第16話

「それ、匂いがという意味か?」


 二匹のゴブリンは「そりゃもう」とぶんぶん頷く。女性は顔を真っ赤にして暴れだすがすぐにゴブリン達によって押さえつけられた。そんなにひどいものなのかと、ウールは怖いもの見たさに近づき彼女の首元を恐る恐る嗅いだ。


 汗臭さと装備に染み付いた匂い、そして僅かにする植物の匂いが交じった匂いがウールを襲う。険しい顔のまますぐに離れ「うん、離していい」とはっきりとした口調で言い放つ。ゴブリン達は頭を下げて感謝し、ウールは心の底からの詫びの言葉を送った。


「ここまでの屈辱は初めてだ」


「私もここまでひどい匂いをした奴なんて初めてだ。……確認のために聞くが風呂は入っているのか?」


「入っていない。必要がないからな」


キッパリと言い放つ女性。それに対しゴブリン達のざわめきが起きる。ざわめきは止まず、彼女をまるで汚物を見るような目で見ている。彼女は憤りを覚えるが、すぐにウールになだめられるとなんとか落ち着きを取り戻した。


「人間の庶民はあまりそういう習慣がないらしいんだ。それに他の魔族にもそういう奴はいるだろ?」


ゴブリン達は言われてみればと思い次第に納得していった。ウールはやれやれと肩を落とすと再び女性へ視線を戻す。


「気にするな、お前達人間から見たら醜いかもしれないがこいつらは綺麗好きなんだ。ところでお前、流石に水浴びくらいはしているだろ」


「当たり前だ」


「……ちなみにだが最後に体を洗ったのはいつだ?」


「三日前だ」


ウールはスッ……と彼女から離れベルムのそばへ寄った。自分よりも劣っている連中にコケにされ彼女は涙目のまま怒り、ウールに近づこうと立ち上がるがすぐに押さえつけられた。


「触るな! 汚らわしい魔物どもが!」


「お前が言うな!!」


 その場にいた彼女以外全員が口を揃えた。


「もういい、私は風呂に入る。そいつは……。なあベルム、こいつと一緒に風呂に入ってもいいか?」


 ベルムは反対するどころか「頭がのぼせているのですか?」とどういうつもりなのか理解できずにいた。ゴブリン達も女性も同じ様子であったがウールは考えを曲げようとしない。どころか縄をほどくよう命じ縄をほどかせると彼女の手を引いて部屋を後にしようとした。


「おい待て! 一体どういうつもりなんだ?! 私はお前を殺そうとしたのだぞ?!」


「武器も持ってないお前が私を殺せるとでも? 心配するな、別に殺すつもりはない。ちょっとした事情聴取を風呂に入るついでにするだけだ」


「それの意味が分からない。なぜそんなことを?」


「お前があまりに汚いからだ。そのまま牢にでも入れてみろ、あいつらから苦情が出るのは間違いない。それに、汚い体よりも綺麗な方がいいに決まっているだろ」


 彼女は目をそらしたまま何も答えない。ただ小さく頷いており、ウールの考えに理解を一応は示しているようだ。



 彼女――エイリーンは『ポルーネ』に住む傭兵だ。まだ18歳と年若いが、戦いの腕は並みの者では太刀打ちできないといわしめるほど。そして何物も恐れない勇気を持ち合わせている。そのことから女性でありながら一目置かれていた。また、彼女の美貌、そして恵まれた美しい体がいい意味でも悪い意味でも彼女の名を知れ渡らせたことに一役買ってしまっていた。


 このことから傭兵でありながら『ポルーネ』の領主の目に留まり、現在は領主のお抱えの騎士のような立場となっていた。そしてウールが近くにいることを耳にした領主からエイリーンは魔王を始末するよう命じられたわけだが、今は何の因果かウールと肩を並べて湯に浸かっている。


「なぜだ……。なぜ私は殺そうとしている相手と肩を並べて風呂に入っているのだ」


「だってお前が臭い――」


「そうじゃない!! いやそうだけど……。ああもう! じゃなくて、なんでお前は私を生かす? 捕虜にしても私は情報なんて持ってないし殺した方が負担も少ないだろ?!」


「生かしておいた方が何かに利用できるから、ではないか? というかそんなに殺せ殺せと言わなくていいだろ。なぜ死に急ぐ?」


「……死んだ方がマシ。ここに囚われていても何されるか分からない。それに例え帰ったとしてもしくじった事を理由に領主達男どもに何をされるか」


 エイリーンは明瞭な声で答えるが胸の前に置いている手は僅かに震えている。ウールは無言のまま彼女を見ていたがおおよそ考えていることに察しがついた。腕組みをしたまま天井を見上げ、湯気と共に浮かび上がる言葉や考えをまとめ始める。


 するとエイリーンはウールが聞いてもいないのに身の上話を語り始めた。



 幼い頃に母を亡くした彼女は傭兵である父の手で大切に育てられていた。生活は豊かとは程遠いものだったが彼女は文句も言わず真面目に生活を送っていた。


 だが12歳の時に数人の男達に連れ去られそうになったことが彼女の生き方を変えてしまう。すぐに駆けつけた父によって何とか助かったが、その際に父は男達との戦闘でいくつもの傷を負ってしまう。それから彼女は守られていてばかりではダメだと考え、父から剣術など戦いの術を学び始めた。だがそれから2年、父は突然彼女を置いて亡くなってしまった。



「その後はずっと傭兵稼業で生きてきた。だけど私は女であるからとなめられ、汚らしい目でずっと見られていた。だから私はひたすら強くなろうとした。絶対に負けない、どんな依頼でも完遂させる。そうすることが一番だと」


 様々な思いが混じった目で湯に浮かぶ自分の顔を眺めている。その横でウールは半ば興味を失ったように髪をいじりながら俯いていた。エイリーンがムッとした顔を向けるもウールは「聞いてる聞いてる」と適当な返事を返すだけだ。


「要は苦労が絶えない人生を送ってきたのだろう? 人間は本当にめんどうな生き物だな」


「まるで魔族はそうでもないと言いたそうだな」


「お前らよりはな。まあここでしばらく生活すれば分かるだろ。ああそうだ、変な気を起こそうとはするなよ?」


「ふん、私を殺すか? むしろ望んで――」


「誰が殺すといった?」


 ウールは顔をエイリーンに近づけ押さえつけるように睨んだ。互いの体が少し動けば密着するほどだ。エイリーンの息遣いがはっきりとウールの耳に届く。


 ウールが言わずとも言葉に何が含んでいるのかは想像するのも容易だった。死よりも恐ろしいもの。エイリーンはウールが魔王であることを見た目と振る舞いのせいですっかり忘れていたが、今ははっきりと思い出す。


 しばらく怖い顔をしたまま固まるエイリーン。だが突然、ウールはエイリーンの両肩に手を添えると彼女の頬に顔を近づけた。


 不敵な笑みを浮かべ、白く尖った歯を見せながら小さく口を開く。エイリーンは食べられるのではないかと心の底から思い、目が泳ぐ。本能が逃げるよう訴える。だがどういうわけか体に力が入らない。


 諦めたようにエイリーンは目をギュッとつむる。すると彼女の耳にふぅっとこそばゆい息が吹きかけられた。エイリーンは「ひゃん!」と気の抜ける声を思わず出すと湯の中に落ち、危うく溺れそうになった。


「いきなり何をする!」


 ザバンッ! と湯船から両手に握り拳を作り、怒りと恥じらいが混ざった真っ赤な顔をしたままエイリーンは吠えるように叫ぶ。


「怖い顔をしてたから緩めてやろうかと――」


「だからってあんなことしなくても!!」


「だが少しは楽になっただろ?」


 ウールは「な?」と首をかしげるとエイリーンはムスッと頬を膨らませた。そしてボソッと「訳が分からない」と呟くとウールにそっぽを向けた。





 それから一週間、エイリーンはウールの提案でゴブリン達の農作業や道具作りなど、彼らの仕事を手伝うことになった。初めは慣れない作業に戸惑っていたが、徐々に仕事に慣れてくるとゴブリン達と少しずつ交流を深めるようになり始めた。



「悔しい……」


「なんだ突然?」


 少しなだらかな草が生い茂る坂に休憩中のエイリーンがウールと並んで座っていた。やることの無いウールはベルムと共に離れた場所で鍛錬をしていたが、休憩がてらエイリーンの様子を見にここに来ていたのだ。


「だって前よりも生活が充実してるから……。戻る気なんてもうないくらいに」


「おおーそうか。それならぜひあいつらに言ってやるといい、きっと喜ぶぞ」


 ウールはまるで自分の事のように嬉しそうに微笑んでいる。エイリーンは我を忘れウールの顔をまじまじと見つめていたが、ウールにタオルで顔を拭われると我に返った。


「な、なにをするんだ!」


「何って汗を拭いてやっただけだ。そんなに嫌だったか」


「嫌ではない! ……驚いただけだ」


 エイリーンは感情を誤魔化そうと水筒の水を思いきり飲んでいる。その横でウールは眠たそうに小さくあくびをすると晴れ渡る空を見上げ「これからどうしようか」とぼやいた。エイリーンは内容を訪ねるが「何でもない」と素っ気ない返事が返ってきてそれ以上は聞かなかった。


 エイリーンもウールと同じように何となく空を見上げる。何の変哲もない、小さな雲がゆっくりと泳いでいるだけの空だ。ゆったりと流れる時間を享受しようとエイリーンは大きく息を吸った。

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