二〇一〇年 九月二日

 珍しくいつも起きる時刻より四〇分くらい前に目が覚めた。体はいつもよりずっと軽く、毎日行う儀式をする必要はなかった。しばらく、呆然と目覚まし時計を眺めていると、昨日の電車での相沢の表情がぱっと脳裏を過ぎった。「しまった、今日、古文のテストがあるんだった」

 思わず口から出た言葉に危機感を覚えると、私はすぐにバックの中から相沢に貸してもらった解答用紙を取り出した。右下には六八点と書かれており、間違えた問題はしっかりと青ペンで直されている状態だった。前に、相沢は勉強が不得意であるようなことを匂わせる発言をしていたが、この点数ならクラスでも出来る部類に入るのではないだろうか。それに直しまでちゃんとされているのだから、私よりもずっと優秀にちがいない。どこか自信過剰だった私は相沢より勉強が出来るだろうと少し見下していたこともあったが、今や彼に対して完全に敗北した気分だった。

 それから私は朝ご飯の時間が来るまで机の上で一心不乱に答案用紙を暗記した。何度も復唱したり、紙に書いたりすることを短い時間の中で繰り返し、頭に叩き込もうと努力した。 高校に入学してからテスト勉強を殆どしてこなかった私が今日に限って、真面目に暗記しようとしていることに驚いていた。今までの私なら例え答えが分かっていても、それほど熱心に勉強しようとはしなかっただろう。

 しかし、私はテストで良い点数を取りたいという欲望よりも、昨夜からの幸福感を維持したという思いの方が強かった。自分に鞭を打ち、苦しみの状況に追いやることで高まる興奮に快感を感じていたのである。

 さっさとご飯を食べ終えると、私はプリントをトイレの中にまで持ち込み用を達しながら何度も見直した。全て回答が分かっているのだから、百点以外をとることは許せなかった。

 いつもより自宅を出る時間が遅かったので「行ってきます」とだけ投げやりに言うと、早足でバス停へと向かった。今日も私の周りに見える景色は色濃く映し出されている。久々に幸福の感情を蘇えらせた私は踊るようにバス停まで歩いて行った。今にも激しいダンスをしたいくらいに私の足は震えていたほどだった。どうすればこの興奮を消すことが出来るのだろうか。胸が少し苦しかった上にあまりの気持ち良さに薬物を打った人間の様にハイ状態に陥っていた。

 私は電車の中でも、何度もプリントを見直した。私の首は上から下へとまるで機械のように動き、完全に目はプリントに釘付けになっていた。そのせいか誰も私の隣に座ろうとはせず、向かい側に座っていた人も私のことを奇妙な目つきでじっと見ていた。

 —今は人目を気にしている場合じゃない

 今度は軽く貧乏ゆすりまで始め、ただ百点という数字を取るためになりふりかまわず集中した。高校からの最寄駅に電車が到着すると、私は先ほどのペースより更に早く坂道をぐんぐんと駆け上がっていった。

 時刻はすでに八時五五分を示していた。九時まで残り僅か五分しかなかったので内心とても焦った。変な汗がジワっと体中から吹き出てくる上に、心臓の鼓動の速さもどんどん早くなっていき息が苦しくなった。それでも私は足を止めることなくただひたすら前へと走っていった。ふと前に読んだ「走れメロス」のことを思い出すと、彼もこんな気持ちで走っていたのではないだろうかと思った。

 漸く校内に入り自分の教室まで全速力で走っていくと、教室の扉を勢いよく開けた。一斉に生徒達の視線がこちらに集まる。気にせず席に着くと、私は筆箱を机に乱暴に置いて、ブレザーを椅子に掛けた。

「それじゃあ、皆集まったようなのでテストを開始します。試験時間は四〇分間です。今回のテストは中間、期末のように大きいものじゃないけど、これも成績に含まれるから気を抜かずに頑張ってくださいね。全員にテスト用紙が行き渡ったら始めます。」

 後ろからテスト用紙が配られると私は呼吸を整えるために一度、深く深呼吸をした。いつもに比べて鉛筆をぎゅっと強く握りしめると、必ず百点をとるという信念に燃えながら裏側に置かれたテスト用紙を見つめた。

「それじゃ、始めてください」

 全員が一斉に、テスト用紙を表へ裏返した。氏名と学籍番号を書きながら問題文をざっと眺めると予想通り、相沢が渡してくれたものとほとんど同じ内容が出題されていた。すらすらと鉛筆を走らせながら解答を埋めていくと、僅か二〇分程度で全て解き終えることができた。鉛筆を静かに横に置くと、ミスがないかどうか問題文から丁寧に一字一句読み直していった。

 それにしても、空欄がどんどん文字で埋まっていくという感覚がこんなにも気持ちのいいものだとは思いもしなかった。本番のテストでもこれくらいスラスラと手が動いてくれれば、帰り道に辛い気持ちにならずに済むのかもしれない。

 気持ちに余裕が出来て、少しぼおっとしていると隣に座っていた少し色白な男の子が横目で私のことをちらちらと見ていることに気が付いた。彼はクラスの中でいわゆるガリ勉と位置付けられた子だったが、私が早く問題を解き終えたことに苛ついているのか御機嫌斜めな様子だった。いわゆるこういう存在は「僕は誰よりも勉強が出来る」というプライドと他人より優越でありたいという感情が彼をガリ勉という道に進ませているのだろうと思った。その鎧が外れたら存在価値がなくなってしまうので、この競争社会で勝ち抜きたいという意志だけが彼を毎日勉強机に向かわせているのではないかと冷静に分析する自分がいた。

 そんな冷めた目で見ていた私は彼のことを気にせず、ただテスト用紙を見つめることだけに集中した。

 テストが終了するチャイムが鳴ると私は早々と自分のバッグを持って相沢のいるクラスまで歩いていった。颯爽と廊下を歩いていると、さっきからすれ違う女子のグループが私の顔を覗き込むようにひそひそと噂していることに気がついた。なんだか不愉快な気分だったが、動揺を悟られないために私は胸を張って堂々と長い廊下を歩いた。

 1-Aと書かれた教室の扉を開けると、相沢が窓際の席で浮かない顔つきをしながらクラスの男子と話しているのが見えた。私に気がづいたのか、相沢はこちらに手を振るとゆっくりと席を立った。すると突然、短髪の体格の良い男が「お、相沢の恋人じゃん」と大声で叫んだ。その声を聞いた1-Aの生徒達は私のことをまるで有名人かのように、興味深しげの顔つきで私たちのことをじろじろと見てきた。私は突然の告白に何が何だか分からず、目を丸くして石のように体を固くしてしまった。

「相沢ってほとんど友達いないけど、お前とはいつも一緒にいるよな。昼休みも帰り道もさ。まるで恋人みたいだよ。それに俺さ、昨日見ちゃったんだよねー。駅のホームの近くで二人が手を繋いでいる姿をさ!久々にすごいものを見た気分だったよ!!」

 いつの間にか他のクラスからの見物人が増え、私たちは大勢の視線を浴びていた。芸能人も毎日のようにこんなことをされるのかと思うと、気の毒に感じた。

「昨日、体育の時間が終わった時にこいつらを見かけたのが事の始まりよ。バック持って下校しているから不審に思って少し後を追ってみたんだ。そしたら、こいつらいきなり駅の近くで手を繋ぎ出すからさ、びっくりしてついスマホで写メ撮っちゃったんだよ。本当は許可なく撮影なんて駄目だけどさ、あーんなものを見た日にはな‥」 

 私はただ呆然と立って彼の話を聞いていた。全てがでたらめであることを白状したかったが何故か声が出ない。敵の軍勢に圧倒され、私たちはただ黙っていることしか出来なかった。とりあえず、一旦身を引こうと考えた私は相沢を引っ張って教室から出ることにした。しかし、運が悪いことに数メートル向こうから奴らがこちらに歩いてくるのが見えた。

「おう、ゆずぴー、お前ここで何やってんだよ。何かやらかしたのか?」

 私は、少し俯き加減になりながら首を斜め下へと向けた。

「ゆずぴーってあのアニメのやつのことか?確かにゆずひこに似ていると言えば似ているな!細田、お前結構センスあるじゃん!!」

「だろー。まあ考えたのは女子達だけど。センスはあるよねー。そ・れ・で・何かあった?」

 短髪の男はスマホをポケットから取り出すと、それを細田に見せた。他の生徒達も食い入るような目つきで細田の周りに集まってくる。彼らはただ唖然とした表情をしていた。私も横目でちらりとそれを見ると、そこには彼が言っていた通り、私と相沢が仲良く手を繋ぎながら見つめ合っている写真が画面に映っていた。

 しかし、私は瞬時にこの写真が彼によって加工されたものであることに気がづいた。多分、元の写真は相沢からテストの答案用紙を受け取った時のもので、何らかの手法でプリントだけを消去し、あたかも私たちが手を繋いだかのように修正したのだろう。それにしてもよく出来たものだ。本当に私たちが手を繋いでいるように見えるのだから。

「ゆずぴー。お前にも仲が良い人いるじゃん!いや、正確に言うと恋人かー!!俺たちに言ってくれていれば応援してあげたのにー」

 私たちを煽るようにして細田は言った。そして、それに続けて外野にいた生徒達はまるで何かのショーを楽しむようにキャーキャーと甲高い声を出しながら騒ぎ始めるようになった。

「これってこの学校史上、一番のビックニュースじゃね?いや、俺もゲイの存在なんてテレビの中でしか見たことがなかったから、実際目の当たりにしてラッキーだわ」

 この発言により、周りはお祭り状態となり「結婚おめでとう」、「キスはした?」、「もしかしてあっちの方も?」といった質問が槍のように私たちに投げられた。私たちはただ沈黙すること以外に何も出来なかった。もしテストの答案用紙を相沢から受け取ったことが発覚すれば、今まで受けてきたテストも同じような不正行為をしてきたのではないかと疑われるに決まっている。最悪、退学になることだってありうるだろう。もし、そうなったら両親は一体どんな顔をして私のことを見るだろうか。私は母の泣いた顔を想像するだけで、とても真実を言い出す気になれなかった。

 ふと彼の横顔を見ると、私と同じように俯き加減で辛そうな表情をしていた。それを見た瞬間、私の凍っていた足が溶けた。私は相沢の手首を引っ張ると、人間の群を搔き分けるようにして前へ進み歩いた。何となくそれが昔やったゾンビの群れを躱しながら、ゴールを目指すゲームに似ていたことをふと思い出した。ここにいる奴らはゾンビのように同族意識を保ちながら、プレイヤーを攻撃し続けるモンスター達によく似ている。それはまるで私たちを攻撃するために神が仕組んだプログラムのようだった。

 私たちは漸く、人のゴミを抜け出ると保健室がある別館を目指して勢いよく走っていった。相沢の顔は魂が抜けた抜け殻のように真っ青となり、私にただ引っ張られているだけの状態だった。誰も後ろからついてきている訳ではないのに、学校の生徒と鉢合わせたくなかったためか、自然と走る速さがどんどん上がっていく。保健室を通り過ぎ、屋上へと続く階段を上っていくと私たちの息はぜえぜえと荒くなっていた。

 屋上の扉を開けた瞬間、気持ちの良い涼しい風が吹いた。私達は大の字に仰向けになると地べたに倒れ込んだ。

「何か、すごい開放感があるね。暫くここにずっといたい気分だよ。」

 私たちの頭上には真珠のように輝いた太陽が光り輝いていた。何だか久々に太陽を見た気がした。普通の人ならほとんど毎日目にするものなのに、私にとってはそれが物珍しく見えたのだった。

「こうやって太陽を見上げるのは本当に久しぶりだわ。いつも下向いているせいで全然見てなかったから。俺もあんなふうにキラキラして元気になりたいなー」

 私は朦朧とした頭で目を閉じながら一人でぼそっと呟いた。しかし、これは決して相沢に対して言った訳ではなく、心の中で思ったことが無意識の内に溢れ出たものだった。それはパンパンに膨らんだ風船の空気がすうっと抜けていく感覚に近かった。

「相沢‥」

「どうしたの?」

「さっきは俺のせいでお前が標的にされるようなことになって、本当にごめん!」

「お前は何も悪くないじゃん。だから、謝る必要はない」

「いや、でも相沢が俺にテストを渡すようなことがなければ、俺たちがあいつらから変な噂されるようなことはなかったんだよ。きっと、俺がずるをした罰だ」

「俺は本当に怒ってないし、見方を変えれば刺激的な体験で面白かったと思うよ」

 少し無理をしているような言い方だった。

「俺、やっぱりさ、さっきの場所に戻って本当のこと話してくる。それと、あの短髪のクソ野郎もぶん殴ってくるわ!!」

「そんなことしないほうがいいと思うよ」

 彼は冷静にそう言った。

「今までのテストのことも調べられて、またクラスで新しい噂が増えるだけだと思う」

「でも、あいつが皆に見せた写真は偽物なのに、ずっとそのままでいいのかよ!」

 私は相沢とは対照的に怒りの感情を抑えることが出来ずにいた。

「さっきのこと、本当に気にしてないよ。恋人って言われるのは少し複雑な気分だったけど、俺は秋悟のこと好きだよ」

 私たちの間に流れていた空気が固まった。友達として好きだということを言われているはずなのに、私は少し照れてしまった。

「だから俺は別にホモと言われること、そんなに嫌じゃないよ。男が男を好きになることは別に変じゃないしさ。と言ってもさすがに俺は男に性欲は湧かないけど」

 私は何も言い返さずに、ただ黙って彼の言葉を聞いていた。

「もう授業だ!とりあえず次の授業には出よう。お前も遅れるなよ。じゃあ、先行くからな」

「おい、無視するなよ」

 私は相沢を置いて、屋上を出た。教室へと向かう途中、彼の発言が何度も私の頭で脳内再生された。

 —俺は秋悟のこと好きだよ

 そんな自分を気持ち悪いとも思ったが、同時に嬉しさも胸に込み上げてくるのだった。



 後ろの扉をゆっくりと開き、足音をひそめながら入っていくともぐらと視線が合った。彼は一瞬、じろっと私のことを見ると何事もなかったかのように授業を続けた。さっきの噂が既にクラスで広まっているせいか誰も私に視線を移動させる者はいなかった。それはまるで私だけが誰にも見えない透明人間になった気分だった。

 席に着き、急いでバッグから教科書とノートを取り出そうとするとスマホの画面に相沢からのメッセージが届いていたことに気がついた。中身を開くと「今日の昼休みは会えない、放課後会わないか」という一文だけが書かれてあった。一言了解とだけ返すと、すぐにスマホの電源を切った。

 私はもぐらと目が合うことが嫌だったので、彼が黒板側を向いて板書している間、出来る限りノートに書き写すようにした。そして、彼がこちらを振り向いた時は頭を三〇度下に傾け、声だけを頼りにノートを取った。

 —まるでだるまさんが転んだみたいだ

 私はそんな状況に一人おかしくなり、ついくすっと笑ってしまった。

 しばらくすると彼はそれを悟ったのか、生徒側に向いて解説する際には私に対してやや背を向けるようになった。その行為に少し心が痛んだが、もぐらとはこのまま視線を一切交わさずに一年をやり過ごしたいと思っていたので私にとっては好都合だった。

 そんな思いを抱えながらも、テストだけは高得点を取りたいという強い気持ちに駆られた。せっかく今日はいいスタートが切れたのだから、このままこれを維持していきたかった。しかし、これは決して勉強に対する意欲が高まっていたわけではなく、この学校を早く卒業したいという気持ちが私をそうさせているのだろう。もし、立派な成績をここで収めれば難関大学に合格出来る可能性が高くなる。そうなれば中学の頃のようにキラキラとした生活を再び送ることが出来るかもしれない。ここにいるクソみたいな人間とはおさらば、クソみたいなテストともおさらば、孤独ともおさらば、だから、今は厳しい試練の最中なのだと、そう自分に言い聞かせた。

 —今はただ前を向いて進んでいくしかない。

 心の底では今ある環境を捨てて飛び出したいという葛藤もあったが、私が私であることを証明するのはこの学校の名誉だけだった。それを無くしてしまえば自分はもはや地面に転がっているただの石ころと同等の存在だということを認めるのが嫌で仕方がなかった。だから、私は敵勢へと突っ込んでいく選択以外どうすることも出来なかった。

 そんなことを考えながらふと、左側の窓を覗き込むと三〇代くらいの女性がこちらの建物へと歩いてくる姿が見えた。顔はよく見えなかったがベージュのパンプスを履いて、栗色に染められた綺麗なロングヘアーをしていた。ぼおっと窓越しから彼女を眺めていると、外見が私のドストライクの好みだったので自然と私は彼女が歩く方向へと目で追っていた。しかし彼女が建物の中へと消えていくと束の間の幸福感は一瞬で消え失せ、さっきまでの不安感と悲しみが再び押し寄せてくるのだった。

 — 早くこの小さな檻から出て、息をいっぱい吸える世界に行きたい。いっそ

 この学校を辞めてしまおうか‥

 教科書の問題へと再び視線を戻すと、私は現実世界へと引き戻された。授業に集中していなかったことに腹を立てているのかもぐらが私のことを凝視してきたので私も視線を外さないようにポーカーフェイスで彼を見た。先に目を逸らした方が負けだと考えた私は彼の両目から目を離さないように意識していると、彼はまたあの蛇のような目つきで私のことをきっと睨んだ。

 —どうやらこのまま戦い続ける必要があるのかもしれない



 放課後になると、私は相沢に保健室の近くで会おうというメッセージを送った。彼のクラスの周辺で待ち合わせれば、また面倒な騒ぎに巻き込まれることを予測してのことだった。

 別館に入ると、彼が保健室の近くでスマホの画面をじっと眺めているのが遠くから見えた。直感的に彼の雰囲気がいつもと違うことに私はすぐに気がついた。急ぎ足で近づいていくと、彼は少し慌てたようにスマホをポケットの中に入れるとぎこちない動きで顔をこちらに向けた。

「エッチな動画でも見ていたのか?学校でそういうものを見ちゃいかんよ」

「そんなもん見てないよ、それに動画見ているとすぐに通信制限かかるしさ」

「ふーん、真面目だね。俺は家で毎日見ているよ、部屋のベッドで」

「一々報告しなくていいよ。でも、高校生ならそんなものかもね。それよりさ、今日ってこの後早く帰らないといけない予定とかある?」

「特に何もないけど‥。でも、いきなりどうしたの?」

「ほら、明日祝日で学校ないからさ、たまにはどこかに寄って話をしたいなと思って」

「話?勿論、大丈夫だけど‥」

 相沢らしくない行動に私は内心とても驚いていた。なぜなら、彼がこうして私を誘うのはこれが初めてだったからだ。それに、昼休みに会えなかった理由も気になる。私は不自然な間を作りたくなかったので、表情筋を強制的に作動させながら笑みを浮かべると、「じゃあ、行こうぜ」と一言だけ言った。



 私たちは正門を出ると、いつもとは帰る反対側の道へとしばらく歩いていった。私は彼が何を考えているのかまるで分からなかったので、相沢に何と話しかければ良いか分からずにいた。しばらく二人の間に沈黙が続いた。しかし、それは決して耐えられない空気ではなくむしろ長年共に暮らしてきた夫婦が沈黙を共有することが出来るような心地よいものだった。

 いつの間にか、私たちの前に見慣れない住宅街が眼前に広がっていた。高校周辺の田舎臭い雰囲気とは異なり、少しお洒落な感じがする。この周辺に住んでいる人達は裕福層なのだろうか。私は視界に入るものを好奇心旺盛の顔つきで眺めながら、見慣れない景色を楽しんだ。そんな姿を微笑ましい表情で見ていた相沢が突然、口を開いた。

「それにしても高校の近くとは随分、雰囲気が変わるな。この辺に住んでいる奴は学校もすぐだし、朝は少し寝坊しても大丈夫だなー」

「こんな所があるなんて知らなかったよ。大袈裟かもしれないけど、なんか新しい世界を発見した気分だね。俺ももっと自由に生きていいのかなって最近つくづく思うよ」

「その気持ち分かる。俺たちだけじゃないと思うけどどこか不自由だなって漠然と嘆いている奴は結構多いと思うよ。勿論、完全な自由なんてないけど、それでも毎日どこか窮屈だなって俺は感じたりする」

 彼は少し俯き加減になりながら、ぼそっとそう呟いた。

 —やっぱり今日の相沢はいつも以上に変だ。

 何となく、いつもに比べて元気がない。いつもクールだから端から見ると喜怒哀楽が少ないように感じるけど、実際付き合ってみるととても感受性豊かな奴だ。だから実はすぐに思っていることが顔に出てしまう。今だってそうだ。こんな風に近くにいればいるほど彼の新しい一面を発見することが出来るので、こんなに面白い人と出会えたことに私は素直に感謝していた。

「今スマホの地図で見たら、この近くに公園があるっぽい。ちょっと探検しに行かない?」

「でもその前にそこのコンビニで何か買っていかない?少し小腹が空いたわ」

「いいよ!何か奢ってあげる」

「今日はやけに気前がいいね。何かいいことでもあったの?」

 相沢は私の顔を見て微笑むと、さっと視線を前へと移した。その表情にはどこか深い悲しみが宿っているような寂しさを感じた。

 時刻はすでに六時を過ぎようとしていた。太陽も沈み、のっぺりと無機質な淡い藍色の空が広がっていた。空の色はあんなに落ち着いているのに、私の気分は反対にいつもより高ぶっていた。昔から夕方になると日中の時よりもテンションが自然と上がってしまう。特に、薄暗い夕闇に包まれた街の景色が私は大好きだった。明確な理由は分からないが何もかもが静寂に包まれ、昼のような活発な動きを感じさせないところに魅力を感じているのかもしれない。今日の夕方はいつもより特別だ。友達がほとんどいない私にとって、初めて訪れる場所を親友と一緒に歩けることはこれ以上ない幸せだった。それに、今日に限っては私の目に映るものはいつもの代わり映えのしないアスファルトではないのだから。


 

 コンビニから出た後、私たちはスマホの地図に沿って歩道を歩いていった。

「秋悟って本当に変わっているよな。小腹が空いたら枝豆って。じいさんかよ」

「そうかな。本当は納豆も食べたかったんだけど、公共の場で食べるのもさすがに変かなと思って」

 それから、私たちは他愛もない話をした。内容は下らないことばかりだけど、どうでもいいことを話し合える親友の存在がいることは当たり前のことじゃないとつくづく感じる。

「なんかでっかい公園が見えてきたな。住宅街から少し歩くと、こんなにお洒落な公園があるんだな。なんか俺この辺かなり気に入ったかも」

 信号の向こう側に大きな公園が見えた。人の手入れがよく行き届いているのが分かる。たくさんの緑の木に囲まれた中には小さなカフェや遊具が立ち並び、母親に引っ張られながら子供がてこてこと歩いているのが見える。

 私たちの足は自然とそこへ導かれるように、自然と入り口をくぐっていた。それから三、四十分あてもなくぶらぶらと公園の中を歩いていると、辺りは随分と暗くなってきていた。両端にある電灯も黄色く光り、さっきまで歩いていた人達の姿がほとんど見当たらない。

「それにしてもこの公園大きすぎやしないか。今どこらへんにいるか分からないなー」

「スマホの地図で確認したらいいんじゃないの?」

「すまん!それがさ、スマホの充電がもう切れちゃたんだよー」

「まあ、なんとかなるだろ。とりあえずそこにあるベンチで休まない?俺、もうお腹が空いて倒れそう」

 私たちはちょろちょろと流れる小さな噴水の近くのベンチに腰を下ろした。恥ずかしくて相沢には言えなかったが、普段からあまり運動をしていないせいか足の筋肉が少しつってしまった。

「お前も食べる?」

「俺はいいよ。あまりお腹減ってないから」

 私は頷くと、枝豆を口の中へ頬張りむしゃむしゃと食べた。二人の間に再び長い沈黙が訪れると、静寂の中で噴水から流れる水の音だけが響いた。いつの間にか私はポップコーンを食べる手が止まらないように、次々と皮だけが袋の上に積み重なっていく。一方で相沢はじっと噴水を眺め続けながら足を交互に組み直したりしていた。

「あのさ、お前俺に何か話があるんだろ?」

 私は一旦、手を止めるとずっと聞きたかったことを単刀直入に聞いた。彼は首の角度を僅かにこちらへ曲げると、漸く口を開いた。

「何でそう思うの?」

「相沢から放課後に遊ぼうって誘うの初めてじゃん。何か大事な話があるから俺を誘ったんだろうなってずっと思ってた」

 彼は視線を私から外すと、息を漏らした。

「俺さ、もう来週から学校に来ないんだ」

 突然の告白に私はのどの奥に指を突っ込まれたような衝撃を感じた。

「今頃になってこんなことを言うのは本当に申し訳ない。早く言おうと思っていたんだけど、お前の態度がよそよそしくなるのが嫌だったから中々切り出せなかった」

 私はこの時、数学の時間に見た女性が誰だったのかを漸く理解した。

「もしかしていじめが原因?」

 私は語気を弱めるようにして尋ねた。

「そうじゃないよ。転校は結構、前から考えていた。」

「そっか」

「実はさ、高校に入る前から演劇をやりたいなって思っていた時期があってさ。でも、養成所に通うにしても費用が結構高いから行けなかったんだ。一度、父親にそのことについて言ったことはあるんだけど、自分のことは自分で何とかしろって言われて諦めてた」

 私はただ黙って、相沢の目を見て話を聞いていた。

「でもやっぱり諦めきれないっていう気持ちが強くなって。それで、少し前にパソコンで演劇のことを調べていたら神奈川の公立高校で演劇が強いところを見つけたんだ。ホームページ見ていると、大会でよく優勝したりするほどの実績があることが分かってさ。俺もここで演劇を始めたいって強く思うようになった」

「相沢が演劇をやりたいなんて、初めて聞いたよ。でもいいなー。やりたいと思えることがあるなんて羨ましい限りだよ」

 何だか相沢が少し遠くへ行ってしまったような気がした。私の場合、今まで色々なことに手を出しながらもどれも三日坊主で続いたためしがなかった。最近はやりたいと思えることは何一つなく、日々の勉強をただ機械的にこなし、休みの日に好きなアニメを少し見るくらいだった。

「だから、もし転校するなら今しかないと思ったんだ。もしここで動かなかったら、この学校を卒業するまでだらだらと過ごすだけになってしまうと思うから」

「ふうん。でも、せっかく一生懸命勉強して入った高校なのに何だか少し勿体無い気もするけどね」

 私はつい皮肉っぽい言い方した。今となってこの時のことを思い返すと、彼がいなくなるという事実以上にこれからの学校生活で完全に一人ぼっちになることが怖くて仕方がなかったのだと思う。もし、私にも相沢以外に仲の良い友人がいればもっと彼を気持ち良く送ってあげられたのかもしれない。

「確かにこの学校は賢くて、誰でも入学することのできない価値ある学校だと思うよ。でもね、そこに居続けることが自分の人生において本当に大事なものかどうか分からなくなってきたんだよ。王冠を被っていても、本当に幸せかどうかはきっと自分にしか分からないんだと思う。俺さ、自分を幸せにしてあげたいんだよ。それに最近思うんだけど、人生は修行だっていう人がよくいるけれど、それって本当は自分が勝手に修行にしているだけなんじゃないかって‥」

「そうかな、人生って思い通りにいかないことの方が多いし、やっぱり生きることは修行なんだなって感じるよ。辛いところから抜け出したいと思っても、どうにもならないことってあると思う」

 相沢はそれに対して何も言い返さなかった。それどころか、彼の心は全く乱れることなく驚くほどに落ち着いていた。

「秋悟、ごめん。俺、自分の意志を曲げるつもりはないんだ。だから自分の決心が鈍らないうちにすぐにでも転校しようと思ってる」

「うん、でもさ高校を卒業してバイトしながら養成所に通うのだってありだと思うけどな。残り二年と少しは一生懸命勉強していい大学に入学する。それに、日本はまだまだ学歴社会だから、この学校で勉強することは将来的にプラスになるんじゃないかな。それに、好きなことは大学に入ってからでもできるじゃん。演劇で確実に成功する保証はどこにもないし、安定した職業でもないよ。先ずはとりあえず保険を作っておくことが先決なんじゃないかな。それから相沢がやりたいことにうんと打ち込めばいいじゃん。俺、間違ってるかな?」

 私は段々と自分がヒートアップしていくことに気がついた。でも、怒りをぶつけてやるつもりは全くなかった。正論を言いたい気持ちと彼を引き止めたいという気持ちが混ざり、結果的にそういう言い方になってしまっただけだった。

「ごめんな、秋悟。俺、お前と知り合えて本当に良かったよ。もし、お前がいなかったら俺、こんな学校すぐに辞めてた。何でも話せる親友に出会えたのはこれが人生で初めてのことだよ。だから、お前のことが本当に好き!良いところ、悪いところ全部引っくるめてお前のことが好きだ!!」

 私は込み上げてくる悲しみをついに抑え切れず涙腺が緩んだ。

 —俺もお前がいたから、毎日学校へ行くことが出来たんだ。本当は俺だって辞めてしまいたいと思う時は何度もあった。

「何でどこかへ行っちゃうんだよ。俺をまた一人ぼっちにさせるのかよ‥また深い暗闇の中に俺を突き落とすの?」

 —ふざけるなよ、神様なんて絶対この世にはいないんだ。ちくしょう、俺のこと、いつも苦しめやがって。

「唯翔、俺とハグしてくれ。別に俺はホモじゃない。けど、とにかくハグしてくれ!お願い!!」

 彼はうんと頷くと、私の体をぎゅっと抱き締めた。とても暖かくて、彼の温もりが伝わってくるのが分かる。私たちはそれから長い間ずっと抱き合った。そしてお互いにこの時間が永遠に続いてほしいと切実に思っていた。

 —もうこんな気持ちを抱くことなんてこれからないのかもしれない

 そんなことを考えていると、私の目から涙が一滴溢れた。

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