第8話 四文字の三文字

1 秘剣『一つの太刀』


 閻魔は上段霞じょうだんかすみにとった。

 霞とは、手首をクロスさせて、刃も切っ先も相手にまっすぐ向けない独特の構えだ。上段霞だと、両拳は額の辺りにくる。半身にとり、刃は上を向き、切っ先は相手に向く新当流式。


 一刀流や新陰流では、切っ先は中心軸から外して中に入れるが、新当流ではそのまま相手に向ける。使う刀が長いからだ。とくに、卜伝の時代ならば刀剣は江戸時代の定寸より最低でも五寸は長いはず。神道流系の霞の構えは太刀を相手にまっすぐ向けるため、刀の長さが分からなくなるとよく誤解されるが、実際、刀剣にはほぼ間違いなくすべてのものに反りがあり、どんなにまっすぐ向けても、刃と切っ先は見えるものである。というより、刃を傾げて構える霞は、ぐいっと反った刀身が比較的よく見える構えである。


 が、その刀身と切っ先が、強烈な圧力でもって雷美の視野に迫って来た。

 ずんと突き出された刀剣の切っ先。三角形に磨かれた鋼鉄の刃が、雷美の眼前でぐいぐいと大きくなってゆく。

 雷美は息をのむ。これはなんだ? 瞠目するうちにも、閻魔の霞の切っ先はずんずんずんずん大きなり、さらにずんずんずんずん大きくなって、いまやすっかりその切っ先の向こうに閻魔の姿は隠れてしまっている。

 ──そんな、バカな……。

 雷美の全身から、さっと汗が噴き出した。まるで毒蛇に睨まれたアマガエルのように身動きが取れなくなる。視界がすべて切っ先で塞がれ、次の瞬間、

 喝っ!

 飛んできた刃を雷美は切り落としていた。


 身体が勝手に動いてしまってから、雷美ははっとなる。

 斬りつけてきた閻魔の長刀ミカヅチが、雷美の鬼姫一文字の一噛みを喰らって、下に落ちている。ふわっとなにか、温かいものが雷美の全身を包み、頭の中がぼうっとする。まるで春の陽射しの中で眠りに落ちる一瞬のような心地よさ。

 !……

 雷美の眼前から、閻魔の姿が掻き消えた。

 雷美ははっとするが、忘我の状態からは抜け出せない。しかし……。

 ──右手。

 雷美は刀を握っていた右手を離し、すっと胸元へ引き付ける。さっきまで雷美の右手があった場所を、閻魔の刃が一薙ぎする。

『バカな』

 閻魔の声が聞こえるようだった。


 一瞬で間を詰めた閻魔の身体が、雷美の右下方、ほぼ密着した位置に沈み込んでいる。

 こんなところに! 驚愕するが、つぎの瞬間、閻魔の切り上げが雷美の身体を襲った。

 ──切り落とし。

 死んだと思った。自分は真っ二つに斬られて、この瞬間に死んだと思ったのだ。だが、なぜだろう、もう一人の自分が冷静に告げる。切り落とせと。

 雷美の躰は一閃! 閻魔の切り上げを、おなじ下からの地生で切り落としていた。

 上下逆。心地よい手ごたえ。


 閻魔の固い制服と柔らかい下着、そしてその下の張りのある皮膚、引き締まった筋肉、石のような骨とその間を流れる粘りのある血液。それらを快速に裂いて、鬼姫一文字の刃が真上に斬りあがる。その感触が雷美の手のひらへ明確に伝わってきていた。


 ぽんと下がって、陰の構えにとる。間合いの外。残心して相手の様子をうかがった。まだやるというのなら、いくらでも相手になる。そんだけ切られていれば、ちょっと無理だとは思うが。

 閻魔の身体は、腹のあたりから斬り上げられて、胸、首、顎から頭頂まで、ふたつに裂けていた。切り口から赤黒い血が滲み出ている。

 呪禁刀でここまで斬られたのだ。さすがの不屍者も絶命していよう。

 だが、卜部閻魔は、ぎょろりと目を見開き、雷美を睨みつける。

「なぜ躱せた? おれの秘術『一ツの太刀』を?」


 ああ、あれが卜伝の秘剣『一ツの太刀』であったのか。

 斬りつける敵の刃と両拳の陰に隠れて、裏に転じて一太刀いれる。そういう技であったらしい。一瞬閻魔の姿が消えたのは、雷美の剣と拳の陰に隠れて動いたからだ。


「残念なお知らせがあります」雷美は無表情にこたえる。「一刀流の『他流勝ちの太刀』には、『卜伝の一の太刀』があるんです。一刀流は、卜伝の手の内を知っているんです」

 閻魔は苦笑した。

「その話なら、紫微斗から聞いていた。だが、知っていて躱せる技ではない。しかし、斬っていくとき、お前の心は鏡のようにおれの心を映していた。恐ろしや恐ろしや、これが噂にきく一刀流の極意『夢想剣』か」

「…………」

「皆の者、引けぇ」閻魔は右手を挙げて横に振る。「撤退を命ずる。全軍撤退、これ以上、おれに恥をかかせるな」

 言い終わると閻魔は満足したようにふっと微笑み、そして股からぱっくり二つに割れて、左右に倒れた。

 どどっとばかりに、体内の血が決壊してアスファルトの上に小川のように流れた。




 雷美は足を引きずりながら、聖林学園の裏門をくぐった。

 校舎のあちこちで明かりがついており、廊下を走る人影も見える。思わずほっとしてしまう。人の影。生きた人間の気配だ。

 雷美が昇降口に向かうと、今夜の防衛担当だうか? 萬屋錦之丞の長身が走ってくる。

「雷美さんっ!」

 錦之丞は喉が裂けるほどの大声で叫び、力強く地面を蹴っていた。

「よう」

 雷美はなんとか声をあげると、駆け寄ってきた錦之丞に笑いかけ、手にした二振りの刀を彼に渡した。

「ほい、呪禁刀。鬼姫一文字とミカヅチね。一刀斎に渡して、手入れしてもらって」

 そう告げると、大きく息を吐きだし、その場にひっくり返った。地面の上に寝転び、手足を大の字に拡げる。コンクリートの冷たさが心地よかった。


「あの、雷美さん」両手に刀を持たされた錦之丞の困ったような声が降ってくる。「パンツ見えてますけど」

 がばっと跳ね起きて、スカートの裾を直し、「このスケベ」と錦之丞を睨みつけてから、また大の字になる。

「あの、雷美さん、だいじょうぶですか? いったい何があって……」

 深い眠りに落ちる瞬間、雷美は自分の寝息を聞いたような気がしたが、そのまま下へ下へと落下していき、そこからはまったく記憶がなかった。

 極度の緊張と極限まで酷使された肉体。限界を超えて戦った彼女は、そのまま丸二日眠り続けた。

 そして、未読メールと、不在着信の山を築くのであった。


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