第9話

 港についたのは、まだ暗い内であった。だが間もなく空は白んでくるであろう。これほどじっくりとこの町の道を歩いたのは初めてだったかもしれない。キッドはそんなどうでもいいことを思った。

 波の音と海鳥の声を聞きながら、キッドは港の端まで歩いて行った。

 三番倉庫。この港では特に小さい倉庫である。港の外れにひっそりと立っていて、そこまで来る人は少ない。中で銃を撃っても港の喧騒に紛れて気付かれないかもしれないような、そんな場所であった。

 入り口の前で、キッドは一度立ち止まった。道々に人が伏せられている可能性も考え、警戒してきたが、道中ひとりも会うことはなかった。マーロの性格を考えれば、本当に彼ひとりでこの中に待っているのに違いない。

 キッドは堂々と、不遜なほどおもむろに、倉庫の扉に手をかけた。鈍く重い音を立てて、扉はキッドを招き入れた。

 倉庫の中は、まだ真っ暗であった。中央に真っ黒な人影を認めて、キッドは入り口の扉を開いたまま中へ踏み入った。

 影が動いた。


「……キッドか?」


マーロが肩越しに尋ねる声が倉庫内に反響した。


「お見通し、だろうね」


キッドの声も静かに響く。倉庫内は意外なほどにがらんとしていた。


「ラングはお人好しだからな。ブルースでも呼んできて、まだ俺を助けるつもりだろう」

「わかっているなら話が早い。お人好しの幼馴染のために、ひとつ協力してくれるだろ?」


マーロが靴音を響かせて振り返った。


「協力?」


わざとらしく悪役ぶった声である。この男には似合わない。キッドは帽子の下の目を注意深く細めながら、マーロを責めた。


「マーロだってわかってるはずだ。工事を止めるには、今の規模じゃ運動は小さすぎる。そのくせ犠牲は多大だ。割に合わない。このままゲリラ戦を続けてもいいが、その内軍隊でも動員されれば一発で終わり。すべて泡と消える」

「理屈ではな。だが、そうしないと収まらない人間っていうのはいるんだよ。お前ならわかるだろう、キッド。理屈だけなら、そもそもの騒動だって起こっていなかった。ちがうか?」


キッドはちょっと黙った。確かにマーロの言うことは理解できないことではなかったのである。

 どうしても一度炎上してしまわなければ済まない連中。燻り続けて、周囲をじっくりと焦がし続けるような、そういうゴロツキどもが集まって、炎が上がり、争いは起こる。冷静に話し合おう、などとは、何度言っても聞く耳を持たず、誰かが死ぬまで止まらないような阿呆どもをキッドは見てきた。

 いや、キッドもそういう人間の一部であったろう。そういう連中に彼は何度銃を向けてきたかわからない。二年前、この町に来たときだって、ラングとマーロに見つけてもらったときだって、彼は馬鹿な決闘をしていたのである。そういう人間であったからサラだって離れていったのに違いない。間違いなく、自分は火を運ぶ者だと彼は思った。彼自身、燻る火種であったのである。

 だが、マーロはそういう愚かな人間ではないはずだ。キッドはもう一度だけ、マーロを説得しようとした。


「今からでも遅くない。手を引けよ、マーロ」


マーロは切り捨てた。


「遅い」


いつも穏やかであったマーロのテノールが、今は苛立ちを含んで厳しかった。


「今更だということは、わかっているはずだ、キッド。お前はここに何を言いに来た?一緒に帰ろう、か?いや、違うな。何か証拠を出せ、そうだろう。今、役人を連れてきたところで、俺たち・・・を止めるには、俺ひとり捕まえてもどうにもならん。アレックと使用人の死体は先に俺たちが見つけて処分したし、武器やなんかの取引についても、鉄道反対運動をしているやつらの名前も、何もわかるはずがないからな」


キッドはこれには答えなかった。マーロもその必要を感じていない。

 アレックがひとりでゲリラ活動をしていたわけでは、もちろん無い。全部で何人が反対運動に関わっているのか、正確な数はわからないが、少なくとも今、ひとりふたり捕まえたところで、残った誰かが工事現場に爆弾を仕掛けるであろう。一網打尽にできなければ、無益な争いは長引いて、あるいは先程キッドが言ったように軍隊まで出動するような大規模な問題に発展してしまう恐れもあった。

 お人好しのラングは、今頃、役所でブルースに訴えているだろうか。しかし、マーロも、カレンも、カレンの父親と社員たちも、表向きはまだ全員が善良な市民である。のみならず、カレンの父親はここ数年で事業の成長著しく、高額納税者の仮面も持っていた。ブルースは小役人である。証拠もなしに、ラングの言葉だけを信用して彼ら全員を捕えるなどできようはずはない。

 キッドがため息を隠して俯いた。やはりこうなった、そんな思いが、彼の成長しても小柄なままの体を支配する。

 マーロの高圧的な態度は、まだ続いた。元々マーロは店の経営者であり、ラングとキッドとは対等の友人でありながら家長としての責任感を持っていたから、兄というよりも父親的なところもあったのだが、今日の彼の態度は明らかに無理に肩肘張って威圧的に振舞おうとしている不自然さがあった。


「反対にお前らを訴えてやってもいいんだぞ。大事な社員を殺された、と」

「それは誰の台詞?」


マーロの台詞に被せるようなキッドのことばであった。マーロの声がはっきりと震えた。


「……なんだって?」

「言われたんだろ、誰かに。犯人が俺たちだって訴え出るって。おれたちがアレックたちを殺したから、邪魔になると思って。カレンとの婚約破棄と秤にかけられた?」

「ちがう!これは俺の意思で……」

「知ってるよ」


外は白々明けてきた。倉庫の中にも、明り取りの窓と開け放しの入り口から朝陽が入り、お互いの表情がうっすらと見え始める。

 見慣れたはずのキッドの顔を認めて、マーロの瞳が驚きに揺れた。彼が思っていたよりもはるかにまっすぐに、キッドがマーロの顔を見つめていたのである。


「知ってるって、何を……」

「マーロが自分の意思でそこに立っていることは、おれだってわかってる。本当は他人任せにして逃げることだってできたのに、そうしないのがマーロだって、おれたちは知ってるよ」


どういう心情なのか、それをキッドは微笑みながら言った。マーロは首を振って必死に否定しようとしていたが、キッドは青空に干された洗い立てのシーツのような清潔さで、マーロの力みを受け流す。


「ラングも大概だけれど、あんたも、お人好しだ。本当は誰かがおれたちを、役人に突き出さないなら殺すとか言っているんだろ」

「どうしてそういうことを言う。おれは会社の大事な跡取り娘の婚約者だから、おれが、俺自身の意思で、カレンと会社を守るために来たんだ」

「うん。そうだろうね。相手としても今日で婿にふさわしいかを見極めたいってところだろ。あんたが、おれたちを殺すのか、説得して追い出すのか、どっちにしろ、おれたちが今後計画の邪魔にならないように排除できるかをね。あんたは、そうしないとカレンが泣くから来たって、大丈夫、わかっているから」


キッドの落ち着き払った態度にマーロはどんどん追い込まれていく。

 ヘーゼルグリーンの瞳は、この期に及んで爽涼の風のように美しかった。あの夏の日の水面のように、あの冬の日の大気のように、澄んでいる。遠い昔の幻のような静寂さで、キッドはマーロを見つめていた。

 その視線にマーロは耐えられなくなって、ついに叫んだ。


「どうしてだ!」


長身を折り曲げて、頭を抱えた。夏の朝陽が押し隠そうとする男の真実を暴き出そうとするかのように射し込んで、葛藤が倉庫に響きわたった。


「俺はお前たちを裏切ったんだぞ!?」


キッドが帽子の下からマーロを見上げた。変わらず澄みきったままの笑みが、悲し気に、淋し気に揺らいだ。


「裏切ってないよ」


一匙の怒りも混じっていない声であった。

 外から汽笛の音がする。長く尾を引くそれが消えるまで、キッドは黙っていた。なぜ、この音はこうも全身に響くのだろう。マーロの肩が震えている。キッドはゆったりと瞬きをした。


「きみは誰のことも裏切ってない」


キッドが繰り返した。


「ラングと話してたんだ。マーロは愛に不器用すぎるって。他のことならなんでもできるのに、どうして、それだけあんなにダメなんだろうなって」


マーロが泣き笑いの顔で息を吸い込んだ。

 出会った日から、真面目で、堅物で、頼り甲斐があった男が、こんな顔をするのは意外だと、キッドは思った。同時に、こんな情けない顔をしていても、マーロはハンサムでかっこいいな、と、ぼんやり考えた。

 マーロはいつだって、かっこよかった。背が高くって、ハンサムで、器用で、ちょっと抜けていて……羨ましいと思うこともあった。こういう男になりたいと思ったこともある。愚直なまでの真っ直ぐさがマーロにはあって、実に男らしくて、かっこいい、自慢で憧れの友人であった。


「きみがカレンのことを心底愛しているのは、町中のみんなが知ってるよ。そんな彼女と子どものためなら、きっときみはなんでもできる。なんにでもなれる。でも、きみは優しくて不器用な男だろ。ラングが心配してた。マーロは大事な時に自分以外の何かを犠牲にできないって。そういう意味では今度のきみの行動はまったく予想通りだし、だから誰のことも裏切ってないんだ」

「何を……。俺は、お前たちを……」

「ちがうよ、マーロ」


不器用で頑ななマーロのことばをキッドはまた遮って、代わりに爽やかに笑って言った。


「分かれ道にやって来ただけさ」


昨夜の雷雨が嘘のように穏やかな朝であった。いくらこの倉庫が港の外れにあって、外の気配があまり感じられないにしたって、今朝はあまりに静か過ぎる。

 お互いの呼吸すらが、心臓の音すらが、聞こえそうであった。もう何も隠せないのだと、マーロは悟った。

 故郷を旅立つ前のことであった。マーロは水底に沈んだ家々を、後悔と哀切を胸に抱いてダムの上から見下ろしながら、二度と力の前に屈するまいと誓ったはずであった。いずれ大人になったとき、権力や暴力から自分の家を守れる男になろうと決意したのであった。

 やがて大人になったとき、隣の村で騒動が起こったと聞き、マーロは何もしなかった。己には無関係なことだと決めつけた。

 しかし、初夏の日が照りつける思い出のあの日、少年は彼の前に現れた。夜毎、少年の部屋から聞こえる魘されているような声を聞き、時々すすり泣くような気配を感じ、彼が大事に持ち歩く拳銃を見るたびに、小さな罪悪感がじくじくと、彼に故郷を思い出させた。

 キッドを受け入れたのは、その罪悪感からかもしれないと自分を責めたこともある。本当はただ友人になっただけであったのに、生真面目なマーロはそれに理由をつけたがり、過去の後悔に答えを求めたのであった。

 カレンとの婚約の条件には、夢だった店を手放す可能性が含まれていた。つまり、日々の時間を、彼女の父親の会社の手伝いに当てることである。マーロはひとり悩んだ末に決断した。彼女を自分と父親との間に板挟みにするのが心苦しくて、彼はひとりだけで考えて、ひとりだけで決めたのであった。マーロは更に追い詰められた。

 苦しかった。だが、将来のためだと、これにも彼は理由をつけた。店を持つ夢は一度叶った、数年間だが楽しくやった、と、己に言い訳をしていた。

 アレックを紹介されたとき、キッドの顔が浮かんだ。あの澄んだ瞳の少年は、この男を見れば何を言うか、と思った。鉄道工事を妨害すると聞かされたときには、そこに何の意味があるのかと悩んだ。しかし、彼が何を言おうと、何を思おうと、既に婚約者の父親と友人の仇敵とは止まらなかった。

 マーロはまたも理由を探した。なんとか今の自分の立ち位置を正当化しようとし、それによって愛する女とその腹の中の子を守ろうとした。そうして彼が自分自身を説得するのに使ったのは、やはり罪悪感であった。


「俺は弱かった」


マーロの告白にもキッドは落ち着いていた。安心してマーロは話し出す。恐らく、これが最後のチャンスなのだと彼は信じていた。


「罪悪感が逃げ道を探していたんだ。俺はまっすぐそこへ行ってしまった。かつて自分の父親がダム工事に反対して、強制移住に憤激していたのを思い出して、きっとあの村でも強引な鉄道工事など誰も望んでいない、これは正義の行いだと、弱虫の道理で自分を励ました」

「でも気付いていたんだろう?」


マーロが苦笑した。キッドの澄み切った瞳はどこまで見通しているのだろう。


「ああ。わかっていた。そんなことをしても、俺は、お前やラングにもっと罪悪感を感じるだけだった。苦しかったよ。だが……」


マーロが顔を上げた。キッドが微かに首を傾けて、微笑んでいる。マーロは深くうなずいた。


「彼女は、喜んでくれた」


それだけであった。結局、それだけが彼の救いであった。


「カレンは俺といる時間が増えたことを単純に喜んでくれた。やっと父親が自分たちの関係を認めてくれて、その後、俺が父親と上手くやっていることに心底安堵した様子だった。彼女は、自分の父がゲリラと取引しているなんて夢にも思わなかったはずだ。今だって、きっとまだ眠っているよ」


その寝顔を想像して、マーロは少しだけ口角を持ち上げた。その笑顔に、あの夜の幸福の気配を認め、キッドは優しい口調で語り掛けた。


「それでいいよ、マーロ。きみは誰よりも彼女のそばを選んだ。燃えカスみたいな連中は本当は爆弾だ。きみがそれと知ってそっち側にいるのは、恋人とその家族を爆風から守るためだ。世界で一番愛する人を失わないためだ。そうだろ?」

「そういう恥ずかしいことを言うなよ」

「言うさ」


キッドがいつもの悪童じみた笑顔を見せた。


「だって、それがマーロの一番かっこいいところだもの」

「なんだそれは……」


マーロが呟きながら、そっと目頭に手を当てた。

 次に顔を上げた時、マーロの顔は晴れやかであった。キッドの視界が微かに滲んだ。


「……マーロ、きみたちの結婚式はいつ?」


キッドは最後の世間話をしようとした。

 今日は天気がいい。昼はまた暑くなるだろう。そんなことを、マーロとまだ話していたかった。本当は内緒なんだけれどラングがウェディングソングを考えているんだよ。カレンはドレスを新調するのかって、町中のみんなが楽しみにしているんだよ。子どもは男の子と女の子どっちだろう。名前はもう考えた?そんな話を、マーロとしたかった。話したいことが、本当は、もうひと夏あっても足りないぐらいに山積みであった。

 マーロは静かにキッドの視線を受け止めて「結婚式か」と呟いた。


「ここに招待状がある」


マーロがハンサムな笑顔で胸ポケットから紙片を取り出した。それを指で挟み、キッドの気を惹くようにひらひらと振りながら、壁際の事務机の上に置いた。


「役人が躍起になって探しているヤクザ者の隠れ家、主だったやつの姓名、武器弾薬の隠し場所、ゲリラ活動をしてるヤクザ連中と会社のつながりを示す書類や裏取引の帳簿が入った金庫番号、その他、必要なことはぜんぶ書いておいた」


さすがにキッドが動揺した。薄い唇を震わせて何か言おうとするキッドを拒むように、マーロが机の引き出しから取り出した拳銃を構える。

 キッドの足が止まる。目を見開いてマーロを見た。


「銃を抜け、キッド。お前の銃で決着をつけてほしい」


考え続けたマーロが出した結論であった。

 彼らの関係はキッドの銃で始まった。終わらせるならば、やはりキッドの銃であるべきだとマーロは願った。キッドはラングよりも早く来てくれるはずだと信頼して、自分のすべてを懸けて男はここで待っていたのである。

 キッドと出会わなくとも、マーロがカレンを愛する以上、今度の騒ぎには巻き込まれていたに違いない。その場合、どんな結末を迎えたかはわからない。もしかしたら、こんな悲劇的な展開にはならなかったのかもしれない。だが、マーロは、自分の前にキッドを連れてきてくれたあの夏の日に感謝していた。


「俺の最後の頼みだ。お前の、あの美しい左撃ちと勝負したい。お前が勝てば、すべての証拠をラングと役人に届ければいい」

「……俺が負けたら?」

「そのときは、お前の死体は役人に見つからないように、丁寧に埋葬してやろう。俺たちは最後の大仕事をするつもりだ。今までの嫌がらせとは規模が違う」

「うまくいくと思ってるの」

「うまくやるさ」


マーロが銃の撃鉄を起こし、引鉄に指をかけた。


「これが、俺の道だ」


キッドはまだ微動だにしなかった。マーロの顔を、少年の頃のままのヘーゼルグリーンの瞳がじっと見つめている。

 マーロが引鉄をしぼった。キッドの左頬を掠めて、銃弾が飛んでいく。鮮やかな血がキッドの男としては華奢な顎を伝い、涙のように細く流れた。


「早くしろ!時間がないんだ!」


マーロが泣いているような声で叫んだ。

 キッドは少年時代の目を閉じた。あと少しで、ラングが役人を連れてくるであろう。今なら机の上にすべての証拠がある。マーロが生きていれば、彼の口から説明もできるはずだ。マーロの意思がどれだけ固かろうと、どこかで必ず情報は洩れる。マーロが黙っているならば、彼の恋人を捕らえればいいのだ。一瞬、そんなことも考えた。

 キッドが目を開いた。

 微かに足を開き、構えた。


「ありがとう、キッド」


マーロが白い歯をこぼした。キッドは笑えなかった。

 波の音が聞こえる。潮の香りをマーロは吸い込んだ。目の前の青年を見た。これが、あの坊やかと思った。あの澄み切ったヘーゼルグリーンの瞳を持った、あの無邪気な笑顔をした、あの少年なのか。

 撃てる気がしなかった。隙がどこにもない。キッドはまだ銃に手をかけてもいないが、マーロが少しでも動けばキッドの左手は神速で銃を引き抜き、マーロの指が引鉄にかかった頃には銃弾が過たずマーロの急所を撃ちぬくことであろう。


(それでいい)


走馬灯のように様々な思いが去来した。幼い頃の故郷の記憶。若い己の怒りと悔恨。各地を巡って食べた様々の料理。試行錯誤して辿り着いた味、ボロボロだった空き家をラングと改装してやっと開いた店。カレンの話す声。ラングの歌。キッドの無邪気な笑い声。四人で飲んだレモネード……。

 誰よりも幸福だと思った、あの夜を思い出す。あれが四人で語らった最後の夜であった。この幸福を守らなければならないと、あの晩、マーロは深く深く決意した。

 アレックを紹介されたときに、あの手を振り払っていたら今頃どうしていたであろう。キッドを連れてラングと他所に逃げていただろうか。カレンは一緒にいただろうか。それとも父の元に残っただろうか。いずれにしても彼女は泣いたであろう。

 罪悪感は、まだあった。だが、後悔は薄れた。心残りがあるとすれば、ラングが奏でるあの曲の完成を待てなかったことと、いずれ来るであろうキッドの旅立ちを見送ってやれないことであろうか。


(いや、今日がそうかもしれない)


今日、この場所で自分を撃つことが、青年の新しい一歩になるかもしれない。……なってほしかった。

 倉庫内に朝陽がいよいよ強く射しこみ始めた。マーロの心にもその光が降り注ぐようで、その眩しさに男は笑みを深くした。

 すべてが、終わろうとしている。

 マーロも、キッドも、その時を待った。二人の呼吸を合わせ、別れの銃弾を交わす瞬間。長い、長い、永遠のような一瞬を。

 そのとき、一際高らかに汽笛の音が響いた。

 直後、マーロの表情が動いた。驚愕と焦りに見開かれた黒い瞳がキッドから外れて、その背後、倉庫の入り口の方へと移動した。


「キッド!!」


マーロが叫びながら銃を持ち上げた。異常を察したキッドがマーロの視線を追い、半身を引いて振り返る。二丁の銃がほとんど同時に火を吹いた。

 信じがたい光景に、キッドの瞳が見開かれる間もなく固まった。

 振り返った視界の中に、女がひとり倒れている。明るい髪色の手足の長い女。急所を撃ち抜かれ、既に息絶えていた。


「……カレン…………?」


女の手元に、自分の射撃と撃たれた反動とで手放したらしい小銃が転がっていた。長い足に靴も履いていない。女がどれだけ焦っていたかを物語る素足は、ここに至るまでに真っ黒に汚れてしまっていた。

 いつのときか、彼女は知ってしまったのである。父と婚約者が何をしているのか。それから愛する二人が進む道を阻む者を、彼女自身が取り除こうと決意した。あの争いを憎んでいた女が銃を手に取った。そうして、父のためか、愛する婚約者のためか、産まれてくる子のためか、ここまで必死に急いできたのであろう女の裸足の足音は、汽笛にかき消されキッドたちには聞こえなかった。

 キッドには、カレンが自分の命を狙ったことがすぐに理解できたし、そんなことは少しも悲しくも、意外でもなかった。だが、その銃弾はどこへ?自分が振り返りさえしなければ、きっと自分に命中していたはずの弾は?

 呼吸が止まりそうになった。ヒュッと嫌な音が自分の喉から聞こえた。

 キッドは慌てて、また振り返った。


「マーロ!しっかりしろよ、マーロ!」


足がもつれて転びそうになりながら駆け寄る。マーロの横に膝をつき、倒れた体を抱え起こした。

 マーロの腹部から、血が止めどなく溢れている。キッドは必死でそこに手を当てたが、指の間から真っ赤な液体がどんどん流れ出て、マーロの背を支える指先にまで力がこもった。


「……カレンは?」


マーロがうっすらと目を開いた。キッドは「無事だ」と答えようとしたが、パクパクと唇が動くばかりで、声が喉の奥につかえて出てこない。代わりに大粒の涙が震える瞳からボロボロと零れた。左頬では血と涙が混ざって薄桃色に滲む。


「そうか。……俺の銃も大した腕だろう?」

「なんで……なんで撃った?彼女は……彼女のお腹にはきみの……」


死にかけのマーロの方がマシなほど切れ切れにしか喋れないキッドに、マーロが微笑した。


「どうしてだろうな」


キッドに向けて銃を構えたカレンの姿を認めた瞬間、マーロの体は彼女を撃とうと動いていた。理由はわからないが、迷いは一切なかったし、彼女が死んだとわかった今でも微塵の後悔もない。こうなることを望んでいたような気さえする。体に致命傷を負いながら、不思議なほど、マーロの心は穏やかであった。


「手が、汚れるぞ……」


マーロの大きな手が、血塗れのキッドの手を包み込んだ。

 マーロとは反対にキッドの心は千々に乱れている。ボロボロと涙を零し続け、時々鼻をすすりながら、必死でマーロの傷口を抑えた。


「汚れるなんてどうだっていいよ!待ってて、マーロ。何かあるから……血を止めないと……」

「キッド、大丈夫だ、落ち着いて……。もう助からない」


マーロが微笑みを絶やさずに言うと、キッドが弾かれたように怒鳴る。


「マーロの冗談はいつもつまらないから、やめろって言っただろ!」


マーロがじっとキッドの瞳を見つめた。

 ヘーゼルグリーンの瞳が涙に濡れて、透き通った水面を覗いているように美しく見えた。その底に故郷の家が沈んでいるように錯覚したが、あの水は、こんなに清らかではなかったろう。

 この瞳に故郷があるとするならば、それは夏の朝露のきらめきであった。朝陽を浴びた髪が黄金色に輝いて、幻のようだと思う。ただひたすらに、きれいであった。

 マーロはキッドの手を握っていた掌をゆっくりと持ち上げて、キッドの涙を拭うようにその頬へ、そっと押し当てた。生ぬるい血液の温度にキッドの瞳がさらに大きく開かれて、駄々をこねる子どものようにひたすらに涙を零し続ける。


「お前に会えて、本当に、よかった」

「……いやだよ、マーロ。もうすぐラングが来るんだ。ラングが、きっとブルースも連れてくる。それまで頑張れよ。きっと助かるから、二人が助けてくれるから」

「あぁ……ラングに伝えてくれ。マーロは愛する友の銃で、満足しながら、二人の親友に感謝しながら、死んでいったと」


キッドが責めるような瞳でマーロを見た。マーロの意図を察したのであろう。思わず後ずさりそうになったキッドの体を、どこにそんな力が残っていたのか、マーロが抱き寄せるように押しとどめた。


「頼む、キッド」


瞠目し、いやいやと首を振るキッドの肩を、マーロが弱々しく叩いた。

 キッドは唇を噛みしめて天を仰いだ。祈るような神は知らなかったが、そうしなければならないように思った。

 そのまま長く息を吐いた。

 息を吐ききって、ゆっくりと顎を戻す。マーロの微笑みに、なんとか笑顔を返せたであろうか。左手を銃にかけた。


「いい男になれよ、キッド」


最後にマーロが呟いた。キッドは別離の銃弾を撃った。射撃音がいやに悲しく耳に残った。



 マーロの亡骸を静かに横たえるキッドの背後に、いつからいたのか、ラングと町役人のブルースが立っていた。呆然と立ち尽くす二人に、キッドは俯いたまま右手を上げる。力のこもっていない指は、それでもなんとか、奥の机を示していた。

 ブルースが無言で机に歩み寄り、その上に置かれたマーロのメモを確認する。眉間に深く皺を刻んで引き返そうとし、キッドとマーロの横で足を止めた。


「……すまない」


顔なじみの町役人はそう言って、帽子を脱いだ。それからラングの元へ歩み寄り、


「あとは任せておけ」


それだけ言って、去っていった。ラングはその背中に深く頭を下げ、カレンの死体を一瞥し、足を引きずるようにして、また倉庫の中へ向き直った。

 マーロのとなりで、キッドが肩を落として座り込んでいる。朝陽が二人を照らしていた。


「……ごめんなさい」


ポソリ、キッドが呟いた。

 たまらなくなって、ラングはキッドに駆け寄った。キッドの肩をつかみ、どちらのものかわからない血と、涙で濡れた顔を自分に押し付けるように、その頭を抱き寄せた。キッドがラングの肩に額をこすりつけて、小さく呻き声を漏らす。


「いいんだ。これで良かったんだ、キッド」


ラングの目からも涙が一筋、流れ落ちた。強く、強く、ラングの腕がキッドの背を抱きしめた。

 キッドは泣いた。ひたすらに、波の音にも汽笛の音にも負けぬほど声を上げて泣いた。その左手には未だ銃を握りしめたままであった。

 何も知らない海鳥たちが、騒いでいる。よく晴れた夏の日であった。

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