二〇一〇年九月一日

 目覚まし時計が鳴る少し前に私は目を覚ました。ふーっと深呼吸をしてベッドから起き上がると、即座にイヤホンを耳に当てた。この時間こそ私の唯一の癒しだった。「白の羽」はとても優しく心地よいメロディでありながらもエンルギッシュでこれからの一日を明るく前向きにさせてくれる不思議な曲だった。これは毎朝、まるで儀式のように行われた。

 しかし、いざ学校へ向かう時間が近づいてくると、私の目は死んだ魚の目のように徐々に生気が失われていった。それに加えて、心臓の音がトクトクと少しずつ早くなり呼吸が浅くなることも毎日の恒例行事のように起こった。

 少し青ざめた顔をしながら、食卓へ向かうと母は穏やかな口調でおはようと言った。誇張表現ではあるが、まるで聖母マリアに出会ったかのような気持ちで少し間を置くと私もおはようと微笑んで返した。そして、椅子の上にゆっくりと腰掛けると机の上には私が大好きな米、味噌汁、納豆、目玉焼きの朝食セットが置かれていた。一見、どこの家庭でも出てくるような普通のご飯だったが、中学の頃までは何とも思わなかったものが高校に入ってから急にとても美味しく感じられるようになった。それまでの私だったらきっとそうは思わなかっただろう。なぜなら毎日が幸せだった私にとり、当たり前のようなことが幸福だと感じるセンサーが鈍くなっていたのだから。

 —でも、今は

 私は全てを残さず平らげると一旦、部屋に戻り制服へと着替えた。そしてバッグを肩に掛け部屋を出ようとした瞬間、ふと目覚まし時計の横にかけてあったカレンダーが目についた。重たい息を吐きながら後二年五ヶ月だからと自分に言い聞かせると、私は自分に鞭を打つようにこわばった体を玄関まで前進させた。

 今でこそ慣れてきたものの、本当は今着ている制服があまり好きではなかった。中学までは自由な服装で許されていたのに(普通の中学は制服を着用するが)高校に入った途端、制服を着用することが義務づけられることになった。

 何故、この国はここまで「みんな一緒」であることにこだわり続けるのか私にはさっぱりと理解することが出来なかった。

 こんなにも機能性が悪く、着るだけで疲れるものを毎日着て行くことは奴隷になった気分に近かったし、三年間あんなものを着続けていたら寿命が縮まることは確実だと思った。

 普通の人なら、ここまで言うのは大袈裟だろうと思う人も多いかもしれないが、通常の人より感覚過敏だった私にとりワイシャツの襟が首に当たる感覚や、自由に体を動かしづらいブレザーの感覚があまり好きにはなれなかった。

 家を出ると私はぎこちない歩き方で、バス停までカタカタと革靴の音を鳴らせながら歩いていくと今日は珍しく人がほとんどいなかった。

 —やっぱり、落ち着くな

 この静寂な空間を私は真に愛していた。朝の鳥のさえずりの声と豊かな緑は私の心を自然と癒してくれた。なにせ、これからうじゃうじゃと気色の悪い音を聞かされるのだから、今はこの質素な景色を思う存分に楽しみたいと思った。



 学校には予定より早く到着したので、席についた私はポケットからスマホを取り出すと、適当にニュースアプリでも開きながらざっと記事に目を通した。いつもと変わり映えのしない記事がずらりと並ぶだけで、別段興味深そうなものはない。それはまるで毎日、学校の往復の行き帰りしかない私の人生そのものを表しているかのようだった。

 自分から行動を起こし、新しい友人でも探そうと何度も試みたことは勿論あった。しかし、この狭い空間で半年以上過ごしたにも関わらず自分が属したいと思えるようなグループはどこにも見当たらなかったので、結局諦めることにした。

 気を紛らそうと私はバッグから教科書とノートをバックから取り出そうとすると、突然甲高い女子達の声がクラスに響いた。何事かと思い少し聞き耳を立ててみると、他のクラスの男子がこのクラスの女子と付き合っているという話題で盛り上がっているようだった。

 後ろをちらっと振り向くと、ほとんどの生徒達が片手にスマホを持ちSNSを通してメッセージを確認していた。ほとんどの生徒達は高校でスマホデビューするという人たちが多かったので、スマホに熱中する人が多かったのも頷ける。その中でもとりわけ、人気だったのが誰もが一度は聞いたことのあるラインやツイッターだった。ぽつんと窓際に座る私以外の生徒たちは毎日のようにクラスのグループアカウントで他愛もないことを話し合っているのだろう。

 そんな中で、私はいまだに何故SNSがここまで全国的に流行しているのか理解に苦しんだ。そこまでして他人のことが気になる理由が分からなかったし、学校の外でも仮想空間の中で会話したいという気持ちには同意出来なかった。それに、その会話のほとんどは一文で返せるようなどうでもいいことからクラスの誰々が〜したという噂まで、下らない会話が繰り広げられているものばかりなのだから。

 —そんなことを話していて何が楽しいんだろうか

 また、つい最近のニュースではSNS上でのトラブルから学校内の生徒が自殺する事件があったが、改めて自らドロドロした人間関係に足を踏み入れようとする人たちの感性を疑った。だから、私は電車の中で自己顕示欲を満たすためにいつも必死にSNS上で何かをつぶやいてみたり、四六時中友人同士でメッセージを送り合う行為にただ首をかしげるばかりだった。

 教室内にいる生徒が増え少しずつ騒がしくなってきた頃、教室の扉がガラッと開いた。ぞろぞろと集団をなして入ってきたのは、このクラスで私が最も嫌悪する人間達だった。毎日のように整髪料で髪を固めた紺色の集団はズボンを少し下ろした格好で(腰パン)、おらついた歩き方をしながら席に着いた。

 すると、彼らは突然私のことをじっと凝視しては、何やら後ろの女子達とクスクスと笑い出した。

「おはよう、村道」

 男子達のリーダー格である細田が、私に向かって言った。

 ーいつもなら、そんなこと言わないくせに何故今日に限って

 気弱な私はしぶしぶ彼らの方へ首を傾けると、女の子達の一人が「やっぱり、ゆずひこに似ている」と真顔で言うと、周りにいた女の子たちは一斉にケラケラと笑い出した。

 すると、男子達も一緒に「確かに、ゆずぴーじゃん。美容整形で二重にしたら綺麗なゆずひこに変身するかも!」と嫌みたらしく私の目を見ながらニタニタと笑った。

 —ふん、何て下品な笑い方だ。

 私はそう心の中で馬鹿にしながら内心、苛立ちを心の底で抑圧していた。

 ちなみに、ゆずぴーことゆずひことはアニメ「あたしんち」に登場する長男のことである。外見的特徴として目が線になっていて、おとなしそうな印象を与える青年だ。

 私も前にインターネットで確認してみたところ、確かに目元がそれとなく似ているという印象を抱いた。別段、私はアニメのキャラクターに似ていると言われることに対してそれほど嫌な気分はしなかった。ただ「あいつら」に言われたことに対して怒りを感じていた。加えて、彼らの言い草が憎たらしいほどいらつく口調だったため余計に腹が立った。しかし、私はあえて何も言い返えすことはなかった。感情的になり、何かを言い返しても余計に口論がヒートアップするだけだと思ったからだ。それでも、まだ高校生だった私は感情を完全にコントロールすることには長けていなかったので、今にも感情の中に眠る龍が暴れ出しそうなくらいだった。私は彼らに対し、引きつった笑みを浮かべると参考書を眺めるふりをしながら気持ちの高ぶりを鎮めようとした。

 チャイムが鳴り、数学を担当するもぐらが教室に入ってくると、日直係は号令をかけた。私たちはロボットのように席を立ちまるで軍隊のように目の前にいるもぐらに深々と礼をした。もぐらというあだ名をつけているのは、彼の目がつり目で少し出っ歯な前歯がまさにもぐらの容姿とピタリと一致するからだった。彼は教壇に立つと、唐突に私の名前を呼んだ。

「村道!テストあんまり良くなかったから、再試験な。ちゃんと勉強しとけ」

「ちゃんと勉強しろよ!ゆずぴー !母ちゃんに尻、叩かれるぞ」

 どっとした笑いが細田達の周りから聞こえてきた。こういうのにはもう慣れているせいか、何かを言い返そうという気力はさっぱり湧かなかった。

 それにしても、わざわざ皆の前で名前を呼ぶのは本当に辞めてほしかった。普通なら後で個別に呼び出して話をするものなのに、彼はそういう配慮をすることが出来ない人間だった。

 —いや、わざとそうしているのかもしれないが

 彼が私のことをあまり良く思っていないということに気づき始めたのは、私を無視しするかのような態度を取り始めてからだった。二限目の現代文の授業に鈴美先生という容姿端麗な教師がいるのだが、その人が私によく相談に乗ってくれる姿を見て嫉妬したことが理由であると思っている。それは、お前の勘違いにすぎないとか妄想だと思うかもしれないが、他人の思考や気持ちの裏側まで読み取ることに長けていた私はそれに関しては強い確信を持っていた。

 それ以外にも私がクラスの中で浮いた存在であったことも彼が私を嫌う要因だったと思うが、とにかく鈴美先生との関係が一番だろう。

 授業中、私は心に溜まったものを爆発させたい気分に幾度もさいなまれそうになった。一旦、トイレにこもって冷静になろうかとも考えたが、嫌いな男子達の前を通りたくはなかったので、残り四〇分の授業は我慢することにした。

 しかし、それでも胸の底から込み上がってくるわだかまりを抑えることは非常に困難だった。深く深呼吸をしたかったが、授業中に隣でそんなことをしていると変に思われる気がしたのでこれもやめておいた。

 だったら何かで気を紛らわそうと考えた私は、黒板に書かれている数式や図を必死にノートに書き写しながら、授業をしっかり聞くことに専念した。それから数十分が経過し、教科書にある例題をもぐらが黒板に図を書きながら解説していると、さっきから私と視線が合う度に少し睨み付けてくることに気がついた。最初は少し動揺したものの、目が合うたびに嫌らしい目つきをしてくるので私も彼を威嚇するような目つきで見てやった。すると、彼は一旦目をそらしたかと思うと、今度はさっきよりも私の目を長く凝視してきた。それは、まるで何かの怨念が籠っているかのような蛇の目つきをしていたので、とっさに私は目をそらしてしまった。

 チャイムが鳴ると私はそそくさと階段を駆け上り、三階のトイレに入ると個室のドアを勢いよくガタンと閉めた。あえて三階のトイレを利用したのは、出る時にクラスの誰かと鉢合わせするのを避けたかったからである。私はバックから乱暴にイヤホンと音楽プレイヤーを取り出すと、それを耳の中に深く差し込んだ。 音楽のボリュームを下げて一旦、落ち着くために深呼吸をすると、私はついさっきの状況を頭の中で整理することにした。何故、もぐらが私のことをあんな鋭い目つきで睨みつけてきたのだろう。彼が私のことを好いていないことは元々知っていたが、それは決して今に始まったことではない。

 —何故今日に限って

 そう心の中でつぶやきながら頭をフル回転させると、私はある結論に達した。それは自分の目つきが知らず知らずのうちに悪くなっていたのでないかということだった。「あいつら」に浴びせられた言葉に対して苛立ちや怒りを上手にコントロールすることが出来ず、そのまま感情が顔に出ていたのかもしれなかった。さっきの授業を振り返って思い出してみれば、授業中ずっと顔が引きつっていた感覚は確かにあった。それに、元々目つきが少し悪かったせいもあり余計にそれが際立ったとも考えられる。しかし、それでも教師が生徒に対して睨みつけるという行為はどうなのだろう。あの目つきは今日の分も含めて今まで私に抱いてきた感情を露骨に出しているように見えた。

 —教師が嫉妬って。精神年齢、幼いなー

 それにしても今日は本当に何もかもついていない日だ。「あいつら」におもちゃのように遊ばれ、またもぐらにはギっと睨まれるというダブルパンチを食らってはさすがに参ってしまった。私は手で顔を覆い被せると、神様は何故私にこんな厳しい試練を与えるのだろうと嘆いてしまった。

 結局、二限目を知らせるチャイムが鳴っても、そのまま私は便座の上から離れるず、まるで家に引きこもった子供のように個室の中で「白の羽」を聴ききながらリラックした。それから二、三十分が経過するとこのまま次の授業から出席しても何だか気まずいと思ったので、保健室に行き適当な理由をこじつけて自宅へ帰ろうと考えた。扉をそっと開け、トイレに誰もいないことを確認すると私は少し前かがみになりながら2階から別館まで足音を立てないように走っていった。

 

 保健室の前に来ると、私は役者になりきった気持ちで体調が悪そうな表情を作るとドアを二回ノックした。「どうぞ」と優しい声が響くと、私はゆっくりとドアノブを捻った。中に入った瞬間、白い背中が見えるとそれが相沢だとすぐに分かった。

「すみません、実は体調が優れなくて。今日は学校を早退したいと考えているのですが‥」

「体調が良くないの?大丈夫?熱はあるの?」

「少しあると思います」

 とっさに嘘をついてしまった。もし、熱がないと発覚すればきっと早退させてもらないだろうという私の感が働いたからだった。

 彼女は私に体温計を渡すと、「じゃあ、そこのソファで熱を測り終えたら教えてくれる?」と言って、相沢との話しを続けた。

 内心、私は自分のことを馬鹿だと思った。上手に芝居が出来たと思ったが、体温を測ることまでは頭が回らなかった。

 —担任の教師に報告されるかも

 素直に白状したほうが良さそうだと思ったその時、突然、相沢が何かを訴えかけるような目で私の方をちらりと見た。すると、彼は隣の椅子に置いてある紺色のバッグから一枚のプリントを取り出すと、それを彼女に手渡した。

「先生、最後に帰る前にちょっとこれに目を通してもらえませんか?大人の意見が聞きたいなと思って」

 今がチャンスだと思い、先生がプリントを読んでいる少しの間、私は体温計の先を服の摩擦で温度を上げ、即座に脇に入れた。あまりにも緊張してしまい、心臓の音がとくとくと体中に響き渡るのが聞こえる。おまけに変な汗が脇から腕までじわりと垂れていた。体温計がピーっと鳴ると、私は冷静を装うようにして、脇汗で濡れた体温計の先を服で拭き、それをぱっと彼女に手渡した。

「どう?熱はあった?顔色がとても悪そうだけど。」

 彼女は相沢のプリントを一旦、机に置くと私の手から体温計を取った。その手は小さくて一本一本の指が細く、つるつるして綺麗だった。高校に入学してからクラスの人たちが嫌いで、女性を意識することがほとんどなかったが、この時ばかりは性欲のスイッチが入ってしまった。いかん、いかん、と私はすぐに卑猥な考えを取り除くため、別のことに意識を向けるように務めた。

「確かに、少し熱はあるわね。今日は家でゆっくり休んだ方が良さそう。じゃあ、そこにある紙に名前、クラス、出席番号を書いてもらっていいかな?」

「分かりました」とだけ一言言うと、震えた手でボールペンを持ちながら記入した。 ふと、顔を上げると相沢は先生と何やら楽しそうに話をしている様子だった。一体、何を話しているのだろうと興味が湧いたが、長く居続けても不自然だと思ったので、ここから出ることにした。

「先生、今日は有難うございます。失礼します」

「また、何かあったら来てね。相談でも大丈夫だよ。」

 私は照れ臭そうに会釈だけすると、そこを後にした。



 壁に寄りかかりながらポケットからスマホを取り出すと、すでに時間は一〇時二〇分を示していた。このまま相沢のことを待とうとも考えたが、休憩時間が始まれば下校しているところを生徒達からジロジロ見られる可能性を考慮して私は早々と学校を出ることにした。

 急ぎ足で緩やかな坂を降りていると、後ろからはあはあと息を切らしながら、コトコトと地面を蹴る音が聞こえてきた。後ろを振り向ことした瞬間、誰かの手が私の肩に触れた。

「なんで、先に帰っちゃんだよ。せっかくだから、一緒に帰ろうと思ったのに」

「いや、悪かったよ。もうすぐ昼休みだからさ、あまり人と遭遇したくなかったんだよ。それに、お前も先生と楽しそうに話していたから邪魔しないほうがいいかなって」

「お前、俺に感謝しろよ。もし俺があの場にいなかったら、担任の先生に報告されて叱られていたところだぞ。まあ、あの先生は優しいからそんなことしないだろうけど」

「いや、本当に助かったわ。失敗したらどうしようって手を震わせながら体温計の先っぽをゴシゴシ擦っていたわ」

「おー、何かエロいね。でも、確かに測り終えた後のお前の顔、凄い血の気が引いていたわ。面白すぎてその場で笑いそうだった」

「いや、別にそういう意味で言ってないから。なんで高校生ってすぐにそういうのに結びつけようとするかな。あのさ、話変わるんだけどお前、保健の先生と何を話してたの?」

「別にたいしたことは話していないよ。今日は授業で現代文の課題が出されたからその作文を読んでもらっていただけだよ。それに、よく色々相談に乗ってもらっているしさ」

 相沢はこの学校で唯一、私が信頼できる人だった。初めて彼と出会ったのは体調不良で保健室を訪れ、ポツンと丸椅子に座っているのを見かけた時だった。私は何故か、彼の落ち着いた独特な雰囲気に惹きつけられ、いつの間にか彼に話しかけていた。正面に向き合った時、彼は驚くくらい整った顔立ちをしていた。顔にも個性というものが存在するが、彼にはそれがまるでなかった。美男美女は個性のない平均顔というのをテレビで見たことがあるが、彼ほどそれがぴったりくる表現はない。私たちはすぐに互いに意気投合すると、それから毎日昼休みに屋上や保健室で会ったりした。そして、僅か一週間という速さで互いの内面に関わるような話までする仲へと発展していた。

 このように、私が一人の人間と深く関わるようなことは人生で初めての経験だった。今までは、人類は全員仲間のようなスタンスを持ち、楽しければ何でもいいという考えだったが、私は彼を通して少しずつ自分の意識が外側から内側に向かっていくのを感じるようになっていた。

 彼の話をよく聞いていると、どうやら彼もクラスの一部の男子から嫌がらせを受けているようだった。他の生徒達に比べて、控えめで、俗に言うイケメンだったためか男子達から標的にされることが多かったと言う。また、彼らは何かと相沢の粗探しをすることもあり、勝手にテストの点数を見ては「相沢ってあんまり勉強出来ないだよな。まじでださいわー」とわざとクラスに聞こえるような声量で罵しったり、最近では彼の評判を落とすためありもしない噂をクラス中に広められ困っているということも聞いた。それでも、彼は怒りを露わにすることなく無言で立ち去るようにしていたそうだ。

「やっぱり保健室の先生、可愛いよな。俺、かなりタイプだわ。外見も勿論だけど、あの穏やかな雰囲気は何だろうね。お前が先生と親しそうに話すのを見て少し嫉妬したわ。」

「もしかして、それで先に帰ったの?何度も言うけどお前が思うような関係じゃないから」

「そんなことで帰らないよ。早く下校しないと他の生徒達に変な目で見られるだろ、それが嫌だったの!」

「ふうん、まあいいや。でもさ、確かにあの人は綺麗だよね。華やかな美人さんという感じではないけど、道端に咲くチューリップのような儚さがあるというか‥」

「お前、気持ち悪いな。何がチューリップだよ、かなりくさいぞ」

「冗談だよ。ただそれくらい目立たないというか、地味というか。まあ、それがあの人の良さでもあると思うんだけどね」

「はいはい」

「俺さ、あの先生によくお世話になっているけれど、最近になって本当に俺は駄目な奴だなってつくづく思うよ。学校に居場所がないからって先生に縋るようなことしてさ」

 私たちの間で一瞬、沈黙が流れた。

「なるほど、保健室の先生はお母さん代りってやつ?あの人は母性までも兼ね備えているのか。今度、デートのお誘いしてみようかな」

「残念、もうあの人はすでに結婚しているよ。子供もいるんだってさ。諦めた方がいいね」

「ちぇっ。まじかよ。俺もこれから何か相談に乗ってもらおうっと。」

 気持ちの良い風がびゅんと吹くと、前髪が崩れた。太陽に照らされた周りの緑が何故か今日に限っていつも以上に輝いて見えた。毎日、暗い顔をして帰り道も斜め下を向きながら帰ることが多かったせいか、周りの景色がこんなに綺麗だとは思わなかった。数十分も歩くとさっきまで抱えていた不安が嘘のように晴れていくのを感じた。まるでそれは心の中に溜まっていた埃が掃除されたような感覚だった。それに、こうやって何でも話せる友達がいることは当たり前のことではない。この世には、本当の友達と呼べる人が出来ずどこか上っ面だけで繋がり合っている関係も多く存在する。それに比べると私はこうやって大好きな親友と一緒に気持ちの良い空気を楽しみながら歩けていることはとても幸せなことだと感じる。

 —神様、本当に有難う

 駅の近くまで来ると、普段より人通りが少なく開放感があったせいか私はついスキップをしてしまった(勿論、気分が良かったことも関係しているが)

「じゃあ、また明日な。昼飯食い終わったらその時Lineするね二〇一〇」

「了解した!そういえば、お前今日の現代文の授業休んでいるんだよな。次の授業にテストがあると思うから、答案見せてやるよ。俺らの方が授業先に進んでいるからもう返してもらったし」

 彼はそう言い放つと、バッグからテスト用紙を取り出すと私に渡した。

「わざわざ有難う。お前って意外にいいやつなんだな」

「いや、俺いつもいい人じゃん」

「自分でそんなこと言うかよ。まあいいや、テスト終わったらすぐ返しに行くね」

「分かった。じゃあ、またね」

 私たちは改札を通ると、お互い反対方向へと歩き出した。途中、ホームに上がる階段を登っていると、派手な化粧をした五〇代くらいのおばさんに一瞬ギロっと睨まれた気がしたが、あまり深く考えないようにした。

 殺風景なホームに立つと、階段を一段一段ゆっくり登ってくる相沢の姿が見えた。さっきまで楽しく話していた雰囲気とは異なり、どこか神秘的なオーラを彼から感じた。その凛とした表情を浮かべながら歩く姿は、まるで彼の周りだけ時間が止まったようにさえ見えた。

 相沢は私の方へと視線を合わせると、ニコッと歯を見せながら私に手を一瞬振るとすぐに目を逸らした。その顔があまりにも不自然な笑みだったので私はついクスっと笑ってしまった。

「二番線にK駅行きの電車が参ります。黄色い線の内側までお下がりください」

 静寂の空間の中、アナウンスが鳴り響くと私は少し前へ出た。彼は相変わらず視線を僅か斜め右に目を反らしたままだった。向かい合ったままだと何となく気まずかったので私も少し不自然なくらいに歯をむき出しにしながら彼に視線を送ったが、こちらを向くことはなかった。

 —あの細い足に、つぶらな瞳。本当にあれは男の子なのだろうか

 数メートル先に立つ相沢はまるで女の子そのものだった。モデルのようにスタイルが細く、色も白い上に顔が小さかったせいもあってか、実は性別を偽っているのではないかと疑ってしまうほどだった。しかし、そう感じたのはこれが初めてという訳ではなく前々から疑問に思っていたことだった。お互いにそんなに長い付き合いではあったが、彼の行動、仕草、考え方はどこか女性的だと思わせられることが幾度もあった。正直、今までの人生でこれほど深く付き合っていけばいくほど、ミステリアスな人間に出会ったことはないというのが正直な感想だ。

 薄い灰色の電車は警笛を鳴らしながら、私たちの間をまるでこれが最後の別れであるかのように切り離した。電車が完全に止まり、彼は中へ入ると窓から私の方を見ながら、軽く手を上げて「ばいばい」と言っているのが見えた。

 プシューっという音を立てながら、電車はゆっくりと動き出す。この時、私は何故か彼が乗って行く電車の後ろ姿がちょっぴり悲しそうに見えたのだった。


 

 珍しく明るい気分が続いていせいか、普段なら窓から見える景色はぼんやりとしていたが今日はいつも以上にはっきりと色彩を帯びているように見えた。

 バスから降りると私は力強く一歩を踏み出し、背中に棒を入れたような歩き方で家までの道のりをすたすたと歩いていった。

 —毎日がこんな気分だったら、どれだけ幸せだろう

 明日からこの幸せな気分が消えてしまうことを思うと、学校、興味のない勉強、煩わしい人間関係、全てを投げ捨てて今すぐにでも解放されたい気分だった。

 自宅に着くと、母親の「おかえり」という穏やかな声が聞こえた。私はいつもの決まり文句のように「ただいま」とだけ一言言うと自分の部屋に入った瞬間、戦闘服を脱ぎ捨てハンガーにかけた。完全にリラックスした私はまるで別人になったかのように、緊張した顔立ちはほがらかな表情へと変わっていった。

 そして、ベッドに大きくダイブインした私は枕元の近くに置いてあるムーミンのぬいぐるみを強く抱きしめると、顔をそこへ埋めた。そして、モーフを思いっきり全身に被せ暫く目を閉じていると、数分も経たないうちに私は深い眠りへとついた。


 たくさんの笑い声が聞こえてくる。その笑い声はとても心地が良くて、円を作っている生徒たち全員が喜びに満ちた表情をしていた。辺りを見渡していると、その中に相沢も皆と楽しそうに笑いながら話をしているのが見えた。

 —お前こんなにニコニコ笑う奴だっけ?

 すると、どういう訳か相沢は円の中心に立つと、テレビで流行りのコントを全く恥ずかしがる様子もなく披露し始めた。周りにいる生徒達は腹を抱えて笑いながら私の方を向くと「お前も相沢と組んでコントでもやれよー」と手拍子を叩きながら私の名前を叫んだ。他の生徒達も私の名前を呼びながら掛け声をかけるので、私はまんざでもない表情を浮かべながら相沢の横に立った。

「じゃあ、今から俺ら二人でコントを始めまーす。」



 ハッと目が覚めると、ぼんやりとした視界に母親の顔が入っていることに気がついた。小声で「ご飯だよ」という声を耳元で聞くと彼女はそのまま台所へと戻っていった。

 視界が漸く鮮明な状態になると、私は今までの出来事が夢であったことを悟った。ゆっくり起き上がろうとすると、酷く頭痛がした。私は眩しい光に目を半開きにさせながら、よたよたと冷蔵庫へと向かい、コップ一杯のお茶をゴクゴクと飲んだ。

「お母さん、俺、何時間くらい寝てた?頭がズキズキして痛くて辛いわ」

「二時間くらいよ。一回部屋に入った時、ぐっすり眠っていたから起こさないようにしてあげたの」

 私はリビングの窓を開け網戸の状態にすると、ソファにうつ伏せになりながら寝転がった。

 —それにしてもいい夢を見たなー

 明日は何か良いことでも起こるのかもしれないとひそかに期待しながら私は一人でニヤニヤした。それを見た母は一瞬驚いた表情をすると、安心したような声で「あなた、気持ち悪いわよ」と一言呟いた。

 毎日が苦痛で心の中に鉛のようなものをいつも抱えていた私は、感情のメトロノームが正常に動いていない状態だった。しかし、今日に限ってはそのメトロノームの揺れ幅は大きすぎるくらいゆらゆらと勢いよく揺れていた気がする。今日を振り返ってみると別段、特別なことが起こった訳ではないが誰もが感じる平凡なことに私は大きな幸福感を感じていた。なぜなら、それは私にとっては当たり前のことではなかったから。

 私は心の中で神様に祈った。ただ、平穏な学校生活を送らせてほしい、それ以外に何も必要としないからと。この時から私は神という存在を意識し始めるようにもなっていた。時々、スピリチュアルの本を読み漁ることもあったし、その類をインターネットで検索することもあった。これも一種の内面的成長と捉えてよいのかもしれない。しかし、残念ながら私の願いは神様に届くことはなかった。この世界の創造主は私に意地悪をするのが好きなのかただ笑みを浮かべるだけだった。






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