二〇一〇年一一月二二日

 眉毛に雫がたらりと垂れたことに気づくと、瞼が反射的に開いた。私は勢いよく上半身を起こすと、服とシーツが汗でびっしょりと濡れていることに気がついた。特に髪の毛はいつも以上に逆立ち、先端が天然パーマのようにぐるぐる状態になっていた。また床には掛け布団がぐちゃぐちゃに折れ曲り、半分下に落ちている状態だった。

 私は地面に足をつけると、頭がふわっと宙に浮いたような感覚を覚えた。くらくらと視界が歪む中で、洗濯機まで歩いていくと私はそこで全身素っ裸になるとシャワーを速攻で浴びた。

 すると、母親が小走りにこちらへ向かってくる足音が聞こえた。バタンと扉が開くと、彼女は慌てたような表情で私を見た。

「どうしたの、あんた、朝から風呂なんか入って」

「なんか、風邪ひいたみたい」

 母はぎょっとして化石になったように驚くと頭を抱えながら言った。

「寒気はするの?鼻が詰まったりとかは?」

「うん、頭もくらくらする」

「とりあえず、温かい湯船に浸かって、体を温めなさい」

「それと、風呂から出たら体温計で熱を測っといて。朝ご飯食べたら、すぐに近くの病院に行くわよ」

 バタンと浴室の扉が閉まると、私は湯船の中にゆっくりと腰を下ろした。普段、せかせかした生活を送っているせいか中々湯船に浸かる機会がなかったので、こんなにぽかぽかと全身が包まれることが気持ち良いことに驚いた。瞼は今にも完全に閉じられそうで、口はぽかんと半開き状態だった。

 風呂から出ると、ぽかぽかと温まる体の余韻に浸りながらドライヤーで濡れた髪をゆっくりと丁寧に乾かした。そして、よろよろとした体で服を着ると、いつもの二分の一の速さで朝ご飯を黙々と食べた。鼻が詰まっていて味がしなかったが苦手な牛乳の味がしなかったのは幸いだった。

「少し休憩したら、すぐに病院へ行って薬をもらってくるわよ」

 私はこくりと頷くと最後に残っていた牛乳を飲み干し、こたつの中へと潜った。



 病院から帰ると私は即座に自分の部屋のベッドへ寝転んだ。少し歩いただけなのに体力の四分の三を奪われた気分だった。どうやらインフルエンザの疑いはなく、三七.二度の高熱という診断結果だったが低体温症の私にとり三七度以上の熱は予想以上に辛いものだった。

 しばらくすると、いつもより高めの声で喋る母の声がした。多分学校へ電話を掛けているのだろう。今日はあの魔界に行かなくていいと思うと、不思議と風邪のことを忘れて元気が湧いてきたような気がした。特に月曜日の朝は私にとり苦しみという言葉以外見つからない日なのだから。

 —クラスの奴らと顔なんて合わせたくないし、椅子にじっと座って退屈な授業なんて聞きたくねえよ

 私はうきうき気分で体を左右に揺らしながら、布団を顔まで被せ目を閉じていると、いつの間か意識が遠くなっていった。



「相沢、ちょっと待ってよ。歩くの早いって」

 彼の背筋は何の迷いも感じさせないかのようにピンと真っ直ぐ伸びていて、淡々と前を歩いていた。呼びかけても返事がなかったので、私は更に大きな声で叫んでみたが、彼はまるで私に気づいていないかのように颯爽と前だけを見て歩いていく。

 —俺が部様な奴だから、もう一緒にはいたくないのかな

 ふと、そんなこと思うと後ろから誰かが走ってくる足音が聞こえた。おそるおそる振り返ってみると、ぼんやりとナイフを持った男性がこちらに走ってくる姿が見えた。顔の表情はよく見えない。全身は黒の服で統一され、身長は私たちより一〇センチ程高かったことだけは分かった。全身に稲妻のようなものが走ると、私は恐怖で足がすくみただ呆然と立っていることがしかできなかった。足を動かそうにも、脳がそれをすることを拒否した。もう駄目だと思ったその瞬間、突然私の手は相沢に掴まれ、今にも手が引きちぎられそうな力で強く引っ張られた。そのまま彼は猛スピードで走っていくと、私は彼の手を離さないようにぎゅっと握った。

 すると男も同様に刃をこちらに向けながら、先程より早いペースで距離を縮めようとすたすたと走った。再び、ちらりと後ろを振り返ると男はすでに数メートルという距離にいた。殺意に満ち溢れるおぞましい表情を浮かべながら、私たちを強く睨み付けるとナイフを四方八方に振り回してきた。更に、彼はもう一本のナイフを口の中から引っ張り出すと、それを私に向かって投げつけてきた。

 ―化け物かよ

 運良く、右足より数十cmずれたおかげで命中はしなかったものの、彼が私を本気で殺しにきていることだけは明確だった。

「相沢、もっと早く走って!すぐそばまで来ているんだよ!殺されちゃうよ!!」

 しかし、前を向いた時、相沢はもうどこにもいなかった。彼は幽霊のように私が知らない間に勝手に消えてしまったのだ。

 —あいつはやっぱり俺のことなんてどうでもいいんだ。俺が死んだってあいつはただ前を走るだけ‥

 そう思い掛けた時、不思議なことに私の足は自分の意志とは関係なく、前へ前へと二本の足が勝手に動き出した。まるで誰かが私の足に呪文をかけ、強制的に動かされているような感覚だった。

 —何でそんなにいつも俺のことを攻撃するんだよ、俺、何もしていないだろ!皆、消えてしまえばいいのに!



「私たちを殺して君はどうするの?恨みを解消出来たとしても、警察に捕まることは避けられないよ。君は永遠にあの小汚い刑務所で過ごすつもり?

 よく考えなさい!」

 もぐらは私に銃を向けながら冷静になってそう言った。普通の人間ならもっと慌てるところを表情一つ変えずに対処する様子から、彼が本当に人間の感情を持っているのか疑った。

「黙れ!お前ら全員ここでぶち殺してしてやる!絶対にあの世に送って、魂ごと焼き殺してやるからな!!」

 女子達は血相を変えて、私をおぞましいものを見るかのような顔でじっと見つめていた。

「ふん、ゆずぴーごときに撃てるわけないでしょ。やれるものならやってみなさいよ!このクズ野郎が!!社会のゴミめ!!すぐに殺してやるわ!!」

 バンと大きな音が教室内の空気を振動させた。あまりに突然の出来事で彼らは一瞬何が起こったのか分からない様子だった。

 女子生徒の一人が自分の体に穴が空いたことに気づくと、そのまま某人形のように床に頭からごつんと倒れた。それはまるで映画のワンシーンのようにとても美しい光景だった。人がほんの数秒で生から死へと変化する瞬間はとても神秘的でカメラに収めてみたいほどの中毒性があった。

 生徒達は漸く幻想世界から現実世界へと戻ると、くしゃくしゃな顔をしながら絶叫した。彼女達は教室の隅っこまで一斉に走り出すと、自分の身の安全を守るために奥へ奥へと逃げるように押し合いを始めた。それは一種のサバイバルゲームのように自分の命以上に尊いものはないという人間の本性をむき出しているように見えた。

 私はニヤリと笑うと、ゲーム感覚で生徒達を次々と撃ち殺していった。バン、バン、バンと鳴り響く銃声に続き、彼らの体から真紅色の液体があちらこちらに飛び散っていく。その光景を見た私は目をグリグリと回転させながら、ゲームに没頭する少年のように更に殺し続けていった。

 約半分以上の人間達が蝋人形の姿に変わると、突然もぐらは生徒達を守るように私の前に立つと床に落ちていた銃を拾って私に向けた。

 ―悪魔め

 よくドラマでは敵同士が互いに銃を向けながら、ブツブツとお喋りを始めたりするシーンがあるが私は躊躇わず彼の頭にヘッドショットを撃ってやった。銃弾は彼の脳天を貫通すると、赤く染まった金色の塊が床へコロンと落ちた。生徒達の顔や服には血しぶきが掛かり、彼らはしばらく真っ青な顔になりながら呆然ともぐらの死体を眺めていた。そんな時だった。

「あー良かったな、お前の憎しみを晴らせて!最後に死ぬのはお前だよ!この悪魔が――ー!」

 後ろから何かの漫画のような台詞が聞こえてきたのでさっと後ろを振り向くと、半分扉が開いた掃除箱の前で細田がニヤリと笑いながら引き金を引く瞬間を捉えた。

「ほら、よそ事を考えない、今は走っている時だろ。いらないことを考えちゃ駄目だ!」

 ―え?

 こともあろうか、目の前には背中を向けた相沢が立っていた。正義のヒーローがやってきましたといわんばかりに彼の背中はとても大きく見えた。

「俺の助けなんかなくても、お前は大丈夫だ。何度も言うけど、後ろを振り返らずに前だけ向いていろ!」

 銃声が鳴り響いた瞬間、まるで瞬間移動するかのように私は先ほどの雪のような真っ白い空間の中でスタスタと走っていた。



 あれから、どれだけ走っただろう。一向に走っても今だ景色に変化はない。

 呼吸がどんどん浅くなっていくのを感じる。心臓が痛い。おまけに足の感覚はもうほとんどなかった。もういっそこのまま足を止めて死んだ方が楽なんじゃないかという考えが浮かんだりもしたが、せっかく自分をここまで導いてくれた相沢に申し訳ないと思い、すぐにそれを取り払った。

 男の足音が聞こえなかったのでぱっと後ろを振り返ってみると、さっきの男がいつの間にかいなくなっていた。

 ーよかった。きっと体力に限界が来て、諦めたんだ。少し休憩しよう

 私はバタンと背中から大の字になると白目を剥き、舌を半分出しながらはあはあと荒い呼吸をした。頭は完全に真っ白な状態だった。頭に血流がトクトクと猛スピードで鳴っているのが聞こえてくる。それに伴って意識がどんどん遠ざかっていくのが分かる。

 —このまま死んでしまうのだろうか

 恐怖に怯えながらも数分も経たないうちに、私の意識はそのまま煙のように消失していった。



 何かが鼻先へと落ちた。瞼を開くと、真上には病人の顔色のように空が暗くにごっていた。私はゆっくりと手を地面につけながら起き上がると、そこには驚くべき光景が眼前に広がっていた。いつもとはどこか雰囲気が異なるけど、そこは私が一番よく知っている場所。

 —悪魔の住人が住みつく麦藁色の校舎

 私が魂の底から嫌悪する感情のない小さな城がすぐ目の前にどっしりと立っていた。それはまるで私を見下ろし、あざ笑っているようにさえ見える。ひゅるりと風が背中を押すと、私はしばらく殺風景な風景をポカンと見回した。いつも校内を歩く紺色の集団の姿はどこにも見当たらず、活気に満ちた空気は動きを止めたかのように死んでいた。

 —やった、ここには誰もいない。せっかくだから、自由にどこか行ってみよう!

 私はウキウキした気分で校舎の周辺や教室の中を宛てもなく歩いた。いつもに比べて私の手足は前後にきびきびと動き、視線は前を向いていた。また、驚くことに私の眼に映る学校は普段よりキラキラと色彩を帯びながら輝いているように見えた。

 —今までアスファルトしか見てこなかったからな。まるで初めてこの学校に来た気分だ!もっと色々なものが見たい!もっと俺が知らないことを知りたい!

 もっと自由に!ダンスするように体を動かしたい!

 それから、私は自分が満足するまで学校の端から端まで隅々と歩き、今まで入ったことがない教室にも入ったりした。

 —そういえば俺の教室、あの後どうなったかな

 本当は自分の教室に入りたくないどころか、そこでの空気すら吸いたくなかったほどだった。それでも、あれだけ血生臭い争いが行われた教室がその後どうなったのかがとても気になったので、結局自分の教室まで向かうことにした。

 一のEと書かれたこげ茶色の名札を見上げると、私は左手で扉をガラリと開けた。きゅるりと音を立てると、教室の状態は私の予想とは大きく反していた。机は一ミリのずれもなく等間隔に並べられ、黒板はまるで今まで一度も使われたことがないような新品の状態だった。

 —あれは夢だったのだろうか‥いや、確かにあれは夢じゃなくて現実だった

 あれほど乱雑に机が散らばり、地面や黒板に血の跡がべったりとついていたはずなのにまるで何事もなかったかのように綺麗に拭き取られている。なんとなく落ち着かなくなった私は机の周りをぐるぐると歩きながら考えた。

 —確かにあの時、俺は銃で何人か撃ち殺した。銃の重みもあった。それに、引き金を引く感触。人体に穴が開く瞬間。銃弾が落ちる音。もしかして、あれは夢でこれが現実か。うん、そうにちがいない

 これ以上考えても拉致があきそうになかったので、教室の扉をバタンと閉めると私はそこを後にした。 何となく腑に落ちず、そわそわしていた私はふと窓から外の景色を眺めると、右斜め向こうに一本の長い電車が走っているのが見えた。

 —良かった、人がいないのはここだけか

 すうっと息を吐いて一安心すると、早足で階段を駆け下り校舎を出た。この時私は、気づいていなかった。教室を出た後に掃除箱の扉が微かに開き、私の後ろ姿をじっと見据えていた人のことを。

 正門を出て、勾配が緩やかな坂を下っていくと三〇メートル程先に立ち漕ぎをしながら自転車で登ってくる人の姿が見えた。はっきりと見える距離まで近づいてくると、同じ高校の生徒であることが制服からすぐ分かった。

「すみません、学校には誰もいませんでしたよ。今日は祝日か休みじゃないかなー」

 しかし、紺色の制服を着た男子生徒はまるで私が見えていないかのように表情一つ変えず横を通り過ぎていってしまった。

 —何だよ、あいつ。人がせっかく親切に言ってあげたのに

 気分がまた悪くなった。本当はあの制服を見ただけでも嫌悪感に苛まれるのに、その生徒に無視されたことによって更に苛立ちを感じた。胸に灼熱感を覚えながら坂を下りきると私は右折し、駅のホームへと向かう直線の道をしばらく歩き続けた。 左右には毎日のように見ていた田んぼと民家が品よく立ち並び、楽しそうにお喋りをする高齢者の人たちがいた。

 —さっきのところ、左に曲がってこの地区を離れると周りの雰囲気がこことは正反対のように変わるんだよな。前に相沢と一緒に歩いったけ‥家に帰ったらすぐに連絡しなきゃ

 そんなことを考えていると、すぐ隣で車が轟々と怒っているように通り過ぎていった。少し顔を俯き加減にしながら歩いていると、私はこれまでずっと感じていた違和感が確信へと変わっていくのを感じた。

 ―明らかに道を歩く通行人の様子が妙だ

 さっきの生徒といいこの周辺を歩く人たちは私とすれ違う際、全く視線をこちらに向ける者がいない。通常、すれ違い様に他人をじろじろと見ることはなくても、ちらっと前から歩いてくる姿を見ることはあるはずだ。意図的に視線を合わせないようにしている可能性も考慮したが、そんな気配は全くなく彼らの瞳には村道秋悟の存在は全く映っていないように見えた。

 試しに私は数メートル先を歩くサラリーマンの人に駆け寄ってみた。

「あの、すみません、質問したいことがあるのですがよろしいでしょうか?」

 黒いスーツを着た男性はスマホをじっと眺めながら、相変わらず同じテンポで歩き続けている。

「あの!!無視しないでもらえますか!!!」

 私は彼のごつごつした左肩を手で叩きながら叫んだ。すると、男性は一瞬こちらをじろっと見ると目を丸くした。

「あれっ、おかしな」

 ぼそっとそう呟くと、その男性は後ろを何度も後ろを振り返りながら再び足を進めた。

 —やっぱりここは現実じゃないんだ

 驚きと恐怖の感情が同時に込み上げてくると、後ろから自転車のペダルを漕ぐ音が聞こえてきた。自転車はすうっと鳥のように近づいてくると、私の隣でそれは停車した。私はビクっと左肩を前後に動かすと、警戒するようにすっと首だけ四五度右へ曲げた。

「あの、すみません」

 どこかで聞き覚えのある声だった。自転車に乗っていた主を確認すると私は瞬時に彼から遠ざかり、怒りをこめてキッと睨みつけてやった。私の隣にいたのはクラスで最も嫌悪するあの細田だった。

「あ、ごめんなさい!」

 白いワイシャツを着ていた細田は裾を少し捲ると、自転車からゆっくりと降りた。

「なんかよう?」

 私は冷たい口調でそっけなく言った。本当は今すぐにでもここから立ち去ってしまいたい気分だった。

 —俺と相沢を苦しめた奴。相沢を転校させた奴。ここでこいつを殺してやりたいくらいだ

「突然、馴れ馴れしく接してごめんなさい。同じ学校の制服を着た生徒がいたものだから、つい声をかけてしまいました」

 私は自分の耳を疑った。隣でもぞもぞした口調で話す男は、私が知る細田とは比べものにならないほど別人のようにみえた。

「今日いつものように学校に登校したら教室に誰もいなくて‥創立記念日かと思って手帳にあるカレンダーを見直したんですけど、別にそういう日でもないんですよねー。今日って何か特別な日なんですか?」

 子犬のような純粋な瞳をした細田は丁寧な口調で聞いてきた。

 —こいつは一体、誰だ?

 私は警戒心を少し解くと、表情を緩めながら彼に聞いた。

「えっと、突然変なことを聞くのは申し訳ないんだけど、俺のこと知ってる?

「いえ、初めて会いましたけど‥」

 彼はぽかんとした表情でこちらを見つめると、ダイヤモンドのようにキラキラと光る瞳が目に映った。大袈裟な言い方かもしれないが、顔は完全に細田なのにまるで別の霊魂が彼に宿っているみたいだった。

 不可解な出来事ばかりが続くせいか、私は不思議とこのおかしな現象を深く気に止めないようにした。

「連続で質問して申し訳ないんだけど、通行人に変わった様子ってなかったかな?」

「変わった様子?どういう意味ですか?」

「何だか他の人に違和感を感じてしまったから、さっき知らない人に話しかけてみたんだよ。そしたら、まるで俺が見えていないみたいに振る舞うから‥」       彼は怪訝そうな表情で私のことをじっと見つめると、右肩をポンと叩いて言った。

「じゃあ、俺が今から知らない人に声を掛けてみますね。後ろの老人にちっと適当に質問してみようと思うのでついてきてくれませんか」

 彼には素直に感謝していたが、初対面の人に肩をポンと置かれることに何故か私は苛立ちを感じた。まるで私の方があなたより優位な立場にいますよと誇示されている気分だったからかもしれない。

「すみません、聞きたいことがあるのですが、ここからN中学への行き方って分かりますか?実はまだ入学してから日が浅いので行き方が分からなくて」

 落ち着いた茶色のジャケットを羽織ったお洒落なお爺ちゃんは俯いていた顔を上げると、少し微笑みながら言った。

「君たちは中学生かな?N中ならね、この反対側をずっと歩いて、左の坂を登っていくとすぐに見えるよ。でも引き返すのが面倒だったら、右側に見える橋を渡って、お餅屋さんを目印に突き進んでいっても辿り着くよ」

「わざわざすみません、丁寧に教えて頂いて本当に有難うございます」

 彼は深くお辞儀をすると、私もワンテンポ遅れて軽く頭を下げた。少し小走りでお爺さんとの距離を離していくと、彼は子供のようにはしゃぎながら「何か変な夢でも見ていたんじゃないっすか?」と得意げに言ってきた。

「でも、おかしいな。さっきのサラリーマンの人は何で俺のことが見えなかったんだろう。というか今の人、俺のこと見てなかったよね?」

「そんなことないですって。その証拠に君たちはって聞いていたじゃないですかー」

 彼は私の右肩をポンポンと叩きながら純粋無垢な笑みで私のことをじっと見つめた。内心彼の行動に苛つきながらも、悪魔が抜けた綺麗な細田を見ていると自然とそれを許せてしまった。

 —今の細田なら俺も友達になりたい

 私は心からそう感じた。

「そういえば自己紹介が遅れました。俺、細田勇って言います!N中に通う二年生です」

「えっ」

 聞き間違えだろうか。それはあまりに唐突の発言で私は自分の耳を一瞬疑ってしまった。

「あっごめん、細田君は二年生なの?」

「はい、そうですよ!先輩は高等部の方ですよね?ネクタイで分かります!」

 顔が引きつるのを感じると、空の天気に比例するかのように私の表情は曇っていった。

 —何でもっと早く気づかなかったなんだろう、どう考えてもおかしい点が幾つもあるじゃないか。中学の行き方?あいつは同じクラスの人間のはずだろ。そしてもう一つ。

「どうしたんですか?そんな暗い顔なんかして。もしかして体調が悪いんですか?」

 私は彼の顔をさっと見た後、視線を彼が押していた黒い自転車へと向けた。

 —あれは確か、さっき学校の坂を登っていた男子生徒の自転車とよく似ている

 籠のついたカマキリ型の黒い自転車、そしてケツ上げされた荷台。間違いない。

「そういえば先輩、今日は何で高校に登校したんですか?もしかして僕と同じように勘違いしたんですか?」

 血も凍りそうな冷たい声だった。心臓がきゅっと締め付けられたような感覚に襲われると、私はいつの間にか彼から離れるようにして歩行速度を上げていた。

 —あいつが俺に声を掛けたのは偶然じゃない。何か目的があったにちがいない!気づくのが遅すぎた!!

 全速力で走れば何とか振り切れる可能性もあったが、脳はその命令を下してはくれない。実際に人はこういう時固まってしまうのが普通なのだろう。もうだめだと思ったその時、ふと視界に田んぼが入ると、固まっていた体が魔法から解けたように全身に力が漲ると、私は無我夢中で田んぼの方向に向かって勢いよく走っていった。

 —ここを走っていれば自転車ではすぐには追いつけない

 私はぜえぜえと息を切らし、涙目になりながら必死に手足を大きく動かし続けた。彼が後ろから追いかけて来ているのか分からなかったが、死にたくないという恐怖心だけが私のか細い二本の足を動かしていたように思える。



「ピンポン」と改札口で警告音が鳴り響くと、私は黒い定期入れを片手に持って隣の駅員に急いで問い合わせた。

「あのお、す、させん。これ通ら、すけど。」

 体力を消耗して呼吸が荒くなっているせいか口が上手く回らない。自分でも何を言っているのかよく分からなかった。駅員は私とは違う方向に目を動かすと、悠々とした態度で書類の整理を始めた。

 —おかしい、さっきあいつといる時は俺の存在に気づいていたのに

 私は改札機を華麗に飛び越えると、駅のホームには今にも雨が降り出しそうな空の下で首を斜めに曲げてスマホに夢中な人達で溢れかえっていた。少し離れたところからタッタッタという足音が聞こえると、私はホームの左端まで両腕を振り子のように振りながら走った。それにしても、こんなに走ったのは体育での持久走以来だろうか。とっくに体力の限界は来ているはずなのに、ここまで走ってきたことに心底驚いていた。どうやら人間は死を目前にすると、圧倒的な力を解放してしまうらしい。だとすればほとんどの人は毎日を一生懸命生きていないのは明白だ。何故なら彼らは明日が来ないということを疑うことはしないのだから。

「二番線にK駅行きの電車が参ります。黄色い線の内側までお下がりください」

 後ろの足音が少しずつ近づいてくるのが分かった。多分振り向いたら、刃物か何かで一突きで殺される。

 —嫌だ、まだ死にたくない。理由は分からないけどまだこの地上から離れたくない。嫌だ、嫌だ、嫌だ、助けて相沢

 ブオーンと薄い灰色の塊が私の横をゆっくりと通り過ぎていくと、関係者以外立ち入り禁止の看板の横でそれは止まった。

 扉がプシューッという音を立てながら開くと、数十人の人達が少し不機嫌そうな顔をしながら出ていった。私はすぐさま、先頭の車両に乗り込むと後ろをさっと振り返った。

 ―あれ、細田がいない

 目もくらむような安堵感が身内に広がるのを感じると、私は自然と笑みがこぼれた。

「やった、俺の勝ちだ!着いてこられなくて諦めたんだ!やった!!」

 隣の車両に視線を移すと、二〇代のサラリーマンがぜえぜえと激しい息づかいをしながら手摺に捕まっている姿が見えた。

「もしかして、既に田んぼのところでまいていたんじゃないのか。自転車で入ってこけたりしてな」

 彼に勝利したことで私は完全に有頂天の気分だった。

「今までさんざん馬鹿にされたり、酷いことされてきたんだ。ざまあみろ!俺の勝ちだ!!」

 再びプシューっという音を立てながら扉が閉まろうとしたその瞬間だった。突然、バンという大きな音が目の前ですると、まるでホラー映画のように一本の手が扉の隙間から左右にゆらゆらと揺れているのが見えた。

 心臓がどきりと音を立てると、私はゆっくりと視線を手から窓へと移していった。そこには扉の窓にめりこんだ細田の横顔が映っていた。先ほど見た天使のような穏やかな表情は消え失せ、目はぎょろっとこちらをひん剥きこの世のものとは思えない恐ろしい顔をしていた。

 —何かの冗談だ‥

 乗客は相変わらず、私たちのことには全く気づいていない様子でスマホの画面に夢中だった。我にかえった私はいつの間にか彼の手を目掛けて、全身の体で目一杯に突進していた。

「あぁぁぁぁぁぁぁぁ」という唸り声があがると、私は更に肘を曲げて上からそれを何度も振り下ろした。まるでアクションゲームに興奮した少年のように私は雄叫びを挙げながら、幾度も上下運動を続けた。

「やめろおおおおおおおお」という激しい声がホームに響くと、とっさに誰かの足音が聞こえた。

「大丈夫ですか!!今、扉を開けますからね!!!」

 —おかしい、さっきの駅員がここにいる。彼の姿が見えているのか。そういえばさっきあいつがいた時は老人の目には俺が映っていた。あいつの周りにいる時は自然に俺みたいな「部外者」も認識されるのだろうか

 せっかく安心して休まったと思ったのに再び息遣いが荒くなっていく。心臓のポンプが激しくどくどくと血液を全身に送っているのを感じた。

 —と、とりあえず逃げなきゃ、殺される!

 私はサラリーマンが立っている隣の車両の扉を思いきりガタンと開けると、耳がキンとなる悲鳴が車内に鳴り響いた。全員が彼の方向へと振り向いた。相沢は怪我をした手を必死に抑えながら、ゾンビのような歩き方でゆっくりとこちらの車両に近づいてきた。

 私は弾丸のように走り始めると、二〇メートル先の扉を目掛けて思いっきり走った。扉を思いっきり開くと、更に先に見える鉄の扉を視界から外さないまま前を向いて走った。私は後ろを振り向くことはなかったが、彼が私に付いて来ている様子はなかった。そもそも、あの怪我ではすぐに追いついくことは難しいだろう。

 — 次の駅まで約十分

 それまでに彼が追いついてくるか不安だったが、私はひたすら扉を開けては長いベージュ色の床を走るという作業を淡々と繰り返していった。そして、漸く最後の車両に乗り込むこと、一番前の扉の向こう側に立つ運転士の背中が見えた。私は残りの体力を振り絞るようにドタバタとそこまで走っていくと、藁にもすがる思いで男の運転士に叫んだ。

「すみません、助けてください!後ろの人に追いかけられているんです!殺される!!お、お願いします、速度を上げてもらえないでしょうか?」

 だが、黒い帽子の下に見えるきりっとした一重の目はただじっと前を向いているだけだった。

 —駄目だ、もう終わった‥

 後ろを警戒しながら、震えた手で腕組みをすると私はじっと最後尾の扉を見据えていた。これ以上前に進むことができず、ただじっと悪魔の登場を待ち続けなければならない状況はとても辛かった。しかし、私が予想していたよりもずっと早くその扉は開いた。

 ガタンと大きな音が鳴ると、私は肩をブルっと震わせた。遠くからでも彼のニヤリとした表情が見える。まるで獲物を見つけたかのように私をじっと睨みつけると、少し気取った歩き方をしながらゆっくりとこちらへ近づいてきた。

 私は息を呑むと、彼の視線から目を離さないようにした。いや、正確に言えば離せなかったのだ。両側におとなしく座っていた人達がちらりと彼の方へと目をやる。すると、手摺の近くに立っていた人達もまるで映画スターを見るかのような眼差しで振り向き始めた。彼は相変わらず鋭い目つきで私をじっと捉え、一瞬も視線をずらすことはなかった。徐々に距離が縮まっていく。もう十メートルすぐそこまで来ていた。私の表情はマスクのように石化して動かず、足も同様に呪文がかけられたかのように一ミリも動かなかった。そして、遂に彼の顔がはっきりと見える場所まで近づいた。

 —やばい、殺される

「いやー、本当に逃げ足が速くて困ったよ。せっかく俺が優しく接してやったのに、それを無下にするようなことをしてさ」

「ご、めん、なさい。た、頼むから、許して‥」

 ブルブルと口元を震わしながら、精一杯力を込めて言った。彼はフフっと笑いながら不気味な笑みを浮かべると、突然能面のように無表情になった。

「たった一人殺すために本当に時間がかかるね。直ぐに殺してしまえばそれで終わりだろうけど、痛ぶりながらじわじわとあの世に送りたいという欲求を止めることが出来なくてさー」

 ギロリとした大きな目は全く動くことなく口だけが動いている様子は見ていて気持ち悪かった。

「いらいらするなー、本当に。あの時、ナイフがちゃんとお前の足に命中していたら、こんな不愉快な気分にはならなかったのによ!」

「あ、あの時って」

「はあああ、あの白い部屋でのことだよ!!お前を殺し損ねたあの場所だよ!!!」

 彼が声を張り上げたその瞬間、一斉に周りの視線が私たちに向けられた。

「し、白い部屋って、あの、黒い服を着ていたのってお前なのか?」

 その時、ふと相沢のことが脳裏を過ぎると全身に血液が一気に流れ込むのを感じた。体は熱くなり、顔は強張っている状態だった。

「相沢はどうしたんだ」

 彼は目を尖らせると、再び不気味な微笑を浮かべた。

「殺したよ」

 彼は涼しい顔をしながらさらりとそれを口にした。まるで虫を一匹殺したような軽い口調だった。

「でもさ、お前の恋人も本当に間抜けな奴だよな。お前みたいなゴミクズのために命なんか張ってさ。まじ、だせえよ。ヒーローでも気取っているのかなー」

 彼は赤ん坊が無邪気に笑うように、ゲラゲラと笑い始めた。そこには悪意の欠片も感じられず、ただ純粋にニコニコと笑っている面が目の前にあった。

「殺す」

「はぁ?」

 細田の目尻の皺が消えると、再び大きな目が私を捉える。

「殺す」

「お前が!ゆずぴーが!!冗談はよせよー」

「ぶっ殺す」

「何それ。さっさと銃で撃ち殺してしまえば終わるんだけど、やっぱり、ゆっくりナイフで体の表面を剥ぎ取ってから内臓を抉り出さないとなー」

 —もう相沢はこの世にはいない。両親と同じくらい大切な親友とはもう会えないだ

 私は拳に力を入れると、全力で彼の右頬を狙って殴ってやった。うっという声をしながら地面に倒れると、私は彼の上に馬乗りしながら思いっきりグーで顔面を殴り続けてやった。彼は痛そうな素振りを見せながらも、相変わらずニコニコと笑いながらサンドバック状態になっている。

 目に涙が溜まると、視界が少しぼやけた。座っていた乗客達は悲鳴を上げたり、警察に連絡したりしていたが今の私には全くそれらは目に入らなかった。私は顔をくしゃくしゃにさせながらただ無心で彼を殴り続けた。

「あ、あ、あ、あれ、パンチの威力が、小さく、な、なっちゃたよー。あ、あ、相変わらず、運動も音痴なんだな」

 彼は首を右に傾けながら、私を見下すかのように伏し目で笑った。その言葉で頭に血が上ると、理性を崩壊した私は指先で彼の眼球をえぐった。ぐちゅっという変な音を立てると、彼は獣が叫ぶようなけたたましい奇声を発した。

「あぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁー」

 慌てて私は彼を突き放すと、細田は両目を手で覆うようにしてしばらく叫び続けた。そんな時だった。一瞬、何が起こったのか分からなかったがぐらりと私はよろけると、そのまま彼の隣にドスンと全身から床に落ちてしまった。

「やったぞ、早く誰かこいつが動けないように抑えるか何とかしてくれ」

 少し若めの20代の男性の声がすぐ後ろで聞こえた。誰かに頭の後ろをバックか何かで強打されたのだ。ううっと私は唸り声を上げると、バタバタと私たちにところへたくさんの足音が集まった。

「隣にいる奴がいきなり、この制服を着た男の子を殴ったのを見たんだ!」

「指で眼球をえぐったのも見ていたわ。何て残酷な子なの!早く救急車を呼ばなきゃ!!」

 体に力が入らない。突然の不意打ちで驚いていたのもあったが、ずっと走りっぱなしで足の筋肉が痙攣を起こしていた。

「もしもし、今男の子が誰かに襲われて怪我をしている状態なんです‥」

 若い女性の声が聞こえた。警察か救急車に連絡しているのだろうか。今度は誰かが私の尻にドスンと乗ると、手足を拘束された。

「違う、俺が悪いんじゃない。これは全てあいつの罠だ!」

 必死に何度も同じことを叫んだが、結局誰にも取り合ってもらえることはなかった。

「このガキ、何か言ってやがるぞ。とりあえず警察が来るまでこのまま抑えておこうぜ」

 ふとちらりと横目でぐったりと倒れている細田を見ると、私はぎくりとした。彼は悪魔のようにニタニタと笑いながら、後ろの右ポケットから何かを取り出そうとしていた。

「おい、お前も手伝ってくれ。また暴れ出すとやばいから」

 窓から差し込む太陽の光に反射しながら、キラリと光沢感のある刃物が彼の右手に見えた。幸い私を抑えていた人の力が一瞬弱まったおかげで手を動かせる余裕ができた。

 私はその僅かな隙を突き、渾身の力を振り絞って体を回転させると、さっと起き上がった。男は尻餅をつくと、他の乗客達は私をきっと睨んで襲いかかろうとした。私は細田を人質に彼らを脅そうという作戦を考えつくと、彼の体を拘束しようとしたがそれは既に遅かった。

 何かが私の足に当たる感覚を覚えた。数秒してから漸くそれを痛みだと認識すると、ナイフがぐさりと太ももの横に刺さったまま、真紅の血がたらりと下にぽつぽつと床に垂れていることに気がついた。

 両目を左手で覆い隠しながら、ニヤリと口元が横に広がっているのが見える。急所は外れていたので、何とか動ける状態だったがさっきの男が再び私を押し潰すようにどすんと私の上に飛び乗った。全体重がのしかかってきたので、その衝撃で内臓が潰されるのではないかと心配になった。

「うっ」

「ほら、後ろにぼおっと突っ立てる奴も早く乗っかれ!動けないようにするんだ!!」

 今度は新しい体重が私の顔面を覆うように乗った。

「うっうっ」

「もっと乗れ!!!」

 男は金切り声を挙げると、男の後ろに立っていた数名が更に飛び乗ってきた。

「く、くるしい、息が‥」

 新しい体重が乗るたびに私の内臓は今にも破裂しそうな勢いだった。

 —死ぬ、嫌だ

 また一人が私の身体に乗った。ふと家族の顔や相沢と過ごした日々の映像が暗闇の中で映った。驚いたことに頭に浮かんでくるものはどうでもいい内容ばかりで他愛もない話をしているシーンばかりだった。

 ―もっと色々なことを話したかったな‥

 昔はあんなに怖くなかった死をいざ目の前にすると恐怖で胸が張り裂けそうだった。それはこの世でもっと味わいたかった喜びや悲しみを十分に経験できなかったことへの不満なのかもしれない。

 ―嫌だ

 その時、右手がナイフの握り部分に当たるのを感じた。

「この子、死んじゃうわよ。もう辞めたほうがいいわ」

 見知らぬおばさんの声がした。

「ここで殺しておいた方が世の為だ。あんたも早く上から乗っかってくれや」

 —やめて、お願い‥

 今にも内蔵が体から飛び出そうな状態を堪えながら、私は指先で短い果物ナイフを横の太ももの肉からゆっくりと抜いた。赤い液体が太ももの周りをじんわりと広がっていく感触がした。すると、私は先の尖った方をちょうど上に乗る男の腹にぐさりと思い切り刺してやった。

「あ、あれ」

 男は一瞬、自分の身に何が起こったのか分からずにいた。じんわりと血がナイフの周りに円を作るように広がっていくと、男はぎょろりとお腹の方へと視線を移した。そのまま男の顔が私の真横にドスンと落ちると、彼の背中の上に乗っていた人達は私を警戒するようにさっと後ろへ下がった。

 私は男の身体を片足で蹴り飛ばすと、うつ伏せ状態になっていた身体がゴロリと表に回転した。まるで殺人事件が行われたかのように、白目を剥いた死体がそこに横たわる中、大勢の悲鳴が車内に響き渡った。暫くすると、それを静めるかのように駅のアナウンスが聞こえてきた。

「この電車は快速、〇〇行きです。次はS橋、S橋、お出口は右側です」

 私はすぐに男の腹に刺さったナイフを引き抜くとそれを彼らに振り回しながら向けた。乗客達はとても怯えた様子で私をじっと見つめる。まるで怪物を見るかのような目つきで。

 —やった!俺の勝ちだ!!これで家に帰れる!

 私の精神状態は不思議なくらい落ち着いていた。人を一人殺めたというのに何も感じなかった。それどころか人間がたった一本の果物ナイフで死んでしまうほどか弱い生き物だったということにがっかりしている自分がいた。

 ちらりと視線を下に落とすと、相変わらず細田は左手で目を覆い隠しながらら口をもごもごと動かしている。彼に太ももの横を刺されたことを思い出すと、意識が傷口のほうへと集中し、急にそこがずきんと痛み始めた。

 私はゆっくりと腰を下ろすと、片手で彼らにナイフを向けながら、もう一方の手と両足を使って相沢の腕を塞いだ。それに対して彼は一度だけ抵抗しようとしたが私の力の方が強かったせいか、すぐに彼の動きは止まった。そして、ゆっくりと彼の後ろポケットに手を伸ばすと、左ポケットに金属製のずっしりとした黒い拳銃が隠されていた。私はそれを自分の後ろのポケットにさっと入れると、細田と乗客達から逃げるように後ろへと下がった。あまりにもそれらの手際が良かったので、自分でも驚いてしまう程だった。

「あ、あの‥」

 気が弱そうな学生がもぞもぞと何かを言おうとしたので、私は躊躇わず銃をポケットから取り出すと彼に向けた。彼は危険を察知すると両手を上げ、さっと私から視線を逸らした。すると、それに続いて他の乗客達も抵抗することを諦めたのか両手を上げ始めた。一人が両手を挙げると、また一人、そしてまた一人がドミノ倒しのように挙げていく。

 電車の中はしんと静まりかえる中、電車はガタンゴトンと音を立てながら漸く暗いトンネルを抜けようとしていた。鉛を張ったような曇り空の下には、黒や紺の傘を差した人達が住宅地を歩く姿が窓から見えた。

 —このまま、何事もなく無事にホームに出られますように

 心の中でそう祈ると、私は窓から目を離しさっと細田の方へと体を向けた。先ほどから何の反応もなく、同じ姿勢のまま動く気配がない。完全に諦らめたのだろうか。ふとそう思った瞬間、後ろのドアがピンボン、ピンポンと音を鳴らしながら扉がプシューっと開いた。私は警戒を怠らないために、拳銃とナイフを彼らに向けながら電車から降りた。

 ホームへ足をつけると、予想以上に激しい雨がザーッと降っていた。雨雫が太ももに垂れると、それが傷口に沁みてズキンと痛んだ。私は乗客達に銃を向けながらきっと睨んでいると、ホームに立っていた人達が私の横を押し寄せていくように車両へと入っていった。扉がガタンと閉じられると、私はピリピリとしていた神経が一気に休まっていくのを感じた。そんな時だった。よく表情は見えなかったが、一瞬細田の口が僅かにニヤリとするのが見えた気がした。背筋に冷たいものが走るのを感じると、私はとっさに後ろへと下がった。

 -悪魔め

 電車がゆっくりと動き始めるのを確認し終えると、私は拳銃とナイフをポケットの中にしまい、右足を引きずるようにして地下へと続く階段を降りていった。



 たくさんの人で溢れかえった駅の構内に私は一人ぽつんと壁際にもたれ掛かると、しばらく休憩をとることにした。運悪く、利き足を刺されたせいで上手く前を歩くことが出来ない上、初めて降りた駅だったので看板をゆっくりと見る必要があった。左右から人が風を切るように歩いてくる中、私はタイミングを見計いながらゆっくりと左端の壁へと移動した。そして、壁を伝うように跛行すると、天井に掛かる看板を凝視しながら自宅まで帰れる道のりを探し続けた。

 しかし、元々方向音痴な私はそれを中々見つけることが出来ず、その上人に聞けない状況の中、私はあてもなくよたよたと人ごみの中を歩くことしか出来なかった。それから、何十分も構内を彷徨い続けた結果、とりあえず私は外に出ることにした。適当に外に繋がる階段を見つけると私は手摺に捕まり、左足でけんけんしながら一段一段を丁寧に上っていった。 そして、最後の階段を上り切ると、突然、突風が全身に襲いかかり髪の毛がぐしゃぐしゃになった。       

 駅のホームにいた頃よりも雨の降り具合は激しくなり、ほとんどの通行人は傘を盾にしながら強い風を凌いでいる様子だった。

 私は暫く辺りの様子を見渡していると、短い時間の間で靴から服にかけて染みが一気に広がっていった。一旦、下に戻って雨が止むのを待とうかとも考えたが、細田の微笑が頭に思い浮かぶと一刻も早く自宅に帰らなくてはならないという不安に襲われた。

 このまま、ずぶ濡れになりながら大雨の中を突っ走ろうかとも考えたが、ちょうど後ろから黒い傘を持ったサラリーマンのおじさんが横を通り過ぎたので、私はタイミングよく後ろ側につきながら傘の中へと入った。

 しかし左足でけんけんしながら彼の歩行速度に合わせることができず、結局僅か数十メートル歩いたところでどんどん引き離されていってしまった。太ももから垂れる血は地面を刺すように落ちる雨水と一緒に混ざり、絵の具のような赤色へと変わっていた。

「いったいわね!」

 誰かに後ろから押されたせいか私は体勢を崩すと、そのままコンクリートへと叩きつけられた。

「いきなり、どうしたの?」

 後ろには二〇代と思われる派手なメイクをした二人組の女性が立っていた。

「おかしいなー、何かに当たった気がするんだけど」

「風か何かと勘違いしたんじゃないの?」

 もう一方が笑いながら返事をすると二人は再び、傘で全身を覆い隠すようにして大雨の中を早足で歩いて行った。二人組の後ろ姿があっとういう間にどんどん小さくなっていく。私は半開きの目でじっと彼女たちを見ている中、太ももから血が雨と一緒にマンホールへと流れていく。足に力を入れ立ち上がろうとしても、まるでそれを拒むかのように足は言うことを聞いてくれなかった。

 —もう駄目だ、このままここにいたら出血死しちゃう‥

 あれからどれだけ時間が経過したかは不明だが、相変わらず私はぐったりと仰向けのまま雨に打たれ続けていた。私は誰かが横を通り過ぎていく度に「助けてください!」と叫んだりもしてみたが、結局その努力は徒労に終わった。

 段々と意識が朦朧としてくるに伴って呼吸がしづらくなったので体勢を変えようと体を回転させようとするとふと、反対側の車線にクリーム色のバスが停止しているのが視界に入った。その瞬間、体の中で強大なエネルギーが湧き上がってくるのを感じた。全身の血流がもの凄いスピードで駆け巡り、どんなことをしてでも生きたという強い意志が芽生えた。

 私は声を荒げながら、火事場の馬鹿力で隣の木によりかかるように立ち上がった。もし、ここに一本の木がなかったら間違いなくこのまま死んでいたことだろう。そう考えると、全ての出来事は偶然のように見えて必然なのかもしれないと思った。

 横断歩道まで戻るには無理があったので、そのままゆっくりとフェンスに足を掛けると、ぼやけた視界の中、信号機が青に変わるのをじっと待った。それとは対照的に向かい側の信号機で待つ数十人の男女は傘を両手に持ち、皆顔をしかめながらまだかまだかと苛々しながら待っている様子だった。

 漸く信号が青に変わると、私を含めて全員が一斉にマラソンのスタートダッシュのように横断歩道を渡り出した。反対側の歩道まで距離にして一五cm程だったが、左足でけんけんする度に全身に痛みが走る状態で渡ることは想像以上に辛かった。そんな状況の中、幸運なことに車道に車が走っていなかったせいか他が渡り終えてからもゆっくりと自分の速さで進むことが出来た。

 何とか反対側まで渡り切ると、そのまま私はバスの中にダイブするように全身から入った。(ドアステップを登れなかったため)

 ドスンという音を立てると同時にバスのドアが閉まり運行を始めた。運転手アナウンスを聞いていると、最寄りのバス停まで直行するようだったので、私は肩の力が抜け落ち、体が床の上に溶けそうな気分になった。それから私はそのままゆらゆらとバスに揺らされながら、ゆっくりと瞼を閉じた。



 瞼をこすりながら目を半分開けると、曇った窓ガラスには雨雫が上から下に垂れているのが視界に入った。血が体内からどんどん抜けていくせいか頭がさっきからふわふわする。意識はまだあったが、どこか自分が自分ではないような隣人症の感覚に近い感じだった。こうなると私の命は残りの時間に左右されることになる。

 それにしても乗客達が窓側を向いたり、携帯をいじったりする中で高校生の男の子が太ももから血を流しているにも関わらず誰にも認識されない状況は少し面白かった。

 ―僕はやっぱりここでも一人ぼっちなんだ

 あの狭い教室の中で私はずっと一人、そしてここでも。私は誰からも愛してもらえない存在。きっと神様はわざと私にだけこんなことをするんだ。もし、そうなら私がこの世界で生きる意味はもうどこにもない。

 ーここに座っている奴らも細田の仲間なんだ

 私は心底、人間という生き物が憎むべきものに見えた。相沢だけが私の魂を愛してくれる存在。でも彼は無残にサイコパス野郎に殺されてしまった。それもあっけなく。私は彼の心臓をナイフで突き刺せなかったことを酷く後悔した。チャンスはあったはずなのに、何故私は彼の息の根を止めることが出来なかったのだろう。慈悲の心が芽生えのだろうか、それとも慌てていてそんなことを考える暇がなかったのか。どれだけ考えても答えは出なかった。

「長らくのご乗車お疲れ様でした。終点、Tハイツです」

 私はそれを聞くと、うつぶせ歩きをしながら降り口まで近づいていった。

 ーとりあえずこの状況をお母さんに説明しなきゃ

 バスは自宅の近くにあるコンビニを通ると、一本の太い樹木を中心にぐるりと右へ半回転するとプシューっという空気音を立てて止まった。気のせいか、外の空気がやけに美味しく感じた。辺りはもうすっかり暗くなり、外を歩いている人はどこにも見当たらなかった。

 視界がぼやける中、私は目の前にある大きな柴色のマンションから目を離さないように歩き続けた。少しでも目を逸らしてしまえば、きっとこのまま倒れて永久にそこから動くことが出来ないと思ったからだ。

 死人のような青白い顔でただ一点を見つめながら中間地点を通過すると、右隣の緩やかな坂に誰かの人影が見えた気がした。私はそこを振り向く余力は残っていなかったので、そのまま歩き続けたがその黒い影はゆっくりと後ろから近づいてくる気配があった。

 直感的だったが、なんとなく嫌な予感がした。こんな大雨の中で傘も刺さずに一人であんなところに立っているのは不自然ではないだろうか。その時、ふと細田が電車の中でニヤリと微笑を浮かべていた姿が脳裏を過ぎった。私はさっと後ろポケットに手を伸ばすと、拳銃とナイフを両手に持ち重たい体と一緒に全身を後ろに回転させた。

 突然の眩しさに目を細めたが、段々とそれに慣れてくると電灯のそばに立っていたシルエットが明らかになった。白いワイシャツを着て少し特徴的な大きな目をした青年、細田だ。粘りつくような闇の濃い空の下で、彼はあの気持ち悪い微笑を再び浮かべると、獲物を前にした猛獣みたいな目つきをしながら私のことをじっと睨みつけた。光が顔に直接当たっているせいか、はっきりと見えるその表情が私をぞくりとさせると、さっきまでぼんやりとしていた視界が嘘みたいに晴れていった。

 まるでスローモーションかのように時の流れがゆっくりと流れた。自分の予想が的中したこともあったが、それよりも私が負傷させた彼の目が見違えるように完治していたことには唖然とした。雨で濡れた前髪が目に掛かると、我を取り戻した私はすぐさまナイフと銃を彼に向けた。

「困ったなー。手ぶらの僕じゃ、君をここで殺すことは無理そうだね」

 気障っぽい彼の言い方にはどこか余裕を感じさせた。

「黙れ!モンスターめ、ここでぶち殺してやる!!」

 彼はそうした言動に全く動じることなく、ふんと私を馬鹿にするように鼻を鳴らすと首をロボットのように斜め上六〇度に向けた。

「七階だっけ、住んでいるところ?」

 視線が向けられているところに目を移した瞬間、彼は幽霊のように私の横を通り過ぎると、マンションに向かって真っ直ぐ歩いて行った。

「おい!!やめろおおおお!!!」

 銃を真っ直ぐ彼の大きな背中に向けると、躊躇なく安全装置を外してから引き金を引いた。その瞬間、今まで殺してきた人間の死体が頭に浮かんだ。普通の高校生が簡単に人を殺めることに対して鈍感になっていることに驚いた。

「カチッ」

 まるで弾なしの玩具のエアーガンを撃ったような音だった。彼の様子に変化はなく、いつの間にかマンションのエントランスの中に入っていく姿が見えると、彼の背中は私の視界から完全に消えていった。

 —え?嘘だろ?!

 膝からガクッと地面に落ちると、魂が抜かれたような顔をしながら上空の漆黒の闇を呆然と見つめた。

 —か、か、かみ、さま

 今まで溜まっていた感情がふつふつと胸の奥から沸き上がってくるのを感じると、瞼を焼くような熱い涙が私の眼から流れ出た。わんわんと泣きじゃくりながら四つん場になると、一台の車が猛スピードで後ろから走ってきたので私は端の溝に転がるようにそれを避けた。耳元で激しく流れる水の音は私の心を更にかき乱した。

「どうしてお母さんが死ななきゃならないの!!」

 お母さんの優しい顔が浮かんでくる。色々喧嘩した嫌な思い出もあったけど、結局優しいお母さんの顔がぼんやりと浮かんできた。

「僕の‥大切な人をこれ以上奪わないで!!!」

 火事場の馬鹿力ですっと立ち上がると、私はこの世のものとは思えないおぞましい顔をしながら、ただ必死に足を前へ前へと機械のように動かしていった。

 —心臓が痛い、もう駄目かもしれない‥

 足から胴体にかけて感覚はなく、お母さんを何としても細田から助けたいという気持ちだけが命を繋ぎ止めていた。そして、漸く私もマンションの下をくぐると、エントランスで暗証番号を入力しようとしたが、手が震えていたせいでボタンを正しく押すことが出来なかった。

「はあ、はあ、クソ、〇三五九だろ!何やっているんだよ!」

 苛立ちを感じた私はオートロックに思い切り蹴りを入れると、再び乱暴にボタンを押した。ブオーンという音を立てながらガラス製の扉が開くと私はスパートをかけるように残りの力を振り絞りながら猛ダッシュでエレベーターまで走っていた。

 上矢印のボタンをカチカチと不必要に押すと、表示画面に七というオレンジの数が六へと変わった。

 —早く

 頭と体は風邪を引いた時のように浮遊する感じがして、自分がここに存在しているという実感がもてなかった。前にテレビでアリスのワンダーランド症候群という病名について放送されていたことがあったが、それに近い感覚かもしれない。

 一階に降りてきたエレベーターの扉が開いた瞬間、私は七というボタンを押すと、何度も呪文のようにまだかまだかと口ずさみながら私は画面に表示される数字を凝視した。

「三、四、五、六‥」

 ゆっくりと扉が開くと、私はけたたましい叫び声を挙げながら右へ曲がるとそこには思いがけない光景が広がっていた。なんと先程まで勝ち誇ったような歩き方をしていた細田が玄関の扉の前で倒れているではないか。倒れた体から視線を上げていくと、そこにはもう一人彼の両手を縛り上げる横顔が目に入った。私はそれがすぐに誰なのかが分かった。家族の次に大切な人。相沢だ。

 私の視線に気づいたのか、彼は頭を上げるとこちらを振り向いた。

「来るの遅いよー。神奈川から飛んできて本当に良かった」

 彼はくしゃっとした笑顔になると、穏やかな口調でそう言った。目つきに安堵の色がよみがえると同時に口元が緩んだ。

「えっ‥、相沢、お前生きていたの?」

 彼は怪訝そうな表情で私のことを見ると「勝手に人のことを殺すなよ」と一言クールに呟いた。

「だって、お前俺のことを庇って‥それに細田もお前のことを殺したって言っていたし‥」

「あいつが勝手にそう言っただけだろ」

 釈然としない私は目を細めながら、彼を警戒するようにゆっくりと近づいていった。そっと右手で彼の肩に触れると、ちゃんと感触があった。

「良かったー。モンスターじゃないんだ」

 すると、彼はお腹を抱えながら声を立てて笑い出した。いつものクールな相沢からは少し想像がつかないような笑い方だったので、本当にモンスターに化けているのではないかと思ったくらいだった。

 二人の間で陽気な雰囲気が漂っている中、細田は私たちの隙を突くように、体を激しくもがき始めようとしたが、それを相沢は彼のみぞおちに強い蹴りを入れた。ぐふっという声を出すと、彼はそのまま気絶するように倒れた。さっきまであんなに恐ろしかった細田が今ではゲームに登場する雑魚キャラに見えた。

 —みぞおちで気絶ってドラマだけの世界じゃないんだ‥

「何、ぼおっと突っ立てるんだよ。早く止めを刺せよ」

 柄でもないような台詞を吐く相沢に私は少し彼との距離感を一瞬、感じてしまった。

「お前、演劇やって人が変わったんじゃないのか?いつものお前なら何というかもっと弱々しい感じの奴なのに」

 彼は私の眼を数秒見つめると、ため息混じりな声で言った。

「お前な、これは全部お前が作り出した夢だぞ。お前が見ているもの、全ては幻想なんだよ。」

「は?何、馬鹿なことを言ってるんだよ!どう考えてもこれは夢じゃなくて現実だろ!!」

「多分、それだけ不満やストレスを強く抱え込んでいたんだろうな。変わりたいのに変われないっていうジレンマがこの夢を見せていたんだよ。だから、お前は自分で詳細な物語を作り上げて、夢の中で願望を叶えようとした」

「願望?」

「細田を自分の手で殺すことだよ」

 彼が何を言っているのか私にはまるで理解することが出来なかった。確かにこれが夢であるとは途中で何度も考えたことはあったが、あまりに世界がリアルすぎたせいでそれを否定し続けていた。

 —でも、もしこれが本当に夢ならここで起こる数々の不自然な現象には説明がつく。

「とっとこ、こいつを自分の手で殺すんだ。それで早く夢から目覚めろ!」

 うつ伏せで気を失っている細田に目をやると、私は手に持ったナイフをぎゅっと強く握りしめた。私はきっと何もかも壊してしまいたかったのだろう。自分を縛り付ける教師、学校の生徒達、そしてこの社会を。だから心の奥底で溜まった思いがこうして夢として私に見せているのかもしれないと思った。それもとてもリアルに。

「あのさ、相沢。これが夢だってことは大体理解したんだけど、何でお前が俺の自宅にいる訳?」

「それもお前が俺に助けてって心で念じたから、今こうやって俺がいるだけのことよ。それに、お前のお母さんの夢の中でちゃんと言っといてあげたよ」

「何を?」

「俺が直接、お前の母親の夢に登場した訳じゃないけど、誰かの体を借りてお前の思いを代弁してあげたよ。それもお前が願っていることに含まれている」

 その時、細田の瞼がぴくぴくと動き始めたのが目に止まった。

「早くしろ!秋悟!ちゃんと自分の思いに決着を着けるんだ!」

 —全部、夢だからいいんだ

 そう思うと気が一気に楽になった。先の尖ったナイフの彼に向けると、そのまま私は彼の心臓を目掛けて一直線に振り下ろした。



 スイッチを入れられたように不意に目が覚めると、私はベッドから跳ね起きた。辺りを見渡すと、いつもの部屋がある。汗でびっしょりかいた服にはまるで小学生がおねしょをした時のような大きな丸いしみが上下についていた。とりあえず私は風呂場に向かい服を脱ぐと、それらをぽいっと洗濯機の中に入れた。洗面台の鏡で自分の姿を見ると、目が腫れていたせいか片目が三重になっていた。シャワーを簡単に浴びてから風呂に浸かると、扉がガタンと開く音がした。

「あんた、今までずっと寝ていたわよ。おまけに寝言も言っていたし」

「なんて言っていた?」

「何か訳の分からないことを言っていたわよ。でも結構、大きな声だったわ。端から見ると、かなり変人」

「もしかしてお母さんも寝てた?」

 私は重たい瞼をこすりながら聞いた。

「一時間程度、仮眠していたわ」

「ふうん」

「風呂から出たら、さっさとご飯食べちゃいなさい。今日はお昼何も食べてないんだから、きっとお腹空いているはずよ」

「うん」

 一言だけそう言うと、再びスライド式の扉がガタンと閉まった。風呂場のデジタル時計に目をやると、時刻はすでに九時半を過ぎようとしていた。

 —明日、学校に行かされるかなー。

 ふとそんなことを考えながら、指先で水をぴちゃぴちゃと飛ばしながら遊んだりした。不思議なことにあの夢を見てからは気分がすっかり晴れて、今まで心の中で溜まっていた蟠りを発散した気分だった。それに、発汗で体温が下がったせいか頭も朝方に比べて随分すっきりとしている状態だった。

 —何とか休まなきゃな。よし、演技しよう

 私は胸を高鳴らせながら、風呂を出るとゴシゴシと体をタオルで拭いた。そして、食卓に入ると私は少し気だるそうな顔つきで席に着くと、軽くゴホンと咳をした。

「風邪の方はどう?」

「だいぶ良くなったよ。でも、まだ頭が少しぼおっとする」

 私はスパゲッティの先をちゅるりと吸いあげると、母親にアピールするように腕を交差させながら摩った。

「あのさ、申し訳ないんだけどタンスから上着持ってきてくれない?」

「もしかしてあんた、寒気がするの?今、持ってくるわ!」

 —しめしめ、第一段階はクリアだな

 心配そうな表情をしながら黒のパーカーを持ってくると、それを私に手渡した。

「有難う」

「明日は学校休んでおく?」

「うーん。また明日の様子を見てからでいいや」

「あんたも体、弱いわねー。細いからすぐに病気に罹るのよ。もっとしっかり食べなさい」

「前もそれ言ってたじゃん。普通に食べているけど、太れない体質なの。生まれつきだから仕方ないじゃん。まあ、でもダイエットとは無縁な人ってことでメリットもあるけど」

「お父さんもそういう体質だったけど、大人になって少しずつ太れるようになってきたからあんたも大丈夫だとは思うけど」

「さあね」

 最後に残った麺を吸い上げると、私は不自然にならない程度に少し大きめの嚔を二度すると、食器を台所まで持っていった。

「あんた、日中寝すぎて眠れないんじゃないの?」

「本読んだりしていたら勝手に眠くなるでしょ」

 部屋に戻ると、私は喜びのあまりついガッツボーズをとってしまった。ベッドに寝転がると、私は満面の笑みを浮かべながらコロコロと回転した。

 —明日は休みだ!うひょー!!

 気持ちが高ぶって来たので、気を鎮めるためにぼおっと天井を見ているといつの間にか私は空想に耽っていた。貧相な顔立ちをした少年が頭に思い浮かんだ。名前は神谷剛。彼と関わった人物は会ったその日からちょうど一年後に死ぬという設定だった。昔からよく、こうして暇な時間は頭の中で架空の物語を作ることを好んだりしていた。最近になってからはその頻度は多くなり、キャラクター同士で戦う場面では一人で興奮しながら、息が荒くなることさえあったほどだった。

 そこには完全な自由が存在するから、きっと現実逃避のためにそんなことをしていたのだろう。それから延々と物語を作っていると、ガチャっと扉を開ける音が玄関からした。お父さんだ。

「ただいまー」

 父は靴を丁寧に玄関で揃えると、自分の部屋に入った。台所から父の部屋に向かって廊下を歩く音がした。

「おかえり。今日、秋悟熱を出して学校を休んだのよ」

「えー。今、風邪が流行っているからなー。大丈夫なんか?」

「インフルエンザじゃないからまだ良かったんだけど」

 父の部屋の扉が閉まったのでその後の会話は聞き取れなかった。一度、空想への集中力が途切れてしまうと、再び途中の場面を思い返すには多量のエネルギーが必要だったのでそこで物語は閉ざされた。

 —よし、今日も日記書くか。夢の内容も完璧に覚えているし、今日はたくさん書けるぞー

 家の中でこんなに気分が優れていたのは久々だった。しかも、まだ風邪は完治していないはずなのに普段の自分よりも活力がみなぎっている気がした。

 机の中から日記帳を取り出すと、今まで書いた日記を流し読みしながら前回書いた箇所までページを捲っていった。

 —前回一一月一九日まで書いたのか。結構続くものだな

 今まで熱中できるものがなかったためか日記を書き始めた当初は、また三日坊主で終わるだろうと思っていたが、ほとんど毎日椅子に座って字を埋めてきた自分に心底驚いていた。

 一一月二二日と日付を書き入れると、私はすぐにペンを走らせていった。夢の中で起きた出来事を詳細に書いていくと、まるで自分がその場面を再体験しているような感覚に見舞われた。誰もないない学校を一人で歩き回ったこと、細田に電車の中で襲われたこと、何度も挫折しそうになったことがぐるぐると頭の中を駆け巡った。

 一時間程度没頭し書き続けていると、遂に集中力が途切れてしまったので休憩の合間に好きなアニメを見ることにした。最近は学校の勉強が忙しかったので、久々に落ち着いてアニメを視聴できることが嬉しくて仕方がなかった。

 うきうきした気分でパソコンを開くと、月額制の動画配信サイトを開いた。何か面白そうなものがないかとざっと上から下まで眺めていったが、中々惹かれる作品が見当たらなかったので、前に相沢が勧めてくれた「天国へ旅だった人形」を視聴することに決めた。美容整形が物語のテーマなのだが、醜く生まれた少女がありとあらゆる手術を繰り返し、人形のように美しなった美少女が様々な試練を乗り越えながら内面的に成長していくというヒューマンドラマが主に見所らしい。全二四話だったので、一話だけ視聴したらまた日記の続きを書こうと思っていたが、予想以上に引き込まれるストーリーと声優の演技に画中々画面から目を離すことが出来なかった。

 三話目に入ろうとしたところで、ふと時計に目をやると一時半を過ぎていたので私は慌ててパソコンを閉じると部屋の電気を消した。しかし、布団に入っても次の話が気になるせいか、中々寝付けることが出来なかった。それどころか寝なくてはいけないと意識すればするほど、目は冴えていくばかりだった。

 —もおおー

 布団を蹴飛ばすと、私は足音を立てないように再び机に戻った。目の前にある蛍光灯を点けると、突然の眩しさに目を細めた。暫く何も考えずぼおっとしていると、突然、日記の続きを書きたいとい衝動に駆られたので再び机の引き出しからそれを取り出した。集中して書いていれば眠くなるだろうと考えた私はさっきの続きからゆっくりと書き出した。

 ペンを持つ手の動きは時間が経過していく内にどんどん速くなり、段々と感情的になっている自分がいた。まるで悲劇のヒロインを演じるかのように夢の世界にどっぷり浸かっていると、遂に涙腺が緩んでいたことに気がついた。目に涙が溜まり、それを服の袖で拭くと私はペンを横においた。

 気力を使い切り疲れてしまったのか私は大きな欠伸をすると、ベッドに引き寄せられるように布団に入りそのまま死んだように眠った。時刻はすでに3時半を過ぎようとしていた。

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