第2話

 古い夢を見ていた。旧式の銃を抱いて、幼い自分が厩の陰に屈みこんでいる夢である。

 こうしてひとり夜明けを待っていたのは、いつの頃であったろう。もう何年も前のこと。今よりも子どもで、銃が手に余っていた頃の記憶。

 暫しぼんやりしていたが、気が付くと目の前に強面の男がいる。その男が差し伸べた手を掴んだところで、夢は一度途切れた。

 冷たい風が吹いた。木枯らしに似た乾いた風を追えば、地面からぬっくり突き出た骨に出会う。さっきまでは子どもであったのに、たった一度の風に吹かれて、もうおれは死んだのか、と思った。感傷というには平らかな気持ちで自分の真っ白な骨に触れようと思い、立ち上がろうとしたその瞬間、痛みに目が覚めた。


「…………生きてた」


見知らぬ誰かのベッドで少年は目覚めた。体を起こそうとすると、夢の中と同じ痛みが走る。傷のせいであろう。あのクソ野郎ども。痛みに顔を顰めながら少年は心の中で毒づいた。

 起きるのは一度諦めて、また布団を引き上げながら視線を滑らせる。自分の銃がすぐ近くのサイドテーブルに置かれているのを確認して、安堵の息をひとつ。それから首と目だけ動かして室内を見回した。

 広くはないが清潔感のある部屋である。女の部屋にしてはあまりに淡泊で、鏡もないが、机の上に、タイトルの見えない本が数冊。壁にかけられたコートが、この部屋が体格の良い男の部屋であることを客人に教えていた。


(眩しいな……。今、何時だろ)


小さな窓から低く差し込む陽光が少年の頬を照らしている。方角はわからないが、初夏の夕陽にしては室内は冷えていたから、今はきっと朝であろう。しかし早朝の光であるならば、少年は少なくとも一晩、眠っていたことになる。すると、この部屋の主は夜をどこで過ごしたのであろう。

 自分のケガの程度を確認しようとして、少年は自分がほとんど服を着ていないことに気が付いた。代わりに包帯が巻かれている。誰か、恐らくこの部屋の主か、その人が呼んでくれた医者か、手当てまでしてくれたらしい。

 自分のような行き倒れに、ずいぶん親切なことである。この部屋の主は尋常でないお人好しか、そうでなければ聖職者であろう。前者なら有難い。後者は、少年は苦手であった。

 少しして痛みが落ち着いてくると、少年の耳に外の音が聞こえだした。やはり朝早い時間らしく、市場から戻ってきたらしい話し声や、ゴトゴトと荷車の音、遠く馬の嘶きもする。慌て者の子どもが鶏を放してしまって騒いでいる声は滑稽であった。平和な町の朝の生活音はすべて窓の下からで、どうやら、ここは二階らしい。

 風が夏の香りを運んできた。穏やかな朝である。

 長閑な朝の気配に、少年は一度開いた瞼を閉じた。シーツから煙草の煙も女の香水も臭わない。このベッドの本来の主は余程清潔な男なのか、それとも普段から使われていないベッドなのか知らないが、有難いことであった。なんだか知らないが、ひどく頭が重い。もう少し寝かせてもらおうと布団を頭までひっかぶった時、階段を上ってくる足音がした。

 耳を澄ます。足音は近付いてくる。ほとんど無意識に、少年は手を伸ばして銃を手に取った。

 近付いてくる何者かは、迂闊なのか遠慮がないのか、足音高くやって来て部屋の前で止まった。少年は痛みのためになるべくゆっくりと起き上がり、そこでやっと撃鉄を起こし掛けていた指を止めた。誰だか知らないが、気を失っていたらしい自分を世話してくれた相手なら、いきなり襲って来るはずがない。だが、少年は念のために、というよりは彼の癖で、銃は握ったままドアを見つめた。

 ノックもなく、ドアが開いた。


「お。起きたか、坊や」


赤毛の男が朗らかに笑って、少年の銃を認めると今度は冗談みたいに顰め面をした。


「物騒だな」


銃を置くようジェスチャーしながら、遠慮なく室内に入ってくる。ベッドサイドのテーブルに持ってきた水差しとグラスを置いて、ベッドの反対側へとまわると窓から外を見下ろした。少年を振り返り、窓に顎をしゃくって寒くはないかと尋ねる。

 少年は横目で相手を見て、銃を下げた。


「通りすがりの審判」

「覚えてた?殊勝だな」


決闘の立会人なんて、正直少年にとってはどうだってよかった。向こうが勝手に指名したことだし、頭がぼんやりしていて、指名された男の顔なんて見ていない。ただ赤い頭が印象に残っていただけである。


「名前はトマト?」


このトマト頭がこの部屋の主であろうか。部屋の清潔感からはやや印象の離れた、よく言えば明朗そうな、はっきり言って軽薄そうな男である。トマト頭はまたテーブルの方に戻りながら、口をぽっかり開けて呆れ顔をした。


「ラングだ。トマトじゃない」


人を指差して説教するのは大人の義務なんだろうか、そんなことを少年は思った。まだ少し警戒して少年が何も言わずに黙っていると、ラングと名乗ったトマト頭は、ひとつ息を吐いてから少しだけ口角を上げた。


「冗談が言えるならよかった。体調はどうだ?」

「怪我は痛い」

「だろうな。熱は?」

「熱?」


少年の高い声に、ラングが眉を開いた。


「気付いてなかったのか?」


少年がラングの顔と水差しとを見比べながら、目を瞬かせて首を傾げた。驚くほどに邪気のない顔である。その様子にラングは肩を竦めた。


「熱に浮かされて奇跡の早業か?どれ……」


言いながら赤い頭が顔の横に下りてきて、少年はちょっと身を引いた。ラングは構わず少年の額に手を押し当てる。


「昨日よりはマシになったな」


ついでに少年のゆるやかな癖のある金褐色の髪を撫でてラングは立ち上がった。少年は首を引っ込めて渋面を作ったが、ラングはやはりまったく気にしていない。水差しの水をグラスに注いで少年に手渡しながら、話をつづけた。仕方なく、少年は銃を置いてグラスを受け取った。


「すごかったぜ、昨日のお前。実際ケガも熱もないみたいだった。忘れるほど集中してたわけだ。なんだってあんな男に絡まれたのか知らないが、本当、驚いたよ」


少年は受け取ったグラスを両手で持ったまま、黙っている。ラングが首を傾けて、また口を開いた。


「あの髭もじゃ、昨日からまだ騒いでるらしい。お前は牧場で焼け死んでればよかったんだとか、なんとか。あっさり負けたオッサンの話なんで、誰も相手にしてないけどな。まあどうせすぐに逃げていくだろうぜ」


これにも反応がない。諦めてラングが去ろうとしたとき、少年が小さな声で呟いた。


「だってあいつ、ロブを馬鹿にしたんだ」


ラングの眉間に、微かに皺が寄った。


「"牛殺し"のロブ?」


そっと問い返した声に、バッと勢いよく少年が顔を上げた。瞳に怒りの色がある。ギラリとラングを睨み上げる顔が緊張していた。


「見たの?ロブが牛を殺したところ」

「……あだ名だろ?みんな言ってる」

「やってない!」


身を乗り出した拍子に痛みが走った。一瞬だけ息を詰まらせ、目を瞑りかけたのを耐える。

 開け放しのドアを通って、階下から男の声がした。二階を案じているらしい階段下の声になんでもない、とラングが答えて、少年に視線を戻す。


「落ち着いて話せ。傷が開く」


少年が一瞬だけ泣きそうな目でラングを見上げた。それから視線を落として唇を噛む。ラングが心配顔でとなりにしゃがみこんだ。


「お前、本当に隣村から来たのか」


少年は黙って更に俯いた。唇を噛むように頬を膨らませてグラスを握りしめたが、突然思い立ったようにそれをテーブルに戻して銃に持ち替え、そのままベッドを降りようとした。


「おいおいおいおい、どうした、少年」

「出ていく。お世話になりました」

「なんでだ。なんでそうなる」


少年が初めてまともにラングの顔を見た。その瞳は透き通り、青味がかった美しいヘーゼルグリーンをしている。

 初夏の木漏れ日のような眩さに、ラングは一瞬見とれそうになったが、そんな場面でもあるまいと気を取り直した。少年はもちろんそんなこととは気がつかない。


「"牛殺し"の手下を匿ってたら、そっちだってヤバいだろ」

「そんなことあるもんか」


反射的にラングが答えた。答えてから、「あれ?どうかな?」と首を捻る。あんまり考えなしの様子に、少年の肩からふっと力が抜けた。どうもこのトマト頭、話しているとつい乗せられてしまう軽さがある。自分でも知らない内に少年の口数が増えた。


「あんた、馬鹿なの」

「いや、違う。そういう意味じゃなくて、だな。そりゃあロブの手下ってのは今、世間体があることぐらいわかってるさ。でもお前、牧場主のハンの仲間ってことになってるぞ」

「はぁ?なんで?」

「髭もじゃが吹聴してまわってる」


とりあえず、そんな格好で外には出られないんだから落ち着けと、ラングが少年の肩を抑えた。少年もそれで自分が今、ほとんど服を着ていなかったことを思い出して、ベッドに浮かし掛けた腰を戻した。

 少年は決まり悪そうに銃を弄びながら口を尖らせ、記憶の中の髭もじゃに文句を言った。


「あのオッサン、隣村の人間じゃないくせに。誰がどっちの派閥かなんて知らないで、てきとう言いやがって」


今度はラングが呆れる番であった。


「無関係の人間と決闘になんか、どうやったらなるんだ?」

「でかい声で噂話してたんだ。はじめはアレックって、ロブが殺したことになってる男さ、あいつを批判してたから聞き流していたんだけれど、急に矛先がロブに向かったからブン殴った」

「あぁ……。どっちでお前がキレたんだがわからなかったんだな……」


うーん、と、少年は唸ったが、恐らくそういうことなのであろう。たぶん、ほとんどロブの話をしない内に少年が割って入ったので、てっきり前段階のアレックとやらのことで文句を言っていると思い込んだんだな、と、ラングは推測した。


「さすがにちょっと馬鹿やったなって思ってる。余計なケンカのせいで体中が痛い」


少年の台詞にラングが首を傾げる。昨日の決闘では、あの髭もじゃは少年に指一本触れていない。銃を抜く前に少年に利き手を撃ち抜かれ、銃弾もナイフも、男のなにひとつ少年の体に傷をつけられるものはなかったはずである。


「どう見たってお前の大勝利だったじゃないか」

「その前に、オッサンの仲間に袋叩きにあってるんだ」


少年は、憮然として言った。


「はぁ?まさか、ケガの何割かはそのせいか?何人相手に?」

「四人。さすがに近くの人が止めに入ってくれたけど、おれもオッサンも引っ込みつかなくて"それじゃあ、決闘だ"ってことに……」

「それで昨日?」


コクリ。少年ははっきりと頷いた。こんな華奢な体で、なかなか手の早い、と、ラングが呆れ顔をしている。少年が今度はコテリと首を倒した。


「んー……おれも、一晩明けたら、なんかちょっと馬鹿みたいだなって思った。なんか頭は痛いし、動くのつらいし、夏なのに寒気もあったし」

「半分は熱のせいだな」

「あぁ。知らなかったよ」


少年が首を戻した。


「まぁそれで、殺す気が失せて手だけ撃った」

「実行できるのはすごい」

「やった」


笑うと、また驚くほど無垢に見える。不思議な少年だとラングは思った。昨日、銃を抜く直前の気配には、そこらのチンピラでは及ぶべくもない鋭さと冷然とした迫力があったが、こうして話せば、少年の表情はやはり幼く、意外なほど素直でもあった。

 この無邪気さは生来の性格故か、それとも、そのロブや無宿者の仲間たちといい付き合いをしていた故か。少なくとも、仲間のために怒れるほどには心優しい少年なのにちがいない。


「そんな後先考えずに飛びだすほど、ロブってやつを尊敬してたんだな」

「尊敬?」


少年が幼さの残る目を瞬かせて、また首を傾げた。ラングも首を捻る。おかしなことを言ったつもりはないのだが、少年は妙に真面目な顔を見せた。


「そうか。尊敬か……考えたことなかった」

「なんか変なやつだな、お前」

「うーん。そこは怒っていいところな気がするけど、やめとくよ。あんたは悪い奴じゃなさそうだから撃ちたくない」

「人を撃つ前提なのもどうかと思うが、簡単に人の善悪を判断するなよ。善悪の基準なんて曖昧なもんだぜ」


少年がまた不思議そうに瞬きした。パチパチと繰り返し瞬きをするのと、ちょっと首を傾げるのとが、少年の癖らしく、それが幼く見える原因かもしれない。


「あんたはロブのこと責めないの?」


ラングはうーん、とわざとらしく顎に手を当ててから、少年に向かってとぼけた顔をした。


「ロブのことは知らないが、お前のことは責めない」


当たり前のことを言っている顔だった。


「お前のこと気に入ったからな」

「……よっぽど曖昧な判断基準じゃないか」


少年が思い切り顔を顰めた。だが銃を握る手はだらりと下がっている。ラングは笑った。


「俺は曖昧な人間だから、はっきりした理由は自分でもわからん」

「曖昧っていうか、てきとうなだけじゃないの」


少年が呆れてため息をついた。ラングはまた声をあげて笑う。

 こだわりのなさそうな軽やかな笑い声に、少年はヘーゼルグリーンの瞳を横に滑らせて、どこともなく、壁の方へ視線を投げた。


「……本当に、あんたは嫌じゃないの?」


少年の声が、微かに変わったようにラングは思った。僅かに伏せられた睫毛は心細げに微かに震え、幽寂な横顔は、突然、妙に大人びて見えた。

 ここへ来るまでに、この少年の人生にどれほど事件があったのかラングには想像もつかないが、この少年が同年代の子どもらに比して長閑な生活を送ってきたわけではないことだけは確かである。今更ながら、体に巻かれた包帯が痛々しい。


「つらかったろうな、ずいぶん」


口をついて出たことばに少年がピクリと肩を震わせた。知った風なことを口走って少年の気に障ったかと、ラングは慌てて取り繕おうとした。


「悪い。今のは、その、悪気があったんじゃなくて……」


その後、言いかけた語尾をラングは忘れた。振り向いた少年のヘーゼルグリーンの瞳が、あんまりじっととこちらを見つめている。初めて見る種類の生き物に出会ったような、怪訝さと好奇心の入り混じった目だったが敵意は感じない。ただ、その玲瓏さに目を奪われた。

 ラングは、己が思っているよりも長い時間、じっくりと少年を見てしまっていたらしい。少年が不意に目をそらした。


「ごめん。しばらくそんなことは言われてなかったから、驚いて……」


本当に驚いている顔であった。

 ああ、この澄んだ瞳の少年は、どれだけひとりで気を張って、ここまでやって来たのかと、ラングの心がチクリ痛んだ。

 少年の、痛々しく包帯を巻かれた体は一見すると華奢なようだが、こうして服を脱いでいると痩せているばかりでなく、ある程度鍛えられた筋肉がついているのがよくわかる。あの銃の扱いにしても、天性のものではあろうが、その才能も相当な訓練を積まなければ発揮されないものだ。この子どもがどうしてそこまで戦う術を鍛える必要があったのだろう。


「ロブや他の連中とは、その、仲はよかったのか?」


あまりにも雑な質問であったが、少年が怒った様子はない。少年は、答える代わりに手の中の銃に視線を落とした。ラングもつい釣り込まれるように少年の銃を見る。


「見たことない銃だ」

「そう?」


少年がちょっと首を傾けながら笑って、ラングにグリップを向けて差し出した。ラングが驚いて少年の顔を見返す。


「いいのか?」


再確認してからラングは少年の銃を受け取った。独特の曲線を描いたグリップに、先端にあまり見慣れない突起がある。六連発の回転式拳銃リボルバーだが、ラングが今まで見てきたものよりもほんの少しばかり小ぶりで、少年の手にはよく馴染んでいるようであった。


「ちょっと癖はあるけれど、いい銃だよ。ロブがくれた」

「そうか。銃の扱いもロブが?」


銃を返しながらラングが問うと、少年がやはり淋し気に微笑みながら肯いた。


「おれたちは、わかってると思うけれど、ロクデナシでね。字も読めないやつもいたし、数が数えられないようなのもいた。ロブはそこそこの家の生まれだったらしくて、いろんなことを教えてくれたよ。無口で厳しかったし、基本は荒くれ者のリーダーだから乱暴だったけれど、困っている人間を放っとくようなやつじゃなかった。アレックのことだって、本当はロブはやっちゃいないって、おれたちはみんな信じてたんだ」


その声音には懐かしさと親しみが込められている。その後の呟きには、加えて虚ろな侘しさがあった。


「結局みんな土饅頭じゃ、どうにもならないけれど」


騒動の"犯人たち"はそろって村はずれに埋められている。少年もそれ・・を見たのかとラングは気になったが、さすがに、その疑問を口に出すことは憚られた。


「でも、ま。終わっちゃったことだ」


少年が呼吸と一緒に顔を上げて言った。ラングもほっと息を吐く。


「そうだな。終わった。貴族が絡んだにしちゃずいぶん公平な結末だったとみんなも言ってる。お前にとっちゃ、弱者の暴力だろうけどな」


少年が、ラングの言葉の意味をはかりかねて顎をそっと持ち上げた。また首を傾げて瞬きしている。やはり癖なのだろう。


「弱者の、暴力?」

「あぁ、そうだよ。力無き者の暴走。持たざる者の兵器。権力者の責任ってやつを無責任に批判する恐ろしい正義感さ」


言ってから、まだ少年の視線を感じて、ラングがはぐらかすように鼻の頭を掻いた。


「いや、これはその、俺の持論なんだ。今回のことだって、お前の話じゃロブはそんな凶悪なわけじゃないだろうに世間じゃ悪魔のような言われようだろ?正義ってのは多数決で決まることがある、曖昧で気味の悪いものだって、つまりそれが……」

「よくわかんないけど、わかったよ」


少年が歯を見せて苦笑している。ラングは一瞬口を尖らせたが、すぐに気持ちを切り替えた。今日のところは、ひとまず、この少年がまた無茶をしでかすのを止められればよいのであった。


「まあ、まだもうちょっと、最近面白いことがなかったんで騒いでるやつらも多いが、確かに終わったんだ。お前がここにいたって問題ないさ」

「じゃあ少しだけ、厄介になります」


少年の方でも、話す内にずいぶんラングが気に入ったのだろう。素直に頭を下げてきたので、ラングはちょっと嬉しくなった。


「少しだなんて遠慮するなよ。……あ、でも」


ラングが急に申し訳なさそうに眉を寄せた意味を少年は正確に理解して肩を竦めた。


「大丈夫。おれはハンの手下ってことで流しとくよ」

「悪いな」

「あんたが気にすることじゃない。迷惑をかけるのはおれの方なのに」

「迷惑とか気にするなよ。まだ坊やのくせに」


気持ちをほぐしてやろうと言ったつもりだったが、少年が急に思い切り眉を顰めた。


「坊やじゃない」

「え?」

「坊やっていうのはもっとこう……そうだよ、声変わりもしてないようなガキのことだろ?」


少年はむーっとラングを睨み付けてくる。この反応は誰がどう見ても子どもだ。ラングはちょっとおかしかったが、堪えた。


「じゃあなんて呼べばいい。カービーか、それともビリー?アンドリュー?マシューとか」

「……それ誰?」


怪訝そうな少年を両手をあげて抑えた。


「冗談はともかく、名前は?」


ラングの問いかけに、少年は決まり悪そうにまた頬を膨らませて黙った。ラングが目を開いて、すぐに細める。ゴロツキに拾われたという少年である。もしかすると、はじめから自分の名前というものを知らないのかもしれない。

 「その、なんだ」頭をかきながら、歯切れ悪くラングが言った。


「お前が、坊やは止めろと言ったんだぜ。何かないのか?ロブや仲間にはなんて呼ばれてたんだ?」


少年が一度口を開いて閉じて、そっぽを向いて、小さな声でボソリと答えた。


「………仔猫キティ

「は?」


ラングの短いリアクションに、続いて少年は呟く。


「あるいは末っ子ちゃんベイビーブラザー


間があった。

 ラングが口をムズムズさせて、ついに噴き出した。少年が眉を怒らせて顔を上げる。


「ひどいな!こんな短い間に、初対面の相手に、そんなリアクションする?」

「だってお前、それじゃガキって呼ばれるのと大差ない……!」


心底おかしそうに笑うラングに、少年が今日一番の膨れ面をした。ラングにはそれがまたおかしい。ひとしきり笑ってから、ラングは深呼吸をした。


「そうか。お前、まだ誰でもないんだな」


何気ないラングの一言に、少年がふくれっ面から空気を抜いた。きょとんとラングを見返す優し気なアーモンド型の瞳はやはり美しく澄んだヘーゼルグリーンで、清流のように瑞々しい。まだ何物にも染まっていないような純な瞳は、そのくせ短い会話の間にも不意に愁いや悲しみを覗かせ、この少年自体が自分の定義をわかっていないような、不安定で危うい、奇妙な魅力を放っていた。


「じゃ、ノーバディ・ボーイと呼ぼう」

「何それ格好悪い」


あっさりと少年が切り返したが、ラングは別段気にする様子もない。


「お前より早撃ちはいない、ってことでどうだ?」

「……もうなんでもいいや。好きに呼んで」

「じゃあ、やっぱり坊やキッドだな」


少年はまた抗議しようかと思ったが、好きに呼べと言ったばかりで不満を言うのも子どもっぽいと思い直し、口を噤んで肩を竦めた。ラングが笑った。


「誰も知らない無名の男の子が、どんな男になるのか楽しみだ」

「その時は、あんたは世界一有名なトマト?」

「一緒にケチャップ売るか?」


つい顔を見合わせて笑ったときである。ドアをノックする音がして、男がひとり入ってきた。

 黒髪のハンサムで、きっちり整えられた髪に、体格のいい立ち姿は、ラングとちがって、この部屋の雰囲気に相応しかった。


「大丈夫か?ずいぶん騒がしいようだが……」


声もバッチリ低いテノールである。ラングが少年にまた明るい笑顔を向けた。


「キッド、紹介しよう。俺の相棒のマーロだ。この部屋の主」

「えっ。あー…初めまして、マーロ。ベッド、ありがとう」


急に言われて、戸惑いながら少年が挨拶をする。マーロはハンサムな微笑みを見せて右手をあげて返した。


「キッド?キッドか。よろしく。ベッドのことは気にしなくていい。この家は俺とこいつの二人暮らしだ。治るまでゆっくりしていけばいいさ」

「えっと、でも……」

「遠慮はいらない。だが、もしこのお人好しのトマトが嫌なら他を紹介するよ」


もう一度、戸惑う少年に役者のような見事な微笑みを向けて、マーロはラングに向き直った。


「ラング。病人なんだ、あまり無理をさせるな」

「話してただけだ」


堅物の色男と軟派なトマト頭が親し気に話しているのを少年はぼんやりと眺めていた。ラングという男に乗せられて、ついいろいろ話し過ぎて、うっかり、ここにもう少し留まることにしてしまったが、本当によかったのだろうか。しかし行く当てもない。有難い話ではある……。


「じゃ、キッド」


少年はまた目を瞬かせた。ラングが苦笑する。


「ぼーっとしてたな。やっぱり、まだ体、だるいか?」

「あー……うん。ちょっと。少し。ほんのちょっぴり」

「強がるな」


真面目に言うのはマーロである。


「医者に見てもらったが、ケガも大したことはないし、熱は過労だそうだから安静にしていればすぐ治るそうだ。俺たちはこの家の一階で飯屋をやってる。腹が減ったら……そうだな、このベルを置いておくから」


テーブルの上に、金属製の小さなベルをマーロが置いた。面白がってラングが鳴らす。意外にきれいな音がして、なんとなくラングと少年の目が合った。マーロがラングの頭を小突いて、部屋から出るよう促した。


「食事以外でもなんでも呼ぶといい。ああ、それと、机の上に着替えを置いてある。きみのはもうボロボロだったから、とりあえず俺の物で申し訳ないが……」

「ありがとう、いろいろと」


マーロとラングが、そろって微笑んだ。


「気にすんな。これも何かの縁だ」

「ゆっくりおやすみ、キッド」

「うん。おやすみなさい」


二人が出て行った後、少年は一口グラスの水を飲んだ。少し話しただけなのに、なんだかどっと疲れを感じる。やはり熱があるらしいと自覚してベッドに横になった。

 窓から差し込む陽がズレて、顔には当たらなくなっている。部屋は先ほどよりも明るいが、風はまだ心地よかった。不思議と心は落ち着いている。少年は、驚くほどすんなりと眠りに落ちて行った。



「それで、やっぱりあいつは隣村から?」


階段を下りながら、囁くように低くマーロが訊ねた。ラングが肯く。


「あぁ。相手の男は無関係らしい。噂話にあいつのボスを馬鹿にしたんで揉めたそうだ」

「ボス?」

「牛殺しのロブだとさ」

「ロブ?あいつ役人側・・・か?」


マーロの言葉に、ラングが足を止めた。


「マーロ!」


責める口調である。マーロが振り返った。


「わかっている。あの子に罪はないさ。それより、早くよくなるといいんだがな」


真剣に少年を心配している顔つきだったので、ラングも許した。

 店舗として利用している一階に着くと、明るい髪を長く伸ばした女が一人、カウンターに座っていた。女が二人に気が付いて心配顔で立ち上がる。マーロが先に声をかけた。


「カレン。来てたのか」

「えぇ。噂の坊やはどう?熱と、あちこちにケガや火傷があるってロズから聞いたわ」

「大丈夫だ。医者に見せたが、跡も残らないと言っていた」

「でも、隣村の騒動に巻き込まれたのでしょう?かわいそうに」

「本人は、あれはゴロツキに袋叩きにあったケガだって言ってる」


ラングが横から口を挟むと、マーロと女がそろって首を振った。


「それで火傷はしないわ」

「火傷ったって、ほんのちょっとさ」

「でも牧場の火事に巻き込まれたってことよ。だいたい、普通の男の子はゴロツキに袋叩きになんてされないわよ」


マーロとラングが視線を交わして、女を椅子に座らせた。


「そのことなんだが、カレンデュラ」


マーロの改まった様子に、女は一層不安顔をした。


「彼は、仲間も死んでしまったし、傷ついている。あまりそのことに触れずにおいてやった方がいいと思うんだ」


女は何度も頷いた。


「そう。そうね。ええ、わかったわ」


マーロもとなりに腰かけて、ラングは行儀悪くテーブルにもたれかかる。オレンジに近い色の長い髪をかき上げて、女がため息をついた。


「それにしても、そんな子どもまで決闘だなんて。馬鹿みたいだわ」


またそんなことを、と、ラングは思った。どうしても、この女にはあの魅力がわからないのであろうか。


「早撃ちと決闘はロマンだぜ?」

「お生憎さま。あたしにはそのロマンはわからないの。そこに正義があるとは思えないし、だいたい決闘なんて、どっちが勝っても暴力の勝利じゃない」


ラングとマーロが再び顔を見合わせて苦笑した。目の前の美女に睨まれて、マーロがちょっと誤魔化しの笑みを作る。


「ともかく、だ。あの少年をしばらく……せめて、傷が治るまでは、うちで預かろうと思うんだ。幸い部屋は空いていることだし。ただ、きみにも迷惑がかかるかもしれないから、言っておくよ」


マーロの頼みに、一瞬にして女の表情が和らいだ。


「迷惑だなんて。あなたの決めたことに文句はないわ。その子、行くところはあるの?治るまでなんて言わないで、このまま引き取っちゃえばいいじゃない?」

「そんな簡単に……犬猫じゃないんだから」

「あら、失礼。でも家族が増えるのは良いことよ。それに困っている人を助けるのは当然だわ」


カレンという女は美しかったが、少々気が強くせっかちなところがあった。ラングが苦笑してマーロの肩を肘でつついた。マーロがチラリとラングを睨んだが、ラングはニヤニヤ笑うばかりである。


「なぁに、二人とも変な顔して」

「なんでもないよ」


マーロが慌てて笑顔を作った。ラングが口元を抑えて肩を震わしている。


「ちょっとラング。笑ってるの、バレバレ」

「悪い、悪い。いやぁお二人があまりに仲睦まじい様子なんでね」

「それで笑うことないじゃないの。変な人」

「こいつが変なのは今に始まったことじゃないよ」


恋人同士にけなされて、ラングはわざとらしく首を竦めた。


「いいから早く、お前ら結婚しちまえよな」


ラングが呟くと、マーロが思い切りため息をついた。


「カレンのお父さんが、なかなか許してくれなくてな」

「ごめんなさいね、マーロ。ちょっと過保護なのよ」


言いながら、まただんだんと二人の世界に入り込みそうな予感がして、ラングは体を起こした。


「俺、ロズんとこに礼、言いにいってくるわ。坊やも無事目を覚ましましたって。お二人は、ごゆっくりどうぞ」


最後はからかうように言って、ラングは外へ出て行った。

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