第9話 別れ
「あの、星川さん。この間は少し言い過ぎたよ。……君の気持ちも知らないで責めるようなことを言って済まなかった」
「いえ。月ノ下さんに迷惑をかけたのはその通りですから。気にしていません」
彼女はそう言ってすました顔で僕の少し後ろを歩く。
あの後で警察が竹芝を逮捕し、僕らも参考に警察官に話を聞かれたので辺りはすっかり暗くなってしまった。
僕らは街灯が照らす夜道を駅の方へ歩きながら今回の件をあれこれと話し合っていた。
竹芝は警備員になる前は自動車工をしていたことがあって、車の構造にはある程度詳しかったらしい。
最近の自動車のほとんどはイモビライザーという電子的なロックがかかっているのだが、車種によってはこれを無効化するツールや電子コードを傍受することで鍵そのものを開けることができるようになっている。そこで竹芝はスーパーにくる常連客の中で、売れそうな装備が付いている車や資産家と思われる高級車に狙いをつけて非番の時に車上荒らしにいそしんでいたのだ。
自分自身が警備員なので当然監視カメラの位置は熟知していたのだが、それでも全く映らずに犯行を行うことは難しい。
そこで監視カメラの設定操作に必要なパスワードをあるとき盗み見て、こっそりと監視カメラの首振り設定をいじっていた。といっても露骨に変えたらバレてしまうので、監視カメラの向きが変わるスパンをほんの数分間長くする程度である。
警備主任の大門さんも、覚えがないのに監視カメラの設定が変更された履歴を確認したことがあったので一度不審に思ったことがあったらしい。
それは、ぱっと見で気が付くようなものではないが、しかし事前に車両に目星をつけて開錠方法と逃走経路を確保さえしていれば、窃盗をするのにその数分間は十分だった。
そしてつい先日のこと。
竹芝は白いポルシェが駐車場に止まっているのに遭遇し、しかも無傷であっさり開錠するのに成功する。
思わぬ獲物が手に入ったと浮足立った彼は、車そのものを手に入れたいという欲望に駆られて、そのまま走行してしまったのだった。後ろに思わぬ荷物が乗っていることにも気づかずに。
そこから先は浅井くんが以前推理したとおりだった。
赤ん坊が泣きだしたことでその存在に気が付いた竹芝は動転して、思わず停車して金品をもってその場を立ち去ってしまう。
しかし後で気になって戻ろうとしたのだが、そこには既に星川さんたちがやってきて赤ちゃんを救出していた。
このままでは警察も来てしまう、と焦った彼は仮病を使って救急車でその場を離れることを思いついたということだった。
「ちなみに、例の車の持ち主が『デジタルカメラを取り戻したら二十万円払う』という話は本当だったのか?」
「いいえ? 私の出まかせです」
僕の問いに星川さんはあっさりと答えた。
彼女の隣を歩いていた浅井くんはこれにかすかに吹き出す。
「だと思ったよ。つまり犯人をひっかけるための罠だったってことか。『盗品を金に換えられる』と聞けば犯人だったら喜び勇んで持ってくるだろうな」
「星原さんが前に話していたでしょう。人間は身近なものとかけ離れたものの方が価値を感じることがあると。……私もその話を聞いて思い出したことがありまして」
星川さんの言に星原が「へえ? どんな話?」と興味を示す。
「メディアリテラシーか何かのコラムで読んだ記憶があるんですが。人間は『身近な相手から押し付けられた情報』よりも『TVや噂話といった中から自分が手に入れた情報』の方を信用する傾向がある、と」
腑に落ちる話だ。
身の周りの気の利いた誰かが「この服良いだろ?」とちょっと奇抜な格好をしてきたときには一笑に付していた連中が、テレビやマスコミで同じファッションが取り上げられ始めるとこぞって真似をし始めるなんて場面に遭遇したことがある。
「つまり直接的に私が『盗まれたカメラを二十万円で買います』というと胡散臭く聞こえるけれど、『友達の友達から聞いた』なんて枕詞をつければ『そんなに広がっているのなら本当なのかも』と思わせられるんじゃないかと」
「成程ね。怪談の語り口でも嘘っぽい話に迷彩をかけるための常套手段だわ。……大したものね」
星原が感心したように呟いた。
そこまで話したところでちょうど駅に着いた。
帰る方向はそれぞれ違うので別々のホームに向かうところでふと、僕は思いついて星川さんに尋ねる。
「そういえば星川さんはあの時、どうして僕に監視カメラの機能を確かめるためにポスターを貼り続けていたことを説明しなかったんだ? 言ってくれれば良かったのに」
そう。彼女が一言自分の意図を説明してくれていたら僕も責めるようなことは言わなかったのに、なぜ何も弁解しなかったのだろう。
星川さんは一瞬沈黙してから、思い立ったように答える。
「自分が正しいと考えて実行したことに言い訳はしません。弁解もしようとは思いません。……どのみちあなたに迷惑をかけたことには変わりはないのですから」
「だけど……」
少し離れた反対方面のホーム階段の前で、帰ろうとする浅井くんが「どうしたのか」という目でこちらを振り返っていた。
「それをいうなら」と彼女は僕の言葉を遮る。
「月ノ下さんは警備員室で私のことをかばってくれたではないですか。『自分は何も知らずに手伝っただけだ。巻き込まれただけだ』そう言い逃れることもできたでしょう。実際その通りだったのだから、あなたがそうしても私は多分どうとも思わない。それなのにあなたは自分から責を負って、その後それを恩に着せようともしなかった」
「……」
僕は二の句が継げなかった。とっさの判断で正しいことをしようとした、ということなのだが、それはつまり。
「そういうことです。同じことですよ」
互いに正しいと信じる信念を貫いた。だからそこを敢えてわかってもらう必要はない、と言いたいのだろうか。
無言で背を向けようとする彼女に「あ、もう一つ」と僕は声をかけて引き止めた。
「何ですか?」
「いや、そもそも僕を巻き込むつもりがなかったのなら、どうしてあの時わざわざ君の方から声をかけたんだ?」
意外にも彼女はここで初めて困ったような表情を見せた。
「あの。……あの駐車場にいた時、月ノ下さんは暗い夜道に立っていて私は街灯を挟んで少し離れた壁際にいたでしょう」
「ああ」
「だから一瞬、どういう訳か浅井と見間違えまして、一人で作業をするのもなんだったので、通りすがったのなら、手伝ってもらおうかと。……近づいてみたら勘違いだったとわかったのですが、そこまで来て声をかけないのも変かと思いまして」
僕は思わず苦笑いする。僕を巻き込むつもりがなかった彼女が「浅井くんになら」手伝ってもらおうと思ったということは。
「おーい。聞いたか? 浅井くん。星川さん、意外と君のことを頼りにして」
いるみたいだぞ、と言おうとして目の前の星川さんと隣の星原に左右から小突かれた。
「……何ですか?」
きょとんとして浅井くんはこちらを見る。一方星の字が付く少女二人はそろって「余計なことを言うものではない」という、刺すような冷たい目で僕を睨む。
「いや。何でもない」
「そうですか。……それじゃあ、ここでお別れですが」
「ああ。……どうか、元気で」
もう少し気の利いた言葉はないものかと思ったが、いろいろありすぎたせいか上手く頭が回らず何も出てこない。
浅井くんが「はい。月ノ下さんたちも」と手を振る。その少し後ろで星川さんが会釈した。
「……不思議な二人だったな」
二人きりになったところで僕は思わず呟いた。
「ええ。何だか私たちと似ているようで、全然違っていて。まるで言葉は通じるのに別の世界から来た異邦人みたいなところがあったかもね」
「異邦人、か」
僕も星川さんにそんな雰囲気を感じたところがあった。
正しさを貫き、そこに他人の理解など求めない。
それは強さなのかもしれないが、同時に一種のはかなさを感じてしまう。
彼女がいつかその孤独な戦いの中で燃え尽きてしまうのではないか。僕はそう感じてしまうのだ。
「星川さん、大丈夫なのかな。あの生き方をこの先も通していくのだとしたら。……それがいつか彼女自身を苦しめなければいいんだけど」
「…………あなたの答えになるのかどうかはわからないけれど」
星原がおもむろに僕を見る。
「イソップの物語で、マイナーなものでこんな話があるの」
* * *
ある人に三人の友人がいました。
一人は「自分よりも大切に思っている」友人。
二人目は「自分と同じくらい」に大事な友人。
三人目は「たまに話す程度のおざなりな関係」の友人です。
ある時、この人に「とてつもない厄介ごと」が降りかかり、困った彼は一人目の友人に助けを求めます。
しかし一人目の友人は「私には関係のないことだ」とけんもほろろに断るのでした。
二人目の友人は「助けてあげることはできないけれど、厄介ごとのすぐ近くまで付き合ってあげましょう」といって途中まではついてきてくれました。
三人目の友人は「そんなに困っているのなら私が付き合ってあげますよ」と最後まで、力になることを約束してくれたのでした。
* * *
「……それだけ? 何だか意味不明な物語に思えるが」
しかも日頃冷たくしている友人が最後まで力になるとはどういうことなのだろう。
「これだけ聞いたら訳が分からないでしょうね」
星原は要領を得ない僕の顔を見つめ返す。
「まず、この話の主人公に降りかかる『とてつもない厄介ごと』というのは、いずれ訪れる人生の終わり。つまり『死』のことなの」
「『死』? ということは」
人生の終わりに関わる三人の友人とは何かの例えなのだろうか?
彼女は僕の心中の疑問に答えるように話を続けた。
「この三人の友人には名前がある。『自分よりも大切に思っている友人』とは『財産と金』。生きているうちには財産がないと生きていけないけれど、いざ死ぬとなったら役に立たないでしょう」
確かに財産はあの世にはもっていけない。
「二人目の『自分と同じくらい大切な友人』は『家族と親友』。自分が死ぬときに看取りに来てくれる」
「でも、死んだ後までは付き合ってくれない、か。じゃあ『おざなりな関係の友人』というのは誰なんだ?」
「三人目の友人というのはね。『日頃の行い』『良心』のことよ。死に際して財産は持っていけない。家族は友人はみとってくれる。でも最後に『あなたは立派に生きたんだ』とその価値を認めてくれるのは、自分の功績であり良心に他ならないわ。だけど人は自分の良心を親しくない友のようにぞんざいに扱って欲望に従ってしまうことが多いでしょう」
「ああ。確かにな。自分の行いを振り返り大切にすることが、死に際して自分に勇気を与えてくれる、ということか」
星川さんは最期まで自分の良心に正直であろうとするのだろう。
誰にもわかってもらえなくとも、自分の信念を貫いた時に心の中に自分だけの誇りが生まれる。そういう瞬間は確かにある。
「彼女は多分誰もが諦めてしまう戦いを続けていく覚悟をした人なんでしょう」
その言葉にふと、僕は自分の信念を通したあげく若くして殺されてしまったある古人の辞世の句を思い出す。
世の中の人は何とも言わば言え、我がなすことは我のみぞ知る。だったか。
だとしても、それは少し寂しすぎる気がした。
いつか彼女の人生という名の戦いに終わりが来るときに、彼女のことを誰か救ってあげられる人間が、それが無理ならばせめて彼女の生きざまを理解してくれる人が、彼女の気持ちを汲んでやれる人間がいれば。
そこまで考えて僕は首を振った。
ばかばかしい。心配のし過ぎだ。
それでは彼女が明日にでもこの世から消えてしまうかのようだ。
僕はふと別のことを思って星原に話しかける。
「なあ」
「何?」
「いや、今回の件にしてもさ。『自分の身の回りからかけ離れたことが優れて見える』っていうのは、自分の状況を正しく顧みることができずに、非日常的なものに惑わされているネガティブな状況が多いと思っていたけれど」
「ええ」
「立場を逆にして考えたら、自分にとっては味気ない見慣れたものでも、異邦から来た人にとっては素敵なものに見えるってことだろ?」
星原は僕の言葉を咀嚼するように少し黙り込んでから口を開く。
「……それは、自分とはかけ離れた立場の人が、自分では気づいていない身近な素晴らしさを教えてくれる、といいたいのかしら」
「うん。あの二人にしてもさ。自分たちでは気づいていないみたいだけど、結構いいコンビなんじゃないかなって」
彼女は「ははあ」と目を細めて「『お似合いだ』っていうわけ?」と呟く。
「いや、そこまでは言っていない」
安易にそういう間柄に持っていくのもどうかと思うが。
ただ、あの自分一人で正しさを貫こうとする星川さんが、どことなく彼に一目置いているように見えたのも事実だ。
「そういえば、向こうからは僕たちはどう見えたのかな」
「それは、あの子たちの心の中だけのことだわ。……でも、あなたが近いようで遠いあの二人を良い関係の二人だと思ったのなら。きっと向こうも」
星原の言葉の最後は彼女自身で飲み込むかのように小さく途切れてしまったが、僕も「そうだよな」と頷き返した。
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