二〇一〇年一一月二四日
暗闇の中、パッと時計に目をやると時刻はまだ六時前だった。いつもならこんなに早く起床することはないのに、今日に限って早く目が覚めてしまった。
ベッドから起き上がろうとした瞬間、胸の動悸がした。心拍数は平常時の二倍くらいの速さでトクトクと鳴っている。緊張しているのだろうか。学校へ登校することに恐怖心を抱いているのかもしれない。しかし、たった一日学校へ行かなかっただけでこんなにもそわそわした気分になるものだろうか。きっといつもは毎日が苦しみだったおかげでそれに慣れてしまっていたのだろう。
―行きたくない、怖い
貧乏ゆすりをしながら再び時計に目をやった。六時五分。朝食まで後、五五分。イライラする気持ちが心の中で膨れ上がり、今にも爆発しそうだった。
—苦しい、助けて
そんな時相沢が以前、私に言ってくれた言葉がフラッシュバックした。
「修行にするのは自分だって」
自由に生きたければ学校なんて辞めてしまえばいい。好きなことをやり続ければいい。(勿論、それが生活できる程のお金になる必要はあるが)だから、もっと楽に生きていいんだ。でも、私にはそんな簡単なことが出来なかった。
—後二年の我慢なんだ。
ここまで来て辞めることは自分のプライドを傷つけることになる。それに、高校を辞めるなんて両親に言い出したら、きっと大喧嘩になるだろう。最悪、縁切りされてしまう可能性だってありうる。貧乏ゆすりがさっきより更に激しくなると、机の隣に置いてあるゴミ箱を蹴り飛ばしたい衝動に駆られた。この気持ちをどうにか解消したいと考えた私は、以前にもこの部屋で全く同じ気持ちを抱いたことを思い出した。
—あのラップ
早速スマホから検索すると私は椅子から立ち上がって動画を視聴した。冒頭シーンから数十秒経つと、あの激しいラップが始まった。まだサビでもないのにこんなに力強いラップで始まる歌はそうないだろう。しばらく聴いていると、私はプロモーションビデオに映る黒人男性の動きをまねしながら口パクを始めていた。段々と気分が高潮し、活力が湧いてくると苛立ちや恐怖という感情が嘘みたいに消えていくのを感じた。そんなことをしていると、あっとういう間に時間が過ぎ、気づいたら七時半を過ぎていた。
—まずい!
「何でお母さん、いつものように起こしてくれなかったんだよ」
急いで食卓へと向かうと、小さな張り紙が貼られた弁当箱の横に白米と煮物がラップされて置いてあった。
—今日、お母さん朝から出かけているんだった
全部食べている余裕はなかったので、白米を半分ほど食べ、煮物を口の中へかき込むと、弁当を持ってすぐに家を出た。
教室の扉を開くと、数人の男女が固まって楽しそうに何かを話している光景が目に入った。急いで走ってきたことを悟られないように、平静を装おうとしたが、顔から汗が滝のように流れていたせいで他の生徒達から変な目で見られた。
席に着くと、私は顔をかがめるようにして机の表面をじっと凝視した。すると胃袋がキュウーっと鳴り出したので、私はとっさにお腹を抑えた。その様子を隣の女の子が横目でじろっとこちらを見てきたので、私は気を紛らわせるために教科書とノートを取り出し机の上に置いた。その直後、一限目を知らせるチャイムの音が鳴った。火曜日の一限目の授業は英語だった。ガラリと扉が開くと、高橋先生はセンター分けされた前髪を直すようにしながら教壇まで歩いた。
「ちょっとね、授業を始める前に別館の保健室の近くにあるトイレについて一つお知らせがあります」
その言葉を聞いた瞬間、彼を見る私の顔が一瞬にして引きつるのを感じた。
「最近になってね、トイレの中が弁当臭いという報告が職員室の方からありました。で、誰が食べているのかについてはまだ分かってはいないんだけど、もしこの中にいたら今後はそういうことをしないようにお願いします。じゃあ、授業を始めます」
「えっ先生、それって便所飯ってこと?」
私から見てちょうど反対側の前列に座る細田が目を輝かせながら聞いているのが見えた。高橋先生は口元を緩めながら「まあ、そうなるな」とだけ一言言うと、細田の後ろに座っていた北川がわざと声を上げるようにして「そんな人、俺らのクラスにいる訳ないですよ、だってみーんな、優秀ですから」
その瞬間、クラスに異様な空気が流れるのを感じた。誰も私の方を向かなかったが、直感的に彼らの頭に私の姿が思い浮かべられていることが何となく分かった。
「はい、分かった、分かった。それじゃワークブックのは八五ページを開けて」
一斉に生徒達はペラペラとページをめくり出すと、ノートに何かを書き出した。私一人だけが乗り遅れ、蚊帳の外にいる気分だった。
「今日は後ろから当てます、えっと、村道君」
まさか授業初っ端に当てられるとは思ってもみなかったので、ビクッと左肩が震えた。
「あ、はい」
「上から訳していって」
「えっとー」
「As many developed countries become the destinationから、八五ページだよ」
—宿題やってきてない。終わった。
隣の人をちらりと見るが、彼女は私の視線に気づかないふりをして前を向いていた。
「えっと、先進国が‥えっと」
「君は宿題をやってきたのかい?」
「あ、はい」
高橋先生はむすっとした顔をしながらこちらに向かって歩いてくると、一斉にクラスメイトの視線が私へと集まった。
—恥ずかしい。そんなにこっち見ないでくれよ
彼は少し前かがみになりながら机に置かれているノートを見ると言った。
「何も書かれていないじゃないか。君はふざけているのか」
「すみません、実は先週から風邪を引いてしまっていて」
眉間に皺がよった高橋先生の顔が私に近づくと、彼は真顔でこう言った。
「熱はいつ治ったの?」
「昨日です」
「じゃあ、宿題をする暇は少しくらいあったんじゃないの?」
「はい、でも範囲が分からなくて」
「それはクラスの友達に聞けばいいことでしょ。この授業では必ず宿題が毎週出されることは最初に言ったはずだけど」
細田と北川がニヤニヤしながらこちらを見ているのに気がついた。人間はどうしてこうも人の不幸を好む生き物が多いのだろうか。別に彼らに限ったことじゃない。じろじろと物珍しそうな動物を見るかのような、彼らの目。そう、あの目だ。
「ごめんなさい」
「次回は君から当てるからね、えっと秋中君だっけ?」
「先生、秋道です!」
誰かが言った。
「あ、ごめん。そうだったね」
「は?村道だろ!!適当なこと言うなよ」
細田たちの笑い声が教室に響くと、彼は教壇に向かうと授業を再開した。
私は軽く隣の人に聞こえないように舌打ちをすると、暫く誰もいない窓側の近くをじっと眺めた。
授業も終わりに差し掛かった頃、再びお腹がぐーっと鳴った。朝ご飯をしっかり食べなかったせいで、頭が少しぼおっとしていた。結局、一限目の授業はほとんど上の空で、ノートもほとんどろくに取ることはなかった。
「礼」
私は席からゆっくりと立ち上がると、皆よりワンテンポ遅れて頭を下げた。先生が教室からいなくなると、いつものように皆、グループで固まってぺちゃくちゃと楽しそうに喋り始めた。きゅるきゅるとお腹がさっきより大きな音を立てて鳴ると、私はバッグの中に入っている弁当箱を凝視した。
バッグを手に持って保健室のトイレまで向かおうかと一瞬、考えたが一限目の高橋先生の報告を思い出して諦めた。
—それならよし!
私は意を決すると、弁道箱を机の上に置き少し震えた手で蓋を開けると、唐揚げの匂いが鼻先に漂ってきた。食欲がそそられると私は箸を手に取り、少し前かがみになりながらご飯を口の中に入れた。
「あ、ゆぶぴー、早弁とか不良かよ!」
「あいつ、この頃いきり始めたな」
—そもそも、早弁って何故駄目なんだろう。誰にも迷惑を掛けていないんだから食べたい時に食べちゃ駄目なのだろうか
私は日本の忌わしき文化を呪った。彼らは相変わらずこっちを凝視するものだから、落ち着かなくなった私は遂に弁当箱をバッグの中にしまうと次の時間の教科書とノートを机の上に広げた。
「相沢がいなくなって、あいつ、すねてやがるんだよ」
「なるほどな」
彼らは馬鹿笑いをしながら、数分後にはまた別の話題で盛り上がっている様子だった。
—何でこんな嫌な目に遭わなきゃならいないんだよ!
怒りと悲しみの気持ちを抱えながら、私はスマホをポケットから取り出すと気持ちを紛らわせるため適当にアプリを開いた。そんな時、上部画面に一件の通知が届いた。相沢からのメッセージだ。これもお勧めというメッセージに加えて長めのリンクが貼ってあったので、早速開いてみるとどこかの動画サイトへと飛んだ。音を消して再生ボタンを押すと、それは声優を志望する人たちが行うトレーニング集をまとめた動画だった。音無しでも十分、内容を理解出来るものだったので、いつの間にか私は夢中になって画面に釘付けになっていた。
結局、二限目の授業が始まっても、私は心の中に溜まったむかむかしたものを取り払うことが出来なかったせいで授業に集中することはできなかった。
「前回の続きだけど、江戸の鎖国制がペリーの来航によって破られたことを話したと思うけど」
一旦、スマホから目を離すと私はペンを片手に持ち、教科書をペラペラとめくった。
-どうしてこんな下らないことをわざわざ暗記しなきゃならないのだろう
高校に入学してから学ぶ歴史ほど時間の無駄な科目はないと思った。おかげで教科書の文字を読んでいると、いつも強い睡魔に襲われそうになる。
授業が退屈になった私は教科書を少し自分の方へと引き寄せると、その下で動画の続きを視聴することにした。前までの私ならこうしたことに罪悪感を感じていたかもしれないが、今は全くそう思わなかった。
最近になってつくづく学校で学ぶ勉強は本当に意味のあるものだろうかと考えることがある。前にも母親に言ったが、結局私たちが学ぶ理由は良い大学に入学しそれなりの企業に就職するためだ。何だかんだ言って全てはここに繋がるのだ。この教室に座っている大半の奴らもきっとそのために毎日しこしこと家で勉強しているにちがいない。(勿論、そうでない人もごく少数いるが)しかし、実際勉強が出来ることはこの長い人生においてそんなに重要なことなのだろうか。他人よりペーパーテストをすらすら解けるからといってそれがどうしたというのだ。大人たちはいつも学校で勉強することは必ず将来に役立つとか何とか言うが、それは全部まやかしに過ぎないと思う。この歴史だって、膨大な量の単語を覚えたところで結局社会に出て役に立つものではないし、ほとんどが忘却の彼方へと消え去ってしまう。現に私の母は奈良時代の次に来る時代すら答えられないではないか。それなのに私たちはこんなにもストレスを溜めて、この意味のない膨大な量の単語を暗記しなければならない。何故か。答えは簡単だ。大人たちが言ういい大学へ入学し、それなりの企業に就職するためだ。
それだけでなく彼らはこうも言う。歴史を勉強すれば今まで自分たちがどんな過ちを犯してきて、どういう過程で現代の私たちがここに存在しているのが分かると。なるほど、確かに彼らの言うことは一理ある。でも、もしそれが本当だとしたら私たちが勉強する方向性は間違っているのではないだろうか。本当に自分たちがしてきたことを顧みるなら、もっとそうしたことを考える機会を授業で設けてじっくりと考えることのほうがよっぽど有意義にちがいない。それなのに、私たちは全く役に立ちそうにもない幕府の将軍の名前や過去の人間が作った法律を必死に暗記しなくてはならない。そして、これらの下らない知識をより暗記出来た人間が高学歴という名誉をぶら下げいくのだ。
別にこれは社会に限ったことじゃない。英語だってそうだ。教師は生徒達に英語は難しいものだと感じさせながら焦点のずれた学習を徹底的に六年間教え続ける。どうでもいい英文法を何年も学習し、結局日常会話レベルの英語すら全く話せないというのはあまりに滑稽ではないだろうか。もっと楽に英語を勉強する方法はいくらだってある。動画サイトで自分の興味のある分野を検索すれば、それに関する動画を英語での吹き替えや字幕付きで視聴することができる時代だ。日本語だって細かく文法を勉強した人なんてそういないだろう。皆、知らないうちに喋れるようになっているものだ。それなのに、私たちはいつまでたっても試験の為の勉強という枠組みから抜け出そうとはしない。
私は心の中でぶつぶつと一人呟きながら、スマホの画面を眺めていた。結局、その日は授業に集中することは一度もなかった。
―だって全てが無意味に思えてくるから
自宅に帰ると、私は早速、動画にあったトレーニング内容を実践することにした。適当に本棚から本を一冊取り出すと、私はそれを風呂場に持っていった。床が濡れていないことを確認すると、私はゆっくりと朗読を始めた。最初は少しつまずく所もあったが、数十分経過すると段々とすらすらと綺麗に読めるようになった。そして、それが出来るようになると今度は台詞を中心に腹から声を出すようにして、登場人物になりきってみたりした。
今、読んでいる場面は今にも餓死しそうな青年がある一軒家を訪ね、食べ物を強請るところなのだがその時の感情をどう声で表現することが正しいのかよく分からなかった。前に見たアフレコ動画を思い浮かべながら演じようとしてもキャラクターに感情移入することは想像以上に難しかった。何度も同じ台詞を自分なりにアレンジしながら読んで見てもどうもしっくりこない。それなら実際に自分が細田達から嫌がらせを受けている場面を思い出してみようという考えが浮かんだ。少年が抱く気持ちと私が感じた苦しみの状況は違えど、苦しみという観点から見れば似通っているとも言える。驚くことに彼らの顔を少し思い浮かべただけで憎悪が心の中で膨れ上がっていくのを感じた。そして、今度はしっかりとそれを頭の中で強くイメージしながら台詞を読んでみると、青年が飢え死にしそうで苦しんでいる状況をしっかり表現出来た気がした。
—中々、俺才能あるんじゃないか
今まで私は何かに対して自信を持ったことが無かったせいか、この時の私は変に自信過剰になっていた。勉強だけしかしてこなかった人間が初めて何か別のことで自らを誇る気持ちを抱いたのだから当然といえば当然だ。
勢いに乗ってきた私はそれから声優の基礎として欠かせない腹式呼吸から早口言葉、そして舌根トレーニングまでありとあらゆる練習を行った。このように勉強以外のことで積極的に学んでいこうとかもっと向上しようという気持ちになったのは初めてのことだった。
時間を忘れるくらい集中して口を動かしていると、段々と体力的に疲れてきたので一杯お茶を飲みに行こうと台所に入った瞬間、部屋に明かりがついているのに気がつくと自然と足が止まった。
母は私の固まった姿を見ると、ニヤニヤと笑いながら私の目をじっと見てきた。
「風呂場で何をやっていたの?」
「別に何も」
「ふうん、まあいいわ。また思い出し考え出し何か始めたのかなと思って」
「うるいさな、ほっといてよ」
「そういえば、秋悟、テストもうすぐなんじゃないの?」
「うん。十二月上旬にあると思うよ」
「ちゃんといい点数とりなさいよ」
「分かっているよ。そんなこと言われてなくても」
昨夜言えなかった養成所のことについて今日言おうと思っていたのに、私の頭からはすっかりそのことは忘却されていた。
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