5 鯉口を切ってみる


 ミーティングは、すこし暗い雰囲気で終了した。

 ふたたびの籠城戦。しかも物資の備蓄は間に合わないだろう。だが、豹介と篠の意見は一致しており、纐血城高校は一気呵成に攻撃してくるだろう、と。それについては、雷美も同感であった。

 善後策を簡単に指示し合い、雷美と豹介の二人は講堂にもどることにする。

 雷美は荷物の整理。豹介はミカヅチの研ぎの続きをしなければならない。


「上層部にスパイがいるって、さっき言いましたね」

 雷美がぼそりと口を開く。廊下には二人以外、人影はない。

「ああ」豹介は肩をすくめた。「あの中にいるなら、反応があるかと思ったが、動じなかったな。たぶん、不屍者にしてもらうという契約がされているんだろう。死ぬのは怖くないみたいだ」

「豹介さん自身が」雷美は歩きながら、左手で腰に差した鬼姫一文字の鞘に触れる。「敵のスパイって可能性はありますか?」


 刀の鞘というものは、単純なデザインで、丸っこくて反っていて、途中に栗形くりかたというでっぱりがあるだけ。片方の先端に、刀身を入れるための穴があり、これを鯉口こいぐちという。

 栗形というでっぱりには、穴があいており、ここに下げ緒という紐を通すことができる。また栗形は、帯に差した刀剣が、奥に入りすぎないようにするストッパーの役目もになっていた。

 そして通常、この栗形は、鯉口から指四本ぶんの距離にある。一説によると、宮本武蔵の拵えは、この栗形が鯉口から指三本分だったという。通常、鞘を掴むと、人の指はこの栗形と鯉口、というより栗形と鍔の間にすっぽり入る。距離が四指分だからだ。そして、その状態で人差し指や親指にぐっと力を入れると、鍔が押されて、鞘にしっかり嵌っていたいた刀身が、軽く抜けるのだ。

 それが指三本の間隔だと、鞘に手をかけただけで鯉口が切れる。すなわち、いつでも抜刀できる状態になる実戦的な拵えを、宮本武蔵はもっていたという俗説を雷美は聞いたことがあった。


 日本刀は通常鞘に納まっているが、簡単に抜け落ちないように、鍔と刀身のあいだにはばきという金属製のパーツがあり、これが鞘の鯉口の内側とぴしりとあって刀身を止めておく。鎺と鞘は、優秀な職人が作った場合、柄頭つかがしらを真下に向けても刀は抜け落ちない。が、ぐっと力を入れると、簡単に抜ける。


 雷美は鬼姫一文字の鞘をにぎり、指で一ミリ鍔を押して鯉口を切り、鎺を開放して刀身をフリーにした。いつでも抜ける状態、拳銃に例えるなら、安全装置を解除したようなものである。

 そして、それを知ってか知らずか、一刀斎豹介は、飄々と答える。


「おれがスパイかも知れないな」前を見ながらにやりと笑った。「おれも、永遠の生命は、そりゃあ欲しい。死にたくないしね」

 豹介は軽い調子で雷美の隣を歩く。緊張した雰囲気は伝わってこない。あるいは気づいていないのか?

 雷美は右手をのばすと、刀の柄頭つかがしらにふれ、くっと鎺を鯉口に押し込んだ。

 ぱちんと、刀身が鞘に収まる鍔鳴りがするが、豹介はやはり無反応。

 豹介がスパイか否かは、よく分からなかった。



 雷美に疑われていることを知ってか知らずか、豹介は彼女に、駐車場においてある自分のワンボックス車を動かして正門を塞ぐことを提案してきた。

 すごく単純だが、効果的な作戦である。

 豹介のワンボックス車を聖林学園の正門に置き、中央を人が通れないようにする。そうすると、人が通れないというより、不屍者が通れなくなってしまう。車に積んであった残りの木箱を講堂に運ぶために台車へ乗せながら、豹介は愛車のボディーを撫でている。

「おいおい、うちの車、傷つけられたりしないだろうなぁ」


 自分で言いだしておいて、泣きそうな声で愛車のことを心配している。

 こんなアホなスパイはいないだろうと、雷美は豹介の疑いを半分くらいに減らした。

 が、そこへ荷物移動のついでにやってきた吹雪桜人。彼は今日も、浴衣に袴に、居合刀を差しているので、いまの雷美の服装とちょっとかぶる。そんな彼が、面白そうに新情報を伝えてくれた。


「ねえ、雷美ちゃん、聞いた? 錦之丞の解答」

「解答って?」

 雷美が首を傾げると、桜人が興奮した表情で解説してくる。

「錦之丞のやつが、謎の一部を解いたんだ。例の暗号だよ」

「え、暗号が解けたの?」

「いや、それはまだだけど、ほら、あの光の部分。LightやRayだと、Changeと合わないって話。で、錦之丞のやつがそこの謎を解いたんだ。この場合『光』は、Cでいいってことなんだよ」

「へえ、どうして?」

「アインシュタインの相対性理論では、光の速度を定数Cで表すんだ。EイコールMCの二乗って言うじゃん。蝉足教授は物理学の教授でもあるから、当然これを知っていた。だから、光はCでいいんだと、なんとあの錦之丞が気づいたんだ」

「へえ、やるじゃん」雷美はちょっと上の空で答えた。内心、錦之丞のやつ、余計なことしやがって、という思いもある。あの扉が開いてしまって、そこに『テスラ・ハート』がないと判明すれば、不屍者をおびき寄せるすべが無くなってしまう。篠の計画が台無しになってしまうのだ。「……ったく。で、となると、文字はどうなるんだっけ?」


「うん、それなんだけど、そっちの解読が本題なんだ」桜人はあごをこする。「出て来た文字は四つ。A、G、T、C。これがいったいどういう意味なのか? 母音が一文字しかないから、これだけで単語にはならないと思うんだけど」

「ってことはよぉ」横から豹介が口を挟んでくる。「つまり、大して解読されてないってことじゃないか。役に立たねえなぁ、錦之丞のやつ」

「あはははは」

 雷美は乾いた笑い声をあげた。


 文字はたしかに四つそろったが、結局意味のある単語にはならない。ここからようやく、文字の解読がはじまるのだろう。A、G、T、Cの四文字。これ、順番とか関係あるのだろうか?


「……AGTCね」雷美は口に出してみて、あれ?と思った。「ん? なんだっけ、これ。なんか最近一生懸命覚えたような……。いつだっけな?」

 そう。これどこかで暗記したような、しなかったような……。

 雷美は腕組し、昼過ぎの青空を見上げる。

「……アデニン、グアニン……」

 ん? これなんの暗号だ?


 だがしかし、つぶやいてしまった雷美の言葉尻を、桜人の叫びが継ぐ。

「シトシン! チミン!」

「え?」驚いたのは雷美。だが、もう遅かった。桜人が叫ぶ。

「塩基配列! DNAだ!」

 桜人が、がっと雷美の両肩をつかむ。

「雷美ちゃん、やった! 暗号が解けた。三文字の解答は、DNAだ!」

「え、ええ……、あの、……いまの、無し……」

 と一応いってみるが、興奮した桜人の耳にはとどかない。もっとも、届いても無しにはならないだろうが。


「素晴らしい! ありがとう、雷美ちゃん! 謎が解けたよ!」桜人は興奮し、大声をあげたのち、空に向かって盛大なガッツポーズ。「やったぁー! これで『テスラ・ハート』が見つかる。不屍者をたおせるぞ!」

 そう叫ぶと、雷美の手を取ったぎゅっと握り、もう一度「ありがとう」というと、「さっそく園長先生に教えてくる」と言って、腰の居合刀をおさえて駆け出した。


「ちょっと!」雷美はその背中に慌てて叫ぶ。「あたしが解読したとかって、絶対園長先生には言わないでよ! それ、絶対に、言わないでよ!」

 果たして聞こえたかどうか……。

「いやぁ、良かった良かった」豹介が愛車のボディーを撫でながら嬉しそうにつぶやく。「これで、うちの車も傷つかずにすみそうだ」

 すくなくとも、この男がスパイでないことだけは、間違いないようだ。


 纐血城高校が、攻めてきたのは、その夜のことだった。



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