二〇一二年五月四日
あれから一週間私はこれから養成所に通い続けるかどうかについて悩んでいた。たった二回しか授業を受けていないのに、このまま辞めるのはあまりに早すぎるとも思った。しかし、私はもうボイスエクステンドまで行く気力は完全に失せていた。
授業の休憩時間の合間には空き教室を探しては何度も同じ文章を繰り返し朗読するものの、一向に全ての文章を噛まずに綺麗に読むことが出来なかった。そこでインターネットで滑舌を良くする方法について調べた結果、手術によって舌の可動域を確保することが出来ることを知った。ただ、この施術だけで滑舌が良くなるわけではなく正しい位置での発音のトレーニングを行うことが必要だと書かれていた。元々、滑舌は幼い頃から良い方ではなかったのでこの手術を受けてみようかと本気で悩んだが、失敗した時のことを考えるとやはり病院に行くことには抵抗があった。
それに加えて、この一週間は自分が本当に声優になりたいのだろうかと自問自答を繰り返す時間でもあった。声優になることで何を得たいのか、そもそも芝居が本当に好きなのか、それを自分の心に何度も聞いた。相沢に生アフレコの動画を勧められて、声優という職業に興味を持ったことは事実だが、キャラクターに自分の声を当てたいという感情があったかどうかは疑わしい。ただアニメが好きで、何となく芝居をしている姿がキラキラして見えたからといった小学生がパイロットに憧れる感覚と一緒なのではないだろうかと考えた。
腕時計を見ると、刻々とレッスンの時間に近づいていた。レッスン風景を思い浮かべただけで胸の動悸が止まらなかった。今日は外郎売の後半部分を暗記し朗読する予定となっていたがまだ完璧に出来ていない状態だった。大学の課題やバイトもあるせいで中々、ゆっくりと取り掛かれる時間がなかったのだ。(時間の使い方が下手なせいもあるかもしれないが)
—嫌だ、また今日も先生に怒られる。今日は行くのやめておこうかな
うずうずしている間にも時計の針は私の意志と関係なく進んでいく。しばらく考え込んだ末、私はスマホを取り出すと今日の授業を欠席することを養成所の事務局へと連絡した。電話を切り終えた瞬間、今までバクバクと動いていた心臓が急におとなしくなり脇からの汗も嘘のように止まった。
—今日は家でゆっくりしよう。また来週から行けばいいや
もしかしたらこれはただの甘えなのかもしれない。たった二回授業に参加しただけで投げやりの気持ちになり、辛いことから目を背けようとするのは未熟な人間の証なのだろう。でも、私は純粋にあの場所に行って芝居をすることが楽しいという感覚はもう湧かなかった。もっと深くそのことについて勉強したいとか上手くなりたいという情熱は消え、いつの間にか強制的に行かなくてはいけない場所となっていた。
身体が軽くなる感覚を覚えた私はスキップしながら大学の正門を出た。そのまま駅のホームに向かって歩いていると、たくさんの人達が赤信号をじっと待っているのが見えた。皆、少し俯き加減で疲れた顔をしているのが遠目からでも分かる。私はそれを見て改めて人間という生き物は根本的に不幸を欲する存在なのだと確信した。本当は学校に行くこと、会社で働くことが嫌なのにその苦しみから逃れようとするのではなく、どんどん泥沼に入り込んでいくのだから人間ほどマゾヒストな生き物はいないと思った。それとも、もしかしたら彼らは苦しみに慣れすぎて脳が麻痺しているのかもしれない。苦しくても毎日、ロボットのように同じ行動を執ることが実は一番楽なのかもしれない。
信号が青に変わると、彼らは軍隊アリの集まりのように同じ速度でぞろぞろと駅まで歩いて行った。その光景はいかにも日本人の「皆と一緒」という特性を表しているように見えた。幼い頃から小さな教室に集められ、その中で空気を敏感に読んでいく毎日。そして大人になっても狭いビルの中に閉じ込められ目の前にあるパソコンと睨めっこしながら兵隊のように働く毎日。これでは誰も自分がこの人生で何をしたいのか、どういうふうに生きていきたのかという考えが湧かないことは当たり前のことだろう。
部屋の明かりをつけ呆然と机を眺めていると、茶色の日記帳が目に止まった。特にやりたいこともなかったので、私は机に向かうと日記帳をぱらぱらとめくった。驚くことにこの日記が一年以上も続いていたことが信じられなかった。どのページを見てもびっしりと文字で埋まり余白がほとんどない。
—もしかしたら俺、書くことが好きなのかも
今まで気づくことが出来なかったが、実は自分には既に好きなことが見つかっていたという重大な事実をこの時知ったのだった。私は新しいページを開くと、すらすらとペンを走らせていった。自分の思ったこと、考えたことを素直に文字として書き出すことは本当に幸せだった。乱雑な字だけど、自分が抱いた感情がそのまま文字に乗り移っているのが分かる。それから数時間経過すると、いつの間にか五枚分のページが書き上げられていた。こんな短時間でここまで進んだことは今まで一度もなかった。
—凄い進歩だ‥
そんな時ふと頭の中で今まで書いた日記を一冊の小説として纏め上げてみたいという考えが浮かんだ。何故、自分がそう思ったのかは分からなかったが、とにかく直感に従ってみようという気が湧いた。早速、私はリビングにある母のノートパソコンを自分の部屋まで持ち運ぶと、ワードソフトを開いた。真っさらな白い空白を前にしばらく考え込むと、私は日記帳の最初のページに書いてあった八月三一日という日付を打ち込んだ。半袖半ズボンの姿になりながら、扇風機の前にじっと座っていた時の記憶が鮮明に蘇ってくる。
ただ、小説というからにはそのままの実体験を書き連ねるだけでは、ただの伝記になってしまう。それに私のような平凡な人間の伝記など誰も読みたくはないだろう。だからそこに少し捻りを加えて、読者が読んでいて面白いと感じる物語を作ろうと思った。架空の物語を作ることは私の得意なことなのだから努力は必要ない。エンターキーを二度押し、私はあの日の出来事を詳細に思い出しながらかちゃかちゃとキーボードを叩いた。もっと書くのに戸惑って、手の動きが止まると思ったが数十分も経たないうちに面白いほどするすると白いスクリーンに漢字と平仮名が埋まっていく。
―何だか楽しくなってきたぞ!
こんな感覚は人生で初めてのことだった。そこには声優になろうと考えた時に感じた熱いパッションではなく、純粋にただ楽しいという気持ちが存在していた。それはまるで幼い子供が夢中で玩具で遊んでいる時の感覚と一緒だった。深いことは考えずにただ今この瞬間を楽しむという気持ち。大人になるとこうした気持ちは次第に消えていくのだろうと思っていたが、再びそうした感情が湧き上がってきたことはとても嬉しかった。
「ただいまー」
部屋の電気がパチっとつくと、私は思わず驚いて後ろを振り返った。
「どうしたの?こんな暗がりの中、パソコンなんか開いて」
「いや、ちょっとね」
「そういえばあんた、今日養成所の日じゃないの?何で行ってないのよ?」
私は母の瞳をじっと見つめると、素っ気なく「今日は行ってない」と一言だけ言った。
「どうしたん?何か嫌なことがあったの?」
「もうやめるんや!」
ついきつい言い方をしてしまった。
「はぁ?まだ二回しか授業行ってないのに辞めるっておかしくない?あまりに早すぎるわよ」
「俺には才能がないってことが良く分かったの。実際に養成所に行って初めて分かったよ」
「あれだけ高いお金払っておいてたった二回で‥諦めが早すぎるんじゃないの?何でもそうだけど、そんなにすぐに上達することなんてないわよ!」
「分かっているよ!でもどれだけ練習しても滑舌は一向に良くならないし、先生には怒られてばかり。それに学校の勉強が疎かになって最近はテストの成績が落ち気味なんだよ」
「それはあんたの時間の使い方が下手くそなんじゃないの?」
「そんなことないの。休憩時間には必ずテキストに目を通したり、誰もいない教室で声に出して朗読したりもした。でも、それだけやっても次の授業までに出される課題をこなすことすら出来ないの!」
「それはまだ始めたばかりだからじゃないの?今、プロとして活躍している人も最初は辛いことを経験して、徐々に上手くなっていたと思うわ」
「毎週、金曜日になると心臓がドキドキするの。また皆の前で何か言われるんじゃないかって怯えるんだよ」
私はそう吐き捨てると、スマホを持って家を飛び出した。特に行くあてもなかったが、このまま母との喧嘩に発展するよりはましだと考えた。
東京に引っ越してからまだ一ヶ月も経過していなかったが、大学生になっても母親と言い争うことになるとは想像もしていなかった。
—またマンションの住民から動物園扱いされるよ
不機嫌な顔をしながらぶらぶらと近所を歩いていると、何となく今の気持ちを日記帳に書き込みたい気持ちに駆られた。二十分ほど経ち、ぐるりと周辺を歩き自宅のマンションまで戻っていると、突然スマホの着信が鳴った。慌ててポケットからスマホを取り出すと、画面には相沢唯翔と表示されていた。
—え?相沢
私は少し裏返った声で「もしもし、相沢?」と声の調子を変えながら言った。
「お、久しぶりだね!もう大学終わった?」
「うん、終わったけど。いきなりどうしたの?」
「今日金曜日だからさ、この後ゆっくり遊べないかなと思って。土日でもいいんだけど、人混んでいるだろうしさ」
「いいねー。どこか行きたいところとかある?」
「そうだなー。じゃあ、M駅の近くに公園があるんだけど、そこ散歩しない?五時半に改札で合流しよう」
「爺さんみたいなこと言うね。まあいいや。了解した!じゃあまた後で」
電話を切ると、さっきまで落ち込んでいた気持ちが嘘のようにパッと明るくなると、私はうきうきした気分で自宅へと帰った。
—今日は養成所休んで本当に良かったわ
母親に気づかれないようにそっと玄関の扉を開くと、私は忍び足で部屋に入った。リビングに母がいるはずなのに、部屋は真っ暗の状態だった。テレビの音すら聞こえない無音の中でバッグに財布を入れると、私は居心地の悪い空間から逃げるようにさっと家を出た。
約束の時間まで後五分というところで、こちらへ向かって歩く人たちの中で相沢が私に手を振る姿が見えた。高校生の頃に比べて髪は少し短くなり、遠くからだったのではっきりとは分からなかったが、身長も少し高くなっているような気がした。
「久しぶりだな!村道ちょっと痩せた?」
「お前はそんなに変わってないな。前より格好良くなったぜ」
高校生の頃はまだどこかあどけなさが残っていたが、目の前にいる相沢は昔に比べて随分ハンサムになり、何となく彼を包むオーラが明るくなったような気がした。オーラというと一見スピリチュアル的な言い方になってしまうが、夢中なことに情熱を捧げている人はやっぱり表情が輝いてみえるのかもしれない。何となくその姿に圧倒された私はちょっとおどけた口調で「じゃあ行こうか」と言うと、私たちはそのまま地上へと出た。
十分程M公園に沿った道を歩いていると緑豊かな自然が見えてきた。
「何だか懐かしね。あの時もここに似たところ行ったね」
相沢はゆったりとした口調でそう言うと、辺りを見渡した。
「でも入場料取るんだね。ただの公園なのに‥」
「ほら、雰囲気をぶち壊さない」
「雰囲気?何の?」
私は微笑を浮かながら彼の横顔を見た。相変わらず彫刻刀のような美しい鼻筋だ。これは大袈裟ではなく、どんな画家も彼をモデルに絵を描きたいと思われせるほど整った顔立ちをしていた。
「いや、せっかくこうして久々に再会したんだからさ。空気読んだ発言しないと」
何を訳の分からないことを言っているのだろうと思ったので、私はそのまま返事をしなかった。
「そういえば村道、声優の養成所行ってるんだろ?どんな感じよ?」
出来ればその話題に触れてほしくなかったので適当に「順調だよ」と簡単に話を済ませようと思ったが、彼の透き通った黒い瞳を見ていると嘘を付くことに罪悪感を感じたので、思い切って本当のことを話そうと決めた。
門をくぐった瞬間、さっきまでの風景とは一変し緑の中で一際目立つ薄藤色の桜がぱっと目についた。
「おおーー!凄く綺麗だね!!」
一本の道の両端に咲く桜の木は私たちを優しく包み込むようにどっしりと立っていた。相沢は少し子供のようにはしゃぎながら首を上げてそれをじっと眺めていた。
「もう辞めようと思ってる」
「え?」
わざと聞こえない振りをしたのか、何となく彼の言い方が芝居じみで聞こえた。
「だから辞めるの。俺には才能がないから」
「辞めるってまだ入って一ヶ月も経ってないんだろ?」
唖然とした表情で私のことを見ると、私たちの横を通りがかった40代のおじさんが少し不愉快そうな顔をしながらこっちを見た。
「辛いんだよ、行くだけで。そもそも、演技が好きじゃないんだってことに気づいた」
「いやいや、そんなにすぐ辞める奴は普通いないよ。今、プロとして活躍している役者さんだって下積み生活を何年もしてきてるんだよ」
私は少し不機嫌な顔をしながら、前を見つめた。顔が険しくなっていたせいか前から歩く人達が私たちを避けるようにして左へそれて行くのが分かる。
「行くだけで心臓がドキドキするの!周りにいる人達も大嫌いだけど、それ以上に演技することが大大大嫌い!!直感的にここは自分の居場所じゃないってことが分かったの!!!」
声を荒げたせいか、相沢は少しびっくりした顔で私のことをじっと見据えていた。せっかく気分も落ち着いてきたのに、また負の感情に飲み込まれてしまった。
—これじゃあ、さっき母親と喧嘩した時と全く一緒じゃないか
彼は下を俯き、地面を数秒見つめると口を開いた。
「お前がそう言うのなら仕方がないよな。そもそも声優を勧めたのは俺だからさ。何か悪いことした」
相沢はいつだって大人だ。俺みたいにすぐに感情的にならず冷静になって話をしてくれる。こういう人は滅多にいないし、多分こういうところも俺が彼のことを好きな理由の一つなのだろう。
「相沢は何も悪くないよ。演劇に挑戦してみたいって思ったのは本当なんだから。それに、やってみないと好きか嫌いか分からないしね。だから、今回はいい経験になったの」
彼は何も言わずにただ黙って私の言葉に耳を傾けると、こくりとうなずいた。
桜の並木道を抜けると、左手に小さな湖が見えたので私たちは何となくそこに引き寄せられるように歩いて行った。
「何かあの時の記憶が蘇ってきたわ。ここに似たような場所で俺たち抱き合ったよな」
思わず私は吹き出すと、相沢の右肩を少し強めに押した。
「何すんだよ。まあホモと言われても仕方がなかったのかなって思うよ、今となってはさ」
「そういえば相沢は演劇の方どうなのよ?」
「聞いて驚くなよ。俺も俳優の養成所に入って一年間、勉強することになったぜ」
「別に驚かないなー。だってお前が芝居を好きなのはよく知っているし。やっぱり他の人は下手にみえたりするものなの?」
「そんなことないよ。今いる養成所が結構大手のところだから皆上手い人ばっかりだよ」
「お前すげえな、やっぱり!今のうちにサインをくれや」
奥に進むと、東屋があったので私たちはそこに入ると長椅子に腰掛けた。
「やっぱり誰もいない空間の方が落ち着くね」
私も全く同じことを考えていたので、やっぱり俺と相沢はソウルメイトなのかもしれないと思った。こんなにも一緒にいて落ち着ける人はもうこの先表れないだろう。もし彼が女性ならば、結婚したいと考えるほどなのだから。私は改めて彼に出会えたことに感謝した。
—本当に有難う
「そういえばさ、村道は大学どうなの?楽しい?」
気を遣ってくれたのか、彼は養成所についての話題から学校へと変えてくれた。
「うーん。正直に言うとあまり楽しくないな。そもそも大学は養成所のために行ったようなものだしさ。学部も別に入りたいところじゃなかったし」
「でも、だとしたらこれから四年間きついな。毎日、行きたくもないところに無理やり行くんだろ。俺には耐えられないな」
私はため息をつくと、顔を少し斜め上に上げて夕日が沈む瞬間をじっと眺めた。
「俺、相沢唯翔に憧れていたんだと思う。お前が俳優になりたいってことを知った時、凄く羨ましかったんだ。俺も学校がずっと嫌いで、毎日あの狭い教師室から逃げ出したいって思ってた。でも、俺には何か他にやりたいことはなかったし、特別な才能なんてなかった。それでお前から声優のことを紹介された時、自分も何かに夢中になって夢を追いかけていたらきっと生きることに喜びを感じられるようになるんじゃないかって思った」
「じゃあ別に声優にどうしてもなりたいというわけじゃなかったんだね?」
「興味が全く無かったわけじゃないけど、好奇心よりも何か新しく始めたいという気持ちの方が強かったかな」
「何かごめんな」
「もうこの話は辞めようぜ!せっかく久しぶりに会ったんだからお前が今通っている芸大の話とか養成所の話を教えてくれよ」
私たちはそれから他愛もない話をお互いにしながら、空が真っ暗になる夜一一時ごろに自宅へと帰った。
気持ちの整理がついたおかげで私は母親に冷静になって養成所を辞める決意を伝えた。すると意外なことに彼女はそれに対して素直に承諾してくれたが、入所金の十万と一ヶ月分のレッスン料二万円を私のお年玉から抜くということが条件で話は解決した。さすがに、自分の貯金から抜かれることは痛手だったが、母にとって大事なのは養成所よりも大学に進学して卒業することの方が重要だったので、さほど辞めることは問題ではなかったのだろう。
(勿論、ある程度の期間までは続けてほしかったという思いはあったかもしれないが)
明日は学校がなかったので風呂から出ると、私は落ち着いて今日起こった出来事を振り返りながら日記や小説の続きを書いたりした。夢中になって書いていると時間はあっとういう間に過ぎ去り、すでに時刻は深夜二時を過ぎていた。
他人から見れば一見、地味な作業に見えるかもしれないが私は真に自分がやっていることを愛していた。これが将来と直接結びつかなくても、とにかく私は今やりたいことだけに意識を向けるようにした。
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