第五話
第5話 (1) いおりの誘い
「落語さーーーん!!」
ぐほっ。
ソラはおかかおにぎりの最後の一口にむせそうになった。
クラスメイトたちが、くすくす笑っている。
ソラは教室の入り口のほうを見た。
一年E組の加藤いおりが、笑顔で手を振っていた。
文化棟内では「落語さん」でいいけど、校舎内ではやめてほしいなあ。
と、常々ソラは思っているのだけど、なかなかいおりに言えないでいた。
考えてみたら、二つ隣のクラスのいおりとは、体育などでも授業が一緒になることはないので、顔を会わせるのは、ほぼ百パー文化棟でだった。
加藤いおり。簿記研究会所属、そして文化会本部会計補佐。
そんな関係だから、いつもいおりはソラのことを「落語さん」と呼ぶ。
三星素良。落語研究会所属。そして会長! だが部員はまだない。ついでに顧問もいない。さらについでに部室もない。
文化棟では、各サークルの会長・部長たちを、サークル名で呼ぶ慣習がある。
それは、多分、月に一度のリーダー会議の時の出欠を取る時に、「合唱さん」「吹奏楽さん」とサークル名で呼ぶことから由来されているのだろう。
相手の名前を知らなくても、呼べるというのは、わりと便利かもしれない。
だけど、普段の校舎ではなあ……。
と、頭を抱えながら、ソラはおにぎりの最後のひとくちを呑みこみ、席を立って廊下に向かった。
「日曜日? 特に予定はないけど」
「じゃあ、美佐先輩ちにいかない?」
「え!?」
いおりの提案に、ソラは驚いた。
「日曜日、美佐先輩ち、ご両親がいないんだって。だから遊びにこないって誘われたんだ~。それでソラちゃんもよかったら誘ってみてって」
「は、はあ……」
ソラはちょっと首をかしげた。
美佐先輩んちに遊びにいく。
森美佐。簿記研究会所属の二年生。そして文化会本部会計。
つまり、美佐といおりは、サークルでも文化会本部でも先輩後輩の仲だ。
落語研究会が、本部に居候するようになってからしばらくたつが、ソラが見ている限り、いおりと美佐は仲がよかった。
いおりは美佐に懐いているようだったし、美佐は、いおりを可愛がっている。
サークルに先輩がいないソラはちょっと羨ましい気がしていた。先輩どころか誰もいないんだけど。
美佐はソラにも優しかったけど、でもやっぱりちょっと距離がある感じがしていた。
当然だ。まだ知り合って間もないんだから。
だから、ソラはいおりからの提案に戸惑ったのだ。
「えーと、でも行ってもいいのかな。あたしが……」
「いいんじゃない? 美佐先輩がいいっていってるんだし」
「……お邪魔じゃない?」
「なんの?」
いおりが、眼鏡の向こうの目を丸くした。
「いや、そのご家族とか……」
「だから、ご両親が不在っていってんじゃん! あ、でもお姉さんたちとかは居るかもしれないけど」
美佐先輩ってお姉さんいるのか。あ、でもそんなイメージ。と、ソラは思った。
いおりはちょっとイライラしだしたようだった。
「行きたくない? 行きたくないなら、無理にとは言わないけど」
「あ、いや、行きたくないわけじゃない! っていうか、行く! 行きます!」
「よろしいー」
いおりが笑った。
行きたくないわけじゃない。
そうじゃなくて、行く理由がよくみあたらなくて、ソラは困っていたのだった。
そして日曜日。
ソラは、いおりに指定された私鉄の某駅前に居た。
ぼーっと待ちながら、美佐先輩ちって学校から遠いんだなと思っていた。
ソラは、バス一本で明窓女学院に通っている。バスに乗っている時間は短くはないが、乗り換えなくていいのは楽。
美佐がこの駅から通学しているとしたら、三回は乗換が必要なはず。
海に近い静かな街だった。
今日は天気がいい。郊外の駅前は家族連れが行き交い、のんびりした空気が流れている。
ソラはいおりを待ちながら、少し緊張していた。
金曜日の昼休みに誘われて、放課後に文化会本部に顔を出した時、美佐がいたので「あの、あたしも遊びにいきます」と伝えたら、美佐は嬉しそうに笑ってくれた。
ソラちゃんは、コーヒーと紅茶、どっちが好き? 用意しておくから。
と、聞かれて、ソラは慌てて「コーヒー」と答えたもんだった。
まあ、家ではいつもインスタントなんだけど。だから、好きっていうほどでもない。
よーくよく考えてみると、先輩の家に遊びにいくのは高校にはいってから初めてだった。そもそも先輩という存在がソラにはいないから当然だけど。
中学校の時、卓球部だったソラは、たまに部のみんなと誰かの家に寄ってから帰宅する、ということは何度かあった。
でも中学校で一緒の子たちは、基本みんな近所である。住まいは、みな徒歩圏内だ。
だから、休みの日に普段乗ったことのない私鉄に乗って、わざわざ遊びに行くっていうのはたいそうな大ごとに思えた。
いおりは、以前にも美佐の家にいったことがあるそうだ。
でも、加藤さんはサークルの後輩だし……。
つまり、ソラが何を困っているかというと、「なぜあたしが美佐先輩の家に呼ばれたんだろう」という一点につきる。
ぶっちゃけ「そんなに親しいわけじゃないし」と思っていた。
「あ、おーい! 落語さーん、おはよー!」
その時、駅からいおりが駆け足でやってきた。
外でも落語かよ! と、内心つっこみたかったが、ソラはとりあえず慌てて頭を下げる。
「お、おはよう、加藤さん」
「ごめんねぇ。なんか電車遅れてて。待った?」
「ううん、そうでも」
ソラがそう答えている間、いおりはざっとソラのファッションを下から上に眺めた。その視線に気付いたソラが慌てる。
「え、えーと、スカートはいてこいって言われたけど、あたし、そんなに持ってなくって……これでよかった?」
「うん、いいんじゃない? かわいいよ」
それは「遊びにいく」という話が出たあの昼休みのことだった。
会話の最後にいおりがこんなことを言い出した。
「そうそう、落語さんて私服ってどんなカンジ?」
「どんなカンジって……ふ、ふつー?」
「や、ギャル系とかきれいめとかビジュアル系とかあるじゃない」
「だから……ふ、ふつー?」
「スカートとか持ってる?」
「そりゃ持ってるけど……」
「ならよかった。日曜日、スカートはいてきてね」
たとえば「ピクニックいくからスニーカーはいてきてね」なら判る。なぜ先輩ちに遊びにいくのにスカート着用なのだろう?
「美佐先輩ちは、ドレスコードがあるから」
いおりがにっと笑った。
「はあっ!?」
「まあ、あまりぶっとんでなければ大丈夫だと思うけど、スカートならアンパイでしょ」
と、いうわけで今日のソラはスカートだった。
膝丈のタイトなデニムのスカートに、十分丈のスパッツに派手じゃないソックス。スニーカーはキャンバス地のもので、それなりにきれいにしてある。トップスは襟付きの長袖のカットソーに、グレイのパーカーを羽織っていた。鞄はショルダーの大きめのこれまたキャンバス地のもの。
ふつーにカジュアルだ。
いつもソラはこんなカンジだ。スカートより、デニムのパンツ姿のほうが多いけど。
ソラはいおりを見た。
こちらも膝丈のグレイのプリーツスカート。トップスは小さな花模様が散ったブラウスに、ニットのボレロカーディガン。靴は紺色のワンストラップのぺたんこ靴に、黒のタイツだった。
鞄はちょっと大きめのトートバッグ。
ソラの視線に気がついたのか、いおりが言った。
「私も普段はジーンズばっかだよ。これ全部中学の時に買ってもらった服。ちょっと子供っぽいよね」
「ううん、そんなことないよ」
ソラは慌てて頭を振った。色合いが落ち着いているせいか、子供っぽいとは思わない。どちらかというと、いつもの制服姿のいおりより、お嬢様ぽくかわいらしく見えた。
「あたし……カジュアルすぎない?」
ソラがいおりに聞き返した。
「大丈夫! 今日はおうちにご両親いないっていってたし。まあ、なんとかなるでしょ」
……美佐先輩のご両親はもしかして、娘の友達にそれなりのレベルを要求する人なのだろうか……。
なんのレベルかわからんが。
「えーと」
いおりがきょろきょろとあたりを見渡した。日曜日の午後、穏やかな駅前だった。
「迎えにきてくれるって話だったんだけど」
「え、そうなの」
ソラも慌てて、あたりを見渡した。
その時、ソラが探していたのは、美佐先輩本人の姿だった。
自転車にでも乗ってたりするのかな、なんて思ってた。
「あ、来てる来てる。こっちこっち」
いおりに肩を叩かれて、慌ててソラはいおりの後を追った。
いおりが向かったのは、駅前のロータリーの一角だった。バスが停まっているバス停の前を横切る。
いおりが向かった先は、車寄せになっていて、何台か自家用車や予約のタクシーが、いおりはとある黒塗りの車の前で立ち止まり、助手席から覗きこんだ。
いおりが腰を屈めたのと同時にパワーウィンドウで、窓が開いた。
「こんにちは。加藤です」
「おまちしておりました。後ろへどうぞ」
車の中から男の人が聞える。
後部座席のドアが自動で開いた。
「ほら、落語さん、先に乗って」
なにが起こっているか判らず、おろおろしていたソラに、いおりは声をかけた。
「え、でもこの車……」
「え? だから美佐先輩の車だって。ほら早く」
ソラはおろおろしたまま、とりあえず乗り込んだ。
いおりが乗ってドアが閉まったのをバックミラーで確認した運転手は言った。
「では、出発します」
「おねがいします!」
明るい声でいおりがそう言ったのと同時に車は発車した。静かだった。ゆっくりと駅から離れていく。
すわり心地のいい後部座席のシートに、居心地悪く座りながら、ソラは小声でいおりに耳打ちした。
「み、美佐先輩の車って?」
「あれ? 知らないの? 美佐先輩、車通学じゃない。毎日この車で学校きてるんだよ」
「うそ」
全然知らなかった。
「なんだー、文化棟では有名な話だと思ってたけど……あ、そっか。落語さん、最近だもんね~文化棟の住人になったの」
明窓女学院高等学校は歴史も長いし、進学校としてもなかなかの実績はあるが、いわゆる「お嬢様学校」ではない。
私学なので、生徒たちの家庭はそれなりに裕福ではあるだろうけれども、いわゆる「お嬢様」が多いわけではなかった。
そうか……。みっちゃんが言っていた「森先輩はお嬢様だよ」ってのは、本当に「お嬢様」って意味だったのか……。
茶道研究会に所属していて情報通のみっちゃんが言っていた「お嬢様」の意味を、ソラは別の意味にとっていた。
美佐先輩はお嬢様ぽい。
物腰が柔らかで喋り方もおっとりしていて丁寧な口調で、ハンカチもレースついてたし、ティッシュはセレブなやつ。
仕草のひとつひとつが上品で……。
と、美佐を思い返していたソラは「そうか……お嬢様ぽいんじゃなくて、お嬢様だからお嬢様ぽいんだ」と思い当たった。
ぐるぐるとソラが考えているうちに、車は駅前の商店街を抜けて右折する。
街の高台に向かっているらしい。坂道を上がっていく。
あたりは住宅街だが、その家の一軒一軒が、なんつーかでかい。
ソラは車の中から外を眺めた。自分の家の付近とはあまりにも違う風景が珍しかった
「もうすぐ着きますよ」
運転手がそういったので、ソラははっと前を向いた。
車がスムーズに左折する。
ずいぶんと高台まできていた。住宅も少なくなっている。後ろをふりむくと広がるように街が見えた。
……確かに車で通学しないと、普通に坂が大変かも。
と、ソラは思った。
車が停まった。
ついたのか? と思ったが、目の前の門がギギギギと開いていった。
自動制御の門なのだろう。
そして、車は敷地の中に進んでいく。
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