二〇一〇年一一月一九日

それから数ヶ月間、私は昼休みになると毎日のようにこの個室にやってきた。今ではこの時間を楽しみに学校へ通っているようなものだった。美味しいご飯が食べられて、ゆっくりとスマホで映画を見ることが出来るこの場所は天国そのものだった。また、不思議なことに誰かがトイレに用を足しに来ることはあってもこの扉が開けられることは今まで一度もなかった。

今日も相変わらず、私は個室の中で一人くつろいでいた。このまま次の授業に出ずに、この空間の中にずっといたい気分だった。ここには完全な自由があるし、他人の目を気にする必要なんて全くないのだ。しかし、一歩ここを出れば体が窮屈な思いがする。外はこんな狭い場所に比べてずっと広くて、手足を思いっきり伸ばせるはずなのにここより居心地が悪かった。まるで四方八方に棘があるみたいだ。自由に歩くことは出来ないし、いつも棘を警戒するため必要以上に神経をすり減らさなくてはならない。

—誰か助けてくれないかな、もっと自由になりたい!これから俺はどうやって生きていけばいいの?神様、俺に助け舟をください!お願いします!!

私は頭を深く下げると、両手の指を祈るような形で強く握った。今の私にはただそうすることしか出来なかった。

そんな時だった。スマホの画面に新着のニュースが入った。何気なく開いて見ると、最近話題の黒人歌手が何かの賞を受賞した話題についてだった。よく記事を読んで見ると、彼は生まれた時から極貧な環境で育ち高校生の頃には酷いいじめに遭い、両親が他界するといった悲惨なエピソードを持つ人物であることが書かれていた。そして、高校を中退しラップに出会ってから今に到る経緯までがインタビュー形式として紹介されていた。

記事を読んでいくうちに私はいつの間にか彼と相沢を重ねるようになっていた。いじめに遭ったことや、高校を中退してラップに出会ったこと、なんとなくだけど相沢と共通したところがある。

—今、あいつ学校にいるのかな。もし俺が便所飯していることを知ったらどんな顔をするだろう。軽蔑するかな‥いや、あいつは優しいから一緒に便所飯してくれるだろう

そんなことを考えながら最後まで記事に目に通すと、いくつかのプロモーションビデオが動画形式で貼られていた。少し聴いてみようと再生ボタンをタップしようとしたその瞬間、誰かの足音が聞こえた。こちらへゆっくりと近づいてくると、扉を二回ノックする音がした。私は突然の出来事に慌てふためき、とっさに口を塞ぐと呼吸を浅くするように意識した。すると、今度は「すみません、誰か入っていますか」という野太い男性の声が聞こえてきた。心臓の音がトクトクと耳の裏まで響いてくる。耳が熱くなり、頭のてっぺんまで脈が走っているのが分かる。とりあえず私は扉を軽くノックすると、そのまま暫く静止した。幸いに男の足音はコツコツと音を立てながら遠ざかっていくと、私は即座に手を口から離しふうーっと深く深呼吸をした。

それから私は上半身を大きく曲げ、下の隙間から誰もいないことを確認すると急いでスマホをバッグの中に入れそこを後にした。その日は結局、いつも通り授業を受けて一日が終了した。学校が終わるチャイムが鳴ると、私はいつもと同じ道、電車、バスに乗り真っ直ぐ家に帰った。



玄関の扉を開けると、家の中は完全に真っ暗な状態だった。私は家に誰もいないことに内心、とても喜んでいた。いくら家の中はリラックス出来るとはいえ、やはり完全に一人の時間が欲しい時はあった。特に今日は誰かと顔を合わせたくはなかったし部屋の中で一人こもりたい気分だった。

私は玄関で靴を脱ぐと、バッグを部屋に放り投げて冷蔵庫へと向かった。

コップに水を一杯入れゴクゴクと飲み干すと、バスケットに入っていたチョコレートの袋を乱雑に開け一口サイズの茶色の立方体を次々と口の中に放り込んだ。特に甘い物が欲しかったわけではないが何かを噛み砕くことでストレスを緩和することが出来たので家に帰るとチョコレートを食べる習慣がついていた。

袋の四分の一程食べ終えると、私はむすっとした表情で自分の部屋まで戻ると扉をバタンと勢いよく閉めた。いつものようにベッドにダイブするものの、どこか気持ちが落ち着かずそわそわした。このまま溜め込んでも、後で爆発するだけだと思ったので私は自分の感情を外へ排出することを試みた。勢いに任せて「あー―」っと大きく叫んでみるとパンパンになった風船の空気がシューっと抜けていくように気分が一気に楽になった。再び我に返った途端、今の叫び声がこの階に住む住人に聞こえていたかと思うと急に恥ずかしくなってしまった。

それから私はしばらくぼんやりと部屋を見渡すと、人形のようにじっと静止した。口は半開きで目は半分死に完全に頭の中は空っぽの状態だった。しばらくその状態が続くと、何となく音楽が聴きたくなったので私は唐突にパソコンを開けた。適当にユーチューブで人気急上昇の音楽を開くと、黒いレザージャケットを着た黒人男性の画像が目に止まった。よく見てみると、それは昼にスマホのニュースで見たあの黒人歌手だった。

クリックしてから数秒間待つと、黒人の男性が高層ビルの上から飛び降りるという衝撃的なシーンから始まり、力強いラップがスピーカーから聞こえてきた。全て英語でのラップだったので、何を言っているのか分からなかったが、彼の幼年期時代から今に到るまでの苦しみを延々と激しいラップで表現した音楽ということだけは分かった。

たとえ、意味を理解できなくても、こんなにも自分の心を激しく揺さぶる音楽と出会えたのは久々だった。強い攻撃性を感じさせる曲調ではあったが、段々聞いていると、心にメラメラとした炎が沸き起こり不思議と力が湧いた。そんな時、私はふと自分の内側の声を聞いた。

—不器用でもいいからもう一度立ち上がるんだ!困難に負けるな!!立ち向かって壁を壊して突き進んで行け!

再び私の中で止まっていたメトロームの針が動き出すのを感じた。それも今まで以上に速く、激しいテンポでカタカタと左右に触れている。あまりにゆらゆらと感情が暴走するので、私は衝動的に机の横に置いてあった筒状のゴミ箱を思いきり蹴り飛ばしてやった。コロコロと飛んでいくゴミ箱をじっと見つめていると私は一種のカタルシスを経験するかのように心がすーっと楽になっていくのを感じた。

パソコンを閉じて、部屋を出ようとしたその瞬間インターホンの鳴る音がした。画面を覗き込むと、両手に荷物を抱える母親の姿が見えた。

私は彼女が帰ってくるタイミングに内心ほっとしていた。もし、こんな姿を見られたらすぐに喧嘩が始まるだろうし、母親がいなかったからこそ部屋で暴れることが出来たのだから。

彼女は確かに人間的に尊敬できる人ではあったが、感情的になるところが頻繁にあったので兄弟喧嘩に近いことをすることがよくあった。ただでさえ隣の家族も一年中、親と子供が喧嘩するのだから私たちまで毎日のように喧嘩をしていては他の住人から動物園扱いされるようになるではないかと恐れていた。(最もすでにそう噂されているのかもしれないが)だから、高校生になってからは母親にあまり自分のことについて口出しをしないように忠告をしたり、なるべく問題を起こさないように慎重に言葉を選ぶことが多くなった。そのかいあってか、最近では母と格闘バトルをする日数は昔に比べて圧倒的に減った気がする。

「ただいま。秋悟、これ台所まで持っていてくれない?お母さん、重くて手がはち切れそうだわ」

「はいはい、持っていくよ」

取っ手を掴んだ際、予想以上に荷物が重たかったせいで私のか細い手で持つのは一苦労だった。

「あんた、体が細いから荷物持つの大変でしょ。私より腕が細いってどういうことよ。もっとご飯をしっかり食べた方がいいわ」

「はいはい、分かった、分かった」

適当にそう返事すると、彼女は部屋に戻ろうとする私を引き止めるように視線を向けてきた。

「そういえばあんた、学校は最近どうなの?勉強の方は大丈夫?」

私は体をピクっと静止させると、ゆっくりと母親の方へと体を動かした。

「あのさ、お母さん。それについて話す前に一つ聞きたいことがあるんだけどいい?」

「突然どうしたの?」

「好きなことっていうか、夢中になれることってどうやって見つけたらいいの?」

母はきょとんとした顔でこちらを見ていた。

「俺ってさ、毎日学校で勉強して家に帰ってご飯を食べるっていうだけの生活じゃん。どこの高校生もそんなものかもしれないけど、何か他に趣味でも見つけようかなと思って」

「そんなもの無理に見つけるものではないでしょ。自然に見つかるものよ。

というより、あんたはアニメ見るのが好きなんじゃないの?」

「それって趣味っていうの?」

「好きで見ているのなら、趣味なんじゃないの?お母さんだって、ドラマ見たり少し買い物したりするくらいで、別に趣味なんてないわ」

いかにも主婦が言う模範回答のような気がした。

「突然、こんなことを言うのは変だけどさ、最近、俺って何のために勉強しているんだろうって感じる時があるんだよね」

母は怪訝そうな表情で私を見た。

「毎日しこしこ勉強しているけど、その内容は別に興味があることじゃないし、知的好奇心を満たしてくれるわけでもない。じゃあ、将来役立つものかって聞かれたらそんなことはなし、ただストレスが蓄積されていくだけの日々。だけど、皆学校に行くから自分も何となく行っているだけっていう」

「そんなの皆だって同じでしょ。あんただけじゃないわ。学生は勉強するのが仕事でしょ。それに、今まで学んできたことは将来的に何らかの形で役立つわ。大人になってからしっかり勉強してよかったと思える時期がくるのよ」

「大人は皆、そうやって言うんだ。何かにこじつけて数学を学べば数学的なものの見方ができるようになるとか、国語を学べば人の気持ちがより分かるようになるとか、社会を学べば今までの歴史を省みて反省することにつながるとか。でも、そんなの全部嘘。子供を洗脳してそういうふうに思わせているだけんだよ」

彼女の表情がさっきよりも少し険しくなった。

「そんなことないわ。じゃああんた、学生時代で一生懸命勉強してきた人とそこら辺でのらりくらりしている人を比べてみなさいよ。知識と教養がある人の方がものの見方は広いし、結局出世して立派な人になっていくじゃないの」

「それはそうかもしれないけど、別に他人と比べる必要なんてないじゃん。自分が幸福だったら他人より優れている必要もないし、出世する必要もないと思う」

「じゃあ、あんた。勉強する以外に何か才能でもあるの?それでちゃんとご飯を食べていけるだけの能力はあるの?あんたに何か他の人が出来ないような才能を持っているようには思えないけれど」

「分かってるよ!俺に才能なんてないことぐらい。でもさ、これからの人生このままただ勉強して、大学を卒業して会社で毎日上司に尻を叩かれながら働くのを考えると何だか虚しくなってくるんだよ。人生は一度きりなのに、本当にそれでいいのかって思ってしまう。病院のベッドで死を迎える時、毎日ただストレスを溜めるだけの日々を思い返して、もっとああしておけばよかったって絶対後悔すると思う。それに、死んだ時天国どころか地獄に行く可能性だってあるんだよ。だって自分の心は幸福だと感じなかったんだから。心の状態がそのままあの世に直結しているんだよ」

「訳の分からないことを言わないの。また、そんな本ばかり読んで」

母は遂に私の方へと体全体を向けると、怒った虎のような目つきをして私のことをきっと睨んだ。まさに戦闘態勢に入った状態だ。出来る事ならば母との口論を避けたかったが、ここで逃げたら負けだと思ったのでそのまま私は一歩も定位置から離れなかった。

「何も取り柄がないんだったら、皆と同じように会社で働くしかないでしょ。ただでさえ、今の時代は就職することが難しいの。面接ではやっぱり学歴が一番重視されるらしいわ。よく、その人の内面が重要だとかを聞くけど、たかだか数十分の面接でその人の何が分かるっていうのよ。逆に「あなたのことはこの面接で全て分かりました」なんて言われたら逆に腹が立つでしょ!

私は何も言い返せず、ただ黙って母の言葉を聞いていた。もっと別のことが言いたいはずなのにそれを上手く伝えることが出来ない。

—なんて言葉は不便なものなのだろう

「もしかして、あんた相沢君が自分の夢を追いかけて転校していくのを見て、憧れでも抱いたのかしら?自分もあんなふうになりたいって。平凡な人で終わりたくないって思うようになったんじゃないの?違う?」

図星だったせいかい、私は少し視線を僅か下に反らした。

「でもね、俳優さんの中でスポットライトに当たるのはほんの一部だけよ。芸能人なんて腐るほどいるけど、結局安定してご飯を食べていけるのはこの指先ぐらいじゃない。だったら、普通に企業勤めして、安定した給料を貰いながら生活していく方がいいに決まっているわ。平凡がやっぱり一番幸せよ。それに欲ばかり持っていてもだめよ。今こうして生きていることに感謝しなきゃバチが当たるわ」

私は再び、顔を上げ母の目をじっと見つめると、少し間を置いてから口を開いた。

「お母さんの言っていることはよく分かるよ。別に俺は非凡な人間になりたいとか平凡で終わりたくないとかそんなことは思ってない。俺はただ純粋に相沢のことが格好いいと思っただけなの!自分の意志で道を選択していることがすごいって思った。自分の心が正直にやりたいと思うことを選択して、しかもそれを行動に移せる人ってそんなにいないと思うんだ」

早口で息が途切れそうだった。母が再び口を開きそうだったので私は彼女に喋る余裕をなくすべく間髪を入れずに続けた。

「俺の人生ってさ、ほとんど自分で選択した結果じゃないんだよなー。俺みたいにただ他人の言うことを聞く人ほど社会にとって都合の良い大量生産ロボットはいないさ。お母さんが言うようにお金も勿論大事だよ、だけどやっぱり自分自身が感じる幸福感の方が遥かに重要だって最近はつくづく思う。まあ、俺の場合やりたいことどころか趣味すらろくにないけどさ。ストレスばっかりで心のアンテナが死んでしまったんだろうな。子供の時はあんなに毎日、目を輝かせながらやりたいことを自由にやっていたのに」

机に飾ってあった子供時代の写真を見て、私は溜息を漏らした。オレンジ色の服を着た子供は白い歯を見せてにっこりとピースしながら笑っていた。今じゃ、こんなふうに心から笑ったことは殆ど無い。どうして私たちは子供の頃に比べてこんなにも生きづらさを感じ、心が荒んでしまったのだろう。こうなったのはやはり全て自分のせいだろうか。私は軽い微笑を浮かべると、母の方へと向き直した。

すると、意外なことに母は黙りし夜ご飯の仕度を始めていた。いつもなら、何か反論して口論がヒートアップしていくはずが、珍しく何も言い返してこない。それとも、私の正論に何も言い返すことが出来なくなったのだろうか。

そのまま部屋に戻り、しばらくすると台所から「そうやって言い訳しているだけよ」という母の独り言が聞こえてきた。他にもぶつぶつと何かを言っているようだったが、私は気にせず机に向かって学校の課題をこなすことにした。

机にある蛍光灯を付けてから、約一時間が経過していたが驚くことにいつもより課題に集中することが出来ていた。普段の自分ならすぐに集中力が途切れて、よそ事をするはずなのに今日はペンを動かす手がすらすらと動いていた。

—もしかしたら、今まで心に抱いていた気持ちを発散することができたからいつもに比べてパフォーマンスが上がっているのかもしれない

課題を全て終え、ベッドで休んでいるといつの間に私はすやすやと深いに眠りに落ちていた。その時の寝顔はいつもに比べてずっと穏やかだった。それはまるで外でたくさん遊んだ子供が疲れて、気持ち良さそうに眠っている時の表情によく似ていた。



時刻はすでに九時を過ぎていた。ハッと起き上がると、部屋は完全に真っ暗な状態だった。しばらく放心状態になると、私は寝ぼけた眼を目でこすった。窓の方へと目をやると外は不安を感じさせるような漆黒の闇に包まれていた。

ベッドから起き上がると、酷く頭痛がする上に喉がカラカラに渇いていた。私はスリッパを履くと、くらくらする頭で少し前かがみになりながら廊下を歩いていった。そして、冷蔵庫からお茶を取り出しコップに入れるとそれをゴクゴクと飲んだ。

—それにしてもお母さん、なんで起こしに来てくれなかったんだろう

寝ぼけていたせいか、ついさっき母と口論したことをすっかり忘れてしまっていた。再びお茶をコップに入れながらテレビの方へと目を向けると、母はミルク色のソファに座ってテレビドラマに夢中だった。漸く頭が冴えてくると、先ほどの記憶がフラッシュバックするように一気に蘇った。

—あ、さっき喧嘩したんだった

帰ってきてから何も口の中に入れていないせいか、胃袋がキューっと鳴った。

—そういえばご飯まだだったな

自分でご飯の用意をしようと思った瞬間、突然母は殺風景な顔で何かの義務をこなすかのように炊飯器から茶碗に米をどっさり入れ、温めた味噌汁を机にガタンと置いた。私は母を視界に入れないように席に着くと、箸を手に取りロボットのようなぎこちない動きでご飯を食べた。不幸なことに頭がぼおっとしているせいか、自分が今何を食べているのかよく分からなかった。何かを咀嚼しているということは認知できても、肝心の味覚が切り離されたような感覚だった。

—おかしいな、味があまりしない。どうしたんだろう‥

固形物を口の中に入れてから一五分程経つと、私はさっさと食器を台所まで持って行き水につけた。部屋に戻ると、相変わらず頭がすっきりしない状態が続いていたが、あまり深く気にしないようにした。電気を消しベッドに横になると、スマホに通知が届いたことを知らせるライトが緑に点滅していたが、机まで取りに行く気力がなかったのでそのまま放って置いた。それから私は布団の中に潜り込むと、数分も経たないうちにそのまま死んだように眠った。

 

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