二〇一〇年一一月二三日
カーテンの隙間から入る太陽の光で目覚めると、私はゆっくりと上半身を起こした。机にあるデジタル時計を見ると一〇時半と表示されていたので、私は慌ててワイシャツに着替えようとしたが、昨夜の記憶が蘇るとすぐに平静を取り戻した。
—そっか、学校休むんだった。でも、まだお母さんにそのこと言ってないのにどうしてこんな時間になっても起こしてくれなかったんだろう
ワイシャツをハンガーに掛け、パジャマ姿になると私はぼさぼさの髪で食卓へと向かった。机にはラップされたご飯が並べられおり、その隣で母はベランダで洗濯物を干していた。
窓ガラスから見える白い炎のような日光は不思議と私に元気の源を分け与えてくれたような気がした。普段なら、落ち着いて日光を浴びることはなかったのでこれほどすっきりした気分でいられることは心底嬉しかった。
「あら、起きたの。今日はよく寝ていたわねー。学校は休みにしておいてあげたわよ。でも、明日からはちゃんと行きなさい」
「あ、うん」
何だか昨夜に考えた作戦が馬鹿らしく思えてきて、私はついフッと笑ってしまった。それにしてもこんなに五感を通じてのんびりとご飯を食べたのはいつ振りだろうか。普段の朝はどこか体がこわばって緊張していたし、心から何かを感じることは少なくなっていた。こんな毎日を過ごしている人はきっととても幸せなのだろう。
手を合わせて「ご馳走様」と言うと、私は食器をカチャンという音を立てないように優しく流し台へと置いた。
—はあ、なんて気持ちのよい一日の始まりだろう
別段これといってやりたいことがあったわけではないので、私は部屋に戻ると布団を綺麗に畳みスマホを持って椅子に座った。溜まっていたメールなどを流し読みしていくと、相沢からの着信履歴があったことに気がついた。
—一一月一九日って、確かあの日はお母さんと喧嘩してすぐに寝たんだった
相沢に対して申し訳ない気持ちがあったが、それと同時に久々に彼から連絡が入っていたことに気持ちが舞い上がっていた。いつか連絡をしようとは思っていたが、自分が抱えていた問題をずるずると引きずっていたせいでいつの間にか彼に連絡することを忘れてしまっていた。ラインのトーク欄を確認すると、二通の着信と「また連絡する」とだけ書かれたメッセージが入っていた。
-今、連絡してもあいつ学校だろうな
何だか学校に行っていない自分に罪悪感を抱いた。皆と同じように電車に乗っていないお前は駄目人間だと脳内にいる天使に言われている気がした。
—今頃、四限目が丁度始まる頃だろうな
ぼんやりとそんなこと考えていると、左隣の部屋の扉がガタンと開いた。
思わずビクッと肩を震わせると、反射的に少し屈んだ。カタッカタッと足音が近づいていくと、机の下に隠れながら窓の様子を窺った。
—多分、影の形から察するに隣の家族のお母さんだろう
足音が完全に止むと私は胸を撫で下ろし、元の位置に戻って座った。私は昔からあまりお隣さんというものがどうも好きにはなれなかった。特に他人の事情を詮索し、プライベートの境界線が分からないような鈍い人間は。普通の会話程度なら何も問題はないものの、「どこの学校に行っているの?偏差値は?」、「どこの店でいつも服を買っているの?」、「うちの子は〇〇大学行かせようかなって」といった無神経な質問から自慢話をされることが何だか不快だった。きっと母も同じ気持ちでお隣さんと接しているのだろう。
相手に決して悪気がないとしても、嫌なものは嫌なのだからどうしようもない。ただでさえ学校が息苦しいのだから、家くらいは完全なプライバシーが欲しかった。尤も、最近はお隣さんと会う機会が減ったためかあまり気にならなくはなったが。(無意識に避けたいという願いが叶っているのかもしれない)
—さて今日はうんとゆっくりするかー
それから私は蛍光灯をつけた薄暗い部屋の中で昨夜のアニメの続きを視聴することにした。本来なら学校の課題や予習などで忙しく、集中して視聴することが難しかったが今日はそれらのことを一切考えないようにした。
イヤホンで耳を密閉すると私は僅か数分で物語の世界に没入し、顎を引きながらじっと画面に釘付けとなっていた。それくらい私がアニメを見る集中力は寝食を忘れるくらいのもので、この時の時間が最も幸福だと言っても過言ではなかった。
しかし、そんな夢のような時間も長く続くことはなく、突然バンという思いがけない音でかき消された。慌ててイヤホンを耳から外すと、私は窓を少し左にスライドさせ、覗き見をするように眼球を少し左へと動かした。隣の光くんだ。きっと小学校から帰ってきたのだろう。何やら足で藍色のボールを壁に打ち付けながらエレベーターの方向へと向かっているようだった。
彼を一言で表すとしたら、隣の家族の一番の問題児みたい奴で頻繁に母親からぎゃあぎゃあと怒られているような子供だった。同じマンションに住む人から動物園と呼ばれるのも彼が一番の原因と言っても良いくらいだった。
—まずい、こっちに来る
別に彼のことが嫌いではなかったが、何となく目を合わせるのが気まずかったのでとっさに窓をガランと閉めた。彼はその動作に全く気づく様子はなく、無邪気にボールを壁に蹴り続けながら通り過ぎて行った。その音もすぐにピタリと止むと、無音のため息をつきながら私は元の椅子へと戻った。一時停止ボタンの上には白い文字で「天国へ旅立った人形 episode一〇」と表示されている。
—あー面白かった。それにしても今日は結構、見たなー
時計に目をやると既に時刻は一五時半と表示されていた。
—今頃、皆、学校から帰っている時間だな
睡魔が突如襲ってきたせいか私は大きな欠伸をすると、両手を真っ直ぐ天井に向かって伸ばすとそのままベッドに倒れ込んだ。
—なんていう幸せ。明日も、いや、もう毎日これでいいや
今の私の頭はまるで睡眠薬を飲まされたかのようにふわふわしていた。その上、内体の節々がとろけるようになり、暗くて遠い居心地の良いところへ引き込まれるような感覚を覚えた。そして、目を閉じた次の瞬間にはもう眠っていた。
まだ外は薄明るかった。目をこすりながら、起き上がると台所の方からトントンという音が響いてきた。何の音だろうと思いながら、台所まで向かうと母が包丁で野菜を切っている姿が見えた。
「もう風邪は治ったの?」
「うん、もう平気」
「良かった。明日からはちゃんと学校に行きなさいよ」
その言葉は一瞬にして私を空虚な現実世界へと引き戻した。きっとまだ夢の世界の住人の気分だったのだろう。それがたった今の発言で得体のしれない不安に押し寄せられた気がした。
気分転換に新鮮な外の空気を吸おうと思い、リビングの窓を開けた。すると、さっきまでほとんど聞こえなかった子供達の笑い声や叫び声が一斉に響いてきた。私はスリッパを履いてベランダから視線を下へ向けると、子供達がドッチボールやサッカーを道路の上で遊んでいるのが見えた。ぼおっと楽しそうに遊ぶ彼らの姿を眺めていると、ふとこの直線上の道を歩く自分の後ろ姿が見えた気がした。
—何だか悲しそうな背中
遥か向こうに見える夕日がビル群の向こうに落ちかけているのが見えた。その光景はまるでこれからの未来を暗示しているような気がした。
—明日、嫌だな
気分が沈んでいくのを感じる。段々、外から聞こえてくる音が不快になってきた。
「秋悟!スマホ、鳴っているわよ」
一瞬にして憂鬱な分から解放されると、私はスリッパを急いで脱ぎ、窓をガタンと閉めると自分の部屋まで走っていった。誰が電話をしてきたかは分かっていた。相沢だ。胸のそこから嬉しさがこみ上げて来るのが分かる。
—久々に相沢と話せる!
机の上でバイブの鳴ったスマホを手に取り、耳に当てた。
「あ、もしもし」
たった数ヶ月間会ってないだけなのに、何故か緊張してしまいとっさに声が裏返ってしまった。
「もしもし、秋悟?」
前に比べて声が少し低くなっていたせいか、何となく彼との距離感を感じてしまった。
「あ、うん。久しぶり。元気にしてる?」
「何でそんなによそよそしい態度なんだよ?」
彼のボソッとした笑い声が耳に響いてきた。
「いや、だってずっと話していなかったから。それに、お前も神奈川に行ってもう俺が知らない相沢になっているんじゃないかって思ってさ」
「いつもの俺だよ。そんなこと言われたら何か悲しくなってくるわ」
—良かった、いつもの相沢だ。
警戒心が解けると、私の態度も段々と普段通りに変わっていった。
「学校どう?楽しい?」
彼は私に神奈川での学校について色々なことを教えてくれた。友達のこと、演劇のこと、先生のことなどを楽しそうに話しているのを聞いて、私は少し羨ましさと喜びが入り混ざった感情を彼に抱いた。特に演劇については、既に演劇部の顧問から実力を認められ、来月には脇役として舞台に出演するそうだった。
「すげえな、相沢は。演劇が本当に好きなんだね。ここにいる時に比べて何だか明るくなった気がする。やっぱりさ、神奈川に行って正解だったね‥」
しばらく、私たちの間に沈黙が続いた。ふと夜の公園のベンチでの出来事が脳裏を過ぎる。
—あーもう、最後の一言余計じゃん。なんで俺はいつもこう‥
気まずくなった雰囲気を打ち破るために私は話題を変えることを試みてみた。
「そういえばさ、話が変わるんだけど」
「うん」
「前にお前が紹介してくれた天国へ旅立った人形、めっちゃ面白いな!今日なんか七話分くらい見ちゃったよ!」
「今日って平日だろ?なんでそんなに見られるんだよ」
「実はさ、俺、昨夜高熱を出して一日中寝てたんだよ」
「まじかよ。大丈夫か?まだ治ってないの?」
「それがさ、たった一日で随分元の状態まで回復したんだー。すごくない?
多分、俺が見た悪夢のおかげかな」
「悪夢?何だよそれ?」
「簡単に言うと、細田に殺されかける夢。お前が最後に細田を仕留めて夢から覚めるっていう感じ」
「はあ?凄いなお前の夢って。空想が好きだからこそ、きっとそういう夢を見れるんだと思うよ」
「お前さ、何か夢見なかった?俺のお母さんとか出てこなかった?」
「最近は夢なんて見てない。っていうか朝になったら全部忘れてるわ」
「あー、残念。まあいいや。それでさ、あのアニメについてなんだけど俳優の演技めちゃくちゃ上手くない?脚本が凄いっていうのもあるけど、キャラクターそれぞれに声が凄くマッチしているっていうか」
「俳優じゃなくて声優な。確かにすげえよな。声だけであんなにキャラの感情を細やかに表現出来るのはもう職人さんと言っていいんじゃないかと思うよ」
「声優って何か聞いたことあるなー。あんまりテレビとか出ないから知らなかったわ。」
「インターネットで天国へ旅立った人形の生アフレコ動画あるからさ、それ見てみたら。後でリンク送ってやるよ」
「サンキュー!やっぱり持つべきものは親友だね!」
「秋悟、ご飯よー」
台所から母の声がした。食器を机に置く音が聞こえてくる。
「ご飯よーってお母さん言ってるぞ」
「うるさいな。また今度電話していい?」
「大丈夫だよ!」
「有難う。じゃあ、またな。演劇頑張れよ!それと俳優になったらサインくれよな。それ、オークションで売るから」
「絶対にあげない」
私たちは互いに笑い合った。何だかこんなに思いっきり笑ったのは久しぶりな気がした。
—本当に有難う。お前と話せたおかげで俺も明日から何とか頑張ろうっていう気持ちが湧いてくるよ。本当に感謝してる
「じゃあな」
「うん」
電話はそこでぷつりと切れた。楽しい時間はあっとういう間に過ぎ、明日からは地獄の日々が始まると思うと改めて人生は厳しい修行だと思わせられる気分だった。
ご飯を食べ終えると私は早速、彼が送ってくれた動画を視聴してみた。大きなスクリーンの下には、四人の男女が豪華な衣装を着てマイクの前に立っている場面から始まった。会場が真っ暗になると、それぞれ四人を中心にスポットライトが当てられた。すると間も無く、画面に天国へ旅立った人形のワンシーンが流れた。
—これ今日見たところじゃん
このシーンでは、主人公の女の子(佳奈)が目の整形を終えた一週間後に高校へ登校するシーンだった。
「うわ、あの子なんかいつもと顔が違うくない?」
一番、右端に立っていた白いワンピースを着た女性がアップで映った。短い台詞なのに、体全体を使って小意地悪そうな雰囲気を声で上手く表現している。
「もしかしてあの子、目いじったんじゃない。何か少し腫れているような気もするしさ。ねえ、美奈子ちょっとあいつの近くに行って見てきてよ」
今度は美奈子役の隣に立つ水色のスカートを履いた、背の低い女性がアップで映された。童顔の可愛らしい顔立ちが印象的だったが、鋭い目つきで話す姿はとても怖かった。
そして、美奈子が佳奈に近づくと少し威圧するような態度で口を開いた。
「おはよう、佳奈ちゃん。悪いんだけど宿題分からないところがあったから見せてもらえる?」
「うん、いいけど」
少し気弱そうに答える佳奈役の声優がアップに映された。とても身長が高く、他の声優陣に比べてパッと目立つような子だった。特に、大きくて切れ長の目は女優さんのようと言ってもいいくらい魅力的な形をしていた。
—当たり前かもしれないけど、画面の中の人と外の人は全然違うんだな
それから私は他のアフレコ動画から基礎的な練習を紹介する動画まで幅広く見ていくうちに、実際に演技をしてみたいという気持ちが湧いた。こんな風に何かについて積極的にやってみたいという気持ちは初めてのことだった。
まだ声優という職業を知ったばかりなのに、いつの間にか私は声優の養成所のホームページにアクセスし様々な情報を集めたりした。数十分見て分かったことはどこの養成所も基本的に基礎科と本科という二コースに分かれ、基礎科で一年間、発声や滑舌という基本的なことを学んだ後、選抜で残った一五名程が本科に進めるという仕組みが一般的ということだった。
ただ、もし養成所に通うにしても金銭的な問題が私を悩ませた。入所金に一〇万円、そして月額二万というのは決して安くない金額だろう。
—お母さんに相談してみようかな
部屋から出ようとしたその瞬間、リビングから母の声がした。
「秋悟、さっさとお風呂に入っちゃいなさい。明日、学校なんだから早く寝たほうがいいわ」
「はーい、今入るから」
結局その日はそのまま風呂に入り、養成所のことについては言いそびれてしまった。
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