第27話

「ベルム、なんだが寒くないか?」


 昼前の暖かな木漏れ日が差し込む森の中、ウールは声を少し震わせながらしかめっ面で訊ねた。動物たちの音色のように豊かな鳴き声、さざめく葉の揺れる音。安らぎを感じる大自然の中、そう訊ねるウールはいささか矛盾した存在に映っている。


「そうですか? 気持ちいいくらいあったかいのですが、風邪でもひきました?」


「いや、どこも悪くないはずなんだが。……なぜだ、妙に寒気がする」


『黒の手記』を手に入れてから一か月が経っていた。ポルーネをはじめ周囲の人間達の街や村では気運が高まり、権力者たちを打倒を目指す動きがさらに活発化していた。


 それに併せてこれまで虐げられ、搾取をされてきた人々が結束をはじめている。そして彼らの目的は今、王国の打倒というところまで拡大してしまっていた。


 だがウールにとってはそんなことなどどうでもよかった。人間の問題であり魔族が関わるべき問題ではないし、無用な血を流したくない。それがウールの考えだった。


 そんなウールは相変わらずレッドゴブリン達と共に平和な日々を送っていた。そして二人は今、森でワイバーンに乗る練習をしているエイリーンの様子を見るために森の中をのんびり歩いている。


「大丈夫ですか? 着るものといってもマントぐらいしかありませんが貸しましょうか?」


「別に構わんよ。気遣い感謝する」


 礼を言うウールに「そうですか」と答えるベルムだったがまだ少し心配そうにしていた。だが普段通りの振る舞いに、別段苦しそうにもしていないのでむしろ迷惑だろうと考え心配するのを止めた。


 しばらく歩くと腰に手を当てたまま空を見上げているグルトの姿が見えた。背筋をピンと伸ばし、真剣な眼差しを空に向けていた。足元には動物の肉が沢山入った桶が一つと、水が沢山入った桶が三つ置かれ、水の入った桶にはそれぞれ柄杓と真新しいタオルがかけられている。


「グルト、エイリーンの調子はどうだ?」


 グルトは二人に気づくと挨拶をし再び空を見上げた。二人も続けて空を見上げると、そこには三頭のワイバーンが空を我が物としたように駆け巡っていた。


 その中の一頭の動きは目を見張るものがあり、他の二頭以上に自由に、そして猛烈な勢いで飛び回っている。そのワイバーンの背中には凛々しい表情をしたエイリーンが乗っていた。


「かなりいいですよ。一ヶ月であそこまで乗りこなせるのは相当の努力をしたってのもありますが才能もあるでしょうね。良い乗り手になりますよきっと」


 二人が感心したように相槌を返すとちょうどエイリーンを乗せたワイバーンを先頭に、空を飛んでいたワイバーン達が降りてきた。


 草木がざわざわと揺れるほどの風を土色の翼をはためかせながら巻き起こし地面に降り立つと、ワイバーンは大きな欠伸をし体を低くした。


 ワイバーンに乗っていた二匹のゴブリンはウールとベルムの姿に気づくと深々と頭を下げて挨拶をした。エイリーンも二人に気づくとワイバーンを撫でるのを止めて挨拶する。


「かなり乗りこなせているなエイリーン。練習をした甲斐があるというものだな」


「ありがとう。自分で言うのも何だが、グルトが心配するくらいにはしているからな。これくらい出来ないと自分が情けなく思ってしまう」


 肩をすくめているグルトの傍に歩み寄るとエイリーンは桶から肉を一掴み取り、乗っていたワイバーンに投げた。眠そうにスースーと落ち着いていたワイバーンは宙を飛ぶ肉を見事に取った。そして顔を揺らしながらクチャクチャと噛みちぎって飲み込むと、地面に伏して楽な姿勢になった。


「しかしよくそこまで練習できますね。ワイバーンを乗りこなすのは馬よりも難しいはず。なぜそこまで?」


「そうだな……。楽しいから、かな」


 水で洗った手をタオルで拭きながらエイリーンは空を見上げる。ちょうど頭上は開け、穏やかで晴れた空模様が広がっている。


「空を飛ぶことがこんなに楽しいとは思わなかった。もしウールと出会わなければ今もあの領主の下でくだらない生活を送っていただろうな」


 そう語るエイリーンの姿は鎖が外されたように晴れ晴れとしていた。さっぱりとした笑みを浮かべワイバーンを撫でる彼女の姿をウール達は満足そうに見つめている。


 自分に向けられた視線に気づくとエイリーンは「なんだ?」と口を少し尖らせ恥ずかしさを誤魔化すようにぶっきらぼうに訊ねた。ウール達は「べつに」と首を横に振り、エイリーンはバツの悪そうにワイバーンの世話を再開する。


 数分後、遠くの方からウールを呼ぶ声が微かに聞こえてきた。声は次第に大きくなり、振り返ると猪に乗ったレッドゴブリンが猛烈な勢いでこちらへ向かってきた。


「どうした? 何かあったか」


「ええ。魔王様に会いたい、と言う奴が今入り口にいましてね」


「なんだそんなことか。焦っているから襲撃にでもあったのかと思ったぞ。それで一体どんな奴だ?」


「それがですね……。多分人間だと思うのですがどうも怪しすぎる奴でしてね。『魔王様に一刻も早く会わせろ』と言ったきり何も言わないのですよ」


 ウールは顔をしかめるとグルトとベルムと一緒にゴブリンに連れられ住処の入口へと向かった。世話を終えたエイリーンは不思議そうに眺めていたが二匹のゴブリンと共にワイバーンに乗ると再び空へと駆けて行った。





 ウールは入口につくまでの間ずっと考えを巡らせていた。並みの人間相手ならレッドゴブリン達は対応に慣れており、追い出すなり捕まえるなり適切な行動ができる。


 だが今回はそんな事はなく言われたことを素直に受け入れていた。そこがウールにとって何より気がかりとなっていたのだ。


「ああ、いました。あいつです」


 ゴブリンが指さした先には、黒のローブを着てフードを深く被り、巨大なハルバードを背負った一人の人間がいた。ウールとベルムは誰だ? と顔をしかめながら覗き込むように顔を突き出すが、フードの中から見えた緑色の目を見るやいなや表情が一変した。


「ベルム、今日は妙に寒気がすると私は言ってたよな」


「……そうですね」


「原因が分かった。……こいつだ」


 顔を真っ青にしドン引きしているウールの姿に、グルトをはじめゴブリン達は驚きのあまり氷のように固まってしまう。


 するとローブを着た人間はシャキッと見事な姿勢のまま確かな足取りで一歩、また一歩とウールの方へと歩き始める。


 そのなりはまるで歴戦の騎士のように美しく、気高い印象を与える。服装は騎士とはかけ離れているものであるが、振る舞いだけで誰もが言葉を失い、目を見張るものだ。


「吾輩達、ちょっと心配しすぎでしたかね?」


「かもしれないな。あんな毅然とした態度を取っているのなら――」


 二人は顔を寄せてひそひそと目の前へと迫る人間を評価していた。好印象。それが二人の出そうとした結論だった。


 だがその評価はガラガラと崩れ落ちた。夜の闇のように影を落としているフードの中から見えた、狂気じみた歪んだ笑み、焦点がどこへいったのか分からないまるで発情したような目が見えたからだ。


「愛らしく、美しく、気高き魔王様。ようやくお目にすることができました」


「あ~ダメだ。完全に正気を失っているな」

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