2 六道冥還


「雷美さん、すぐにあの人を、あいつを止めてください! なにか特別な不屍者が甦る。早く!」

「止めるったって」

「呪禁刀は持っていますか? 持っているなら、その刃で、あの弓の弦を切って!」

「呪禁刀はないよ」雷美は唇を噛む。「全部祭壇の上だ。だって、あれを使うって言うから……」


 そのとき、祭壇の上にさわさわと風が吹いた。

 いや、体育館内にそよ風の流れはずがない。風と見えたのは、白木にささり、のぼりのように垂れた半紙、それを複雑怪奇に裁断してつくられた御幣『新巫神あらみこがみ』が揺れているのだ。

「え?」

 雷美は目を凝らす。

 あたりが暗くなり、体育館内の空気が渦を巻く。瞠目して天井を見上げるが、大型の水銀灯は全部ちゃんと点いている。だが、その下を、いくつもの黒い影が走っていた。飛燕のように飛び交い、光を遮っている黒い物体はいったいなんなのか? 翼のない蝙蝠のような何かが、夏の宵の蚊柱のように天井付近を飛び交っている。

 かたかたかたかたっと祭壇が鳴る。最初なんの音だか分らなかった、耳障りな貧乏揺すりは、やがて震災を予感させるような不穏なスタッカートとなって鳴り響く。そして……。


 ──かたっ!


 乾いた音を立てて、辛櫃からびつの蓋が転がり落ちた。


 ──かたっ! かたっ、かたっ、かたっ、かたたたたたたっっっっっ!


 つぎつぎと目に見えない鬼神につま弾かれた木蓋が、祭壇の上で爆ぜて床に転がる。

 穂影がまるで気づきもしない様子で祝詞を続けている。

天英てんえいぃぃぃぃぃぃぃっ!』

 そして、ゆっくりと弓を納める。


 その最後の一声を合図に、櫃の中の白砂がもりあがった。あたかも、砂浜を割って地上に出てくる蟹のように、それは櫃のなかに敷き詰められた灰のような砂をもりあげ、ゆっくりとその身を持ち上げる。芽吹く若葉のように首をもたげて砂を割ったのは、球形の何か。その丸い砂の塊は、首を伸ばしてゆっくりと持ち上がる。その前面には、目のない眼窩と、鼻のない鼻梁。ぽっかりと開いた奈落のような口腔。その砂には、表情のない顔があった。

 がくりと持ち上がった砂の塊は、とうとつに虎落笛もがりぶえのような高い風の音を発し、苦悶の表情を浮かべる。

「おおぅ……」

 芹澤穂影が、感嘆の呻きをあげた。

「おおおおおぅぅぅぅぅ。とうとう甦りましたか、新しい世界の王たちよ。このわたくしめが、どれほどそなた達の再来を待ち望んでいたことか」


 七つの辛櫃から立ち上がった砂の塊は、鉢植えのマンドラゴラのように首をそろえて穂影に注目した。

「さあさあ、甦りし新世界の王たちよ、自らの佩刀を手になさりませ」

 穂影の謡うような声音に従い、砂の首たちは、辛櫃のなかからその腕をすっと伸ばした。白砂の、骨ばったかいなが躊躇なく延ばされ、三方さんぼうに祭られた呪禁刀がある方向へ手を伸ばす。

 その瞬間、雷美ははっと我にかえった。

 弾かれたように走り出し、下へ続く階段を駆け下りる。

 夢遊病者のように立ち尽くす、海藻の群れのような人垣を押し分け、跳ね飛ばし、中央の祭壇へ一直線に向かう。


 最前列の生徒を突き飛ばして前に飛び出し、注連縄しめなわでくくられた結界の中に飛び込んだ。

 そのときにはすでに、手遅れだったかもしれない。

 辛櫃の中から白い砂がこぼれ続けている。開けっ放しの蛇口の下で湯船からお湯が流れ落ちるように、四角い辛櫃からとめどなく流れ落ちた白い砂は、まるで体育館を砂丘とせんとしているかのようだ。


 七つの辛櫃から滝のように流れる白砂の中、満足げに立ち尽くす芹澤穂影のまえに、市川雷美は飛び出した。

 雷美は目に力をこめて穂影の碧眼と視線を合わせるが、深い湖水のように青い瞳に感情の揺らぎは見えなかった。

 狩衣をまとった穂影は、頭に烏帽子、上は黒の輪無唐草紋の袍、下は指貫の奴袴という神職の装束。ちいさな手には白木の弓が握られている。

「芹澤先生、これはいったいどういうことでしょうか?」

 雷美は一歩、砂の中を穂影に詰め寄る。

 さらさらと流れ落ちる砂が白い土埃を舞い上げ、辺りは少し霞んでいる。


「雷美先生」穂影は平然と言ってのけた。「これこそが、泰山府君祭によって生み出された大地の玄気でございます。この砂の兵士をもって、わたくしこれより纐血城高校に討ち入りまする所存」

「百鬼先生から、これは六道冥還祭であり、不屍者を甦らせる祭祀であると聞きました。そして、あなたが比良坂天狼星その人であると」

「ふふふふふ、これは異なことを」

 穂影はアイスブルーの瞳で雷美のことをまっすぐ見つめてくる。

 その背後で、白砂がつぎつぎと立ち上がった。

「えっ」

 雷美は虚を突かれ、後ろへ飛びのく。


 さらさらした砂が、噴水のように立ち上がり、さあっと黒く染まった。

 中からなにかが噴出してきて、それが砂を濡らしてゆく。波に舐められた砂浜のように、濡れた砂は黒く染まり、泥となって、たちまたのうちに固く重い塊へと変貌してゆく。


 それまで不定形の砂の流れであったそれらは、濡れて固まったことにより、あちこちがくびれ、形らしい形を成し始めた。肩がとがり、腕が垂れ、根元が二股に分かれて脚が生まれる。砂の柱はたちまちのうちに泥の人形のようになり、二本の腕を垂らして両脚でしっかりと直立した。そして、首のうえ、人の顔がある部分に鼻梁が盛り上がり、眼窩が落ちくぼみ、そのおくに唐突に、かっと血走った両眼が開かれた。


 黒い泥の中、卵の殻のように白い目が光り、血に赤く染まった瞳が熾火のように光る。

 ばりっ割れるように開いた口蓋の中には黄色い歯がならび、下弦の月のごとく上がった口角が、人死にを喜ぶ死神のように喜悦の笑みにゆがむ。

 雷美の背中に戦慄が走った。有り得ないものを目の当たりにしてしまった恐怖と、得体の知れない禁忌の存在に出会ったしまった危機感から、足がすくんでしまう。


 立ち上がった泥人間は、生臭い血の匂いを濃厚に漂わせながら、おおきく口を開いて「ぉぉぉぉぉぉぉぉ」と呻いている。息を吐くばかりで、いっこうに吸おうとはしない。

 満足気な穂影、いや、おそらくは天狼星という死霊術師。彼女の背後で、つぎつぎと泥で捏ねられた死体が立ち上がり、「ぉぉぉぉぉ」と呻きをあげる。背の高い者、低い者、一人ひとり体格すら違う。立ち上がった泥の死体は、全部で七体。それらが二列に並んで天狼星の背後に付き従っている。


 そして、その先頭の一体、最初に立ち上がった屍体が、のろのろと腕をのばし、祭壇の上、三宝に乗せられた呪禁刀をつかんだ。

 刀剣の重心位置は、鍔より切っ先方向へ数センチの位置にある。鞘に納まった刀剣を手に取るときは、鞘の、鍔に接する鯉口こいぐちと、下げ緒を通す栗形の間をつかむ。

 その異形の泥人間は、あたかも自分が人であるかの如く、流麗な動きで呪禁刀の鞘の鍔元に手を伸ばした。


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