第3話

その日はずっと上の空で椅子に座っていて、気が付けば友梨愛の前に立っていた。

屋上で見せていた反面教師は見る影も無く、理想の天才を体現した存在が椅子に座っていた。僕の顔を見上げて少しだけ笑うと、優しい声音で周りを黙らせてしまう。


「分かりました、では校則の違反を反省しない貴方には、無期限の自宅謹慎を申し渡します」


「なっ、降魔君が何かしたのですか友梨愛先生。彼は2年生に進級するまで、完璧な模範生徒として……」


「ですが、皆平等に扱わなければなりません。私情を挟んだ処罰は日本の甘い所です、大した事でなくても、これは決定事項です」


「良いのです和海わかい先生、確かに風紀委員の秋月君にも注意された事です。では、失礼します」


「それと、自宅謹慎の担当は私ですので。今から同行して監視を始めます」


誰も何も言えずに友梨愛に連れられる僕を見ながら、まだ信じられないと言う様子で背中を見送っていた。

友梨愛の車に乗って突っ伏すと、右から大きく息を吐く音が聞こえた。自分で考えた安易な作戦が、こうも上手くいくものだと思わなかった為、常に互いに気を張っていたから無理もないだろう。


「良いのです和海先生って、あれは吹きそうになった」


「本当に、余計な口を挟んで来た時はどうするか必死で、でもあれで黙ってくれて良かった」


「何かのアニメかよって思ったけど、これから非現実的な場所になるから。それだけは覚悟しといて」


「愛音の為なら頭撃ち抜くまでは出来るさ、その気になれば日本も沈められる様になったしね」


軽口を叩ける程度に落ち着いた頃には、もう体を覆っていただるさは消えていて、今なら何処へだって行ける気がした。

愛音の為に何か出来るからなのか、いつも君の為になる事をする時は、体も脳も全てフラットになる。その瞬間だけは何も考えずに、只管に前に進む事が出来る。

その時の疾走感は、音楽に乗る時と同じで、初めて聞いた曲でも、次の音が分かるような感覚になれる。


「さて、これから撒きに行こう」


「まずはBNDのエージェントに映像を渡す、大きな後ろ盾、つまりは国が必要になる。愛音は世界的にも結構優秀で名が通ってる、人柄の良さもあって、こっちに付いてくれる人も多いと思う」


「大きな組織ほど小さな変化に敏感だ、上が優秀な程そうであって、ティンクはああ言ってたけど、容易に受け入れるかどうか」


「裏切られたとしても愛音が助かれば良い、この体を引き換えにして助かるなら、毎日そう祈るよ」


「それは困る、お前の親と決めたが、愛音の婚約者だ。お前の母親はあんな良い子うちの子にはと遠慮してたが、私からしたらお前みたいな出来たやつが弟になるんだ、押し切ってやったよ」


「何だよいきなり、そんな事を遺言みたいな話し方で言って」


「そうだな、何だか死ぬ前みたいだ。思い出してたんだよ、お前が来る前に。何でか急にな」


いつも勝気で強気な友梨愛が珍しく声のトーンを落とし、自分の胸の辺りに手を当てながら片手で運転する。


「おい、胸に手を当てて、どこか悪いんじゃないか」


「重いだけだよ、親に似ずに大きくなったからな。もうすぐ着くから用意しろよ、見舞いの品も持ってな」


病院の前に先に止めてもらい、一足先に愛音の待つ病室へ向かう。

面会の手続きをする為に受付に行き、自分の名前と入院患者の名前を伝える。


「あ、あの患者さんは只今面会が出来る状態では……」


「いや、そんな事を聞いてない。面会する」


「いえ、これは医師が決定した事なので……」


「可能なら決行する、不可能なら断行する。誰がなんと言おうと会う」


「お引き取り願います、患者さんの事を思うのなら、回復を待ってから……」


「降魔君だね君が、良いよ。先日目が覚めたから、君が行ってあげると良いよ」


廊下から歩いて来た若い医者らしき男性が受付の女性を手で制して、僕の顔を見て小さく頷く。


「降魔 海桜さんの身元確認が取れました」


「それじゃあ、行ってらっしゃい海桜くん」


変に馴れ馴れしい医者を無視してエレベータで5階に上がり、少し廊下を歩いて部屋の前で立ち止まる。

まるで面接前みたいな緊張が手を重くし、周りからは不審に思われる程に、深呼吸を繰り返す。意を決して開いた扉の向こうには、最後に見た日と変わらず、息を呑む程に美しい愛音が居たが、僕を見て驚いた顔をしている。


「久しぶり愛音」


「……誰ですか、何で私の病室に。人違いです」


「……そっか、そう言えば昨日退院したってのを忘れてた。これ勿体ないから君にあげるよ」


「いえ、他人なのにそんなのは悪いです」


「どうでも良い人から向けられる好意程気持ち悪いものは無いもんね。なら、今から知り合い程度にはなっとこう。僕は降魔 海桜、君は自分の名前が分かる?」


「えっ、自分の名前は……一応教えられたけど、本当かどうか分からないし」


あの時あの医者が頷いたのはこの所為かと、左手で目を覆ったが、本当の初対面よりは遥かにマシな態度だ。


「君の名前は侑乃 愛音、鹿苑寺学園の生徒会長。何でも出来て、憧れる人が沢山いて、同性からも異性からも恋愛対象として人気だった」


「……貴方は私を知ってるの? それだったら……」


「謝ろうなんて考えるなよ、そんなの記憶を取り戻すのに諦めてるやつのする事だ。君の言葉だ、愚者になるくらいなら、死体になる事を良しとしろ」


「私って物騒な人だったの? 何だか私よりも私の事を知ってる人が居るって、恥ずかしい」


「なら思い出せ、やってやれない事は無い。特に君なら何でもだ」


「うん、頑張ってみる。その白い鞄を取ってくれる?」


指差す方には灰色の鞄が2つあって、どっちの事を言っているのか分からない。1つしかないだろうと油断していたが、こんな時はいつも愛音が教えてくれていたからか、余計に胸がつかえる。


「ごめん、僕は色が映らないから。右か左かで」


「そうですか、右のやつです。そうやって、少しずつでも教えてくれたら嬉しいかな。因みに何色に見えるの?」


「灰色だ、僕の髪と同じで醜いだろ」


「そうかな、虹の色を掻き混ぜるとね、灰色っぽくなるんだよ。だから私は綺麗で好きかな、でも貴方の髪は黒だけどね。だから気にしなくても良いよ」


椅子に座って両膝に手を着いている僕の頭を撫でようと伸ばされた手を掴み、頭に乗っかっている黒髪のウィッグを引き剥がさせる。

ずるりと落ちたウィッグに驚いたのか、手を引っ込めて暫く固まってしまい、灰色を見て言葉を出せないでいる。ついでに眼鏡も外して机に置き、仕事の時の様に髪を結ぶ。


「あ、優愛だ。凄く綺麗な髪、どちらかと言うと銀色寄りのグレーじゃない?」


「何で記憶が無いのにそれは知って……看護婦が置いてったその雑誌か」


「記憶がある私は貴方が優愛って事を知ってた? それでどんなだったの、眼鏡で変えてたけど、本当の目の色は緑なんだ」


「雑誌の方も緑だろ。それよりどうだ、本物が目の前に居るんだ。感動したか」


「写真より綺麗、女の子みたい。てか女の子、そのベッドの脇にあるケースに私の服が入ってるから着てみて。私って立てないから分からなかったけど、結構身長あるから着れるよ」


「君の足が長くて背が高い事は当然知ってる、それでも僕は男だからね。絶対に着ないから」


残念そうに空を見上げる君は、忙しなく見えない鍵盤を叩いていた手を止めて、再び寝転がってしまう。

壁の方に顔を向けて布団を頭の上まで被り、子どもっぼく分かり易く拗ねてしまう。


「モデルなのに着こなす自信が無いんだ、臆病者」


「おい、誰もそんな着こなせないとか……」


「臆病者の似非えせモデル、帰れ帰れ」


少し大きな鞄から愛音の服を手当り次第取り出して、落ち着いた色のシャツに袖を通し、その上から黒のオールインワンを合わせる。

少し緩めのパンツは上のシャツと同系統の落ち着いた色にし、愛音の布団を引き剥がす。


「どうだ、これが優愛の実力だ。その辺のちょっとかっこよくてクラスの女子からちやほやされるだけのまがい物と一緒にするな」


「おぉっ、じゃあ次はそっち」


愛音が指さしたのは、黒がベースで太ももの半分辺りまである服で、左足だけレースで透け感がある。

その下には見えない程度の長さの短いパンツを合わせ、黒のタイツを履いて作り出した領域を生かす。


その姿を見た愛音は無邪気に手を叩いて賞賛し、楽しそうに笑いながら僕の手を引っ張って隣に座らせる。

肩を寄せた愛音は左手を前に突き出し、内カメラにしたスマホのシャッターを切る。


「記念が出来た、これを元の私が見たら驚くかな。その時の反応は……私じゃ見れないか、怖いよ」


「はぁ、それだけ元気なら外に行こう。青空の下に出て、外の空気をいっぱい吸おう。君が外に出れば、太陽もきっと雲から顔を出すだろう」


「……うん、ベッドから見る空よりも。ちゃんと真下に居た方が綺麗に見えると思うし、善は急げだよ」


「本当に元気だな」


脇に置いてある車椅子をベッドの隣に寄せ、愛音を持ち上げようと姿勢を低くすると、突然目眩がしてよろける。

ベッドに手をついて何とか踏ん張り、誤魔化す為に何も言えずに愛音をお姫様抱っこする。


「待って下ろして、怖いから」


「この細腕が持てるものは確かに少ないけど、君くらいは支えられる」


記憶がある時と同じ所で変に騒ぎ出す愛音を車椅子に座らせ、病室から出て裏口から庭に出る。

日傘をさしている僕の腕を愛音が引っ張る度に冷や冷やさせられるが、君は色々な花を指さしては、知る筈もない僕に名前を聞いてくる。楽しそうに花を一つ一つ見ていた君は、突然静かになって、少しだけ目を離して噴水の水を見ていた僕の視線を戻させる。


「枯れてる、周りの子は元気なのに。この子だけ」


君の右手が再び見えない鍵盤を叩き始め、悲しみは降り注ぐと言わんばかりに、突然天気が崩れ始め、庭に出ていた人も慌てて病院の中に退散していく。

離れようとしない愛音を何とかなだめようとするが、君は自分でも驚いた様に涙を流す。


「もう中に行こう、冷えると大変だ」


「そうだね」


漸く折れてくれた愛音を連れて病院の中に入ると、雨によって中庭から追い出された人が、休憩所で一息ついていた。

その中のひとりが突然僕を指さし、硝子越しで何かを叫ぶ。その声を聞いた全員がこちらに視線を移し、瞬く間に愛音と僕を囲む。


「優愛さんだ」


「本物?」


「女の人と一緒に居る、どんな関係なんだろ」


「あの、サイン貰っても良いですか?」


「あ、私もサイン下さい」


「優愛が居るぞみんな、本物の優愛!」


「凄い綺麗、天使だ天使」


何人もの手がサインを求めて目の前に突き出され、愛音の頭に接触する人も居た。


「皆さん落ち着いて下さい! ここは病院ですから、他の人にも迷惑になりますし、何よりも彼女の体に障ります!」


今までに出した事も無い様な大声に、周りは静まり返ったが、愛音が苦しそうに頭を押さえている。


「ごめん愛音、取り敢えず後程また参りますので、今はお願いします。ここを通して下さい」


戸惑いと驚きを隠せないと言う顔で、ひとりが道を開けると周りもつられて道を開け、気不味い花道を抜けてエレベータに乗る。

ずっと苦しそうにうずくまる君の様子を見ようと前にしゃがむと、ぱっと顔を上げて笑う。


「おいからかうなよ、ったく。この姿だってこと忘れてた、夜美奈よみなさんに怒られるだろうな」


デビュー当初から支えてもらっている敏腕マネージャーである彼女には、数え切れない程の迷惑を掛けてきて、ちょっとした恐怖の対象でもある。

取り敢えず連絡だけはしておこうとスマホを取り出すと、丁度着信が入って、夜美奈さんと表示される。お迎えが来たと覚悟して電話に出る。


「どうなってるの、ネットでトレンド1位になってるんですけど。急遽病院に慰問の異例中の異例な仕事を取り付けたから、バレないように今すぐ出て来なさい。撮影準備ももうすぐ整うから、本当にやってくれるわ」


「すみませんでした、非常口から出るのでお願いします。本当にすみませんでした」


「ボーカルもやってるんだ。凄いね、トレンド1位だ。うっ、私も写ってる画像が上がってる。Louenhideってグループなんだ、凄い洋楽っぽいね。シンセサイザーとかすごい使われてて、EDM? ってのもやってるんだ」


通話を終えた僕の隣でスマホを弄っている君は、ネットで先程の出来事を調べて、ついでの様に僕の活動を読み上げていく。


「知り合いにそう言われるの覚悟でやって来たけど、君に言われるとすごく恥ずかしい。その、やめてくれると嬉しいかな」


それでも調べ続ける君をお姫様抱っこでベッドに寝転がせ、夜美奈さんと合流する為に部屋を出ようとすると、ベッドから何かが落ちる。

落ちた髪留めを拾って君に手渡すと、僕の手を握ったまま離さない。


「行っちゃうの?」


「これからお仕事だから、今日はお別れ。また来るから安心しなよ」


「んん、なら連絡先教えて」


「もう知ってるでしょ、君のスマホにしっかり入ってるよ。そうだ、なら試しにさっき撮った写真を送ってよ。それなら確かめられるだろ」


それを聞いた君は返事もせずにメッセージアプリを開き、4つある降魔の名前の中から、海桜を選んでトークルームを開く。

先程撮った画像を選択して送信すると、殆ど同時に画像が送られてくる。

その画面を君に見せると、少し嬉しそうに微笑んで、「やったね」と言う。


「何かあったら連絡して、すぐとはいかないけど、出来るだけ早く行けるようにするからさ」


「うん、待ってるからまた来て。モテるからって、他の子の所に行ったら泣くよ」


「何だよそれ、案外面倒だな」


先程送られてきたツーショットの画像を保存して待ち受けにしてから、病室の個室から出て非常口に向かう。

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