーロは苦笑しながら落ちかかったラングの毛布も引き上げてやる。


「大型犬を二匹飼っているみたいな感じがする。雪が降ると庭を走り回るし、暑いと水に飛び込んでびしょ濡れになるし、二匹でいっつもじゃれ合ってるんだ。ふつうは先輩犬の方がいろいろと教えてくれるっていうけど、うちのは一緒に遊んでばっかりだから厄介だよ」

「仔犬の方は野良だったんだから、たっぷり愛情を注いでやんなさいよ」


ロズが二人分の洗濯物を引き受けてくれたことを、ラングとキッドは知らずに昼寝を満喫した。

 時々パチリと薪の弾ける音が夢心地の耳に届いたが、キッドは火事の夢を見なかった。代わりにふかふかの毛をした牧羊犬に凭れて銃の手入れをしている夢を見ていた。目が覚めてから、どうせならココアを飲む夢がよかったな、と、欠伸をしながら考えたのも思い出の一部である。


 この町の暮らしは、概ね平和で、幸福であった。隣村では騒動の種となった牧場地を鉄道会社が買い取ったらしいという噂が流れてきた。近々この町の近くにも新しい線路が通るだろう、とか、駅はどこになる、とか、そんな話がキッドの耳にも入ってきた。仲間たちが死んでいった場所が早くもすっかり更地にされたと聞いた時には、キッドは味わったことのない静寂な淋しさに襲われたが、それでも町は平和だったのである。


 その頃、かつての仲間のことを考えていたキッドの哀惜の念を洗い流すように初恋が訪れた。それが、みっつめの思い出である。

 相手は床屋の娘のサラであった。はちみつ色の髪と柔らかなブラウンの瞳を持った控え目な少女で、小さな口で小鳥のように高く軽やかな声で笑う。その声で、キッドの唇を噛むように笑顔を作るくせを「かわいい」と言った。男の自分にかわいいはひどい、と思う一方で、彼女がそうやって微笑むだけでキッドの世界は彩りを増すようであった。

 彼女の父親のレオンは一人娘を溺愛していた。ひとりで外に出すのも渋るような具合だったので、キッドはサラに会うのに苦労した。それでも父親が留守にしているときや、キッドが配達に行ったときなど、機会を見つけては短い時間語り合う。ある時、キッドは勇気を出して、想いを伝えた。


「サラ。あの、もし……もし良かったら、なんだけれど……」


歯切れの悪い自分を不思議そうに見つめる少女の顔の愛らしさにキッドは目が眩みそうだったが、なんとか伝えたいことは伝えきった。雪解けが進み、春の足音がもうそこまで近づてきていた日のことであった。緊張しきったキッドの告白に、森のどんな花よりも可憐に綻んだサラの笑顔が、キッドの体温を真夏みたいに引き上げる。


「大丈夫?お顔が真っ赤よ」

「大丈夫!なんでもないよ、ちょっと今日は……えーと、天気がすごくいいから!」


確かに天気は良かったが、暑いような日ではない。サラがまた小鳥の声を転がした。


「おかしな人」


クスクスと笑う声が、まだ耳に残っているような気がする。この後の人生でキッドもたくさんの美人に出会ったが、こんなに澄んだ笑い方をするのは後にも先にも、この少女だけであった。

 若い二人の初恋は、やはり若くてひそやかであった。箱入り娘のサラが奥手だったのものあって燃えるような恋とはいかなかったが、誠実で真摯であたたかであった。彼女の笑顔を思い出すだけで心が躍り、彼女の声が聞こえただけで体温が急上昇する。そういう幸福を、キッドは初めて味わっていた。

 野山の花のような素朴さと可憐さを備えた少女の趣味はレース編みで、キッドのような活発さはない。父親の目を盗んでそっと森へ出かけても、サラは草むらに腰かけて花を摘んだり、愛らしい歌を口ずさむばかりであったが、キッドは少しも退屈しなかった。木に登ってサラの歌に耳を傾けたり、となりで寝転んで語らったり、サラがねだれば様々なアクロバットを見せてやったりもした。


「すごい!すごいわ、キッド!今度は連続宙返りをしてみせて」


自分が運動をしないせいか、サラはいつも手を叩いて喜んだ。


「そればっかりじゃ面白くない」

「それじゃ、踊りを見せて」


小さな恋人の頼みに、キッドは恭しく礼をして、たったひとりのためのショーをいつでも開催した。


「一緒に踊ろうよ」


手を差し出すと、サラはいつも恥ずかしそうにそっと指先だけ乗せる。それをキッドが力を込めて引き寄せて、二人でくるくる回るだけの踊りを踊るまでが、キッドとサラの恋であった。


「なんだ、まだキスもしてないのか」


ラングがからかったこともある。


「やり方知らないのか?教えてやろうか?」


そのニヤついた顔面に、キッドは顔を真っ赤にしてクッションを思い切り投げつけてやった。マーロとカレンが肩を寄せ合って笑っている。大人はいいな、と、キッドもその時ばかりは思ったが、サラの新雪のような純潔ぶりを思い出すととても踏み込めなくて、やはり一緒にくるくる回るまでが、彼の初恋であった。


 よっつめの思い出は、キッドにとっても、ラングにとっても、カレンと、そしてマーロにとっても、特別なものだった。彼らにとって、これほどの夜はなかった。春が終わろうとしていたある日のことである。

 その日、キッドとラングは一日外に出ていた。秋頃から、カレンの父親の会社が仕事が増えたと言って二人にも手伝いを頼むことが増えていた。なんといっても親友のマーロの恋人の家のことだから、ラングもキッドも快く引き受け、まじめに働いた。そうして一日荷運びをして帰ると、まだそう遅くもないのに休業中の看板が店の入り口にかかっている。


「今日、休むなんて言ってた?」


キッドが首を傾げてラングを見上げた。灯りはむしろいつもより煌々と照らしているようだったし、中からカレンの笑い声も聞こえてくる。不審に思いながらキッドがドアに手をかけようとしたとき、建物の中から扉が開いた。


「おかえりなさい!はやく入って!」


満面の笑みのカレンが二人の手を引いて、強引に中へ導いた。テーブルの前ではマーロもにこにこ笑って立っている。


「どうしたんだ、これ?」


ラングも驚きに目を丸くして室内を見回した。キャンドルの数がいつもの倍はある。テーブルの上のごちそうは、いつも店で出しているよりずっと高級な食材が使われているし、見ればずっと大事にしまっていた高級酒まで出してきてあった。キッドとラングは戸惑いを隠せずに何度も顔を見合わせた。


「お祝いよ!お願いだから祝って!」


カレンが足音も軽やかにマーロのもとへ駆け戻って、恋人に抱き着いた。


「父さんが、あたしたちのこと許してくれたの!」


カレンが興奮に頬を染めて叫んだ。マーロがはにかんでいる。ラングとキッドは更なる驚きに目も口もあんぐり開けて、それをスローモーションで笑顔に変えた。


「マーロ!やったじゃないか!」


ラングが叫ぶと、マーロが実に嬉しそうに、そして少し恥ずかしそうに頷いた。ラングは喜びのあまりキッドの肩を何度も叩いて、それから幼馴染とその恋人の手を取って強く握りしめた。


「やった!やったな、本当に!おめでとう!心から祝福させてくれ!キッド、お前も来いよ!素晴らしい日だ!」

「大袈裟だな、ラング。まだ婚約を認められただけで実際に結婚したわけじゃないのに」

「照れるなよ。だって今日まで長かったじゃないか。なぁ、キッド?」


ラングの大声を窘めながらも喜びを隠せないでいるマーロを、キッドも肘でつついてからかった。

 元々他所から流れてきた悪ガキ風の二人をカレンの父親は少々警戒していた。娘がその内の一方と恋仲になったと噂を聞いた時はひどく怒ったものである。赤い軟派野郎も許さないし、黒髪のハンサムもどうせ外見だけだと言って愛娘を泣かせた。


「父さんだって、母さんが死んだことを後悔してたのよ。自分よりしっかりした男でないと嫁にはやれないって言っていたの。でもマーロはここで立派にお店をやっているし、それに最近ラングとキッドも父さんの手伝いをしてくれているでしょう。見直したみたい。だから二人にも感謝よ!」

「今夜は彼女との婚約が決まったことのお祝いと、二人への感謝を込めたパーティーだ。さ、席について。俺のできる限り最高の料理を作ったつもりだ」


彼らは大いに飲んで大いに食べ、そのごちそうも負けるぐらいに大いに笑った。人数はたった四人だったというのに、これまでの人生で体験したことがないような賑やかな夜になった。

 途中、程よく酔いがまわったマーロが珍しく赤い顔をして、


「俺は幸せ者だ」


と、繰り返し言った。


「幸せ者だ。本当に、俺は幸せ者だ」

「大丈夫?酔ったの?」


となりでカレンが顔を覗き込んだ。マーロは愛しの婚約者の手を握りながら、また同じことを繰り返した。それから、テーブルを指で叩いて語り出した。


「まず、この店だ。自分の店を持つのがずっと夢だった。俺はガキの頃ずいぶん悪さをして親父にも兄貴にも叱られたが、家に入れてもらえないときは、いつも近所の飯屋が匿ってくれてた。そこは乱暴者ばっかりいる店だったが、その中にまじって飯を食ってると楽しかったなぁ。それで、俺はいつかこんな店を作ろうってずっと思ってたんだ」


幼馴染のラングが、その光景を思い出してでもいるのだろう、クツクツと笑った。キッドは初めて聞く話に興味深げに頷いている。マーロは嬉しそうに話し続けた。


「ラングと故郷を飛び出てから、まさか夢が叶うとは。ラング、こんな俺と一緒に今までやってくれて感謝してる。心からの感謝だ。嘘じゃないぞ。これだけでも最高に幸せだったのに、俺には、家族が増えた!美しい彼女と、それからキッド、お前もだ」


すっかり惚気話だと油断していたキッドがパンを詰まらせて、慌ててラングが背中を叩いた。マーロがいつになく豪快に笑った。


「そういうところが、本当に弟みたいだ。キッド、お前が来てからすごく楽しいよ。長い間ラングと二人であちこち歩いたが、ここで店を出して本当に良かった。そうじゃなきゃ、カレンにもキッドにも会えてない。みんな最高の友人で、最高の家族だと思っている。夢だったんだ。いつか、こんな店を持って、こういう仲間と祝杯を挙げるんだ」


しみじみと噛みしめるようにマーロは言った。いくら酔っているにしても正直少々面映ゆい、大袈裟な言い方であった。

 キッドは思わず顔を伏せた。まさか自分を、最高の友人で、最高の家族とは。恥ずかしかった。同時に、素晴らしく嬉しかった。

 キッドには、かつて確かにロブや仲間たちがいた。親に捨てられた少年にはそこだけが居場所であった。酒とケンカと博打という刹那的な楽しみしか知らないやつらだったが、少年には仲間であったのだ。あの場所を家だと思ったことはないし、彼らを家族だなどと思ったこともないが、それでも、少年の暮らしはそこにあった。

 彼らが死んだとき、少年は喜びや楽しみが世界から消え失せたように思った。それどころか、怒りも悲しみも、もはや誰にもぶつけることすらできないことに気が付いて愕然とした。彼を置いて、皆、死んだ。少年はたったひとり、銃を握りしめたまま呆然と世界に取り残されていた。そうしてそのまま人生は過ぎていくのだと、心が乾いてしぼんでいくように思った。

 そんな自分が、友人で家族だなんて、そんなことがあっていいのだろうか。

 涙が出そうで、キッドはテーブルの下で拳を強く握りしめた。自分はまだ出会って間もない流れ者で、いくら優しいマーロでも、幼馴染のラングや恋人のカレンと同格なんて有り得ない。こんなに喜んでいいはずがない。そう思おうとしたキッドの頭を、となりで見ていたラングが、ワシャワシャと乱暴に撫でまわした。


「何するんだよ!?」

「ははは。よし、俺も」


驚いて甲高い声で抗議すると、いつもなら止めてくれるマーロまで面白がって手を伸ばしてきた。なんとか振り払おうともがくキッドの頭を、酔っ払い二人の手が代わる代わる玩具にして遊びだす。カレンがそれを見て大笑いした。


「あなたたち、ほんとに兄弟みたいよ」

「笑ってないで止めてよ、カレン!」


キッドの声にまたカレンが噴き出した。それでも一応立ち上がって止めてくれたが、キッドのゆるやかな癖のある金褐色の髪はボサボサに乱れ、それを見たラングがまた大笑い。大人の酒なんてろくなもんじゃない、キッドはひとつ学習した。


「でも夢、か。いいわね。あたしの夢も聞いて」


笑いすぎて滲んだ涙を長い指で拭いながらカレンが言った。


「月並みだけれど、あたしの夢はかわいい結婚式をやることなの。どこかのお店とか、船の上とか、こじんまりとした幸せがほしい。お互いの家族だけ呼んで、ね」


カレンはチラリととなりのマーロの顔を見上げてから、ラングとキッドの手を握った。


「念押しするけど、お互いの家族よ。だから二人は絶対来てくれるわね。マーロの大親友で、兄弟なんだから。あたしたちに子どもができたら、あなたたちがおじさんよ」

「おじさんは嫌だな」

「兄貴じゃだめ?」


ラングとキッドがそっくりの反応を返したので、マーロとカレンがまた笑った。

 ひとしきり騒いで心地よくなった頃、今度はラングが立ち上がった。


「新曲があるんだ。まだ仮だけど、余興に聴いてくれ」


カレンが真っ先に拍手をして、マーロとキッドも続いた。それに応えて、ラングがおどけた様子で一礼してからピアノの前に座る。

 こんなに背筋を伸ばしてピアノに向かうラングを、マーロは久しぶりに見た。昔はこういうこともあったのだが、近頃は酔っ払いどもとギターを抱えて歌うばかりであったから、キッドは初めて見る。

 ラングはひとつゆったりと息を吸い込んだ。筋張った指を鍵盤の上に構える。

 すぐにカレンが目をみはってマーロの手を握った。マーロも大きな手でカレンの手を握り返しながら、笑みを浮かべて、驚きに何度も首を横に小さく振った。キッドは吸い込まれるようにラングの姿を見つめた。

 その旋律は穏やかであったが、軽やかであった。夏の風が森を渡るような清涼さに、時折、月夜の湿度が漂った。瑞々しいピアノの音色が、聴くものの心に染み渡る。

 キッドは、本当にずっと、ラングを見ていた。ゆったりと丁寧に、それでいて華やかに鮮やかに音を奏でていたラングの指が、最後の一音を、まるで朝露の一滴のように波紋を広げて響かせた。案外に長いその指が、そっと鍵盤を離れ、もう一度ラングが深呼吸をするまで、ずっと、じっと、キッドはその姿を見つめ続けた。


「……という、曲でした」


弾き終わっても何も言わない三人に少々の落胆を隠しながら、ラングが椅子に座ったまま振り返る。そこでやっとマーロが両手を顔の前に持ちあげた。パン、パン、と二度ゆっくりと手を叩き、それに合わせるようにカレンもじわじわと手を持ち上げて、二人で力いっぱい手を打ち鳴らした。


「すごいじゃないか、ラング!」

「え?そう?そんなに?」

「なんて……美しい曲」


カレンがうっとりと呟いた。清々しい曲であった。光り輝くような明るさと、それでいて人の郷愁に訴えかけるような響きを持った旋律であった。マーロの目元にはうっすらと涙すら浮かんで見える。多少は酒のおかげもあろうが、それにしても心に響く名曲だったのは疑いない。


「お前がこんな曲を作れるなんて知らなかった。最近は客と飲みながら騒ぐような歌ばかりやっていたから……」

「ああ、それは……」


言いながら、ラングの視線がキッドに移った。


「キッドのおかげさ」


キッドが閉じた口元を膨らませた。実に素晴らしい曲だと思って聴き入っていたが、今のラングのことばは少しも理解できない。きょとり、と音が聞こえそうなほど不思議に目を開いて相手を見上げている。

 ラングは少し照れくさそうに目をそらしながらキッドのとなりの席に戻ってきた。その間もじっとキッドが見つめていると、それを遮るようにボトルに手を伸ばした。とっときのワインは数時間前に空けてしまったので、ラングは気に入りのウイスキーをグラスに注いだ。グラスを持った右手の人差し指を立ててキッドの顔を示しながら、


「お前と一緒に作った曲だ」


と、いくらか真面目な声で言う。当然、キッドは首を傾げた。


「どういうこと?」


率直に訊ねた。キッドはラングに創作のヒントなど与えた記憶はない。ただ毎日ひとつ屋根の下で暮らして、仕事は手伝ったが、空いている時間は一緒に馬鹿をやっていたばかりである。


「ラングと変な歌は歌ったりしたけど」

「変な、とはひどい。これでも俺は、世界に通用する至高の音楽家を目指してたんだぜ?」


マーロがグラスを置く音が聞こえた。ラングもそれに気が付いて、マーロに顔を向ける。


「念のために言っておくが、兄弟、お前の夢のために自分の夢を諦めたんじゃないからな」

「そうか。なら、よかった」

「当たり前だ。お前のために俺が俺の夢を諦めるもんか。負けず嫌いなんだぞ、俺は」


そう言う台詞は冗談じみていたが、やはり目元は真剣だった。キッドが聞き返した。


「音楽家?」

「ああ。自分の曲をたくさんの人に聴いてもらうんだ。この店で歌ってると、それができると思ってた。実際すごく楽しいしな。……でも、もっとちがう、もっと俺は別の音楽を作れると思ってた。でも、できなかった。本当にやりたいはずのことを、だんだん意識の隅の方に追いやるようになってたんだ。でっかい夢なんて似合わねぇしなぁって。そんな風に思ってたところに、キッド、お前が来て、俺は思い出したんだ。"ああ、俺の青春はここにあった"、そんな気持ちだった」


ラングが今度はいつも弾いているギターを抱えて、てきとうに鳴らした。同時にキッドの眉間に皺が生まれる。


「あはは。わかんないって顔だな、キッド」

「わかるわけないだろ」

「わからなくっていいんだ。こういうのはな、思ってる側がわかっていればいい」


言いながら、ラングは先程の曲をギターで奏で始めた。キッドは困ってマーロの顔を見た。マーロは微笑んで、


「わかる気がするよ」


と言った。ラングはまだギターを弾いている。


「その曲が、キッドを見ていてできたっていうのも、俺にはわかる気がする」

「ちょっと待って」


キッドがひとり困惑の声をあげる。


「さっきからおれを見てって……つまりその曲、おれがモデルってこと?」

「そうだな。問題あるか?」


からかうようにポロロン、とギターが鳴って、キッドは両の拳を目に当てて顔を隠した。


「涙が出るほど嬉しいか。そうかそうか」


ラングがにんまりして、キッドの目がにょきっと拳の間から覗いた。まだ顔の下半分は拳で隠しながら、キッドが叫ぶ。


「泣いてない!恥ずかしいだけ!」

「ははは。恥ずかしいか、それはそうだろうな」


マーロが上機嫌でグラスを傾けた。そしてまた、しみじみと同じことばを繰り返す。


「ああ、楽しい夜だ。本当に俺は、幸せ者だ」

「またそれか。訂正しよう、親愛なる兄弟。"俺たち"だ。俺たちは、幸せ者だ!」


ラングがギターを派手に鳴らして、カレンが唱和しながらグラスを高く掲げた。

 幸福であった。確かに、この晩、彼らは幸福であったのだ。世界で、今、この瞬間、自分たちほど幸福に愛されている者はないだろうと思うほど、誰の顔にも笑顔が浮かび、それぞれの夢はあざやぎ、語り合うことばは親愛の情に満ちていた。

 こうした日々が続けばいい、と、誰もが思っていた。

 だけれども、続かなかった。これが最後の、ひたすらに幸福な夜であった。

 キッドの思い出のいつつめは、彼らとの別れである。もしかしたら、この夜が彼の少年期の終わりだったのかもしれない。後になって、時々、彼らはそう思うことがあった。

 幸福だった宴が終わって、寝る前に、キッドはラングの部屋を訪ねた。

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