二〇一二年四月二七日
週に一回の養成所の授業が再びやってくると思うと胸がドキドキした。学校の授業が終わり、腕時計に目をやると時計の針は六時一五分を示していた。まだ一度しか授業を体験していないのに、私は既に精神的に参っていた。隣の椅子に置いてあったバッグを手に取ると、私は義務感に苛まれながら急ぎ足で学校を出た。
—今日は養成所休もうかな
ふとそんな考えが頭を過ぎると同時に、私は初めて自分が養成所に通う時の心境を思い出した。期待を胸に膨らませながら、これから一生懸命頑張ろうと思いながらうきうきしている姿だ。しかし、今の私にはそんな気持ちは全くといっていいほど湧いてこない。それどころか当時通っていた高校に行く時に覚えた嫌悪感に近かった。自分の居場所がないところにわざわざ足を運ばせることは苦しみでしかない。きっと今日も先生に怒られ、クラスメイトからは白い目で見られるのだろう。そんなことまで分かっているのに、わざわざ養成所へと向かう私はマゾヒストなのではないかと疑ってしまった。
ボイスエクステンドという看板が見えてくると、自然と歩幅がさっきより小さくなって。このまま引き返そうかとも思ったその瞬間、突然誰かから背中をドンと押された。
「おう、村道!」
爽やかな声で私の後ろに立つ橋本は、げっそりした自分に比べてとても生き生きとした表情をしていた。
「びっくりしたー。おはよう!」
「それはあの人に使う言葉だよー」
彼の視線の先にはベージュのスーツを着た四〇代のおばさんが扉の前で立っていた。
「先に行こうか?」
「うん、有難う」
彼は私の横を追い越すと、彼女の前で「おはようございます!橋本翔也です!今日は宜しく御願い致します!!」と人が振り返ってみるほどの大声を出した。その声があまりにもうるさいものだから、思わず道端を歩く老夫婦までもが振り返っていた。
「はい!おはようございます!」
彼女はまるで点呼をとる教師のようにニッコリと歯を見せながら微笑むと、橋本は中へと入っていった。ゴクリと私は唾を飲み込むとゆっくりと彼女の元へ前進してゆき、扉の前で止まった。
「おはようございます!村道秋悟です!今日はどうぞ宜しく御願いします!!」
「はい、宜しく御願いします」
—えっ。何か橋本の時に比べて少し暗くないか
私は歯痒い気持ちで中へ入ると、左側の奥にあるロッカー室まで向かった。
ドアノブを捻った瞬間、私はついハッとなって立ちすくんでしまった。目の前には少し威圧感のある雰囲気で藤田たちが立っていた。
「おう」
「お、おう」
よくドラマの中で不良たちがガンを飛ばしながら一人の青年の横をすれすれに通り過ぎるシーンがあるが、彼らはまさにそんな風にして私の横を通り過ぎていった。
—俺、別に何もしてないよな
一番右端のロッカーで着替えていた橋本を見つけると、少し急ぎ足でそこへ向かった。
「もう始まるから急いだ方がいいよ!」
「分かってるって。今日の宿題ってテキストの一〇ページと外郎売だよね」
「そうそう。やった?」
「そりゃあ勿論!」
私は自信満々な表情で答えると、橋本はグットサインを出しながらバッグからテキストを取り出した。
教室へ入ると、男子も女子もばらばらに散らばってテキストを真剣に読んでいる姿が目に入った。皆、私たちが入ってきたことに気づいていないのかそれとも故意なのか、誰もこちらを見る者はいなかった。
橋本が一番後ろの左端に座ると私も彼の隣に腰を下ろした。
「今日はストレッチから入って、腹筋、背筋、そして滑舌のトレーニングから始めるってさ」
「そっかー」
ぼーっとした目で辺りを見渡すと、角田と偶然目が合ってしまい私はとっさに目を逸らしてしまった。バタンと扉が開く音がすると、生徒達は軍隊のように一斉に立ち上がった。紫のジャージを着た先生はすたすたと白い机に向かって歩くとこちらを向いた。
「おはようございます!」
「おはようございます!今日は宜しく御願い致します!」
一斉に生徒達の声が教室に響くと、彼女は椅子に座ってノートを机に広げた。
「始める前に一つ報告があるんだけど、さっき教室に入る時の声の大きさが皆ばらばらだということを聞きました。大きな声でしっかりと挨拶する人もいれば、ぼそぼそっと小声で挨拶する人もいたりしたわけなんだけど次回からは全員がはきはきとした元気な声で挨拶出来るようになってほしいと思います。はい、じゃあ名前を一人ずつ呼んでいきます」
彼女はそう言い終えると、点呼をとっていった。皆、自分をアピールするように右手を天井に向かって真っ直ぐ上げながら「はい!」と大きな声で返事をしていく。しかし、棒立ちになっていた私はというと普通の声量で「はい」と返事するだけだった。別に格好つけていたわけではなく、ただ自信がなかったのだ。なぜなら、自分はこの教室で弱い存在で駄目な奴とうレッテルを貼られているからだ。
点呼を取り終えると、私たちは大きな鏡の前で整列すると簡単な準備体操を始めた。淡々と全員それをこなしていくが私だけが上手く皆に合わせることが出来なかった。例えば腰だけで八の字を描いたり、ジャンプのタイミングが遅れたりして自分だけ目立ってしまい恥ずかしかった。そんな様子を見て先生は後ろから鋭い視線を送ってくるものだから、私はずっと体操に集中することが出来なかった。
全てのトレーンングを終えると、私たちは初回の時と同じように大きな円になって床に座った。彼らの真剣な眼差しを見ていると張られた弦のような緊迫感が場の空気を支配していたことは明確だった。
「はい、じゃあ一〇ページを開いてください。いつものように一人一人に読んでもらおうと思います。じゃあ、今日はこっちの方からにしようかなー」
彼女の隣に座っていた私に視線が向くと、とっさに私は目をかっぴらいた。
「はい」と武士のような返事をすると、すっと真っ直ぐに立ち上がった。
—今日は大丈夫さ
「お前の脚絆はかわうその皮の皮脚絆、私の脚絆もかわうその皮の皮脚絆、川向こうでかわうその皮比べしよう」
—よし!完璧だ!!
私はドキドキしながら先生の方へと目をやると、彼女は閉じていた目をぱっと開きノートに何かを書き出した。
「うーん、まだ滑っているなー。前回云ったように母音を横に書いてみた?」
—まだ駄目なの‥
「あ、はい。書きました!」
「じゃあそれをゆっくり読んでみて」
テキストに書かれた母音を読み上げていくと、彼女は再び目を閉じながら真剣に聞く。
「今度はそれを意識しながらゆっくり文章を読んでみて」
「はい!」
私の向かい側に座っていた藤田達が私のことをじろっとした目つきで見た。自分にだけ先生が時間を取ってくれることに嫉妬しているのか、それとも私が下手で授業が進まないことに腹を立てているのかは不明瞭だったが、とにかく私のことを良く思っていないことだけは分かった。
わざとらしいくらいゆっくりと文章を読むと、彼女は首をかしげながら「さっきよりましになった」と呟いた。
「村道君、脚絆ってどういう意味?」
—知る訳ない
「あれ、調べてきてないの?こないだの外郎売の時、言ったよね?あれ、言ってなかったけ?」
「あ、言ってました」
「じゃあどうして調べてきてないの?」
彼女の語気が強まると、生徒達の体がぴたっと凍りつくように静止した。
—まさかテキストの方まで調べないといけないなんて思わなかった
「はい、じゃあ他の人で分かる人」
丁度、私から見て三時の方向に座っていた角田の手が真っ直ぐ上に伸びた。
「昔の人が脛に巻く、革でできた衣服のことです」
「はい、有難う。角田君以外に手を挙げなかった人に対してもだけど、分からない単語を調べることは当たり前のことだからね。その理由はもう説明しないけど。来週からはちゃんとチェックするようにします。はい、座っていいよ」
私はふうっと彼女に聞こえないようなため息を零すと、ゆっくりとお尻を床につけた。前回ほど精神的なダメージはなかったが、それでも気持ちが沈んだことは確かだった。次々と生徒達が立ち上がりテキストを読み終える中、私のように長い時間立っている者は誰一人としていなかった。
—俺、あいつらに比べて下手か?滑舌そんなに悪くないだろ!
勿論、飛び抜けて上手い人は別だったが皆の朗読をよく聞いているとそんなに上手じゃない人も多数いた。それなのにどうして彼女は私ばかり攻撃してくるのだろう。やはり私に期待を寄せているからなのだろうか。それとも本当に私の滑舌や基礎的な部分が全くといっていいほど駄目なのだろうか。あれこれと考えていくうちに時間はあっという間に過ぎ、ついに休憩時間へと入った。
「休憩が終わったら、外郎売の続きをやります。一人ずつに朗読してもらうからそのつもりで宜しくね」
先生が教室からいなくなると、生徒達はいつものようにグループで固まりわちゃわちゃと楽しそうに話し始めた。喉が渇いたのでロッカーにお茶を飲みに行こうと立ち上がった瞬間、橋本が私の肩にポンと手を置いた。
「いやー、結構難しいよね。中々上達を感じないわー」
橋本はクラスの中では上手な部類に入っていたものの、先生からは他の人に比べて注意されることが多かった。
「俺なんて怒られてばっかりだよ」
ぼそっとそう呟くと彼は藤田達がいる方を見ながら、「そんなことない」と言った。
「逆に注意されている方が気にかけられているということだよ。まじで。期待されているんじゃない?」
「そうかなー。俺はお前と違って下手だからあれだけ注意されているような気がするよ」
橋本は何も返さずただ私のことをじっと見つめていた。
「喉が渇いたから、ちょっとロッカー行くね」
「はいよー」
本当はこの時、自分がどうして先生から特別視されているのか何となく分かっていた。きっと自分には他の人より多くのアドバンテージを持っているから事務所としては売り出していきたい気持ちがあるのだろうと思った。もしそうだとすれば、最初から上級コースに上がれる人は大筋決められている出来レースなのかもしれない。
ロッカーの中へ入ると、一人水筒を持ちながらスマホを確認する角田の後ろ姿が見えた。私は彼から距離を取るように、すたすたと自分のロッカーへ向かうと彼は突然、こちらを見ずに「もっと頑張れよ」とぼそっと嫌みたらしい低音な声で呟いた。私はあまり人間関係でのいざこざを好まない性格の持ち主だったので、わざと明るい声で「分かった!」とだけ返答した。すると彼は私の発言が癇に障ったのか、軽く舌打ちをしながら「ちょっと他の奴より声が良いからってよ」と私に聞こえるような声の大きさで言った。
私はこの場を一刻も早く立ち去りたかったために水筒に入ったお茶をゴクゴクと全て飲み干すと、彼と目線を合わせないようにロッカーへと向かった。
「学歴とかこんなところじゃ関係ないからな!」
耳の横で突然そう叫ばれたので私は思わず肩をびくっと振るわせると、彼はニヤリとした笑みを浮かべながら私の後ろ姿をじっと見つめていた。
「どうしたの?何か顔色悪くない?」
「ん?大丈夫だよ」
私はなるべく藤田たちが視界に入らないように意識しながら橋本と他愛もない話をしていると、扉が開く音がした。さっと後ろを振り向くと角田が先生と何やら楽しそうに話しているのが見える。その姿がなんとなく媚を売っているように見えたので角田という人物がより一層嫌いになってしまった。
「じゃあ皆、教室半分のスペースが欲しいから後ろの方に詰めて座っていってください」
一斉に生徒達は立ち上がると藤田達がこちらへゆっくりと近づいてきた。私は彼らとなるべく距離を置きたかったので、一度立ち上がり彼らの座る位置を確認しながら座った。
「じゃあ、テキストの三五ページを開いてください。初回の授業の時のように今日も外郎売を皆の前で読んでもらおうと思うけど今回からは注意も含めます。じゃあ最初に読みたいという人は挙手してください」
真っ先に角田の右手が上がる中、それ以外の人達は下を向いてテキストを眺めている。この中で一番上手な藤田でさえ下を向いて黙ったままだった。そんな中、角田に対抗意識を持ったのかそれとも先生にアピールしたかったのか私も彼に続き思いっきり手を挙げた。
「じゃあ、二人でじゃんけん」
彼のこちらを振り向いた瞬間のギロッとした目が怖かったが、私は心の中で絶対に負けないことを誓うとグーとチョキがそれぞれの手で出され、私が勝った。
―やった!
「じゃあ村道君から読んでもらおうと思います」
前回に比べて自信があった私は全く緊張することなく、すっと皆の前に立つことができた。初回の授業の反省を生かして、一週間かけて一つ一つの単語を調べ上げ馬鹿の一つ覚えみたいに何度も練習したおかけでテキストなしで言えるほどまでになっていた。
「村道君はどんなことをイメージしながらこれから言おうと思ってる?」
「はい、実際に長机の上に置いてある外郎を手に持ちながら、身振り手振りで話すという場面をイメージしています」
「なるほど、ということはもうお客さんは既に周りに集まっている状態ということね?」
「はい」
—絶対に今日こそ皆をびっくりさせてやる
「テキストなしで読むのね?」
「そうですね」
「はい、ではどうぞ」
皆の視線が一気に私へと集まると、少し緊張してしまい無意識のうちに唾を飲み込んでしまった。一呼吸置くと私は渾身の力を振り絞り大きな声で演説を始めた。前回は滑舌の悪さを中心に注意されたので、今回はなるべくゆっくりと喋ることを意識するようにした。
—結構いいんじゃないか
時には身振り手振りを使ったりしながらお客さんに商品を購入してもらえるように強調したいところは強めに話したりすることも心がけた。そして、僅か二分で話し終えると私は自信満々の顔で先生の方を見つめた。生徒達は少し首を下に傾けて恐れ入った表情をしているように見えた。
—どうだ!今回の俺は前とは違うぜ!!
「はい、有難う。先ずなんだけど、やっぱり所々滑っているところがある。それと暗記してきたことは凄いと思うけど、何となく暗唱しているだけというふうに感じられるかー。きっと、村道君はそういうつもりじゃなくても聞いている側はそう思ってしまうと思う。それと喋るスピードをもう少し上げた方がいいかな」
—ふざけるよな。何言っているんだ、このおばさん。お前がゆっくり喋るように意識しろと言ったんだろ
「はい」
「他にもまだ注意する点は幾つかあるけど、やっぱり村道君の課題は滑舌だね。他のことよりも先ずはそこを直さないと次のステップには行けないかなー」
「あ、はい」
さっきまで真っ直ぐに伸びていた背中はいつの間にか前へと傾いていた。今回は特にその滑舌に細心の注意を払ったはずなのに、先生にはそれが全く伝わっていないことがショックだった。この一週間は学校の勉強を犠牲にしてまで滑舌を中心に何度も風呂場でテキストを読み込んだり、夜遅くまで分からない単語を辞書で調べたりもした。だけどそこまで頑張っても評価が前と変わらないことは私を意気消沈させた。
—もう先生の期待に答えられないかもしれない
「はい、じゃあ座っていいよ。次の人」
それから私に続く人たちも先生から様々な指摘を受けることはあったが、私のように滑舌のことについて触れられるものは誰一人としていなかった。
—そんなに俺って滑舌悪いのか
結局、その日の授業は物思いに耽ったような顔をしながらただ時間が過ぎ去っていくだけだった。授業が終わると私は二階にあるトイレへと直行した。顔色が悪かったので自分の姿を誰にも見られたくなかった。狭い個室の中で皆がいなくなるのをひっそりと待っている間、私はスマホでゲームをしながら時間を潰した。それから三十分経過し、そろそろここを出ようと便座の上からゆっくり立ち上がろうとした時ドアをトントンと二回ノックする音が聞こえた。
「村道君、中に入ってる?」
突然の出来事に驚いた私は咄嗟に自分を落ち着かせようと、「ちょっとお腹が痛くてね」と小嘘をついた。
「大丈夫?」
心配してくれていることが声の調子から良く分かった。まさか橋本がこんなにいい奴だなんて思ってもみなかった。彼と出会えただけでもここに来れた意味はあったのかもしれない。
「もう、大分治ったよ。出るね」
ゆっくりと扉を開けると、薄い緑のカーディガンを羽織った橋本が目の前に立っていた。
「顔色悪いね。しばらく休む?」
「大丈夫だよ。わざわざ待ってくれて本当に有難う」
橋本は服を着替え終わると、今日学んだことをまとめたノートを振り返りながら話を切り出した。
「そういえば他の人に聞いた話なんだけど、上級コースに上がれる人って全体のクラスから四人いるかいないかだってさ」
私たち以外にも他の曜日に通うクラスを含めると全体で二百名近くの生徒達がここ「ボイスエクステンド」に在籍していた。そうなると、一年後にこの事務所に通い続けられるのはほんの僅かの人だけということになる。
「だから俺たちのクラスから誰も上級コースに上がれない可能性もあるってことよ」
その言葉を聞いた瞬間、何故か自分が最終的に先生から名前を呼ばれず自宅に帰って行くシーンが鮮明に頭に浮かんだ。私は直感的に自分が事務所の人たちに認められるほどの実力をつけられないことを悟った。
「俺、絶対、声優になりたいんだ!やっぱり声のお芝居が大好きだからさ。だから、毎回ここに来る時は全ての情報を吸収しようと思いながら授業を受けてる」
彼は私とは違う。私は彼ほど芝居に対する熱意がなかった。本当は声優になりたいわけじゃなくて、一般的な職業とは掛け離れた存在に対する憧れがあっただけかもしれない。固い決意を語る橋本の表情の裏にはキラキラ光りながら情熱に溢れているように見えた。その姿に圧倒されつつも、私は彼のことを純粋に応援したいと思った。
「お前なら絶対なれる!」
私たちはその後、近くのラーメン屋でご飯を食べ終えると駅のホームまで一緒に歩いていった。
「じゃあ、また来週!」
「おう、またなー」
これが私たちの最後の会話になるとはこの時思ってもみなかった。そして、今からちょうど一年後彼が上級コースに昇格できなかったことをホームページ
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