8 下段残心
勝利を確信した比良坂天狼星が、高らかな笑い声をあげていた。
引き金にかかった山口百鬼の指の上から、三越玄丈の太い指が抑え込んでいる。44マグナムの銃口は壁のガラス・ケースに向いており、哄笑する比良坂天狼星を狙ってはいない。そして弾倉に込められた『テスラ・ハート』はあと一発のみ。これを撃たれたら……。
玄丈の手が握りこまれ、百鬼は絶望の嗚咽をもらす。引き金が引かれ、大型拳銃が撃発し、銃口が蹴り上げられたように跳ね上がる。
耳をつんざくような銃声があがり、きつい耳鳴りとともに青い硝煙が立ち込める。
玄丈が満足げに笑いながら手から力を抜き、百鬼は茫然と手にした銃を床に落とす。絶望に打ちひしがれた彼は、しかし「ひゅうっ」と息を呑む音を立てた比良坂天狼星を見上げ、虚を突かれたように口をぽかんと開けた。
天狼星は、びっくりした顔で青い目を見開き、白く細い指を首筋にあてていた。彼女は、そんなバカなという表情でこちらを見下ろしており、首筋をおさえた指の間から、その白い肌に不似合いな、黒く濁った血をどろりと滴らせていた。
驚いたように玄丈が立ち上がる。彼の下に組み伏せられていた百鬼は突然に自由になり、軽くなった体を起こした。
そして、はっと気づく。
彼は、さきほど銃弾を受けた壁のガラス・ケースが割れていないことに気づき、やっと思い出す。
これは、『防弾ガラス』なのだ。銃弾を受けても割れない。大口径のマグナム弾ですら、まっすぐ撃たれたらどうだか分からないが、斜めに着弾したのなら充分持ちこたえ、当たった弾丸を弾いてしまう。そしてその、跳ね飛ばされた銃弾は偶然にも、跳弾となって比良坂天狼星の首筋を掠めたようだった。
天狼星は首筋にあてていた手を顔の前にもってきて、その掌にべったりとついた血糊を茫然と見つめる。
「馬鹿な」天狼星が魂切るような嗚咽をもらす。「……嗚呼、そんな、バカな」
そのとき、彼女の背後でドアが開き、いつもの調子で一刀斎豹介が入ってくる。
首から血を流す天狼星を見て、「おっ」と目を見開きひとこと。「終わったか?」
天狼星は天井を仰ぎ見、絶望の咆哮をあげる。
「なぜだなぜだなぜだ! あと少しだったのに、なぜだっ!」
血に濡れた白い手で長い髪を掻きむしり、慟哭する。
「誰のせいだっ! 三越、まぬけなお前かっ! 百鬼! 貴様のような愚か者を弟子にしたからか! 蝉足篠! この恨みは千回生き返ってでも、必ず晴らすぞ! 蝉足藤兵衛、あのしつこい男さえいなければ。あるいはあの、市川雷美か! あいつがそもそもこちら側についていれば、剣魔を失うこともなく──」
ごぼっと、比良坂天狼星は唐突に吐血した。
身を折り、その場に嘔吐するように赤黒い血の塊を床に吐き散らす。えずくように喉を鳴らし、ごぼごぼと血の塊を吐き出し、それにつれて彼女の雪のように白かった肌が、日の経ったバナナのように黒くなってゆく。張りのある肌が萎び、長い髪がはらはらと桜の花びらのように散り落ち、皮膚のあちこちが裂けて黒い液体が沁みだしてくる。
「……天狼星さま」
茫然と立ち尽くす三越玄丈が、彼女に駆け寄ろうとして躊躇い、そしてつぎの瞬間には、その場で苦しみだした。
まるで服毒したかのように顔を青黒く染め、喉を掻きむしりながら身をのけ反らせ、たちまち意識を失って倒れる。
肉体の崩壊は、不屍者となってからの時間が長い天狼星の方が速やかだった。
たちまちのうちに皮膚がただれ、肉が溶解し、身体の高い位置から突き出すように白い骨が見え始める。美しかった顔は一瞬のうちに醜く崩れ、目蓋を失った眼窩から白い眼球が転がり落ち、唇を失った口蓋からは白い歯がずらりとのぞいて、まるで笑っているようだったが、たちまちのうちに頬肉も流れ落ちてしまったので、白いしゃれこうべとなって、乾いた音とともに床に転がった。
そして、天狼星を追うように、三越玄丈の亡骸も、溶け崩れて泥濘のように床に広がった。
中に入って来た一刀斎豹介は、撃たれて倒れた吹雪桜人に駆け寄り、彼の呼吸を確認すると、百鬼に「救急車を」と告げ、さらに奥でうずくまっている蝉足篠を助け起こした。
「園長先生、お怪我は?」
ゆっくりと呼吸しながら、篠は顔を上げた。その表情は虚を突かれたように茫然としている。
「終わったのでしょうか?」
「はい。終わりました」豹介はふんわり微笑む。「もう、終わりましたよ。われわれ生者は、不屍者に勝ちました」
「よ、かったぁ……」
篠は喉を詰まらせ、しずかに嗚咽した。
「やっと、終わったんですね」
篠は大きく見開いた両目で豹介を見上げる。その目から、するりと涙が流れ落ちる。
「ええ、もうだいじょうぶです」豹介は彼女の肩を抱き、やさしくその背中を叩く。「もう終わりましたから、これからはあなたの好きなように生きるといい。あなたが御父上から受け継いだ使命は完了しました」
大きく息をついた篠は、かすかに身体を震わせながら、豹介の胸に顔を埋めた。
柳生紫微斗の両拳を、市川雷美の刃が上から抑えていた。ちょっとでも動けば、鍔に隠れたその拳の皮膚を呪禁刀の刃が切り裂いてしまう。
「斬れ。しょせん不屍者なんぞは、在ってはならない存在だ。それに……、すでに天狼星は死んでいる」
「え?」
雷美の一瞬の驚きを突くように、紫微斗は柄から片手を外すと、廻剣で彼女の頭に一太刀浴びせてきた。明確な殺意をもった一撃だったが、彼女の夢想剣はそれを瞬間的に予測し、切り落としをかける。その雷美の刃にコンマ数秒数ミリの動きで合撃打ちを合わせる紫微斗。だが、切り落としは連続技である。一度入れば外せない。雷美はかすかに身じろぎして紫微斗の骸丸を切り落とすと、鬼姫一文字を彼の頭に落とす。紫微斗は死ぬか生きるか生死の境で西江水を発動させて、後ろへ下がろうするが、その西江水をも、雷美は切り落とした。
下がって、下がり切れず、雷美の切っ先が紫微斗の額を割り、物打ち部までめり込ませて面を割る。
雷美は、一歩さがって、下段残心。
ざっくり上唇まで斬られた紫微斗は、あきらかに、にやりと笑った。嬉しそうに笑った。
「見事。雷美殿、見事」
そう言って、ばったりとその場に倒れた。
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